呪いの魔女が婚約破棄を宣言された令嬢から相談を受けるお話
「それで、伯爵家のご令嬢が魔女の家にどんな御用でしょうか?」
家主からの問いかけに、少女は軽く目を見開いた。
森の中にある小さな村。その外れにある一軒家。そこには魔女が棲むという噂がある。
家主であるジェイエラシアの外見はその噂に違わないものだ。
腰まで届くしっとりとした黒い髪。やや垂れ目がちの黒い瞳。左目の目元にはほくろは、どこか妖しい色香を感じさせる。身に纏うのは深い紺色のローブ。家の中だというのに先のとがった幅広の帽子をかぶっている。その装いは、まさにおとぎ話に登場する魔女のそのものだった。年のころは20代前半ほどの、美しい女だった。
家主から問いを投げかけられたのは、17歳くらいの少女だ。身に纏っているのはありふれた安物の旅装束。その上にフードを羽織っていたが、今は部屋の隅のコート掛けにかけてある。
服装だけならありふれた平民と言ったところだ。しかし、その地味な装いは少女の美しさをわずかにも減じることができていない。鮮やかな赤い髪の滑らかさはまるで上等な絹のようであり、やや吊り目がちの琥珀色の瞳は宝石のようだ。目立たぬように地味な化粧をしているが、その程度では彼女の気品を隠すことなどできなかった。
「この私、伯爵令嬢レイディカリアのことを知っているようですね。一応、変装したつもりなのですけど」
「この伯爵領において、伯爵に恨みを持つ者は少なくありません。仕事の都合上、伯爵家の方々のご尊顔はよく知っているのです」
「あら怖い。伯爵家の令嬢として、あなたを処罰すべきかしらね」
「ご安心ください。伯爵家を呪うほどの大金を用意する愚か者など今までいませんでした。これからもいないでしょう」
「その程度の賢さが無ければ、金持ちにはなれませんからね。でもその言い方ですと……十分な報酬を用意すれば、呪いの魔女ジェイエラシアは仕事をするということですか?」
魔女ジェイエラシアは言葉を返さない。ただ口元に笑みをたたえるのみだ。この流れで否定しないということは、肯定しているも同然だ。
伯爵令嬢レイディカリアは、満足気にうなずいた。
「魔女ジェイエラシアの高名は聞いています。ここに来た理由はもちろん、呪いたい相手がいるからです」
この家には魔女ジェイエラシアが棲んでいる。彼女は報酬次第でどんな相手も呪いのまほうをかけると言われている。
そして伯爵令嬢レイディカリアは、誰かを呪うためにやって来たのだった。
「それでは事情をお聞かせ願えますか?」
レイディカリアが紅茶を口にして落ち着いたところで、魔女ジェイエラシアはそう切り出した。
レイディカリアはちらりと視線を送った。そこには魔女の後ろに控える男がいた。年の頃は17歳くらいだろう。ダークブラウンの髪に茶色の瞳。整った顔立ちだ。身なりを整えれば貴族と並んでも引けを取らないだろう。
魔女の後ろに控える姿は執事を思わせるものがある。実際、レイディカリアに紅茶を淹れてくれたのも彼だ。だが貴族の家に仕える者のような洗練された所作ではなかった。おそらくは平民なのだろう。
貴族の令嬢は生まれも育ちもわからないような者を信用することができない。
「彼は私の弟子です。呪いの恐ろしさをよく知っていますから、秘密を漏らすことはありえません。ご安心ください」
家主にそう保証されればこれ以上の追求はできない。それは無礼と言うものだ。
レイディカリアは気にすることをやめ、事情を話し始めた。
伯爵令嬢レイディカリアには婚約者がいた。
伯爵子息リートマンド。親が決めた婚約者。二人は貴族の婚約者として義務的な付き合いを続けていた。
レイディカリアはそうした関係に不満を感じていなかった。貴族ならば恋愛感情の伴わない結婚は当たり前のことだ。
だがリートマンドは違っていたらしい。そして貴族としての自覚が足りなかった。彼は同じ学園に通う平民の娘と恋仲になってしまったのだ。
