第五話
僕はただ呆然とスクリーンを眺めていた。気づけば周囲は映画が始まる前と同様、薄明るくなっている。あの後、映画がどうなったのかはもちろん、自分が何を考えていたのかさえ、覚えていなかった。男性が一人、僕の座席の横を通り抜ける。それを見て、僕の思考は次第にまとまりを持ち始めた。たぶん、映画はたった今終わったのだろう。隣を見ると、恋人は依然としてそこに座っていた。ただ、何かを考えるようにうつむいた状態で。僕は、不思議と体の調子がよくなっていたので、努めずとも明るい調子で切り出した。
「さ、トノサマガエルも終わったことだし、僕らもマクヒキカエルとしようか?」
彼女はクスリともしない。ふむ、と僕は首をひねった。どうしたんだ?…もしかして、映画がどうしようもなくつまらなかったからがっかりしてるのか?まぁ、さもありなんってやつだな。マミさんから見たいって言い出したんだもの。見たくて見た映画が面白くなかったときのショックは、暇つぶしとか流行りものとかの場合の比じゃないよなぁ。僕は再度尋ねる。
「昼ご飯は何にしようか?マミさん、お腹すいてる?もしそうならフードコートで食べて帰ろ。丸亀製麺とかどう?それで、天かすを僕に分けてくれたら、一食分浮くしさ。…なんて、ははは。」
無反応だ。微動だにしない。僕は続ける。
「…まぁ、ひどい映画だったね、いろいろ、ホントにさ。でも、いいところもあったと思うよ。例えば、デンコの――」
「ねぇ」彼女は唐突に僕の方を向き、言った。髪の毛で片目が隠れている。
「どうした?」
「ねぇ、あの女優さん、とっても綺麗だったね。」
「ホントにどうしたの?」
僕は戸惑った。どういうわけか、彼女は怒っているようだ。
「綺麗だと思ったんでしょ?あの人のこと。私なんかより。」
困ったことになった。彼女が僕をからかっているのか、あるいは今朝のように僕を誘導しようとしているのか、それとも本心なのか、分からなかったのだ。
「冗談きついな。マミさんの方が、2.5万倍は綺麗だよ。はは、地図の縮尺みたいだ。」
だからとりあえず、おどけてみることにした。彼女はより鋭く僕をにらみつける。おっかないや。もし演技ならそれこそ主演女優賞だ。もし本気なら…、いやよそう。
恋人は足下に視線を落とし、
「ぴー君さ、初めは面倒そうだったのに、途中から映画に夢中だったよね?ずうっと、私が話しかけても無視して、見たこともない顔して。…ま、そうだよね。どういう理由があれ、夜勤明けで眠いのに無理矢理つまんない映画を見せてくる恋人なんかより、ああいう若くてキラキラしてる女の子の方がいいに決まってるよね。」と言った。
どうやら彼女は怒っているわけではないようだ。いや、怒ってはいるのだが、それ以上に悲しんでいるのだろう。一番やっかいなやつだ。
「マミさんだって同じくらい若く見えるよ。それにキラキラだってしてる。特に夏なんかは。」つい癖で余計なことを言ってしまった。今にも泣きそうな顔が僕を見る。「…とにかくさ、別に主役を見てたわけじゃないよ。僕はカネダさんの演技を見てたんだ。」
「金田さんの?」恋人は虚を突かれた顔をした。
「そう、彼の演技に感心したんだ。」
そう言うと、彼女は一瞬明るい表情になったが、すぐ怒った顔になる。
「始まる前、あんなに馬鹿にしてたくせに?」
「そうだね、訂正させてもらうよ。あの人は並じゃない俳優だ。将来有望だと僕も思う。」
僕の顔に疑り深い視線が注がれる。しばらくの間、彼女はくどいくらい僕をジーッと見つめていた。
館内にいた最後の客が出ていった後でようやく、彼女は笑顔を見せてくれた。
「よかった。ぴー君なら金田さんの良さを分かってくれるって思ってたよ。」
それに対して僕は笑顔を返し、座席に脱力した。どうやら爆弾の解除に成功したようだ。帰る準備をしている恋人を眺めながら、そんなことを考えて安堵する。くわばら、くわばら。
ショッピングモールを出ると、少し肌寒い春の風が僕らを迎えた。京都駅に近いということもあり、キャリーケースを引いた観光客やビジネスマンもとりわけ多い。
「ねぇ、マミさんが僕にあの映画を見せたかったのは、カネダさんの演技を見せたかったからなの?」僕はふと疑問に思ったことを口にした。
「うん?うぅん、まぁそれもあるかな。」
彼女は少し照れ笑いをしながらそう言った。待ってみても続きはなかったので、僕は正面へと向きなおった。
京都駅の八条西口を歩いている時、少し先から大学生らしき男女の集団が向かってくるのが見えた。数にして十数人ほど。その中の数人が卒業式を終えたばかりらしい。彼らが大声で話しているので、聞きたくなくても聞こえてきた。さしずめ、サークルの後輩たちにお祝いでもしてもらいに行くのだろう。そういえば、僕の通ってた大学も今日か明日が卒業式なんだっけ?思わず顔をしかめる。何を案ずるか、「俺だって将来有望だ」。
「ぴー君!待ってってば!」
恋人の声にハッとして振り返ると、彼女は数歩後ろから小走りで近寄ってきた。いつの間にか、僕は早歩きになっていたようだ。
「どうしたの?」と彼女が言った。
「いや、バスがさ、ほら、バス停に早く着いた方がいいと思ってさ。早く帰れるしさ。」
「そんなにお腹すいてるの?」
「いや、そういうわけじゃないよ。」
「それならさ、歩いて帰らない?」
「歩きだって?一時間はかかるけど。」
「いいじゃん。今日は少し寒いくらいだから、散歩日和だよ。それに、歩いてれば眠れないしさ。」
彼女はそう言ってから、目をそらした。
「…そっか。いいよ、歩こう。」
「うん。たくさん遠回りして帰ろ。」
「いいね。もういっそ、伏見だとか宇治だとかまで歩いちまおうか。」
「それは私がきついなぁ。ねぇ、今日のお昼は何にするの?」
「麻婆豆腐にでもするかな。うんと辛いやつ。」
「ぴー君、辛いの苦手じゃなかった?」
「うん。だから辛くするんだよ。そうすれば、きっと眠気も吹き飛ぶだろうから。」
穏やかな正午過ぎだった。降り注いだ日差しはアスファルトの上で楽しそうに踊り、すれ違う風は幸せそうにハミングしていた。
2022年3月下旬の出来事である。