第9話 光と影のなか
日名のことが少し気になっていたが、特に目立ったこともなく1日は過ぎていく。
午前中は睡魔に抗いながらもなんとか無事に過ぎ去った。
頭も身体も使わなくても腹は減る。待ちに待ったランチタイム、学校生活において1番の至福の時間と言っても過言ではないだろう。
「そんなにがっつくと詰まらせるよ?」
刈谷の忠告もスルーして、カレーのライスも飲み物です、とでも言わんばかりに弁当を流しこんだ。
「きずきはほんともったいないことしたなー」
豊田は下敷きで扇ぎ胸元に風を送り込みながら、薄茶色の長髪が目に入らないように調整して言った。
「モグモグ……、何がもったいないんだよ?」
「早朝テストだよ、テ・ス・ト。 蜂須賀のミスか知らんが、今日の問題は先週やったのと全く同じ問題だった。 俺でも満点とれてるんじゃね? 遅刻したばっかりに強制居残りだもんな、お前」
「マジか……。 そりゃ豊田のバカでもなんなく満点だわな。 久々に逆満点じゃない満点とれてよかったで・す・ねっ!」
2年1組で遅刻したのは築と日名だけだ。欠席者は後日に再テストなので、この状況ならば必然的に居残りは2人だけだ。
「あっはっは! ついてないねー。 でもよかったじゃん、ヒナちゃんと一緒だもん。 あたし的にはちっくんが1人でぽつんと居残ってた方がウケるんですけど」
「そうそう梨華の希望通りに事は運ばせねー!」
刈谷は笑いながら築の肩をばっしんばっしんと叩いた。
「まぁいいじゃねか、きずき。 あの魅惑のニーソに見とれながら居残っとけ」
「ニーソか……、嫌いじゃない、むしろ大好きだけど早く帰りたいぜ」
「はいはい、黙ろうか」
楽しい昼食タイムはあっと言う間に過ぎ、午後の授業も矢の如く経て、帰りのホームルームも実に平凡に終了した。
「これからここで居残る奴がいるから用の無い奴はとっとと出てけー、部活行く奴もさっさと出てけな。 矢作橋と日名はプリントを取りに来い。 終わった頃にまたくる」
担任の呼びかけに従順な1組の生徒達は、各々向かうべき所に向かい、担任も野暮用があったのかその場から消え去った。
「そんじゃ今日は先に帰るわ。 頑張れよ、きずきー」
「またね、ちっくん!」
いつも帰路を共にする豊田も、築の居残り補習が終わるまで待つ気はないようで、イヤホンを耳に突っ込むと足早に教室を後にし、刈谷もクラスの女の子達とはしゃぎながら退室した
「死なないように気をつけて帰れよっ」
豊田と刈谷に応えつつ教卓に残されていた問題用紙と解答用紙を摘み上げ、それをひらひらさせながら自席へと着いた。
教室には2人だけが残っている。
対角線上の席をチラッと見ると日名と目が合った。窓から降り注ぐ夕方の陽射しのせいか、顔が熱い。
これは恋だろうか、いや無いな。女の子と視線が合ったらどことなく照れくさくなるのは生理現象と同じレベルであろう。
机に散開させた問題用紙を眺める。豊田の言った通りそれは担任・蜂須賀のうっかりで前週は悩まされた問題で溢れていた。だが、初見じゃなければこっちの物だ。
みるみるうちに解答欄が埋まった。
「ふう……楽勝!」
日名はまだ解答している。律儀に問題を解いているのだろうか、日名より先に終えた築は優越感に浸る。
「はーい、やめ! 再テスト終了、もう帰っていいぞ。 さよならなー」
今朝のテストの採点をしているときに自分のミスに気づいても遅く、2人の答案も合格点だと分かり切っていた担任は、テストを集めることもせず言い終えるとそそくさと出て行った。
担任も面倒臭いならこんな再テストやらなければいいのにと思ったが、もう終わったことなので愚痴っても仕方がない。
「さーて、帰ろっと」
席を立ち机の横に引っ掛けていた鞄を持とうとした。
「きずきくん、ちょっと待って!」
日名が後ろに何かを持ちながらパタパタと築のもとへと駆けてきた。
「どうしたのヒナちゃん?」
「お願いがあって……」
「俺にできる事なら何でも聞くよ?」
「ありがとう……」
「それでお願いって?」
「うん……。 きずきくん、この世界の為に死んでくれないかな?」
「……え?」
後ろに持っているプレゼントを出すのと同時に告白の言葉を頂けるのではないかと淡い期待を抱いた自分が恥ずかしい。しかし、一体何の冗談なのだろう。そのお願いは聞けないし、はいわかりましたと首を縦に振る奴を見てみたい。
「ごめんね……」
日名は後ろに持っていた裁ち鋏の切っ先を築に向ける。誰だよ、プレゼントなんて甘酸っぱいこと考えたのは。
それは普通の鋏と比べずとも殺傷力が高いことは明白だし、普通の鋏が可愛く見える程に大きい。
日名は家庭科部だったな、なんて悠長に考えている場合ではない。言葉から察するに明らかに布ではないものを切ろうとしている。
「ちょっと、ヒナちゃん? どういうこと!?」
「……」
これがあの日名なのだろうか。淑やか、穏やか、バカ言うなって。朝見た黒く澄んだ瞳なんてどこにもない。筆を洗った後の水のように濁った目をしている。テレビで見る殺人犯の瞳もこんな色をしていた気がする。
「ごめんね……」
日名は裁ち鋏を構えて築の胸を目掛けて突っ込む。
「っ!」
日名の突きを紙一重で避ける。だが避けたと同時に右肩付近に激痛が走った。白のワイシャツは裂け血で滲んでいる。窓枠に刺さったままになっていた折れた画鋲の仕業だった。
日名の手によるものでなくとも、もう冗談では済まされない、怪我を負ってしまった。怪我どころではない、マジで急所を狙って鋏を繰り出した。
昨日の出来事とは反して、今日は実に現実的だ。本当に殺される、そう思うと鼓動は異常に高まり嫌な汗が背中を伝う。夏なのに寒気すら感じる。
「ごめんね……」
日名は同じ言葉を繰り返しながら再度武器を構える。無言よりも不気味だ。
「ごめんね……」
日に照らされた裁ち鋏がきらりと光る。
さっき避けた時に鋏を掴んでしまえばよかったが、肩口が画鋲に抉られた痛みにとらわれ隙を逃してしまっていた。
さっき避けることができたのはほとんど奇跡だ。たまたま身体を流した位置が鋏の通り道ではなかったというだけのこと。
机・壁・窓・日名に囲まれもう八方塞がりだ。
「ごめんね……」
日名は鋏を再度築に向けて構え1歩下がると、強く床を蹴り築に突進した。
「おぉぉぉぉ!」
塞がれているならば崩すしかない。築は自分の机も前の机も強引に身体全体を使って蹴散らし日名の攻撃から逃げた。
「きゃあぁぁぁぁ!」
目標を失い止まることができなかった日名は勢い余って開いていた窓に突っ込んだ。
「はぁはぁ……、ヒナちゃん?」
荒い息遣いで振り返るとそこに日名の姿はなかった。