王太子の花嫁は、初恋の人らしい
王国中の人々が大歓声を上げる中、青いラークスパーの花が辺り一面に降り注いでいた。
今日は、第一王子が立太子されたその日であり、彼の二十歳の誕生日でもあった。祝日に制定された今日という日に、国中が沸きに沸いた。この国の王政はここ数代に渡り安定しており、民からの人気は代替わりするたびに上がっていた。特に立太子された彼は、母親譲りの褐色の肌に艶やかな黒髪が美しく、父親譲りの星を散りばめたように輝く青い瞳は、国中の乙女が一度は恋に落ちると言われるほどの美男子だった。下に弟妹が一人ずついるが、彼らもまた光り輝くように美しい見目をしている。この王族のさらにすごいところは、頭脳まで優秀で性格は穏やかであることだ。どこを取ってもそつがない。そんな国内外から人気のある彼らであるが、この王太子だけがいまだ婚約者がいなかった。
立太子の次にくる話題は、間違いなく彼の花嫁選びだ。
(ドレスコードが青だなんて、陛下も粋なことをするわね)
陛下と王太子から連名で届いた立太子式の案内には、通例ならば最上の礼服のみの指定だけであるが、今回は加えて“色”も指定されていた。男性ならハンカチーフかタイを、女性ならドレスの色を青で整えるように案内されていた。
心地よい風の吹く晴天の中、式典に呼ばれた上位貴族によって、真っ白な城の中が鮮やかな青で彩られていた。彼の印である青いラークスパーに合わせたものだった。城の内装もそれに合わせてあり、近年稀に見る素晴らしい式になったのは言うまでもない。
私はというと、その美しい祭典に呼ばれた貴族の一人だった。父が伯爵位であり、城で陛下の侍従長として勤めている。
しかし、父が公私混同を嫌い、今まで身内も連れてきても良いとされた王城内のパーティーも、パートナーである母以外の子どもを連れて行ったことはなかった。次期伯爵である兄でさえ、十八歳で成人するまでは連れてきてもらったことはない。しかも、一文官として就職が決まってからという徹底ぶりだ。この王国ではデビュタントは数十年前に廃止されているため、私は今回初めて兄のパートナーとして特別に城に上がらせてもらえた。もし兄に婚約者がいれば、私はこの場にいなかっただろう。
「一生に一度の思い出になったな」
「そうですわね。兄様に婚約者がいらっしゃらないことを、こんなにも感謝したことはありませんわ」
「父様も徹底してらっしゃるからな…そのくせ政略結婚にはとんと無頓着で困る…」
「生真面目なくせにロマンチストなんですもの…、いい人は見つかりまして?」
「見つかっていたら、お前はここにいない」
「あらまぁ…知っておりました」
「小憎たらしいやつだ」
苦笑する兄様に悪戯に笑い返せば、幼子の頭を撫でるように優しく前髪についた花びらを払われた。本当に美しい式典に、二人でため息をついた。
明後日から兄様は仕事、私は学校へ。味気ない日常がすぐそこにあることを忘れさせてくれるこの時間を、きっと死ぬまで忘れないだろう。二度と来ることはない場所と二度と味わえない美しい時間を、私は瞳に焼き付けたのだった。
※※※
日常に戻った私は、いつものように放課後は図書室に宿題を片付けにきていた。
静かで落ち着いたそこで、空いている席を探し教科書とノートを開く。王都のタウンハウスへ帰るための迎えを一時間後に頼んであるのは、その時間だと王城で働く父様と兄様を城まで迎えに行くのにちょうど良いからだった。これは私が王立学園の高等部へ進学してから毎日続く日課である。私は別に一人で帰ってもいいのだけど、栗毛のバーナード伯爵家の時計は壊れない、と言われるくらいに二人が徹底して残業せずに帰ってくるので、私より母の方が子離れと妹離れができていないと嘆き始めている。
「ねぇ聞いた?ローガン王太子の花嫁選びが、ついに始まったって」
「聞いたわ。なんでも、お相手は初恋の君らしいわよ」
「そうそう!その方を見つけるまで、婚約はしないと公言されたとか!」
「ちょっと声が大きいわよ…もう、カフェに移動するわよ」
近くの席に座っていた図書室の常連の二人組が、楽しそうに席を立っていった。
あの嘘みたいに美しい人も、恋をしたことがあったのか。
まずそのことに驚いて、次に初恋もまだな自分にため息をつく。私もいい人を見つけなければいけないが、この三年の間についに見つけることは叶わなかった。
(初恋か…)
宿題をしていた手を止めて、十歳の時に初めて参加した他家とのお茶会を思い返してみた。初めてのこともあって、ずっと母様のドレスに隠れていたような気がする。それを母に嗜められて、次からは兄様と二人だけで参加するようになったが…私以上にあがり症な兄様が側を離れてくれなかったので友人はできてもそれ以上の関係に発展することが遂になかった。そんな中等部までの茶会は兄の就職とともに終わりを告げたのだが、この高等部に上がってからは女子会のような茶会(主に兄様を紹介してくれという趣旨の茶会)にしか呼ばれなくなったため、最近は茶会から遠のいている。だからと言って、学園で出逢おうにも放課後クラブ活動が上記の関係でできないため、やはり友情以上の関係がなかなか築けなかった。……これは、母様が嘆くのも分かる気がしてきた。
父様たちのお眼鏡に適うかたとお見合いさせてくれればいいのに、と一度言ったことはある。しかし、なぜか母様が「恋は落ちてなんぼなのよ!」と力説してきたため、自力でどうにかする羽目になった。私、留学するか就職して家を出ないと恋愛できない気がしてきた。
宿題はわからないところは兄様が教えてくれるけど、恋愛に関しては私と同じくらい疎いからモテる方法は教えてもらえない。兄様の男友達を紹介してもらうのは、上手くいかなかった時のことを考えると躊躇ってしまうので完全に手詰まりの状態だった。
(…誰か告白してくれないかしら?)
