7*出発
瞼越しに微かに光を感じ、雀の鳴き声が聞こえる。もう朝か。でも今日は土曜日だからもう少し寝てても良いよね。葵はいつもの癖で、隣にいるはずの生きたもふもふ抱き枕に抱き付いた。…あれ?もふもふしてない。むしろ固い。暖かくて心地良いけど。そこでようやく重い瞼を持ち上げた。
「おはようご主人」
心臓が止まるかと思ったほどびっくりした。誰?この至近距離のきらきらしたイケメン誰ですか?何で乙女の夢の腕枕してもらっちゃってるの?…なんか見覚えあるけど…ていうか…上半身何も着てない!!人の布団で何してんの?!夢?!妄想?!妄想だったら痛すぎるぞ私!ご主人だなんて…あれ…なんかデジャウ?覚めきらない頭がやっと回転し始め、辺りをキョロキョロ見渡した。ここは見慣れた自分の部屋ではなかった。
「あ…えっと…」
順々に思い出してきた。そうだった、ここは異世界だ。すっかり忘れてた。で、この目の前のイケメンは…。突如はっと脳が覚醒し、ガバッと身を起こした。
「こ、虎鉄!怪我とかない?!大丈夫だった?!」
一見、流石に毛布は捲れないし男の裸をじろじろとは見れないが、大丈夫そうだ。
「うん、平気だよ」
嬉しそうな満面の笑みを浮かべ彼も身を起こし、何の前触れもなく葵に抱き付いた。ぎゃっと彼女は小さい悲鳴を上げる。
「な、何で抱き付くの?!」
「朝の挨拶だよ。いつもご主人僕にしてただろ?」
確かに毎朝存分にもふもふするのが日課だったが、犬が人になったという時点で訳が違う。下半身は毛布に隠れてるけど上半身裸だし。だけど頬に当たるもふもふの髪の毛が気持ち良くて、視界にぱたぱた動く尻尾が目に入った。
「えっと…虎鉄嬉しいの?」
「うん、嬉しいどころかとても幸せ」
こっぱずかしいけど、そんなに嫌でもないし良いかな。裸だけど…犬のときもいつも裸だったと思えば…いやそれはなんか嫌だ…。しかしたった一日で驚くべき心境の変化だ。耳元で囁かれるのはすごい緊張するけど…。あ、そうだ、聞きたいことがあったんだ。
「…ねぇ、昨日聞いたんだけど、虎鉄が魔法を使ってこの世界に来たの?」
「うん」
「それじゃあ、私がこの世界に来ちゃった原因は…虎鉄なの?」
「…うん」
腕の力が少し強くなったような気がした。
「僕のこと、幻滅した?」
「幻滅?そんなのする訳ないよ」
小さく悲しそうに囁かれ、葵はそっと彼の首根っこに腕を回してぎゅっと抱き締めた。
「私もね、こうやって話が出来るのすごい嬉しいの。だって私、虎鉄のこと大好きだから」
虎鉄が小さく息を飲むのが聞こえた。葵は少し身を離し、彼の顔を覗いた。
「それに、よくよく考えれば異世界だなんてこんな経験出来ないし、虎鉄の力があればきっと帰れるんでしょ?みんな心配してると思うけど…少し色んな所見てみたいなって」
ネガティブに考えてはダメなんだ
。前を向かなくちゃ。それが唯一私の取り柄なのだから。それに魔法とかあるみたいだし、楽しみだな。きらきらと興味津々に輝く瞳の葵を見て、少々困ったような微笑みの虎鉄は彼女の額に口付けを落としベッドから下りた。…やっぱり下穿いてない!反射的にばっと顔を手で覆った。
「何でまた素っ裸なの?!」
「ごめんね、着るからちょっと待ってて」
そう言うと、すぐに虎鉄は軍服姿になった。葵はほっと息を吐いて、彼女もベッドから下りた。
「昨日汚れちゃったから、光に当ててたんだ」
「汚れたって…」
「魔物の血でね」
ぐちゃぐちゃの制服に嘆いていた葵はぎょっとして服に視線を移したが、染み一つない。というか、すごい似合ってるんだよね。黒のロングブーツとか、装飾品が金の釦ぐらいのシンプルな格好なのに、まるで虎鉄のために作られたみたい。…親ばか?
