3話 存在してはならない生き物
冷たい廊下の奥で、すっかり聞き慣れてしまったあのAI音声が無機質に響く。
「こちらTCTE管理システムです。声紋認証、指紋認証、網膜認証を開始します。所定の位置につき、画面に表示された合言葉をどうぞ」
「……『仔牛は火を吐き出し、やがて飲み込んだ』」
「──ウロ様、どうぞお通りください」
焦燥感に支配されていたその少年は、機械からの返事をすべて待つことなく、勢いに任せてハッチを力強く押し開けた。
おそらく今、この『大地の揺りかご』から出ることがこんなにも簡単なのかと驚いたことだろう。ウロだって最初は同じことを思ったし、何ならすぐに外へ出て母を探しに行こうとした。
しかし、その望みはすぐに打ち砕かれることになった。なぜなら、ウロにとって外界は広すぎたからだ。どこまで走っても辿り着けやしない地平線に、途方もなく広い青き海原。
そこを駆けずり回って母からのメッセージを見つけろだと。冗談じゃない。手がかりを見つめる前に飢えて死んでしまう。
そういった感じで、彼は仲間と共に大人しく『大地の揺りかご』の恩恵を受けることにしたのだ。ドームの中にいれば滅多に死ぬこともないし、敵に襲われることもない……はずだ。
「(草原、いつもと違って変な臭いがする……)」
久方ぶりか、日光に目を細めながら外に出てみると美しい空と豊かな草原が広がっていたが、そこに漂うのはやはり正常とは程遠いものだった。
鼻を締め付けるような刺激臭、ただ不快なだけの血の香りがそこら中に撒き散らされていた。元凶は言うまでもなく『大地の揺りかご』の天井に落下してきたアレだろう。
「ロックスが包丁で怪我した時も同じ臭いがしてた……これってやっぱり血の香り……」
強化ガラスで造られた巨大ドームは、その構造上かなり汚れが溜まりやすい。よって清掃ロボなんかが大量に配備されており、それが目的地にたどり着くための簡易リフトもある。
ウロは今まさにそれを利用して、例の場所へ向かうつもりのようだった。
「こういう時はどうすればいいんだっけ? TCTEに聞いてくれば良かった」
リフトの自動ドアがスムーズに開くと、ウロはその中へ早足で駆け込んだ。それからしばらくして、このリフトは本来清掃ロボのために用意されたもので、母が遺してくれたAI──TCTEが搭載されていないことに気付いた。
そして、残念ながら『大地の揺りかご』には生命に関する知識を学んだ者は誰一人として存在しないことも再認識した。これからウロが遭遇するのは、紛れもない未知の領域だ。
「とりあえず近付かないようにしよう。確認が済んだらみんなの所に戻って状況を整理しなきゃ」
血や死、それはまさに恐れそのものだ。
ウロたちはそういった脅威から隔絶されているとは言っても、本能に刻み付けられているのだから仕方がない。
ものの数秒でドーム上のエリアに着いた。
「……っ、すごい匂いだ。それに……おぇっ……」
ウロは思わず嘔吐しそうになってしまった。それくらいソレは恐ろしく赤く染まっていた。
「とりあえずサンプルを採取しよう……あと大まかな見た目を調べれば、リモサが正体を突き止めてくれるかもしれない」
リモサとは、動物に詳しい少年の名だ。
ジオが植物に詳しいのと対照的に、彼は動物図鑑を日が暮れるまで読んでいるので、ある程度は力になってくれるはずだ。
というか遺伝子分析器が『大地の揺りかご』にあった気がする。あれにサンプルを入れてみよう。ウロはそう考えた。
慎重に一歩ずつ、近づいてみる。
赤くなっているから分かりにくかったが、その不審な生き物はウロコを持っているようだ。それに瞳も血の向こうで鈍く光っている。
手足はウロたちと同じく二本ずつ。手には長い鉤爪が、足には硬い蹄が付いている。
「(大きさは……僕たちの数倍、いや数十倍はあるかもしれない……)」
全体を把握するために、ウロはそれの後ろ側に回ってみることにした。
次第に全貌が明らかになってくる。
「背中に……翼?」
これが『大地の揺りかご』に落ちてきた時、たしか大きな音がしたはずだ。つまり、これは──
「このドラゴンはどこから落ちてきたんだ……?」
空想の生き物とされているドラゴン。それに酷似した落下死体はどこで産まれ、何を思い、なぜ死んでしまったのだろうか。
◆◆◆
