2*あなたは誰?
葵は数時間をも長い間初めての乗馬を経験し、ただ歩いているだけだというのに十回ほど落ちそうになったところで、ようやく欧米風の古民家が建ち並ぶ村のようなところに着いた。もう日暮れだからか、大通りには人気はない。馬の蹄の音だけが響いている。本当に虎鉄と言い張る男が後ろで支えてくれなすかったら、完全に落馬していただろう。運動神経悪すぎるのも程がある。葵が痛むお尻を擦って、制服のスカートがしわしわだとちょっと嘆いていると、男がひょいと覗き込んできた。
「ご主人大丈夫?もう少しで着くって」
着て下さいと半ば強引に渡された、さっきの魔族とかいう人のようなコートを着ていて、それのフードを目深に被っているため男の顔が半分しか見れないがどうやら心配しているようだ。
「う、うん大丈夫」
もう紺色の軍服を着込んでいるが、さっきのアレがちらついてまともに顔が見れない。まぁ、フードのおかげで丁度良い。だが、葵はどうしても聞いておけねばならないことがあった。
「…これって夢?」
「違うよ」
即答。淡い期待が見事に打ち砕かれた。
「…ち、違うの…?…まさかとは思うけど…日本じゃあ…」
「ないよ。ここは聖獣国の外れのルーフェン村。僕たちのいた日本から見たら異世界だね」
まるで明日の天気を聞いているかの如く、男は軽い調子で答えた。次々に発覚する衝撃的事実に、葵は茫然として頭を抱えるしかなかった。夢だと思いたかったが馬に揺られてお尻はやけに痛いし、日本というか地球には絶対にいないモノホン犬耳尻尾の人たちがいるし…。ああ、今は現実で、尚且まさかの異世界いるのか…。なんてこった…。まだまだ色々聞きたいことはあったが、先頭のカインデルが立ち止まったために葵は口をつぐんだ。
「今日はもう遅いので、ここに泊まります」
二階建ての木造の古い建物だった。何だろう、他の家も含め世界遺産に登録されてそうなヨーロッパの田舎の家という感じだ。随分アバウトだが、テレビで見たような気がする。それに、看板があるもののなんて書いてあるか全く読めない。言葉は通じるのに不思議だ。葵は男に抱き抱えられ懐かしい地面に足を着き、喜びを噛み締める間も無く、カインデルによって宿屋の部屋に連れてこられた。部屋の隅に大きめのシングルベッドと中央には四人掛けのテーブルと二つの椅子がある、思ったより綺麗目で簡素な部屋だ。
「食事は後で持ってきます。しっかり鍵をかけて、明日私が来るまで部屋を出ないで下さいね」
「は、はい」
丁寧だが淡々とカインデルは言い、さっさと部屋から出ていってしまった。助けてくれたし悪い人ではないようだが、表情筋が無いのかと言いたいほど無愛想で態度が冷たい。別に優しくしてくれとは言わないが、完全に男のお荷物扱いだし。葵は革靴を脱ぎ、制服のまま硬めのベッドに仰向けで倒れるように横になった。
「…どうしよ…」
異世界に連れて来られるなんてこんな非常識なこと、予想外にもほどがある。いや、外国に拉致られるとかならまだしも、飛行機や船なんかでは行くことが出来ない異世界なのだ。あ、やばい、泣きそうだ。
「…何でこんなことに…」
カインデルやあの魔族とかいう人、オズワルトだっけ?たちが言っていた感じだと、あの男がこの世界に必要な人で、私は不必要らしい。ガチで殺されかけたからね。だが、一体どうやってこの異世界に来たのか分からないが、来られたからにはきっと帰れるだろう。そうだ、絶対にそうに違いない。そうに決まってる。だけど、一人で帰るわけにもいかない。
「…本当に…虎鉄なのかな…」
