第二ボタン
ついに高校生活3年間の幕が閉じた。
卒業式は終わってしまい、誰かがこの後クラスメイトで打ち上げとしようと提案したらしいのだが、俺はそれを断って高校3年生最後の年を過ごした教室へと足を運んだ。
クラスメイトにはそりゃあないだろ、と非難の声が上がったのだが、彼らには本当に申し訳ないのだが、俺は打ち上げよりもしておきたいことがあった。
教室へと続く廊下は断片的な窓から夕陽で赤く染められている。なんとなく窓から外を除くと卒業式を行った講堂があるA棟がよく見える。その奥にはマンションがあり、市街地と続く。夕陽はさらに奥の山の上にあり、今まさに沈もうとしている。
卒業式は午前10時頃から始まり、卒業式の前編は普通の高校の卒業式で――これは2時間あれば終わるのだが――、後編が卒業生による在校生や先生へのメッセージ。前編の方はさほど長くはないのだが、後編は一人一人の裁量で時間が決まる。ウチの高校は少なめといえども卒業生も100人近くいるわけでそれが物凄く長い。今年も例外ではなく終わるまで4時間弱かかった。
合計で6時間弱。卒業式と卒業生からの言葉の式の間に1時間休憩があるので、正確には7時間弱。10時から始まったものの7時間弱もかかれば17時を越えてしまうわけで、春に差し掛かった今の季節ではちょうど夕方だった。
冬も終わり日は長くなったが、それでも夏ほどではない。遠くの空に夕陽に照らされた雲が幻想的な風合いを奏でていて、それが卒業式という今日の日に見られたことが嬉しかった。
夕陽が山の稜線に差し掛かったところで見るのをやめた。惚けていれば目的を忘れていつまでも見入ってしまいそうだったからだ。
俺は再び教室へと歩む。角にある第二視聴覚室を曲がったところが3年生の教室がある廊下だ。
3年生の教室が並ぶ廊下の手前から2つ目が俺の教室。教室の廊下壁にはクラスメイトの夢や理想が書かれた紙が貼っている。誰が書いたか知らないが、すごい人になる、と掲げられた文書には少し苦笑してしまった。小学生じゃあるまいし。
一通り紙を見てから自分の書いたものを探したら右下辺りにあった。少し恥ずかしくもあるその内容の文書を『彼女』が見てくれることを祈った。自分が卒業しても、来年度の5月が終わるまでは掲示されるので、次3年生になる『彼女』の目にはきっとつくだろう。
高校生活の中で最も楽しかったのが3年生の時に過ごしたその教室で、苦しかったのも同じくそこだ。友人と放課後にカラオケ大会(もちろんエアカラオケ。機械やマイクなど一切ない)をやって何事かと現れた先生にこっぴどく怒られたことや、大学受験で辛かったのを友人と分かち合ってお互いに励まし合ったのも、全部その教室から生まれた。俺には思い出がまるで、心の中からも教室からも溢れ出てきているように思えた。
閉まっていた教室の扉をがらがらと開ける。
誰もいないと思っていた教室には『彼女』がいた。
「おそーい」
『彼女』は少し拗ねたように文句を呟いた。俺は待ち合わせしたわけも、ここに来ると言ったわけでもないので、彼女がここいるのが不思議以外何ものでもない。思わず目を丸くしてしまった。
「なんで――」こんなとこにいるんだ、という台詞は彼女の言葉に掻き消されて続かなかった。
「待ってた。きっと君なら来てくれると思ってた」
茜色に染まる夕暮れの光を逆光に彼女は笑った。その姿は美しかった。もう会わないと誓ったはずの約束を破ったことを忘れるほど美しかった。
俺が高校2年生の夏、彼女にとってみたら高校1年生の夏、体育祭で同じ組の応援団をやったことから俺は彼女と知り合った。彼女は誰よりも真面目に応援団の練習をしていたのに、演技が下手でそのことを負い目に感じていたらしい。
応援団だけでなく、彼女は人一倍努力するのに、結果に結び付かいことが多い。そんな彼女を励ますのが俺の役割で、俺が彼女にしてあげられる唯一のことだった。
「……ごめんな」
約束を破ったことを咎めることも、再開を喜ぶこともできたはずなのに、出てきたのはそんな言葉だった。
「君は悪くないよ。むしろ私のために自分を犠牲にするなんて、そんなことだったら私は悲しい」
「ごめん」
俺は再度謝った。過去のことの謝罪ではなく、ここでその話を出してしまったこと。
先月、彼女と1年と半年つづいた恋人の関係を俺自身が断ち切った。喧嘩したとか浮気をしたとかではない。どちらかといえばそっちだった方が未練はなかったかもしれない。でも現実では俺も彼女もお互いが好きなのに、それでも俺は別れを切り出した。
彼女を守る役割を放棄して自分だけのための目的を優先してしまったのが本当に心の底から彼女に申し訳なかった。彼女は家族を頼ることも友達を頼ることもできないのに、唯一彼女が頼れた自分が4月からは遠いところに行ってしまうなんて。