それだけならば若者のちょっとした気の迷いとして問題にならなかったかもしれない。だがリートマンドはこともあろうに、学園の夜会で婚約破棄を宣言してしまったのだ。
恋愛小説や舞台劇ではありふれた展開だ。物語では夜会で宣言された婚約破棄は取り消せないことが多いが、今回はそういうことにはならなかった。
二人の伯爵家は影響力が強かった。両家が力を合わせて有力貴族に話を通した結果、リートマンドの一世一代の婚約破棄の宣言は、ただの夜会の余興ということにされてしまった。
この婚姻は貴族の派閥の行く末を左右する重要度の高いものだ。ろくな実権も持たない若者が恋の熱だけで反故にすることなど、最初から不可能だったのだ。
平民の娘はどことも知れない僻地に送られることになった。これから一生、厳しい暮らしを送ることになるだろう。だが貴族の婚姻を阻もうとしたのだ。命を奪われなかっただけでも望外の幸運と言えた。
リートマンドは両家の両親ばかりでなく、親戚たちからも何度も厳しい叱責を受けた。恋の熱は冷め、すっかり意気消沈してしまった。
婚約破棄の宣言は、実に無残な失敗に終わったのである。
だが、婚伯爵令嬢レイディカリアは、この結果に満足などしていなかった。
「私も貴族の令嬢です。あんな男が相手だとしても、家のためと言うのなら、結婚することに文句は言いません。ですが一人の女として、浮気した男を夫とすることは我慢なりません。どうか魔女様、あの男に相応しい罰を与えるために、お力添えをお願いしたいのです」
レイディカリアの目は本気だった。貴族の令嬢がお忍びで魔女の家に呪いを頼みに来るなど、その時点で相当な覚悟と言える。
それでも呪いの魔法を使うとなれば穏やかに事が収まることはない。魔女ジェイエラシアは彼女の本気を改めて確認することにした。
「お話を聞いた限り、婚約者は十分な罰を受けたかと思います。想い人はどことも知れぬ土地に追いやられ、本人も失意に沈み、今後は伯爵家で頭の上がらない生涯を送ることになるでしょう。その上に呪いをかけるとなれば、いささか過剰と言うものではないでしょうか?」
レイディカリアは机を叩き立ち上がった。
「あなたは何もわかっていません! あの人は浮気したのです! それなのに結婚しなくてはならないのです! そんな男と一生を過ごさなくてはならない苦しみを想像できますか!? 許すことなどどうしてできるでしょう!? 殺しても飽き足りません!」
レイディカリアは燃え盛る炎のように、熱く激しい言葉を放った。その姿には躊躇いと言うものが無い。彼女は穏やかに事を収めるつもりなどない。憎い相手を焼き尽くすまで止まらないだろう。
魔女ジェイエラシアは嘆息した。
「……承知しました。そこまでの覚悟がおありなら、殺せるほどの呪いをかけることにしましょう」
実にあっさりとした言葉を返され、レイディカリアもさすがに続く言葉を失った。
そんな彼女を気にした風もなく、魔女ジェイエラシアは席を立ち、部屋の奥にある棚をごそごそと探った。そして何かを見つけると席に戻り、テーブルの上に置いた。
それは銀の指輪だった。表面は簡素な装飾だが、内側には禍々しい魔術文字がびっしりと刻まれている。
レイディカリアは席に座り直すと、その指輪をまじまじと見た。
「この指輪は……?」
「これは呪の魔道具『音も無い衰え』。効果は『この指輪をつけた者の最も近しい者を少しずつ衰弱させる』というものです。衰弱が進めば歩くことすら困難になり、ベッドから出ることもできなくなります。病にかかれば回復することなく進行し、命すら危うくなるでしょう」
魔女は実に恐ろしいことを淡々と語った
令嬢は訝し気に指輪を見た。
「なかなか強力そうな魔道具ですが、ずいぶんとまわりくどいですね。もっと手っ取り早くひどい目に遭わせるような呪いは無いのですか?」
「もちろんありますが、あまりお勧めはできません」
「なぜですか? 報酬の事なら心配しないでください。十分に用意したつもりです」
