第1話 夜ごと、隣室で
夜の温室区画。扉の向こうには、かすかな水音と、草花が呼吸する気配だけが漂っていた。
イーヴは、シアノの部屋の隣に設けられた仮設の控え室――医務室扱いの小部屋で、膝を立てて座っていた。
時計の針が差すのは、もうすぐ深夜三時。
眠ってはいけない。だが、目を閉じれば、あの瞬間が蘇る。
控室の壁一枚を隔てた先で、彼女は今日も横たわっている。
意識は戻っている。けれど、“記憶”と“今”が溶けあっている。
呼びかけには応えるが、夢の中で誰かの名前をつぶやいたりもする。
世界との境界線が曖昧な状態――幻夢薬に晒された精神の、典型的な反応。
(……けれど、俺は……)
イーヴは、隠していた小瓶を取り出す。薬――自我抑制用の調整剤。
それを机の上に置いたまま、今日で四日目になる。
彼は服の胸元に手を当てた。そこにはまだ、微かに震える鼓動があった。
部屋に入ると、空気が変わる。
シアノは目を開けていた。だが、視線はまだ焦点を結ばない。
頬は紅潮し、体温はやや高い。
「シアノ……起きているか?」
返事はない。
だが、イーヴにはわかっていた。彼女は“聴いている”。
「……おでこ、少し熱いな」
彼は言い訳のように、手を額に当てた。
細い前髪が額に落ち、指先に触れる。その温度に、自分の胸がひどく痛んだ。
(守れなかった……この指で、止められなかった……)
「ごめん。遅かった」
誰にも届かない言葉をこぼしながら、
彼はもう一方の手で、彼女の手を包む。触れただけで、体が小さく震える。
シアノのまつげがわずかに揺れた。
「――いて」
イーヴは息を飲む。
「ここに……いて」
ほとんど聞き取れない声だった。けれど確かに、彼女はそう言った。
イーヴは、自分の手のひらを彼女の頬へと添えた。
その肌の下に命がある。微かな脈動がある。
もうそれだけで、涙が出そうだった。
その夜、イーヴはずっと手を離さなかった。
彼女がどんな夢を見ているかはわからない。
でも、もしそこで何かに怯えていたなら――
そのすべてを、代わりに抱きしめてやりたかった。
(俺の手が、怖くないものならいい。
痛みじゃなくて、あたたかいものに思えたなら――)
月が雲間から顔を出し、ふたりの影を静かに撫でていった。
* * *
壁の向こう。ほんの数メートル離れた部屋で、
二つの影が、ティーカップを手にして寄り添っている。
「……手を取ったわね」
「はいはい。今日は右手です。三夜連続、ですね」
「ふふ……ねえサシャ。
私たち、見守ってるだけのつもりだったのに、
どうしてこんなに幸せな気分になってるのかしら」
「ばか。声に出すんじゃないわよ。壁に響くわ」
ふたりは目を合わせ、小さく笑った。