第2話 声にならない温度
静かな夜だった。
ほんの少し開けた窓から、月の光が床に滲んでいた。
花の香気は、日中よりも澄んでいる。
呼吸をするたび、肺の奥にかすかな甘さが残る。
シアノは、まだ眠っていた。
顔は安らかだが、指先はたまに微かに震える。
幻夢薬による神経伝達の撹乱――
症状は落ち着いているが、すぐには戻らない。
イーヴは、そっと椅子に腰を下ろす。
視線は、彼女の額の小さな汗に留まっていた。
「私は、伴侶を持たず、
生涯をカミーユ様に捧げると、誓っていた」
それは自分にとって自然な選択だった。
長老会二席家。医療本家の傍流とはいえ、
名を持つヴァレリオンの一員としての役割を果たすには、
“私情”など、もとより不要だった。
「血を守り、技を継ぎ、
従い、支えることが、存在理由だった」
宗家との距離は遠く、だが誇りはあった。
けれど――彼女を見ているとき、
その“誇り”が、何の意味もなさなくなる。
「連れ出したい――と、思ってしまったんだ」
初めてそう思った夜を、忘れられない。
彼女をこの“月の庭”から、
この閉じた制度から、どこか別の、光の下へ――
もちろん、それがどれほどの背信かはわかっている。
実現には、四年。いや、五年。
いや、そもそも無理かもしれない。
それでも。
「それでも、私は――望んでしまった」
イーヴは、シアノの髪をそっと指先ですくい上げた。
細く、やわらかい一房。
それを、ただ指に巻き取り、頬にあてる。
感触は、あまりに静かで、温かくて、
けれど、それは彼の心をひどく締めつけた。
(なぜ、俺の手は
この子に触れるたびに、罪になる?)
彼は目を閉じた。
髪の感触を、深く深く刻み込むように。
「……夢の、なか……?」
かすれた声が、枕元から落ちた。
イーヴは、手を離しかけて――できなかった。
「……大丈夫。夢じゃない。
俺が、ここにいるよ」
シアノはまた眠りへと沈んだ。
その寝顔を見つめながら、
イーヴは、椅子にもたれかかる。
声にならないまま、
彼の胸の奥にある熱が、じわじわと広がっていった。