そう言って令嬢はテーブルの上に袋を置いた。相当な重さのようで、がっしりとしたテーブルが置いた衝撃で震えるほどだった。レイディカリアが袋の紐を解くと、金貨がこぼれた。
平民なら一生目にすることも叶わない大金だ。小さな村ぐらいなら丸ごと買い取ることもできるかもしれない。彼女がどこまでも本気だった。
それほどの大金を目の前にして、しかし魔女ジェイエラシアは首を左右に振った。
「冷静に考えてください。もし今、婚約者が呪いを受けて倒れたとしたら、真っ先に疑われるのは誰だと思います?」
「今回の婚約破棄の騒動で迷惑を被った者は少なくありませんが……そうですね。私にも確実に嫌疑がかかることでしょうね」
レイディカリアは苦々しくも認めた。
彼女はお忍びでここに来た。それでも調べればこの村に来たことくらいは知られてしまうだろう。魔女ジェイエラシアの存在はそこまで有名ではないが、伯爵家が領内の魔女の存在を見過ごすはずもない。
伯爵子息リートマンドに呪いがかけられたとなれば、その依頼主が伯爵令嬢レイディカリアということは、たちまち明らかにされてしまうに違いない。
「この『音も無い衰え』なら問題ありません。効果を受ける者が自然に衰弱するため、呪いを疑われる可能性は低い。そして重要なのは、呪いを受けるのはあくまで装着者自身であり、衰弱するのは副次効果ということです。婚約者をいくら調べても呪いの痕跡は簡単には見つかりません。もし貴女が疑われるようなことがあったら、指輪を隠してしまえばいい。ほとぼりが冷めた頃に指輪をつければ、再び婚約者を衰弱させることができます」
「……なるほど。そう言われると確かにこの魔道具がよさそうです。でも発動条件が気になります。確か『最も近しい者を衰弱させる』と言っていましたね? それでは婚約者に効果を発揮するとは限らないのではないですか?」
「ええ、その懸念は正しいです。この『音も無い衰え』はバレにくい代わりに効果を受ける者を特定させるのが難しいという欠点があります。だから確実に効果を発揮させるために、婚約者とはなるべく親しくしてください」
「あの男と、なるべく親しく……?」
レイディカリアは心底嫌そうな顔をした。
魔女ジェイエラシアは人差し指を立てて語り始めた。
「あなたは婚約者と一緒に学園に通っているのでしたね? 同じクラスならなるべく近くの席に座るようにしてください。休み時間には話す機会を作り、教室移動の時は手をつなぐなんてのもいいですね。週に一度くらいは軽いキスやハグ程度をするのもいいでしょう。そこまですれば、『音も無い衰え』は確実に婚約者に効果を発揮するでしょう」
レイディカリアは再び机を叩いて立ち上がった。
「ふざけないでください! この私にそんな媚びた行いをしろというのですか! それも、あんなクズを相手に!」
激昂するレイディカリアを前に、魔女ジェイエラシアはまるで気にした風もなく紅茶を口にする。
レイディカリアが糾弾の言葉を発しようと息を吸い込んだとき、その機先を制するように魔女ジェイエラシアは口を開いた。
「人を呪おうと言うのなら、ただ苦しめるだけで満足してはいけません」
「……なんですって?」
「苦しむ姿を楽しんでこそ呪いと言うものです。想像してください。婚約破棄の宣言の後、距離を詰めてくる令嬢に、婚約者は戸惑うことでしょう。失恋に沈み込んだ婚約者は、あなたの優しさにたやすくほだされ、自分が浮気したことを悔いるはずです。あなたの内に秘めた悪意が覚られることはまずありません。自分が恨まれていることすら気づかず、むしろあなたのことを信じながら、なすすべもなく衰弱していくのです。実に滑稽で残酷で、楽しいことではありませんか?」
そう言われてレイディカリアは想像してみた。
婚約者リートマンドは、親類縁者に糾弾されて、捨てられたばかりの犬のように落ち込んでいる。優しくすれば、たやすくなつくいてくることだろう。尻尾を振りながら、信頼する飼い主こそが毒を撒いているとも知らず、徐々に衰弱していく惨めな姿……それは浮気と言う最低の裏切りをしたあの男に似つかわしい、愚かで惨めな有様に思えた。
