1*全裸男と遭遇
ー…ご主人…
誰かの声が聞こえる。聞き覚えの無い、少し掠れたバリトンボイスのとっても素敵な男の声。誰だろう…それに何故御主人と呼ばれているんだろうか?
ー…ねぇ起きてご主人…僕を見てよ
切なげに囁き、肩をそっと揺すられて、そこでようやく葵は重い瞼を上げた。
「ご主人!」
太陽に負けじときらきら輝くもさもさした長めの金髪、少したれ目の柔らかな印象を与える優しい青みがかった黒い瞳、鼻筋の整った男らしい端正な顔付き。というか、絶対に平たい顔族の日本人じゃないただの超イケメン。大層驚いたが、それと比べ物にならないほどのさらなる驚きを発見してしまった。
「み、みみみみみ…」
もさ毛で分かりづらいが、頭の斜め上辺りからぴょこんと生えている、ぴこぴこと動く犬の耳。いやモノホンだろうがニセモンだろうがドラ●もんだろうがどうでも良く、ただ本能的にガバッと上半身を腹筋だけで起こし、ずざざっと後ずさって、後悔した。
「耳がどうかしたの?」
男は犬耳でイケメンでかなり背も高く、引き締まったギリシャ彫刻さながら良い体の美丈夫でも、真っ裸だった。いや、見覚えのある青い首輪だけを着用し、ふさふさ金毛の長い尻尾が生えた、単なるイケメン変態だったのだ。あまりの出来事に悲鳴を上げようにも上げられず、真っ青になって目を見開き、口を金魚のようにパクパクしていると、方膝を付いてしゃがんでいた男は首を傾げ、何を思ったのか立ち上がろうとした。
「ぎゃー!止めて立ち上がらないで!!」
素晴らしいアングルでぎりぎり見えなかったとんでもない所が見えてしまうではないか。途端に真っ赤に染まってしまった顔を背け短い悲鳴を上げ男を制した。
「どうして?ご主人の側にいたい」
犬耳が下がり悲しそうな表情でこちら伺う。だがそんな顔をされても良いわけがない。
「ていうかご主人って何?!私アンタなんか知らないんだけど!!そんな趣味も無いし!!」
犬耳イケメン全裸男(首輪付き)にご主人と呼ばせるだなんて、どんなアブノーマルなプレイだ!と葵はどごぞに突っ込んだ。
「な、何言ってるのご主人…?」
信じられないとでもいうように声音は震えていて、愕然とした表情。
「僕だよ?虎鉄だよ?」
は?っと背けていた顔を思わず向ければ、思わず見惚れてしまう、目と鼻の先に男の芸術品如く綺麗な顔。
「ねぇご主人、これが夢じゃなければ良いんだけど。僕今ね、死んでも良いと思えるほどとても幸せなんだ」
吸い込まれそうな、怖いぐらいに透き通った瞳。すっと葵の頬に男の硬くて熱を帯びた手が触れる。
「貴女と出会って、ずっとこうやって目と目を合わせて言葉を交わしてみたかった。僕のたった一人の大切なご主人様」
この男が…虎鉄?んな馬鹿なと笑い飛ばしたいのに、何故か言葉すら出ない。葵は物凄く混乱していた。そりゃあ、このもさもさの金髪も青みがかった黒い瞳も、大切な愛犬にそっくりだ。あの青い首輪だって私が買ったものに良く似ている。だけど、だけど…。そんな夢物語信じられるわけがない!
「は…はは…こりゃ夢でも見てるのかな…」
今頃犬の散歩途中にも関わらず土手で眠りこけているんだ、そうだ違いない。この男が虎鉄だと言い張るのも、夜だったはずなのにお日さまがお空にいるのも、周りが地平線まで続く何にもない野原なのも、葵が乾いた笑いを浮かべ早く目ぇ覚ませと頬をつねっていたその時、男の笑顔がさっと変わった。
「ふぅん…君はもしかして…あの噂の魔族かい?」
葵の頭上の方に、男は読めない不敵な笑みを向けた。彼女も振り返ってみると数歩先に、いつの間にかフードを目深に被り顔が見えない真っ黒なコートを羽織った人が立っていた。
「はじめましてアレス様。私はオズワルトという魔族の端くれ者でございます。よろしければ以後お見知りおきを」
身長は高くもなく低くもなく、男か女か分からない中性的な声質のコートの人物は、柔らかな物腰で男に恭しく頭を下げた。え、アレス?やっぱり虎鉄じゃないの?葵は良く分からず再び男に視線を移した。
「ですが、そちらのニンゲンはこの世界に必要ありませんね」
コートを着た人物がそう穏やかに言いはなったと思ったら、葵はぐいと引っ張られ気付けば男の腕の中でお姫様抱っこをされて、数メートル後方にジャンプしていた。何という素晴らしい身体能力。そして、葵が尻餅付いていた地には、鈍く銀色に光る数本の短剣が突き刺さっている。あまりの一瞬の出来事に何が起こったのか把握が出来なかったが、ようやくハッとして状況を飲み込んだ。…今…もしかしなくても…殺されかけた?
