第四話
僕はもはや食い入るように映画を見つめている。カネダさんの演技に興味を持ち始めていたからだ。
デスクライトだけが灯った部屋の中、デンコはベッドの上でうつ伏せになっている。彼女から深いため息のような音が聞こえてきた。どうやら、まだ眠りに落ちてはいないらしい。
コンコン、とノック音。小さな音だった。饒舌が過ぎる静寂を打ち破るにはあまりにも小さすぎたので、うっかり聞き漏らしそうになる。シーツのこすれる音を立てながら、デンコはドアの方を向いた。それと同時に、ドアがひらいた。一拍子遅れてノリオが部屋に入ってくる。その顔は真っ赤でちょうちんみたいだ。
「デンコ、まだ起きてるかい?」酔っ払っているとは思えない、落ち着いた声。
デンコは、あたかも眠りに落ちる寸前だったかのようなうめき声を上げ、
「どうしたの?お父さん。こんな遅くに。」と気だるそうな、不機嫌そうな調子で言った。
「ああ、すまないね。」
ノリオはベッドの隅に腰掛け、ふぅ、と息をつく。デンコは彼の一連の動作を渋い顔で見ていた。彼は続ける。
「夜ご飯の時、様子が変だったから心配になってね。大丈夫か?母さんも心配していたよ。」
「うん、大丈夫。ちょっと頭が痛いだけ。」
デンコはそう言って、再び枕に顔をうずめる。それから、浅く規則的な呼吸を意識的に立て始めた。彼女の狸寝入りを知ってか知らずか、ノリオは再び尋ねる。
「皆勤賞、額縁なんかに飾ったのがそんなに気に入らなかったか?」
なんか今夜は妙に察しがいいわ、とデンコは怪訝に思った。規則的だった呼吸が乱れる。ノリオは続けた。
「でもなぁ、本当に立派だよ。皆勤賞は。ノーベル賞だとか主演女優賞だとかなんかより、ずっと立派だ。少なくとも、俺と母さんにとってはね。一年間、デンコが怪我や風邪に見舞われることなく、元気に過ごしたっていう証拠だからな。それに、小学生の頃とは違って、いろんな誘惑もあるだろう。でもそんな中で夢を叶えるために毎日通ったんだ。誰にでもできることじゃない。おまえにとっては些細なことかもしれないけど、俺にとっては何より誇らしいことなんだよ。」
彼はまだ何か言いたそうだったが、そこで口を閉じ、荒い呼吸を繰り返した。その間に、デンコはベッドから起き上がり、父と同じように座った。それから、眉をひそめつつ横目で彼を見て、
「お父さん、大丈夫?かなり酔っ払ってるみたいだけど。」と茶化すような、咎めるようなトーンで言った。父に訳知り顔で説教じみたことを言われるのが耐えられなかったのだ。
「いいや、酔ってなんかないさ。むしろ、普段の方が酔ってたのかもしれないな。」
ノリオはそう言って、静かに口角を上げた。異様な雰囲気。今の彼は、デンコの知る普段の父ではないように見えた。
「なぁ、デンコ。父さんな、今は本当にシラフなんだ。だから、いつもみたいには話せそうにない。もしかしたら、おまえを不愉快にさせてしまうかもしれない。おまえもきっと、忠告めいたことを言われるなら、演劇に出てくるヒロインみたいに、神の化身だの厭世的な賢者だの男ぶりのいい貴族だの、そういうドラマティックな人種に言われたいと思っているんだろう。」
とげとげしい気配。鬼気迫るとまでは行かないが、真面目なという程度では表せない、思わず背筋が伸びてしまう空気。デンコは黙って続きを待つことしかできなかった。
「でもな、そんな連中は結局、繁華街の占い師みたいに当たり障りのないことを言葉巧みに言い飾ってるだけさ。そいつらなんかより、俺と母さん、そしてデンコ自身の方が、よっぽどおまえのことを理解してるはずなんだ。」
「分かった!…分かったからさ。言いたいことがあるんでしょ?早く言ってよ。」
