第一話
ようやく映画が始まった。やはり客は少なく、CM中はまばらに聞こえていた鼻をすする音や衣擦れの音も、銀幕が開くと同時にピタリと途絶えた。…銀幕。シルバー・スクリーン。そういえば、ビートルズの曲にそんな歌詞があったな。なんだったか。確か、「君は銀幕の伝説になって、今や君と会うことなんて考えただけでも…」みたいな、なんて曲だったかな?
上映の前は映画の内容についてあれこれ考えを巡らせていた脳は、上映が始まるや否や、映画とは無関係なことを考え出している。不思議なもんだ。きっと僕のアマノジャクのせいだろう。
静かな部屋。その主が男性か女性かは、まだ分からない。朝日は、カーテンにより遮られつつも、その隙間という隙間から部屋に滑り込み、内部を淡く満たしている。静寂が三,四秒ほど続いた(少なくとも五秒ではないはずだ)。
唐突に、ジリリリリ、と時計が鳴った。ベッドの枕元にあるものだ。カメラは切り替わり、その時計を正面から映す。八時だ。と、画角の外から細く白い手が伸びてきて、アラームを止めた。再びカメラは切り替わり、寝ている人間を足側から映す。次の瞬間、その人物が、ガバッ、と身を起こした。女性のようだ。肩ほどまで伸ばした髪はジャングルのごとくボサボサで、目と口は皿のごとくまん丸におっ広げられている。
彼女は薄化粧をしているせいか、目も口も妙に誇張されているように見えて、なんだかヤマンバみたいだ。
シーンは変わってリビングルーム。母親らしき女性が朝食の載った皿をテーブルに置いている。ドタドタドタ、と聞こえるとカメラの焦点は階段に移り、そこから先ほどの女性が降りてきた。服はもう着替えられていて、髪も雑草程度には整えられている。「朝ご飯は?」と母親。「いらない!」と女性。カメラはその若い女性を追いかけていき、玄関を映す。彼女はそれから逃げるようにいそいそと靴を履いてリュックサックを背負いなおすと、ドアを開けた。カメラはすでに回り込んで、家から出てくる女性を正面から映す。彼女はカメラの前を曲がり、そのまま走っていったが、カメラはそれを追わず、住宅街の先へと遠ざかっていく彼女の背中を見送っていた。そして、ピントが次第にぼやけていき、映画の題が表示された。「境界際のトノサマガエル」。
…大した題名じゃないか。もしこれが地上波放送で、なおかつ僕一人だったのなら、手を叩いて大笑いした後、すぐにテレビを消して床についたことだろう。それくらい立派なタイトルだ。それにしても、こんな見事なタイトルだったか?僕はスクリーンから目をそらして、パンフレットを探した。その雑音が気になったのか、隣にいる恋人が僕を小突く。
「パンフレット、知らない?」僕は彼女の耳に寄って言った。
彼女は何も言わずにパンフレットを渡してくれた。僕はそれを受け取り、目をこらして見つめる。なるほど、確かにトノサマガエル。そう納得し、彼女の方を見たが、すでに彼女の顔は前を向いていた。その視界も、きっとスクリーンでいっぱいになっていることだろう。僕は仕方なく、そっとパンフレットを自分の膝の上に置いた。おとなしくしないとな。彼女は僕とは違い、真剣なんだ。なにせ、この映画を見たいと言い出したのは、ほかでもない彼女なんだから。
そう、彼女がこの映画を見ると言い出したのだ。今朝のことである。
「ぴー君さ、今日は夜勤じゃないんだよね?」
朝食をとっていると、彼女がそう言った。“ぴー君”とは僕のことだ。植物のエンドウは英語でpeaと呼ぶから、ぴー君。中々のニックネームだ。
「うん、今日はもう休みで、明日は日勤だったはず。」僕はゆっくりとした口調で返した。
「それならさ、映画見にいかない?」彼女はすぐに言った。まるで用意していたかのように。
「いいね。いつもみたいに晩ご飯の後にする?それとも昼ご飯の後にする?僕としては前者がありがたいんだけど。」
「今から。」
「はは、今からね。なるほど、いってらっしゃい。」
僕は立ち上がり、自分の食器を流しへ持っていった。栓をひねると、蛇口から水がだらしなく落ちて洗い桶を満たし始める。僕はスポンジを取り、それに洗剤を垂らした。