「月光と陽光に当てると消えるんだ」
「そ、そうなんだ…」
思わず見とれていて、はっと我に返り曖昧に頷いた。
*
その後、またタイミングを見計らったように仏頂面のカインデルがやってきた。葵は虎鉄と共に普通に美味しい野菜スープと黒いパンの朝ご飯を頂いて、目立つからと淡い黄色のワンピースと灰色のズボンに着替え黒コートを被せられた。勿論制服も持っていく。また馬かとひっそり苦悩していた葵が乗せられたのは、馬車だった。初めて見て乗ったが、これは馬車に違いない。車内は広くゆったりと出来て、対面して座るようになっている。四人掛けの長椅子はフカフカで、本物っぽい茶色の鞣した革が車内をコーティングしてあり、汚したら大金請求されそうと貧乏くさいことを思ってた。
「もう馬に乗らなくていいんですか?!」
「後は馬車で3日ほどです」
よかったと内心でガッツポーズ。ただ心の声が駄々漏れだったらしく、嬉しそうだなとタローに笑われてしまった。高こうが安こうが馬に乗る以外なら何でも良い。内腿と腰が痛くなるのはもう勘弁、現代っ子の体力のなさを舐めないで欲しい。しかし、残念なことにこの世は思ったより甘くなかった。
「…気持ち悪い…」
「大丈夫っスか?」
自動車で舗装されていない砂利道をそれなりのスピードで走ったときの三倍の荒さに、元から乗り物酔いをしやすい葵は出発直後ダウン。無理だ。朝ごはんをリバースしなかっただけでも誉めて欲しい。目は虚ろ、真っ青な顔で窓からのどかな牧草地を見つめる異様な葵にカインデルが声をかけた。
「また休憩を入れた方が良いですね」
「大丈夫です!外見てれば平気ですから!」
表情ではよく分からないが心配してくれたらしく馬車を止めようとしてくれたが、葵は慌てて待ったをかけた。たった前にとってもらったばかりだ。
「どうしてご主人、少し休んだ方が良いよ」
「無理すんなって」
虎鉄とタローにもそう言われたが、御者をしているジャックにまた嫌味を言われてしまうのがちょっと悔しく、何より、葵は楽しみにしていることがあった。
「早く王都に行ってみたいんです」
王都と言うくらいなのだから国の首都で、きっとすごいに違いない。服装からしてやっぱりヨーロッパみたいな感じなのかな…。私京都と日光にしか行ったことないからよく分からないけど。想像を膨らましていた葵だったが、すぐに気持ち悪くなって再び顔を窓の外に固定した。なるべく遠くを見る。素晴らしい民間療法だ。
「…意外に根性があるんですね」
「ご主人は強いから」
少々感心したようにカインデルが呟くと、虎鉄は誇らしげに笑った。しかしタローは小首を傾げて、何か思い付いたように口を開いた。
「眺めるより寝てた方が良いッスよ」
「え…でも行儀悪いよ」
「別に気にしねーから」
二人を見ても、むしろそうした方が良いと頷かれた。それならばと葵は言葉に甘えることにして、足を下ろしたまま横になった。しかしちょっと寝にくい。もぞもぞと体勢を変えていたら、上から声が降ってきた。
「僕の膝使って」
ぎょっとして葵は虎鉄を見上げた。それって…もしかしなくても膝枕?
「そ、そんな恥ずかしいこと出来るわけ…!」
急に身を起こしたからか、すぐに胃がむかむかし始め気持ち悪くなり、結局虎鉄のされるがままになってしまった。結構硬めで確かに寝心地は良いけど、靴も脱いで足も伸ばせるし…しかし前の二人を視線が痛いので、フードを引っ張って葵は顔を隠した。そんなこんなで初日と二日目は休憩以外殆ど虎鉄の膝枕で過ごし、三日目で慣れてきたのか道路が舗装されていたからか、ようやく車酔いが治まってきた。葵はタローと共に和気あいあいとしながら、燃えるような夕日色と初々しい若葉色のコントラストが鮮やかな田園風景を眺めていた。
「ねぇ、王都ってどういうところなの?」
「えーっと…取り敢えずめちゃくちゃ広いっス。他国の首都より断然でかい街っスから。だから他種族もたくさんいて、市場なんかすごい賑かっスね」
「へぇ、行ってみたいな」
「俺が案内してやるッスよ」
「本当?わぁ楽しみ!」
完全に葵が人間というのを忘れている二人の無邪気な会話に、ずっとカインデルは気難しい表情をしていた。王都で彼女を待っているのは…。葵を愛おしそうに見つめる虎鉄に視線を移せば、彼はカインデルに気付き不敵な笑顔を浮かべた。本当に何を考えているのか分からない。その時、あっと葵が声を上げ身を乗りだした。
「今、城みたいなのが見えた!」
「もうちょっとで街全体が見えるッスよ」
そして、タローの言う通りすぐに田園が突然途切れ、ばっと眼下に広がった。年月を感じる鬱蒼と繁る森と高く頑丈そうな城壁に囲まれた、地平線まで楕円状に広がるとんでもなく大きい街だった。その中心にはこれまた巨大で荘厳な城が堂々と聳え建っていて、こんな光景を始めて見た葵は圧倒され声が出なかった。
「聖獣国一の街、王都ウラーリアにようこそッス!」