デンコはようやく声を出すことができた。ひどく素っ気なく無愛想な言い方だった。適当な感じで、興味ない感じで言おうと思ってたのに、これじゃあ、私、まるでムキになってるみたいじゃないの。デンコはそっぽを向く。
「ああ、そうだな。はは、悪い。おまえにむき出しの言葉を伝えるのが、ちょっとだけ怖いんだ。いかんな、ウム、いや、やれるだけやって見せようじゃないか。また酔ってしまわないうちに。伊達の口上?何とでも言え。ム、いかんな、いかんな。」
緊張しているのか、ノリオの呼吸は浅い。デンコは彼から目を背けたまま、ベッドのシーツをつまんだり離したりこすったりしている。ノリオは、フーッ、とひときわ大きく息を吐いて、やっと切り出した。
「デンコ、おまえは、役者の夢を諦めるかどうか、悩んでいるだろう?」
デンコは驚いて彼の顔を見た。髪の毛が弧を描きながら彼女の頭を追いかける。父の顔には淡い影が落ちていて、顔の油とそれに混ざった汗だけがデスクライトの光を鈍く跳ね返していた。
「当たったみたいだな。はは、俺の勘もまだ捨てたもんじゃない。」彼は自嘲気味に笑い、「その原因は、つまり、おまえが夢と天秤にかけているものは、恋愛だ。違うか?」と語をつなげた。
デンコの中には、次第に理不尽な怒りが湧いてきた。驚かされたり怖がらされたりした後に発生することのある、あの怒りだ。
「…そうよ。だから何?まさか、どっちも選べなんて言うつもりじゃないよね?」
「そのつもりだったよ。」
即答だった。デンコは言葉に詰まった。しかし、すぐに呆れたように笑いながら、
「はぁ、もう本当に、バカらし。はいはい、分かったよ。私、もう寝るから。」と返した。
「汝、どちらも選べ。然れど、汝、ともに選ばなくとも構わない。当然、汝、どちらか選ぶこともできる。」
「は?何言ってるの?」デンコはうっかり聞き返してしまった。
「そのままの意味だよ。選択肢なんて、有って無いようなものさ。なんなら、どちらも選んだけど気が変わってやっぱりどちらも選ばない、なんて選択肢だってある。なぁデンコ、誰かも言っていたが、人生はドラマではないし、ドラマは人生ではないんだ。おまえは演じる人間であって、演じられる人間じゃないんだ。台本の外にいる人間なんだ。残念ながらここは、演劇と違っておぼつかなく、まとまりもない。二者択一なんて、詐欺師の言葉の中にしか存在しない神話みたいなものさ。」
「…バカみたい。見当外れもいいところよ。お父さんが言ったんじゃん、いろんな誘惑の中で毎日学校に通ったことが偉いって。恋愛なんて、まさに誘惑そのものじゃない!だから本来は天秤に載せるまでもないことなの!私の夢と比べるべきじゃないの!羽虫を手で払うみたいに、追い払わなきゃいけないことなの!それなのに、私は…!」
デンコはシーツを力強くつかみながら言った。手だけではなく全身に力をこめているせいか、まつげさえ小刻みに震えている。
「どうして恋愛が誘惑なんだ?」ノリオが言った。
デンコは部屋の空気がしらけていくのを感じた。自身の心もまた。ノリオが本心から疑問そうな口ぶりだったのも、その頓狂に薪をくべたのだろう。
「はは、なぁんだ、やっぱりいつものお父さんだ。はぁ、変に身構えて損した。」デンコは乾いた笑い声を上げた。
「別に身構える必要はないよ、最初からね。それで、どうして恋愛が誘惑なんだい?」
「そんなの、今の私を見れば一目瞭然よ。恋なんかしたせいで、授業にも集中できないし、お父さんたちを心配させるし。」
「それなら答えは出てるじゃないか。とりあえず、どちらも選んでみればいいんだよ。」父は笑って言った。「汝、どちらも選べ。然れど、汝、ともに――」