ウロは死体にナイフを突き立て、すでに冷めきってしまった肉片を手に入れた。こういうものの扱いはよく知らないが、あまりベタベタ触れるのも憚られたので、すぐガラスの容器に詰め込んだ。
「血と肉、僕たちと同じなんだよな……」
生き物が一つ、ここで死んだのだ。少なくともウロにとって良い気はしない。
すぐに持って帰ろう。
「(約一ヶ月、何も起きることなく平和に生きてきた。それなのにこの死体はまるで……)」
ウロにとってそれは不吉の前兆としか思えなかった。なぜなら、彼らにとって初めて「外界」から与えられた刺激だったからだ。
広大な草原と、青き空。そこでは狼や鳥どころか羽虫一匹も見えたことがないのに、こんな目立つ生き物が何の前触れもなく落ちてくるはずがない。
勘の域を出ないが、明らかに何かが変だ。
「(考えすぎか……?)」
ウロは『大地の揺りかご』のリーダーとして様々な可能性について考えを巡らせた。その内、彼は中まで戻ってくることができた。
大掛かりな扉が開くと、そこには今まで見たことのないくらい心配そうな表情をしたフェリスが立っていた。
「フェリス……? どうかした?」
「別に何でもない。ちょっと遅いなって思っただけ」
フェリスはウロの裾を、もうどこにも行ってしまわないように強く掴んだ。
「変な生き物が落ちてきただけだよ。そんなに落ち込まなくても──」
「ボクにも分からない。分からないけど嫌な予感がする。ウロも感じてるでしょ?」
僕たちの半分は人間だ。でも半分は獣でもある。
だから、たまに超越的な感覚を用いて人間には分からないことを察知する時がある。
それかもしれない。嫌な運命が、僕たちの背中を面白がるように撫でている……そんな気がする。
「フェリスも感じてたんだ……でも、今はこっちが先だ」
「うわっ! あれのサンプルを取ってきたんだ……ばっちいなぁ」
「ばっちいけど、とりあえずこれを調査してもらえば何か分かるかもしれない。無知を取り払うことができたら僕たちも安心できるよ、きっと」
「……そうかもね」
ウロはフェリスを連れて、リモサのところへ向かうことにした。
ものぐさな彼はいつも地下の生態研究室にいる。今もきっと外からの刺激には目も向けず、籠もりっきりなのだろう。そこに遺伝子を分析するための機械もあるはずだ。
「フェリス、みんなは避難できてるよね?」
「うん、もう点呼もした。今はロックスに任せてあるよ。ロックスはみんなのお姉さんだから」
ウロは今いちばん大切なことを確認すると、一安心できたので地下へ向かった。
◆◆◆
リモサの人柄を「ものぐさ」と称したことには理由がある。というのも、彼は他の人間と比べて「趣味」に没頭しすぎているのだ。
しかしまあ、ある意味でリモサは勤勉な人間なのかもしれない。彼の頭脳は疑いようもなく明晰であるし、その頭脳をビッシリと埋め尽くすほどの知識も、膨大な時間をかけて得ている。
「リモサ、いる?」
ウロは形だけ、扉に向かって呼びかけてみる。どうせ生体認証で開けるのだから意味はないが、それでも中にいる少年のプライバシーを守ってやらねば。
リモサの返事が聞こえてくる前に、ウロとフェリスはTCTE管理システムを使って中に入った。
フェリスが手に小包を持って言う。
「リモサ、朝食まだでしょ。ロックスから聞いたよ。これを食べて」
フェリスが突き出したプラスチックの容器には、香ばしいパンと温かい肉が入っている。肉というのは、もちろんウロが採取してきたアレのことではない。
どちらもロックスがわざわざリモサのために作った素晴らしい朝食だ。これを食べれば、きっと昼まで元気いっぱいでいられる。
しかし、肝心のリモサから反応はない。
「リモサ、何して……って寝てるし」
散らかった部屋の奥に進んでみると、机かどうかも分からないほど大量の書類に埋め尽くされた場所で、あのリモサが眠りについているのが見えた。
呑気で無邪気な奴だ。彼のような余裕を持てたらいいのだが。ウロは静かにそう思った。
「……わっ、寝ちまってたか。ウロ、フェリス、起こしてくれてありがとな。ご丁寧に朝食まで──」
「さっき外で大変なことが起こったの。ご飯を食べながらでいいから聞いて」
フェリスはリモサに小包を渡すと、ウロの方に目配せをした。どうやら代わりに説明してくれと頼んでいるらしい。
「お、これが食事だね。ありがとさん」
「リモサ、話してもいいかな」
「もちろんいいよ。仲間からの頼みなら何でもね」