冗談じゃない。何が悲しくて夜勤明けの日曜日に一睡もせず映画を見なきゃならないんだ?夜勤明けに映画を見るなら、まだいい。朝まで働いた後に、あの硬いのか柔らかいのか分からない椅子に体を預けるのは、きっと心地よいことだろう。日曜日に映画を見るのも、まだいい。むしろ日曜日はそういう日だ。だから、たとえどんな映画を見るにしても、恋人となら損した気持ちにはならないはずだ。だが、この二つが重なると話が違ってくる。夜勤明けにあの椅子に身を預けられるとしても、こんなのに座るくらいならベッドに横たわりたいと思うだろうし、日曜日が映画を見るのに最適な日だといえども、とりわけ映画を見る気にはなれないだろう。恋人からの提案ならなおさらだ。しかし、まぁ、彼女だって馬鹿じゃない。むしろ、馬鹿やったり言ったりするのは僕の家事だ。当然僕の気持ちも分かっているはず。…だからなおさら質が悪い。映画なんて夜でもいいのに、今から見にいきたいなんて。きっと何かあるのだろう。僕の首を縦に振らせるための作戦なり材料なり、とにかく何かしらが。そうすると、困ったなぁ。こういう場合の僕の勝率は未だ0割だものな。万年ベンチどころの騒ぎではない。でも、まぁ、やってみせようじゃないか。お得意の馬鹿だの阿呆だので上手く煙に巻いて、なぁなぁになってるうちに寝ちゃいました作戦だ。
僕は洗った食器を水切りかごに置き、シャツで手を拭いた。そして、ズンズンとテーブルに歩いていき、まだ朝食中の恋人の向かい側に立ったままで口を開いた。
「あのさ、さっきの話なんだけど。映画の。」こちらのペースに持ち込むために先手をとったのだ。そして、すぐ続ける。「さすがに今からはきついかな、かなり。夕ご飯の後じゃダメなのかい?せめて昼とかにしてくれないと。一緒に行くのは厳しいよ。」
「…」彼女は黙ってうつむいている。髪に覆い隠されて表情はよく見えない。
「その様子だと、どうしても今からがいいってことかな?なるほど、じゃあこうしよう。マミさんは今から実際に映画館へ行って映画を見る。僕は今からベッドに潜って映画の夢を見る。マミさんが帰ってきたら、お互いにどんな映画を見たか照らし合わせよう。もしそれで内容が一致したのなら、僕らは同じ映画を見たってことになる。つまり、姿は見えずとも同じ場所にいて、同じ映画を見ていたってことになるわけだよ。うん、名案だ。これぞ折衷案ってやつだね。それじゃあ――」
言葉が結びへと向かうにつれて僕の体はベッドの方を向きつつあったのだが、彼女が視界から外れる直前、彼女の顔は勢いよく持ちあがった。頭が見えない糸で引っ張られたかのような前兆のない動きで、髪の毛が慣性によってフワリと浮く。僕は驚いて彼女を見たが、さらに驚かされた。泣いていたのだ。彼女の目から出た涙は肌をなめらかになでていく。そして、あごの横まで流れると、震えて落っこちる。机には、すでに数え切れないほどの水滴が広がっていた。僕が気づかないうちに、かなり泣いていたようだ。彼女は嗚咽一つ漏らさずに、未だ絶えず涙があふれる両の目で僕を見つめている。…本当に泣いてるのか?彼女がよく嘘泣きをするせいで、僕は疑ってかかった。しかし、今回はどうも嘘泣きとは思えなかった。嘘泣きにしては涙が多すぎるし、鼻もイチゴみたいに真っ赤になっている。
「分かったよ!ごめん、今すぐ行こう、映画でもなんでも!」
僕は彼女に近寄り、背中をさする。…いつもと変わらない体温だ。
「本当?今、言ったからね。じゃあちょっと待ってて。すぐ準備するから!」
その声は、泣いた後特有の鼻声ではなく、普段通りの彼女の声だった。三度驚かされた僕が何か言うのも待たず、彼女はさっさと顔を洗いにいったのだった。
してやられたなぁ。しょうがないので、僕は彼女の皿を洗ったり服を着替えたりしながら、彼女の準備が終わるのを待った。後で聞くと、涙がいつもより多かったのは、目薬の量を増やしたからで、鼻が赤かったのは、僕が皿を洗っている間にもげるくらい鼻をこすったからだという。ホント、してやられたなぁ。