異世界だからといって犬が人になるなんてそう簡単に信じられない…いやもう今さらなのかもしれないが。ぽつりと呟いた瞬間、突然ノックも無しにドアがガチャリと開かれた。やばい!鍵しろって言われてたのにするの忘れた!!青ざめて上半身をガバッと上げると、見覚えのある鮮やかな金髪が目に入り、ほっとしてベッドに座り直した。
「だめだよご主人、ちゃんと鍵閉めないと」
相変わらず優しい笑顔だが、何だが少し厳しいような気がする。男はしっかりと鍵をして葵の隣に腰を下ろした。ぎしっとベッドが軋む。
「ここは日本じゃないんだから、何があるか分からないんだよ?」
「ご、ごめんなさい…」
まだ現実ということに慣れていないのだろうか。殺されかけたのにか?ちゃんと緊張感持て私!素直に謝り葵が項垂れていると、腰と膝裏に手を回されてひょいと体を持ち上げられ、そのまま横抱き状態で男の膝の上に下ろされた。そして、葵が反応出来ないままぎゅっと抱きしめられた。
「ちょ!何するの?!」
反射的に逃げようともがくが、壊れ物を扱うように優しくそんなに強くないというのに、その腕はびくともしない。浮いた鎖骨と綺麗な顎のラインが目に入り、少し彼の早い鼓動が伝わってきてすごくどきどきする。
「ご主人はどんな表情をしていてもかわいいね。一番はやっぱり笑顔だけど、その泣きそうな顔も好きだな」
彼がしみじみと呟くのが聞こえ、葵はあーもういいやと暴れるのを諦めた。そして顔の火照りが少し落ち着いてから上目遣いで彼を見上げれば、心底嬉しそうに破顔した彼と目が合う。ランプの揺れる灯りのみの薄暗い部屋の中、長い金色の睫毛で影を落とした二重の柔らかなたれ目。神秘的なダークブルーの瞳はとても美しいが、透き通っているのに一体何が潜んでいるか分からない怖さを孕んだ、真っ暗な海底を覗いているような心地になる。
「…ねぇ、本当に…虎鉄なの?」
何だか溺れてしまいそうなその瞳から葵は思わず視線を逸らし、沈黙に耐えられなくなって問うてみた。
「そうだよ」
間髪入れず是と答える男。
「ご主人からしてみれば、信じられないかもしれないけどね」
それじゃあクイズでも出してみてよと、にこにこしながら男が言うので、葵は少々罪悪感を感じつつも甘えてみることにした。
「それじゃあ…会ったのはいつ?」
「ちょうど桜が咲いていた時。ご主人には負けるけど綺麗な桜の木の下で、僕のためにご主人が買ってくれたこの青い首輪をつけてくれたね」
一言多いような気がするが、間違ってはない。葵だってあの施設の側の大きな桜は覚えている。というか、何度言っても首輪を取ってくれない。さすがにリードは邪魔だったようで見当たらないが、イケメンの首輪姿というのは色々問題ありすぎだ。
「その三日後に一緒に祭りに行って、僕が変な病気でも持ってる汚い犬って嘲笑ってきた男をご主人は殴ってたね。『どこが変なんだこの馬鹿!あんた自分の顔鏡で見てみろ!』って言ってたね。とても嬉しかったよ」
いや、殴ったって大げさだから!軽くビンタ一発の間違いだ。
「次の日は母親に駄目と釘刺されてたのに一緒に僕と寝て怒られてたね。ああ、怒られると言えば僕のご飯に嫌いなピーマン忍ばせて16歳にもなって!ってまた怒られてたね。ご主人かわいかったよ。それから…」
「わ、分かった分かった!」
上機嫌に聞いてもないことを饒舌に喋り続ける男にストップをかけた。色々我ながら恥ずかしい思い出を掘り起こされそうだ。だが、はっきりした。
「そっか…虎鉄…なんだ…」
ふっと肩の力が抜けたような気がした。何で私まで連れて来られたのか分からないが、知らない異世界、人間ではない犬耳尻尾がある人たち、そして、私の居場所はここにはないと葵は思っていた。良かった、私を知っている人がいた。人では無いけれど、大切な家族の一員の彼、虎鉄が。