「……悪くありませんね。でも優しくすると言っても、いったどのくらいの期間そんなことをやらなければいけないのですか?」
「そうですね……目に見える効果が出るまでは、およそ一年といったところですね」
「一年も!?」
「ええ、一年じっくり時間をかけていい思いをさせて、少しずつ苦しめるのです。『一年もかかる』のではなく『一年も楽しめる』と思えば、悪くないのではありませんか?」
魔女ジェイエラシアはニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。
レイディカリアは同じ笑みを返した。
「気に入りましたわ! その魔道具、ぜひ買わせていただきますわ!」
レイディカリアは代金を支払うと、上機嫌で帰っていた。
令嬢が帰ったあと、これまで一言も発しなかった弟子アスシートが不安げに問いかけた。
「よろしかったのですか魔女様? あのような魔道具を渡してしまっては、まずかったのではないですか?」
「ああ、心配ありません。あの『音も無い衰え』は発動しないように細工してあります」
「発動しない? あの令嬢のご気性はご存知でしょう? バレたら怒鳴り込んできますよ」
「大丈夫、そうはなりませんよ。あんな綺麗な令嬢が親しく接して来れば、婚約者は容易く落ちることでしょう。婚約者が彼女を愛するようになれば、彼女もまた情が湧く。お互いに愛しあうようになれば、呪う必要もなくなってすべて解決。一年後、彼女は感謝の言葉を述べにこの家にやってくるという寸法です」
魔女ジェイエラシアは自信ありげにそう語った。
彼女の深い考えに弟子アスシートは感嘆の息を吐いた。
だがそれでも安心することはできなかった。確かに上手くいけばハッピーエンドとなるだろう。だがあの令嬢の気性を考えると、そんなに簡単に終わるわけがない――そんな不吉な予感がどうしても消えなかったのだ。
「どういうことですか! 一年経ってもあの男、全然弱った素振りすらありませんよ!」
あの日からおよそ一年ほど経った頃。伯爵令嬢レイディカリアは怒鳴り込んできた。
弟子は不吉な予感が当たってしまったと、やれやれと首を振った。
魔女ジェイエラシアは戸惑ったように問いかけた。
「ええと……本当に私が言ったように、婚約者と親しく過ごしたのですか?」
「ええもちろん! 登校時には手をつなぎ、休み時間は一緒に過ごす。週に一度は抱きしめてキスをしていました! 最近は天気が良ければ朝のキスをすることもあります!」
「まるでラブラブなカップルのようじゃないですか。そこまでしたら婚約者のことを少しは好きになったんじゃないですか?」
「……確かに一年前よりは少しは親しみを感じるようになりました。彼のことをかわいいと思ってしまうことも時々あります。ですが! 浮気して婚約破棄を宣言した男です! 平民相手に真実の愛とか言い出す愚かな男ですよ!? この私があんな軽薄な男を本気で愛することなど、あるはずがないでしょうっ!」
レイディカリアはきっぱりと言い切った。計画通り彼女と婚約者との中は進展したようだ。しかしそれは、彼女の恨みを上回るところまで至らなかったのだ。
魔女ジェイエラシアは観念して頭を下げた。
「申し訳ありません。あなたにお渡しした呪いの魔道具『音も無い衰え』は、機能しないように細工してあったのです」
「やはりそうだったのですね。どういうつもりですか!? たとえ呪いの魔女だとしても、我が伯爵家を敵に回して無事でいられるとは思わないでください! 必ず後悔することになりますよ!」
「いいえ。あなたを騙すことになったのは、その伯爵家のためなんです」
「……なんですって?」
そうして、魔女ジェイエラシアは事情を説明した。
実はレイディカリアが来るより前に、伯爵家から使いの者が来たのだ。婚約破棄を宣言された伯爵令嬢レイディカリアがひどく婚約者を恨んでいる。呪いの魔法を使うかもしれない。だから呪いよけの手段を教えてほしい……そう依頼してきたのだ。
