第三話
隣に座る恋人に小突かれないように目を開いたままだったので、この映画に対する疑問のほとんども、同時に解消することができた。
まず、この映画の主人公は冒頭の女性で、名前を典子というらしい。デンコというのは彼女のニックネームなのだ。そして、デンコはどうやら俳優を目指しているそうで、俳優の養成学校に通っている。この作品は彼女が夢を叶えるまでのすったもんだを描いたものみたいだ。ちなみに、カネダさん演じるノリオはデンコの父親で、彼もかつては俳優を目指していたらしい。
スクリーンから出る光を頼りに腕時計を確認すると、上映開始から五十分ほど経っていた。物語はどうやら佳境を迎えているらしく、デンコはくどいくらい大げさに嘆いている。同じ学校に通うジュンヤという青年に迫られ、彼女も少しずつ本気になってしまいつつあるのだそうだ。
しかしながら、このデンコ役の女優はわざとこれほど大げさな演技をしているのだろうか?言動がいちいち演技がかっていて、なんとなく鼻につくのだ。デンコという人間を端的に表現するために、このような演技をするよう指導されたのだろうか?おそらく、違うだろう。なぜなら、デンコのみならず、登場人物全員がおおげさな抑揚でしゃべり、過大な身振りで動くのだから。それにしても、確かに棒読み棒立ちの演技は褒められたものではないのだろうが、かといってうっとうしいくらい大げさ演技だって同じくらいみっともなく映るものだ。
もういっそ小学生の演劇だと思って見た方が楽しめる気さえする。おや?王子様のお出ましだ。それにしても、王子役を勝ち取るなんて、彼はきっとクラスの人気者に違いない。さぞ足が速いんだろうなぁ。
誰そ彼時、青紫に染まった公園。デンコはブランコに座って黄昏れている。「ジュンヤ君と女優になる夢、どっちを選べばいいんだろ…」おおげさな独り言。それから大きなため息をつく。キィキィ、と音を立てるブランコさえ、わざとらしく見えた。カメラは切り替わり、公園の外から彼女を映す。しかしすぐにピントは彼女を眺めているジュンヤの背に合わさる。彼の時代錯誤なまでに長い襟足でさえ、鼻についた。
どっちを選べばいいんだろ・・・。僕は口の中で呟いた。どっちも選べばいいじゃないか。鼻から思わず失笑が漏れる。恋人の視線が痛いほど刺さるのを感じ、僕は素知らぬ顔でスクリーンに目を戻した。
シーンは変わり、養成学校。演技のテストをやっている。お題はシェークスピアだかチェーホフだかの演劇だ。デンコの番がやってきた。彼女にはいつもの大げさなまでの快活さや伸びやかさはなく、その代わりに過剰なまでの沈鬱を醸し出している。彼女はトボトボと皆の前に出ていき、演技を始めた。しかし、台詞を読み飛ばしたり言い間違えたりしては台本を見直すというのを繰り返し、ついには生徒の中から笑い声が起こった。その中で、ジュンヤだけは悲痛そうな顔でデンコを見つめている。
気落ちした様子で学校を出るデンコをカメラは正面から捉えている。彼女の背後に誰かが迫る。「デンコさん!」ピントはその人物に合わせられた。ジュンヤだ。
二人は先の公園で並んでブランコに座っている。予定調和のような沈黙の後、ジュンヤが口を開いた。「あのさ、デンコさん。俺、本気なんだ。からかってるわけでも、冗談でもないんだ。本気であなたのことが――」「お願い!もうこれ以上私を困らせないで!イタズラや冗談の方がずっとマシよ!」吐き出すようにデンコは言った。二日酔い確定の吐き出し方だ。「そんな、俺はあなたを困らせたりなんか…。ねぇ、何がそんなに不安なんだい?俺も力になるからさ、話してくれないか?」ジュンヤはそう言って手を広げる。ゴールキーパーみたいだ。「何が『力になる』よ!男の人はいつもそう!私の苦しみなんて分かろうともしてないくせに!」デンコはあからさまな女の子走りで逃げ去った。キラキラと飛び散ったのは涙か目薬か。「デンコさん、待って!」彼女に手を伸ばすジュンヤの背を前面に、カメラは遠ざかっていくデンコへとゆっくりピントを合わせていく。さらにカメラは切り替わり、ブランコの揺れる音と絶望に染まった青年の顔を数秒映してから、場面は切り替わった。