「おや?あの方の魂を受け継ぎながら、何故ニンゲンを庇うのですか?」
コートの人物はけらけら笑い面白がっているが、素人の葵でさえ分かるほど背筋が凍るような殺気のようなもの感じる。しかも両手にクナイのような短剣を構え、いつでも投げられるぞと臨戦態勢を取っているではないか。夢の中だろうが死にたくない!そんな目覚めの悪いこと。男が裸だったというのも忘れ、殺されかけたという初めての体験に葵は怖くなって、そのたくましい上半身に身を寄せた。すると、男は大丈夫だよと葵に囁き、嬉しそうに抱き締めた。え?緊迫感漂うこの状況わかってんの?
「ご主人は僕が命に変えても護るから」
そんな映画やドラマでしかお耳に聞けないことを超ええ声でさらっと囁き、葵は一瞬状況を忘れ、真っ赤になって固まってしまった。反則だろ今のはー!しかもいつの間にか頬に頬を寄せてすりすりしてくる。ちょ、ちょっと!ほんとに止めて!死ぬ!恥ずかしくて死ぬから!!必死に両腕でガードする。
「…まさかとは思いましたが…ニンゲンを慕っているとはねぇ…」
イチャイチャしているようにしか見えない二人を目にし、予想だにしていかったとでも言うように、コートの人物は驚いたように感嘆の声を上げた。
「ああ、葵は僕の命より大切なご主人様だ」
その瞳に迷いなど一切無い。言われた方も照れるどころか感心してしまうほどの潔い断言っぷりだ。
「ふふっ…これはおもしろい!我が主への良い土産が出来ました」
何故かコートの人物はとても嬉しそうだ。武器をしまってくれたのはありがたいが、なんか、取り敢えず変で怖くて近くには寄りたくない人、と葵はそう脳内でレッテルを貼った。魔族とか言っていたし…人間ではないのだろうか。ていうか、
この犬耳男も絶対に普通の人間ではない。
「じゃあ、用が無いならさっさと帰ってくれる?」
男は笑顔のまま、何だか妙に凄みがあるが、素っ気なく言い放った。
「そうですね、そろそろお暇させていただきましょう。本当は是非魔獣国へといらっしゃって欲しいところですが…」
そうコートの人物が言いかけた瞬間、ひゅんという鋭く風を切る音がしたと同時に、彼(?)の胸にブスッと矢が深々と刺さっていた。分かりにくいが確かに、赤い鮮血が黒いコートを染めていくあまりの突然の光景に、葵の喉が変な音を立てた。
「おやおや、突然射掛けるなど酷いですね」
しかしコートの人物は立ったままだ。口調も穏やかなまま変わらない。完全にあの矢は心臓当たりを射抜いているというのに。すると、激しい馬の蹄の音が耳に入り、あっという間に三体の立派な馬が男を護るかのように間に入った。
「ここは聖獣国の領地だ。首をはねられたくなくば即刻立ち去れ」
真ん中の空と同化してしまいそうな鮮やかなスカイブルーの髪の青年が、淡々と、しかし微かに怒気を含ませながら警告した。両隣の騎手たちも弓と剣を構え、とても緊迫した状況だ。
「それは困りますねぇ。それではアレス様。また会える日を楽しみしております」
矢が刺さったままコートの人物は再び頭を下げ、空気中に溶けるかのようにその場から消えてしまった。夢だからか、何でもありだな。すると、スカイブルーの髪の青年が男と葵の前に馬から降りた。男よりは低いものの背が高くメリハリの効いた整った顔立ちだが、飾り気のない紺色の軍服のような服と無愛想な表情が、やけに近寄りがたさを醸し出している。そして、彼も髪の色と同じ獣耳付き。あとの二人にも付いている。
「…本当に人間を連れてくるとは…全く貴方という人は…」
彼は葵を見るや否や盛大に眉根を寄せ、ため息をこぼした。ちょっと失礼じゃない?思わず少々むっとしてしまったが、先ほどの光景が頭に焼き付いていて何も言わなかった。いや、言えなかった。
「まぁ、貴方がこの世界に来ただけでも良しとしましょう。別に二人ともお怪我はありませんね?」
「大丈夫だよケインヘル隊長さん」
「カインデルです」
彼は別段気にした様子もなく、手早く後ろの二人に何かを指示した。二人は無言で頷き、一頭の馬に二人で乗り換え足早に駆けていった。
「うーん…もうあの魔族も他のやつも、この近くにはいないけど?」
「念のための見回りです」
彼は馬にくくりつけた荷物から、かなり大きめの同じ軍服をとりだした。
「取り敢えず、あり得ないとは思いますが、風邪をひかれても困るので着替えてください」
はたっと葵は今の己の状態を振り返ってみた。そうだ、この犬耳男に乙女の夢のお姫様抱っこをされているんだ。イケメンで全裸の…。ぜんら…。
「ぎゃああああ!!」
そりゃあ生まれて17年間父親と兄以外の男子と手すら繋いだこともない葵が、色気もくそも無い悲鳴を上げ、男の腕の中から転がり落ちたのはその数秒後のことだった。