下を俯いた俺の目から涙が溢れる。彼女が家ではどんな環境なのか、どんな目にあっているのか、そのことを十全に理解しているはずなのに。
彼女は優しい微笑みのまま俺の元に寄ってきて火傷の痕が薄く残る手で俺の頬を両手で挟んだ。柔らかくて暖かい手だった。
「君の夢を叶えるための大学が東京にあるなら君は東京に行くべきだと思う。君は間違ってないよ」
彼女は俺に正面を向かせるとそう告げた。間違ってないの部分を強調して。
涙で歪んでも彼女の顔は明るい向日葵のように美しかった。嫌なことがあっても常に笑える彼女はまさに向日葵のようだった。
俺は彼女の目を見つめて、でも何て言ったらいいか分からず、その何も言えない代わりに、目をつむって、夕陽のほのかに暖かい空気の香り、それからそれに混じった甘い匂いがする吐息、そしてクレアの唇に、俺の唇を当てた。
少しのあいだそのまま。
一秒、二秒、三秒くらい。
突然のことに驚いたような表情をしていた彼女が、俺が何をしたのか気づいた時にはもう唇は離れていた。軽く触れた程度の口づけ。恋人同士のそれではなく、単なる約束。
「お前のことはこれから先、ずっと好きだ」
恋人として好き、という意味ではなく、人としての「好き」。これから先もずっと一人の人間として彼女を好きであり続ける。そんな決意。
「私も。私も君のことはこれからもずっと好き。でも他の人をそれよりも好きになる。君のことは忘れない」
「約束だ」
俺は彼女の小指を取って自分の小指と絡める。俗に言う指きりげんまん。
彼女は少し苦笑した。子どもっぽいことがあまり好きではない俺が、小さい子供の真似事をしたからだろう。自分でも子どもっぽさにびっくりしているから、きっと彼女はもっとびっくりしている。
「分かったわ。約束よ」
――ゆびきりげんまんうそついたらはりせんぼんのます。ゆびきった。
俺も彼女も笑いながら、決まり文句を唱えた。馬鹿らしくて、幼稚っぽい、でもそんな行為でも堅い約束をした、という証明にはなる。
俺は彼女のバックに映る夕暮れの空を見た。
付き合ってきた2年間は非常に長かったけれど、過ぎ去ってしまえば、赤く染まる夕焼けの時間は短いように、それは一瞬の出来事でしかなくて、とても儚くて脆い。でもとりあえずこの一瞬の空の下で、彼女と多くの時間を過ごしたこの教室で彼女といられたことを一生忘れないでおこうと誓った。
「昔ね、こういう話があったの」
不意に彼女が話しだした。
「ん?」
「家では父親が毎日酒を飲んで荒れ狂い、母親は浮気をしていて家にいない。怯えて日々を過ごしていた女の子は楽しかった昔のことを思い出して耐えていたの?」
「昔のことって?」
「家族3人で手を繋いで外に出かけていたこと。その手はとても温かかった。誰かと手を繋ぐと安心するの」
思わず俺は声を上げて笑ってしまった。なんでそんなことを急に話しだしたと思ったらそういうことか。
彼女は俺と繋いでいる手を離さなくていい、という大義名分を遠まわしに伝えただけなのだ。そういう独特な感性が彼女の魅力で、そういう間接的な表現方法が彼女に夢中にさせる彼女自身の力だ。
――ああ、そうか。俺は彼女のこういうとこに惹かれたんだ。
春には遠くへ行ってしまう俺はもう彼女を支えることなんてできない。でも彼女はもう一人で立って歩ける。今は一人が無理でも、彼女は自分の道を支えてもらえる存在を見つけることができる。今この瞬間俺はそう確信した。
「ばかやろう。お前は俺にはもったいない女だ」
泣こうと思えば泣けたかもしれない。でも今この場所で泣くのはもう長いこと会うことのできない彼女には失礼な気がして、大きな声で笑い飛ばした。きっと家に帰ったら号泣するに違いない。それでも今は笑っていたかった。
彼女は「君こそ私にはもったいない男だよ」と前置きをしておいてから、
「第二ボタンくれないかな? 君と過ごした、っていう証がほしいの。それがあれば私きっと君を忘れない」
2年間の恋人としての関係で、彼女にあげたものは誕生日やクリスマスの祝い事の時でしかなく、それなのに最後に渡すものがこんな安い物でいいのか、とも考えたが、そんな思考は無駄だと気づいてやめた。彼女がほしい物をあげるのが彼氏の務めだ。値段なんかじゃない。
「こんなものでいいなら。でもいい男見つけろよ。変な男につられるなよ」
「大丈夫。君以上の人を意地でも見つけてみせる」
「ほんとだなあ? 難しいぞ」
「そうかもしれないね」
「そこつっこむとこだぞ?」
「あははは」
「とりあえず今までありがとう。お前は最高の女だった」
「ありがとう。君も最高の男だわ」
「「貴方を忘れない」」