ロマンチストな両親の方針に少し憂鬱になって、他力本願な考えに自己嫌悪した。こんな気持ちになるくらいなら、しばらくは恋愛について考えるのはやめよう。そう切り換えて、宿題の続きを終わらせた。その後はいつものように新刊の置いてある一画へ移動し、気になった新書を手に取ると迎えの時間が来るまで読書に没頭した。そんな私を、司書が陰で速読の鬼と噂しているのは知らなかった。
いつも通りの放課後を過ごし、いつも通りの時間に乗り込むと丁寧な運転で馬車が動き出した。御者のトムさんは、この道三十年の達人だ。バーナード家の全員が彼以外の運転では馬車に乗れなくなっているほど、安定した乗り心地だった。
「トムさん、毎日ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます」
馬車に乗り込むときトムさんの笑顔を見るととても安心する。結婚するなら、トムさんの運転みたいに安心できる男性が良いわね、と考えて王城までの道のりをゆったり過ごす。窓から見える景色は変わり映えしないけれど、この穏やかな時間はとても好きだった。
二十分ほど経って、王城の裏門についた。我が家だけでなく迎えの馬車がちらほら止まっている。制服のポケットから懐中時計を出して時間を確認し、あと数分もすれば二人が乗り込んでくるだろうと待っていた。
「…騒がしいわね?」
いつも馬車のドアを開けて乗り込んでくるまで、二人は会話をあまりしない。なのに今日に限って、えらくドアの向こう側が騒がしかった。この馬車は造りはしっかりしているのだが、防音まではしていない。じっと耳を澄ませば、父様たちの声は簡単に拾うことができた。
『栗毛など山ほどいらっしゃるでしょう』
『いや、ガイの隣から動かない栗毛の令嬢は他におらんだろ』
『山ほどいます』
『いてたまるか、それにダンと同じ緑の瞳にバーナード伯爵家の家紋のイヤリングをしていたぞ!』
『あの距離からそんなもの見えません。気のせいです、残念です、無理です、嫌です』
『バーナード家は恋愛結婚なので無理です』
『無理じゃない、恋愛結婚にしてみせる!』
『『嫌です』』
『いいから、一度会わせろって!』
『絶対に嫌です。人違いです』
そのような押し問答を延々にやっている。懐中時計をもう一度確認すると、いつもの時間から十分以上経っていた。窓越しから見えるトムさんも困ったような顔でそちらを窺っているので、私が痺れを切らして馬車のドアを少し開けようとドアノブに手をかけた。
「父様たち、何を騒いでらっしゃる…ッキャア!?」
んですか?と言い切るまでに、ガッとドアを掴まれて勢いよく誰かが乗り込んできた。驚いて悲鳴をあげてしまったが、目の前に座った人物に絶句した。
「ほらみろ!!間違いなかったじゃないか!!」
「へ?」
王太子だった。
「強引な真似をして、怖がらせてしまったことを謝らせてください。申し訳ありませんでした。そして初めまして、私はローガンと申します。あなたのお名前を教えていただけないでしょうか?」
美しい笑顔が目の前にある。
勢いよく乗り込んできたわりに、ちゃんとドアを開け放してあるあたり彼の周到さが見てとれた。その開け放たれているドアの外では、絶対に言うなとばかりに首を横にふり続ける父様たちが涙目でこちらを睨みつけている。どういうことなのか全くわからないが、名前を教えてはいけないとなぜかその時は思った。
「おうたいし、でんか?え?このたびは、立太子おめでとうございます…?」
「ありがとうございます。いや、しかし、私の登場がだいぶあなたを混乱させてしまっているようですね。とても可愛い」
「かわいい…?」
夢なのでしょうか?
兄様と父様が不敬罪覚悟で、殿下を力ずくで馬車から引きずり出そうとしていますが、それを殿下の近衛騎士たちが全力で止めています。夢なのでしょう、きっと。だって、こんなこと授業で習っていないもの。
「恥ずかしながら、私は遅い初恋をしまして。その相手があなただと、今わかった次第です。ですので、私にあなたを口説き落とす権利をいただきたいので、その証にお名前をちょうだいできればと思いまして。…まいったな、惚けた顔も可愛いなんて、どうかしている」
「…そうですか、私は初恋もまだなんですの…それでもよろしいの?」
自分でも何を言っているのか分からないが、目の前の麗しいかたは蕩けたように微笑んで頷いた。
「では、あなたの初恋を私がいただきたいです。だから…名前を君の口から教えて、チェルシー?」
ダメだわ、このかた危険な香りがしているわ。抗う術を授業で聞いてくるのを忘れたわ。
「……チェルシー・バーナードと申します」
「ありがとう、チェルシー…これで、君は僕の花嫁だね」
まだそうなると決まっていないのに、彼は自信満々に言い切って、私の右手を掬い取り手の甲にキスを送る。
父様たちに視線を投げると、この世の終わりのような顔で地団駄を踏んでいた。
「青いラークスパーのシャワーの中に君を見つけた時、どんなことをしても見つけ出してみせるって思ったんだ」
お父様、初恋って幼い日の甘酸っぱい思い出だけではないんですね。
私、知りませんでしたわ。
了