第1話 今日はお家へ帰ろう
「あと少し……」
矢作橋築はレジの画面左上に表示されている時計を睨み過ぎて眉間に皺がより、眼球の水分が蒸発し始めたその時だった。
「お疲れさまー」
終業チャイムよろしく次のシフトに入っている人の声で築は我に返り、勤務終了の喜びによって自然と顔も綻んだ。
カップラーメンを作っている時の3分も果てしなく長く感じるが、勤務終了まで後数分という時間も絶望を意識するくらい長い。時が流れるのをここまで深く噛み締めることなんて日常生活ではほとんど無いと思ったのは築だけであろうか。
コンビニのバイトが楽しいわけがない。
店先に張り出された店員募集のポスターを見て小遣い欲しさに適当に面接を受けて受かってしまっただけのこと。当然つまらない夕方勤務5時間は、節水中の男子トイレの如く流れるのが遅い。
カウンター内で特に何も無かったので形だけの引き継ぎをし、事務所に通じるパタパタ扉を開き入室する。パタパタ扉ではなく正式名称はスイングドアというそのままの名前があるが、パタパタする扉でパタパタ扉という呼称のがわかりやすい気もする。台車で追突されようが蹴り開けられようが、いつも変わらずパタパタしている健気なこの扉の働きを勤労感謝の日にでも労ってあげたいくらいである。
事務所内に設置されているコンピューターで勤怠登録をしようとスキャナーを手にとった。
「きずき君、新しいシフト組んどいたから確認しといてね」
築の雇用主であるこの店のボスにそう声をかけられ、全従業員が差別なく平等に労働できるよう緻密な計算のもとに作製されたシフト表に体を向ける。一目でこのシフト表が前週からの使い回しだということがわかったが。
「矢作橋……矢作橋築はと……」
自分の名前を念仏のように呟きながら、暇な放課後を労働力に昇華させる日程を携帯電話のスケジュールに書き込む。
マジでケータイって便利だなと現代人の大多数が何回かは考えたことがあるであろう今では常識的なことを築は思った。
「おつかれっした!!」
ボスにそう言葉をかける。
「ちゃんと勉強しなさいよ」
ボスは高校生の本分を再認識させるような常套句を垂れせつつも笑顔だった。
ボス、考えてもみて下さいよ。昼は学校で勉強に取り組み、放課後はコンビニであくせく働き、その後家で勉強っすか。やらねぇー、飯食って風呂入って眠くなって強制的に睡眠をとらざるをえなくなるまでの猶予をゲームしたりマンガ読んだりと満喫するんすよ俺は。ほら、勉強なんてしてる暇ないじゃないっすか。とは、当然言えない。
「え、あー、ほどほどにやるつもりっす……」
心の声は実に正直者なのだが、生の声は実に嘘つきだ。
「ほどほどにねぇー」
ボスの言うほどほどには何個かの意味がありそうだったが、大して気にも留めず、作法に厳しい上司ならカチンとくうような首だけの礼をするとそそくさと事務所を出た。
「さてと……」
ジュースとお菓子でも買って帰ろうと築は意気込むが、チョコレートやポテチはちょっと敬遠する。この時期の若者の肌にそんな刺激物を与えたならば漏れなくニキビをプレゼントされるし太るからだ。
厳選したジャンクな食べ物をレジに持って行き通学通勤併用の肩掛け鞄から財布を取り出す。
「きずき君、ちゃんと勉強しないとダメだよー? あの人みたいになっちゃうよー」
さっき築と交代した深夜シフトの大学生がもう一人の深夜勤務の人を指差してそう言った。
「うるせーよ、指差すんじゃねーよ。 きずきぃー、こんなんなっちゃあかんよ」
あの人は大学を中退して自分探しキャンペーン開催中って言っていた。
「あはは……まぁほどほどにやるつもりっす……」
しゃべりながらも綺麗に袋詰めされているところがこの人らしい。
築は一応笑っておいたが笑ってよかったのだろうかと再確認。あんまり笑えないような気もしたが、無視したらこの2人のどちらかの心に傷を作ってしまいそうだったので仕方がなかったのでよしとしよう。
「夏は変な人が多いらしいから気をつけて帰りなよー」
「担任も何かそんなこと言ってました。 クソ暑いのに全身黒マントでうわぁーって下半身に飼っている獣を解き放つ人が出たらしいっすよ」
「あぁ、それあいつだねー。 趣味で生き甲斐らしいよー」
どんな自分を見つけたのだろうか。見つける以前に完全に抜け出せないラビリンスに閉じ込められている。
「そんなでしゃばりな趣味ねーよ。 きずきに誤解されんだろうが」
「あ、ごめんごめん。お前が飼ってるのは獣というか小動物だったねー、ハムスター的な」
「おい、ひまわりの種なんて食わないから。俺が食うのは女以外にはないの。 てめ、ちょっと表出ろよっ!!」
一応この2人は仕事中である。 幸い店内にお客様の姿は見受けられないが、監視カメラ越しにボスがウォッチしていることにこの人たちは気づいているのだろうか。気づいていながら堂々と仕事中に下らない私語をしているのなら、相当な肝っ玉を保持しているのか単なるおバカか。
この2人は築の近所に住んでいる中学の先輩だ。幼い頃からよく遊んで貰ったりとよくお世話になっている。
「それじゃお先っす。 2人で熱い夜を楽しんで下さい」
「確かに今日は暑いねー、あはは」
「こいつと熱い夜を過ごす? はっ、そんなことするくらいならこのちくわぶの穴にでも」
おでん専用トングでよく味が染みた美味しそうなちくわぶを挟み上げると築につきつけた。
「それは本当に熱い夜になりそうだねー」
「いや、やらないから。 もし本当にやったらお前どん引きするだろう、絶対に!」
2人のぴったりと息の合った会話ならば漫才のグランプリにでも出場すれば高額賞金を獲得できるかもしれない。
そんなことを思いながら築はコンビニ袋を片手に店を出た。