「ああ、もう、やめてよ!そうやっていつものおちゃらけで私のペースを乱そうとするのは!男の人なんて、みんなろくでなしよ!自分のことしか考えてないの!いつも女の人ばっかり思い悩んで、破滅するの!第一、まだ付き合ってもない段階なのに、私の頭はあの人のことでいっぱいなのよ?これがもし、付き合うってことなったら、私の心はまるで放蕩息子みたいになるに違いないわ!」
父は微笑みをたたえたまま、それに耳を傾けていた。そして、聞き終えてから数秒、彼女の言葉が部屋中に溶けきった後、ようやく語を紡いだ。
「別に、全ての恋愛が破滅に通ずるってわけでもないさ。安息や成長につながる恋愛だってある。…そうだな、一度、その人を夕食に連れてくるといい。父さん、人を見る目には自信があるんだ。あとさ、先人たちも言ってただろう?恋愛は付き合う前が一番楽しいって。」
「もういい、話になんないから。」デンコは立ち上がってドアに近寄り、「…私、知ってるよ?お父さんって、お母さんと結婚したせいで役者を諦めたんだよね?」と冷たく言った。
「いいや、それは違うな。母さんと結婚した後も、しばらくは役者を目指していたよ。でもね、ある日気がついたんだ。別に役者を目指す必要なんかないって。」うろたえた様子もない、澄んだ声。
「あっそ、どうでもいいよ。結局、もう諦めたことには変わりないんだから。負け犬の遠吠えじゃん。役者になれなかった人間の言葉なんて、今の私には全く響かないし、信じるつもりもないから。」
デンコはそう言い、父に背を向けてドアノブを回した。その時、体がズンと重くなるのを感じた。ノブから手を離す。罪悪感。父にひどいことを言ったのは分かっている。もともとそのつもりだったのだから。その罪悪感が今、つまり部屋から出る直前になって、襲ってきたのは幸か不幸か。
デンコは伏し目がちに振り向いた。視線を上げ、父の顔を見る。デンコは、言葉が出なかった。彼女が見た父の顔には、とりわけその目には、力強いものが宿っていたのだ。言葉によってどのように表現しても、結局牛を殺すことになってしまいそうな。きらめき、とでも言うべきか。炎、とでも言うべきか。そこに込められているのは、決して怒りなどではない。かといって、愛情などでもない。そのような感情の元である、混沌としていて原始的な何か。力強い熱。デンコは困惑し、立ち尽くす。ノリオは言った。
「俺だって役者だ。毎日毎日、俺がどれだけ演技をしてるか分かるか?家にいちゃあ、妻の尻に敷かれる夫を演じ、会社にいちゃあ、ヘラヘラと周囲を笑わせるひょうきん者を演じ、娘と面を合わせりゃあ、察しが悪くて愚かで考えなしの楽天家を演じる。分かるか?役者を諦めてからの方が演技の連続だったのさ。…俺だってまだまだやれる!俺だって将来有望だ!」
カネダさんは大声ではなく、むしろ静かな声だった。それにもかかわらず堂々としていて真に迫るところがあり、僕の感情は彼の演技に、声と視線に、ひどく揺さぶられてしまった。ともすれば、恐怖を抱いたと言っても過言ではない。
「俺だって将来有望だ!」その言葉は、ノリオという仮面を破壊し、カネダさん本人の言葉であるようにさえ思えた。自身の慚愧たる過去に向けた捨て鉢な鼓舞と、自身の暗惨たる未来に向けた力強い啖呵。それらはカネダさんがカネダさんに向けたものなのだろう。
それから、彼の目にたぎっていた熱。あの光はスクリーンなどというものを軽々と突き抜け、直接僕に注がれている気さえした。僕の心に、先ほどまでカネダさんのことを散々嘲っていた僕の嫉妬心に。しかし、あの光も、彼が彼自身に向けたものなのだろう。映画の描写としては知らないが、おそらくカネダさん本人は、デンコの、ひいては僕の、目に映った彼自身を見ていたのだろう。
「俺だって将来有望だ!」その言葉と、あの激しい熱視線は全て、デンコでも、ノリオでも、もちろん僕でもなく、カネダさん自身に向けられたものだったのだ。