第二話
肩を軽く揺さぶられた気がして、僕は目を開いた。周囲は暗い。ただ眼前だけはうんざりするくらいに明るい。その明るみの中に巨人がいる。しかし、恐ろしいほど薄い。立体感がないというのだろうか。彼らの声も、動きも、特に姿なんかはまるでペラペラの紙に投影しているかのような薄さだ。いや、違うな。“まるで”じゃない。本当にその通りなんだ。映画を見ていたんだっだな。
僕は体を起こして、恋人の方を見る。彼女は僕に気づくと、顔を寄せてきた。
「寝ちゃだめよ。ほら、あの人が金田さん。」
そう言って、前を指さしたので、僕はそれを追ってスクリーンを見た。ちょうど、カメラはカネダさんなる人物だけを映している。
カネダさんは薄明るいリビングで椅子に座っている。彼の前の机には、帳簿や電卓が乱雑に置かれていて、その上に大きなアルバムのような冊子が開いて載っかっている。酔っぱらっているのか、カネダさんの顔は真っ赤で、懐かしそうな、悲しそうな表情を浮かべてそのアルバムを眺めている。大きくため息をつき、彼は重々しく口を開いた。「…すごいなぁ、デンコは。」そして再びため息。
展開がまるで理解できないぞ。まずそもそもカネダさんって誰だ?なんだか聞き覚えはあるが…。というか、この印象の薄いおじさんは本当に俳優なのか?それとも、歴史のドキュメンタリー映画みたいに、一部は実際の映像を用いていて、このおじさんは俳優ではないのか?あと、最初の女性はどこへ行った?この映画の主人公は誰なんだ?デンコって誰だ?
英語で書かれた専門書を読んだときに目が滑って内容が全く理解できなくなるように、分からない情報が多すぎて、つい耳が滑ってしまう。…少しずつ理解していこう。うたた寝したところで、どうせマミさんにたたき起こされるんだ。映画を見るしかないんだ。あと一時間ほどか?それだけあれば十分さ。僕はそう自分に言い聞かせながら、まず手がかりがありそうな、カネダさんとは誰か、という疑問に取りかかった。
この疑問は少し考えてみれば、すぐに解消した。あまりにもあっという間だったので、「あっ」とは言わずとも、「あぁ」とは漏らしてしまい、恋人からまた小突かれてしまった。
このカネダさんこそ、全ての元凶なのだ。僕が夜勤明けの日曜日の朝から映画を見にいかなければならなくなったのも、モヤがかったような脳みそに不必要な時間外労働をさせなければならなくなったのも、彼がこの映画に出ていることが原因なのだ。
「そんなにこの映画が見たかったんだ?」僕は映画館の座席にもたれながら言った。
上映開始まではまだ十五分ほどあり、まだ少し明るい。周囲を見ても、僕らのほかに客はいない。
「うん。好きな俳優さんが出るの。」彼女は言った。照明がぼんやり点いているせいか、顔色に黒い陰が混ざり、少し老けて見える。
「へぇ、僕の睡眠を犠牲にしてまで紹介しておきたかったとは、よほどイケてる人なんだろうなぁ。」
「まあね。ちょっと待って、パンフレットに写ってたはず…」
彼女は小さなバッグをガサゴソとあさり始めた。
「父さんのお眼鏡に適うかな?老眼鏡だがね。娘を任せる男なんだから、厳しいぞ。まず年収800万以上は必須だ。それから一流国立大学を無浪無留で卒業していて、恋愛経験は一人以上三人以下。ご両親との関係も良好な方じゃないとな。タバコや酒をやるやつなんてもってのほかだし、かといって人付き合いが苦手なやつも論外だ。あと、顔は優しそうで、かつ人当たりのよさそうな塩顔の人じゃないと――」
「ほら、この人。」
彼女は僕の冗談をまるきり無視して、パンフレットを差し出した。僕は少しがっかりしながら、視線を落とす。
パンフレットの中央に、主役らしき若い女優が大きく写っている。そして、登場人物であろう人々がいろんなポーズをとりながら、彼女の周囲を取り囲んでいる。その中で、彼女が指したのは、パンフレット右上の方にいるさえないおじさんだった。なんと表現すればいいか、とにかく無個性なのだ。顔が極端に整っているわけでも崩れているわけでもなく、顔のパーツに特徴的なところがあるわけでもない。せいぜい、「三十年前はきっと美少年だったのかもしれないね」と好意的に解釈できないこともない面影が残っている程度で、中立的に見れば無個性で存在感のないおじさんとしか言えないのである。俳優というよりは公務員によくいそうな、そんな中年のおじさんは、大げさに両手を挙げ、口と目を大きく開き、驚いたようなポーズで、中央にいる主役の方を見ている。
僕はなんだか無性に腹が立ってきた。カネダさんとかいう中年男性の間抜けなポーズに対してもだが、恋人が僕の睡眠よりもこのおじさんの演技を見ることを、いや、このおじさんを見ている彼女自身を僕に見せつけるのを優先したことに何より腹が立ったのだ。
「なるほど、この人か。しかし驚いたなあ。まさかマミさんが、いわゆる老け専だったなんてね。」僕はわざとらしく驚いて見せた。
「別に、おじさんなら誰でもいいってわけじゃないよ?それに、あんまり年上過ぎてもね。」
彼女が否定しなかったことに、僕は本気で驚いた。しかし、顔には出さない。
「ふうん、そうですか。それなら例えば、あなたより三つほど年下で、大学からほとんどドロップアウトしていて、フリーターで稼ぎもあなたより少ない、そんな男性は?勘弁願いたいものでしょうか?」
「うぅん、ちょっとそういう人とは、結婚はできないかなぁ…。さすがにね、やっぱり結婚するなら、年上で稼ぎもちゃんとしてる人がいいな。」
さすがに悲しくなってきた。彼女が本気なのか、冗談なのか、分からない。もう黙って映画が終わるまでふて寝でもしていたかった。が、せめてもの報いとして、
「あっそ。でもね、多分カネダさんとやらの収入は僕並みだよ。少なくとも君の収入よりは少ないはずだ。一目見りゃ分かる。絶対仕事なんか来ないだろ、こんなひつまぶしみたいな顔のおっさんに。来たところで、ド三十流でZ級の壊滅的な作品ぐらいさ。この映画だって、見てみろよ。ほら、全然人が入ってないじゃないか。はん、大したもんだ。こんなガラガラの映画館、そうそうお目にかかれないもの。」とかましてやった。
その時、二,三人ほど前の方にいるのがチラリと見えたので、きまりが悪くなり、そのまま座席にもたれて目をつむった。
しばらくしてから、彼女はようやく口を開いた。
「別に私は、作品の質がいいからだとか、人気だからだとか、そんな理由で映画を見るんじゃないの。見たいから見る。それだけ。」
小声だったせいもあるが、やたらと弱々しい声だった。その頃には僕のいらだちも収まりつつあったので、その言葉は文字通りの意味で届いた。
「立派な心がけだと思うよ、ホントにさ。」
裏声でそう言うと彼女は小さく笑ったので、僕は目を開いた。そして、ようやく映画が始まった。