ウロは腰に提げていた瓶を、特にためらうこともなくリモサに差し出した。
少しばかりグロテスクな見た目をしているが、リモサはそういうものに耐性があるため、急に見せても構わないと判断した。
「これなんだけど……かなり大きいドラゴンのような生き物が落ちてきたんだ。鱗があって、鉤爪と蹄が──」
「あぁ、俺が寝てた時に落ちてきたんだね? それの大きさは?」
「僕たちの何十倍もある」
「さっきドラゴンみたいな見た目、って言ったよね……ウロにも教えたことあるけどドラゴンは空想の生き物とされてる。本物を見てみなきゃ信じられないよ」
リモサは自分の黒髪に手櫛を入れながら立ち上がった。もう朝食を食べきったようだ。
早くドラゴンを見たくて仕方がないといった様子の彼を、ウロはリーダーらしく引き止める。
「死体がどうなるか分からないし、僕たちはこの世界に対してあまりにも無知だよ。リモサも大切な仲間なんだ。外にはなるべく出したくない……だからコレを持ってきた」
「……なるほどね」
「あいつの死体の一部だよ。もっとサンプルが欲しいなら僕が取ってくる」
リモサはまじまじと瓶の中身を見つめる。
透明なガラスの向こうで、グロテスクな見た目の液体が壁面を伝ってトロトロと流れ落ちては底の方で固まっている。そんな暗いベールに包まれるように、ほぐれた肉と折れた骨片がカランと静かに佇んでいる。
「ありがとう、ウロ。これを早速機械にかけてみるよ。すぐに結果は出てくると思うから。ところでフェリス、みんなは無事かい?」
「うん、もう安全な場所に固めといたよ。状況が落ち着いたら例の死体を掃除するつもり」
「オッケー。了解」
ピーッ、ピーッ、ピーッと機械音が一定のリズムで反響する。それは本当に小さい音だったが、窓もないこんな地下室では音がこもって騒がしく感じられた。
結果を待つ間、ウロは外で見てきた死体の特徴をリモサに伝え、おおまかな種を特定しようとした。しかしまあ、あれはどう見てもドラゴンの類にしか見えなかったから、実在する動物の情報しか蓄積されていない『大地の揺りかご』のデータベースでの考察は難しいだろうと思われた。
「進捗度87%……89……92……」
「もう終わるんだ。ちょっとドキドキする」
ウロはリモサの背中越しに機械を覗き込んだ。
遺伝子の分析装置、それは壁に埋め込まれる形でこの部屋に設置されている。大きさはそれほどある訳ではなく、カラーリングは灰白色で統一されている。扱い方はAIが教えてくれるのだが、あの難解な数式や用語の羅列を理解できたのは子どもたちの中でもリモサだけだった。
分析の結果はホログラムで投影されるようになっており、それさえ見ればどの種の生き物なのか一目瞭然である。
「でもさ、あれがどんな生き物か分かったところで一体全体どうするつもり? ボクたちが取れる選択肢は少ないよ」
「どんな生き物か分かれば生態も分かる。生態が分かれば生態系のどこに位置するのか分かる。何を食べているのか、どこで眠るのか、寿命はどのくらいなのか、ツガイがいるのか、それが分かれば死因も想像できるかもしれないじゃん?」
「……確かに」
「生き物は単純だけど奥が深い。その奥深さに目を向けると見えてくるものがあるかもしれないよ……ほら、そんなことを言ってる間に結果が出た」
ピーッ、パッ。
特に事前動作はなく、ただ簡潔な数字と画像だけがホログラムとして表示された。
事実はそこで静かに佇んでいる。
「リモサ、これはどう見ればいいの?」
「待て、おかしいな……再検査する」
結果は出た。確かに出たのだが──
「ボクの目がおかしいのかな」
「なんか変じゃない?」
「何だよ、どうなってんだ……?」
リモサは何度もボタンを叩いている。彼は明らかに焦っており、そこに映し出されている結果が信じられないという様子でいる。
しかし、現実は変わらないし変えられない。そこにあるものは真実に他ならない。
ウロはAIが書き出した文章を読み上げた。
「遺伝子が一致する生物が見つかりました。それは──」
部屋の空気が一瞬にして張り詰めた。リモサは装置から目を離し、フェリスは反射的にウロの袖を掴む。
「──被験者No.89、ウロ……ボロス?」
ホログラムには眠りに落ちたウロの顔が映っていた。彼はそこにある寝顔をどんな気持ちで見ればいいのか、まだ分からなかった。