見事な物語じゃないか。今年で一番かもしれない。もうここで終わってもいいくらいだ。僕は思わず天を仰ぐ。涙がこぼれないようにするために。
十数秒後、涙が引っ込んだのを確認すると僕は正面を向いたが、その瞬間に再びあくびが襲ってきた。もう二十数回目のあくびだ。口を大きく開いて鼻で呼吸をする。こうすれば、少なくとも音であくびに気づかれることはない。僕が大学で学んだ、数少ない実用的な技術の一つだ。実際、隣にいる恋人は全く気づく気配がない。眠気が引き潮になるのを待って、僕は再度スクリーンに向き直った。
デンコは家族と食卓を囲んでいる。相変わらず取って付けたような鬱屈を冬着のように着込んだままだ。母親が山のような唐揚げの積まれた皿をテーブルに置き、椅子に座る。そして、口を開いた。「ねぇ、デンコ。ほら、あれ見て。」カメラは切り替わり、テレビの上に飾られている額縁を映す。その中には賞状が収められていて、筆のようなフォントで仰々しく“皆勤賞”と書かれている。母親は続ける。「お父さんったら、額縁まで買ってきたのよ。おおげさよねぇ。」カメラがデンコの正面に戻ると、デンコも正面に向き直り、洗濯機のように体を震わせながら唇をかむ。「でも、本当に凄いわ、デンコ。これからも頑張ってね。」とカメラの外から母親の歌うような声。「ああ。将来が楽しみだ。」デンコはやにわにテーブルに手をつき、椅子から立ち上がった。椅子の脚がフローリングをこすり、駄々っ子のように大きなわめき声を出す。それから、デンコはカメラを待たずして、ズンズンと階段の方へ足を鳴らしながら歩いていく。カメラが追った時にはすでに彼女は階段を上っていて、見切れる寸前の右足がチラと見えただけだった。
たかが皆勤賞ごときで額縁だって?僕はつい苦笑してしまった。もちろん、立派なことだ。夏も冬も雨の日も風の日も、欠かさず学校に通うというのは容易なことではない。とりわけ、僕のような種類の人間にはとても不可能な芸当だ。馬鹿にする権利なんてものはない。が、それと同時に、ただの惰性が表彰されるなんておかしな話では?と思う自分がいるのも確かなのである。それにしても、額縁に飾るなんてなぁ。主演女優賞を受賞したかのような騒ぎじゃないか。僕は苦笑を浮かべたまま首をかしげた。
首をかしげた拍子に、脳内に何かが引っかかったのを感じた。苦笑は消え、眉間にしわが寄る。何が?僕は足下に視線をやり、記憶を繰り上っていった。
額縁か?いや、違う。
「デンコ、どうしたのかしら?…あなた、飲み過ぎよ。真っ赤じゃない!」スクリーンから。
皆勤賞?それも、違う。
「いいじゃないか、めでたいんだから。いやぁ、めでたい。本当に立派な賞状だ。本当に立派な娘だ。」
これだ!僕は顔を上げた。この声だ!顔を真っ赤にして朗らかに笑う男性がスクリーンを占めていた。さっきのシーンで「ああ。将来が楽しみだ。」と言っていたのは、この声だ!カネダさん、もとい彼演じるノリオは、グラスになみなみと注いだビールを一息で飲み干した。
とはいえ、何が引っかかったんだ?僕は映画を眺めながら考えた。スクリーンの中では、ノリオが静かなリビングで酒を飲んでいる。時計の針の音だけが大げさに響く。彼の赤ら顔を見ているうちに、この違和感の正体に気づいた。この映画の俳優たちは、いちいちしつこい演技をしているにもかかわらず、なぜかカネダさんの演技だけは普通なのだ。カメラがあることに気づいていないかのような、さえない中年男性の生活をそのままのぞき見ているかのような、そのような演技なのだ。自然体とか等身大とかいった風に形容することもできよう。それどころか、彼の演技はあまりにも自然体過ぎるせいで、あっさりと受け入れることができ、それゆえ印象に薄くなってしまうほどなのである。
僕は堪らず嘆息した。確かに彼はさえない容姿をしていて華がないし、おそらく主演級の役はもらえていない。これからも脇役をチマチマとこなして細々と暮らしていくのだろう。だが、彼には才能がある。さえないおじさんを極めて等身大に演じる才能が。それが僕には尊いもののように思われた。少なくとも、自身がスクリーンの上でどう見えているのか弁えず、くどくどしく話したり過大に動いたりすれば演技になるとしか思っていなさそうな他の連中よりも優れているように感じられたのだった。