十分な報酬を提示されたし、断る理由もなかった。呪いよけの魔道具を渡し、呪いへの対抗手段について教授した。
そのあとで、伯爵令嬢レイディカリアがやって来たのだ。
まさか伯爵家に呪いよけの方法を教えた後に、それを打ち破る手段を与えるわけにもいかない。だからあえて効果のない魔道具を渡して、事態の鎮静化を図ったのだ。
「お父上はあなたのことをよく理解されていたようで……」
「お父様には全てわかっていたのですね……! なんてことなの……! この一年間の努力が、屈辱が、全てが無駄だったなんて……!」
レイディカリアはがっくりとうなだれた。勝気な令嬢もさすがにこれはショックが大きかったのか、さめざめと泣き始めた。
魔女ジェイエラシアはレイディカリアの隣に座ると、肩を抱いた。
しばらくそうしていると、レイディカリアも落ち着いたのか、ようやく泣き止んだ。
「レイディカリア様。せめてあなたには、この魔道具を授けましょう」
そう言って魔女ジェイエラシアは一本の口紅を差しだした。
紫色の、どこか妖しい輝きを発する口紅だった。
「なんですかその口紅は?」
「これは呪いの魔道具『無慈悲な役立たず』。初夜の前にこの口紅をつけてください。そして伴侶と一夜を過ごせば、彼の男性器はあなた以外では役に立たなくなります」
「役に立たなくなる?」
「ええ、たたなくなります」
レイディカリアは魔道具『無慈悲な役立たず』を手に取ると、じろじろといろいろな角度から眺めまわした。
「今度こそ本当に効果があるんでしょうね?」
「はい、鑑定書をお付けします」
魔女ジェイエラシアは鑑定書を差し出した。正式な書式だ。内容に偽りがあれば文面は黒く染まるよう、厳重な契約魔法がかけられている。
レイディカリアは鑑定書の文面をじっくりと眺めた。そして説明の通りの効果があることと、『音も無い衰え』のように呪いが無効化されていないことを確認した。
「……確かに今度こそちゃんと機能する呪いの魔道具のようですね。でも私に呪いの魔道具を渡すのは、お父様の意に反することになりませんか?」
「伯爵様は過剰な呪いがかかることがないよう、呪いを防ぐ手段を欲しいとおっしゃっていました。結婚相手が不義を働かない限り効力を発揮しない呪いなら、ご納得くださるはずです」
レイディカリアは唸った。確かにこれならば許されるかもしれない。だがこの魔道具が効力を発揮するタイミングがあまりにも限定的過ぎた。
「浮気しなければ効果が無いというのが気になりますね……」
「それでも効果は絶大です。想像してみて下さい。あなたの伴侶が再び浮気して、いざ事に及ぼうとした時に、男性器が機能しない。これは大変な恥です。男性は意外とデリケートなもので、そういうことがあるとひどく落ち込みます。自殺を考える者すらいるそうです」
「でもあなたは呪い対策を授けたのでしょう? 防がれてしまうのではないですか?」
「この呪いは私が開発した独自の呪いです。一般的な呪い対策で防ぐことはできません」
「でも、呪いだとバレたら解呪されてしまうのではないですか?」
「この呪いは純潔な乙女が使うと極めて強力なものになります。初夜で使えば、たとえ王国一の聖女でも解呪は難しいでしょう。正直、お渡しできる魔道具はこれが限界です」
レイディカリアはひとまず『無慈悲な役立たず』を受け取った。わずかに微笑むその顔には、未だ不満の色が濃い。
そんな彼女に、魔女ジェイエラシアは優しく語りかけた。
「レイディカリア様。呪いの魔法で一番大切なことは何か、ご存知でしょうか?」
「一番大切なこと? やはり呪いの効果が一番大事なのではないでしょうか?」
「違います。意志です。相手を呪おうという強い気持ちを持つことこそが、最も大事なことなのです。高度な術式や強大な魔力が無くても、人の強い意志さえあれば呪いは成り立ちます。あなたは既に、一年以上それができているのです」
