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現実の殺人者とラスコーリニコフとの差異

 「罪と罰」を読み返しているが、読み返していて強く感じるのはラスコーリニコフという主人公の苦しいほどまでの「生きたい」という願望だ。

 

 この「生きたい」という願望は、彼が殺人者である事から、苦しいものとして現れてくる。彼が個体として、一人の人間として他者を否定する行為を行った為に、その反動として他者の一人である彼自身も否定されなければならない。

 

 この普遍的な人間倫理がラスコーリニコフの無意識の内に隠れており、これがラスコーリニコフを絶えず攻撃する。彼は生きたいと思う。だが、彼の生きたいという願望を、彼の殺人行為が否定する。彼は矛盾の極に達する。

 

 「罪と罰」という作品を読んで感じるのは、何よりもこれは「殺人後」の話だという事だ。冒頭でラスコーリニコフは殺人を行う。彼は自らは殺人を起こした後の良心の呵責に耐えられる、と信じる。彼は自分はあらゆる行為を許されていると感じる。そうしてそれを実行に移す。しかし、現実はそのようにはならない。

 

 もちろん、世の中には色々な人間がいる。私は文章を書いて、ネットにアップロードしているが、「馬鹿とは話にならない」といつも感じている。しかし「馬鹿」というのは、実際には恐ろしく強かったりする。また「馬鹿」は現実でも強かったり、かっこよく見えたりする。

 

 現実の犯罪者の多くはラスコーリニコフのように良心の呵責を感じたりはしない。私は犯罪者に興味を持っていて、犯罪者に関する書籍やネットでの体験談などをそれなりに読んだのだが、ドラマや小説のように良心の呵責を感じる犯罪者はおそらく少数だろう。

 

 それでは、良心の呵責を感じない犯罪者はラスコーリニコフよりも「強者」なのだろうか。ここが、「馬鹿は強く見える」ポイントである。

 

 白石隆浩という九人の人間を殺した男がいるが、彼は反省しなかった。彼は自己の欲望に溺れた小人だった。こうした人物には倫理観は欠けているわけだが、同じ事で、自己を客観視する能力も欠けている。

 

 白石はラスコーリニコフが越えられなかった一線を越えて、それに「耐えて」いるとも言えるわけだが(良心の呵責を感じないという意味で)、実際にこうした人物はラスコーリニコフのような人間よりも遥かに矮小な精神を持っているに過ぎない。

 

 これは理論的には、ラスコーリニコフは自己の中の無意識という形で、彼の中の他者性、彼の中の人間社会の倫理が生きていたのだが、白石という人間にはそれは抜け落ちていた、と考える事ができる。

 

 これを敷衍して考えると、ラスコーリニコフは更生の余地があるが、白石には更生の余地がない、という事になるだろう。無論、ここでの「更生」とは現実の刑期等の話ではなく、魂の次元の話だ。

 

 ラスコーリニコフには他者性が内在しており、他者性に促されて、犯罪を自白せざるを得なかった。彼はある意味で弱かったのだが、同時に彼は白石隆浩のような小さな心の持ち主ではなかった。この事は作中でもほのめかされている。

 

 それでは、他者性を一切持ち得ない白石のような人間はどのような結末を辿るのだろうか。彼は死刑執行されているが、彼は自分の中に存在しない他者性を、現実の他者からの刑罰という形で受けざるを得ない。

 

 これは多くの犯罪者に共通する事だろう。どのような犯罪者もまた、主観的には「正しい」と思える論理を持っている。そうした論理に共鳴して、犯罪者に賛同する人間もいる。しかしそのような主観に欠けているのは他者性であり、他者を内在化させる力である。

 

 こうした一方的な主観の論理を強調し、それを実行する者は、現実に他者からの否定を受ける。そのように他者からの否定を受けて、自己が死んでしまう事、そこまでを含めてそれが「人間社会で生きる」という事だろう。

 

 ラスコーリニコフは自己の中に他者を潜在させている「心の大きな」人間だからこそ、苦しみ、自白しなければならなかった。この苦しみを自己の中に潜在させない人間は、苦しむ事はないだろう。それ故に、弱い人々にはそのような犯罪者に鋼鉄の意志を感じ、強くてかっこいいものだと感じたりする。

 

 しかしこのような犯罪者は実際には、単に心が小さいだけである。こうした人物は心のうちで苦しむ事はないが、それは彼にとっては現実的には肉体的な苦痛として現れる事となる。死刑執行されて、彼が死ぬのは、彼が彼の中に存在しなかった他者性を現実に具現化させる行為として考えるとわかりやすい。このようにして人間の世界は一つの関係性を確立させる。

 

 これが「罪と罰」という普遍的な小説内における殺人者と、実際の殺人者との違いだろう。実際の犯罪者の方がある意味で「強い」し、彼は「自分はラスコーリニコフのように自白するという弱さを持たなかった」と自慢する事も可能だ。

 

 しかし、仮に白石隆浩のような人間を主人公にして小説を書いたら、そこにはグロテスクで陰惨で俗物的な光景が露出するだろうが、結局はただそれだけの事で、それ以上の真実が露出する事はないだろう。

 

 白石隆浩を裁判で裁いても、死刑にしても、真実は現れない。白石の心理を辿っても真実は現れない。現れるのは陰惨でグロテスクな殺人行為だけだ。現実の連鎖が描かれても、その意味づけをする者がいなければ真実は現れない。真実は現実の奥底で眠っている。

 

 この奥底の真実は、ラスコーリニコフという架空の人物の心理の中で散々に体現される。というより、その為にラスコーリニコフという人物が案出された、と言った方がいいかもしれない。

 

 ちなみに、私はドストエフスキーが「罪と罰」という小説で書いている犯罪の本質を、それについて短い言葉でそのまま現した哲学者ヘーゲルの文章を読んだ事がある。その時に、(やはりヘーゲルは違う)と思ったのだが、結局のところ、このような真実というのは、哲学や文学という領域で露わにしていく他ないものだろう。

 

 その真実とは何かと言えば、この文章で書いてきたような事、また絶えずラスコーリニコフを苦しめる罪の意識と、それと共に彼が生きたいという願望、その両極である。また、この両極は互いを補う存在となっており、彼が生きたいと思うから彼の、他者の生を否定した行為が罪障意識として現れてくる。だから彼は作中で、罪障意識を殺す為に自らを殺す事も検討するのである。

 

 現実の犯罪者と「罪と罰」という作品のラスコーリニコフという殺人者とは以上のような違いがあるのではないかと思う。「罪と罰」を再読して、改めて私は文学は現実ではなく真実を描くものだと確認できた。

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