レイディカリアははっとした。そうだ。彼女は一年以上もの間、恨みの念を内に隠して憎い男と仲良く過ごしてきたのだ。それは並大抵の覚悟でできることではなかった。
「貴族の結婚とは家同士の契約。貴族の令嬢として逃れることはできないでしょう。でも、考え方を変えてみてください。契約と言うのは、相手を縛ることでもあるのです」
「そうか……そうですよね。結婚すれば、あの人はもう簡単に逃れることはできない。長い結婚生活の中、恨みを返す機会もあるでしょう。何も呪いの魔法や魔道具に頼ることなんてなかった。私の中にあるこの意志こそが、何より大事だったのですね!」
「そうです! あなたならきっとできます!」
「ありがとう、魔女ジェイエラシア! 結婚が楽しみになってきました。私は誰よりも幸せな結婚をしてみせます!」
「その意気です!」
レイディカリアはようやく明るい顔を見せた。魔女ジェイエラシアは笑顔でうなずいた。
そして二人は熱い握手を交わした。
「どうしてそんなところに立っているんですか?」
伯爵令嬢レイディカリアが立ち去った後。魔女ジェイエラシアは、なぜか部屋の隅っこに立っている弟子アスシートに声をかけた。
「いえ、その……なんと言うか、お二人のお話に圧倒されてしまって……」
「まあそうですね。殿方にはちょっと難しい話だったかもしれませんね」
女二人の凄まじいやり取りに、ドン引きしてしまったアスシートだった。
さして気にした風もなく、魔女ジェイエラシアは作業机に着いた。そしていつものように魔法の本を開き、怪しげな素材を手に魔法の研究にとりかかった。
その背に向けておそるおそる、弟子アスシートは問いかけた。
「あの、魔女様。ひとつお聞きしてよろしいでしょうか?」
「なにかしら?」
魔女ジェイエラシアはこちらを振り向きもせず言葉を返した。
アスシートはごくりと生唾を呑み込み、質問を続けた。
「あの口紅の色、見覚えがあるのですが」
「どこかで見せたことがあったかもしれませんね」
「口紅そのものを見たのではなく、あの色を見たことがあると言いますか……」
「別に珍しい色でもないですからね」
「そもそもこんな魔道具を何のために作ったんですか? まさか、魔女さまがあの夜につけていたのは……」
アスシートはそれ以上しゃべれなくなった。魔女ジェイエラシアが突然立ち上がり近づいてくると、彼の唇に人差し指を当てたからだ。
彼女はニッコリと笑っていた。でも、その目は笑っていなかった。
「あの呪いにかかってるかどうか、あなたが気にする必要はありません。だってあなたは、わたしを裏切ったりしないでしょう?」
そう言って、魔女ジェイエラシアは頬にキスした。アスシートは身動き一つとれなかった。
「素材が足りなくなっていたことを忘れていました。ちょっと採集に行ってきます」
そう言って、魔女ジェイエラシアは颯爽と家を出ていった。
アスシートはへなへなと床に腰を落とした。
アスシートは覚悟をしていた。魔女の恋人になることで、恐ろしい目に遭うこともあるだろうと、理解していた。
だが、これは違う。魔女だから、ということではない。浮気をすれば、女性は魔女より恐ろしい存在になってしまうこともあるのだ。
アスシートは、決して愛する者を裏切ってはならないと、改めて肝に銘じるのだった。
終わり
当初は令嬢と婚約者が仲直りしてめでたしめでたし、となるはずでした。
でもなんだかしっくりこなくて色々ネタをこねくり回しているうちにこういうお話になりました。
最近ちょっと重めな話を書くことが多かったので前向きな話にしようと思っていました。
そうしたら魔女も令嬢もおかしな方向に前向きになりました。ままなりません。
2024/10/8 20:30頃
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところも修正しました。
2024/10/10、10/11
誤字指摘ありがとうございました! 修正しました!