きみと二人だけの場所 【2104/8/16】
からんころんと音が鳴る。
祭囃子の合いの手みたいだ。
「ひゃぁっ!」
間の抜けた悲鳴が聞こえて来たかと思えば、次いで僕の右腕を誰かが掴んだ。
「びっくりした、香織か」
「ごめんなさいー。思ったより、下駄って歩きにくいんですねえ」
たははと笑いながら、香織は体勢を立て直した。
「無理して履かなくても良かったんじゃないか?」
「えー、そういうこと言っちゃいますー? せっかくの浴衣なんですから、上から下までバシッと決めたいじゃないですかー」
そう言うと香織は、両手を肩の辺りまで上げて、横に開いた。
感想が欲しい、ということだろう。
僕は一つ頷き、端的に述べた。
「可愛い」
「あー、なんかおざなりな感じー」
「そんなことないって。よく似合ってるよ。ただ――」
「ただ?」
「……母さんが昔着てたって事実が、素直な感想の邪魔をしてる」
「あはは、なんだそんなことですかー」
香織は安心したように笑って、僕の腕に抱き着いた。
「いいじゃないですか、そんなのは。私はとっても好きですよ、この着物。それに服の流行には周期があると言いますし、昔の着物も今は逆にトレンディかもしれません」
そういうことじゃなくて……と言いかけて、口をつぐむ。
香織が気に入っているなら、いいか。
僕たちは人込みの中を歩き出した。
「悪いな、ウチの人の相手させちゃって。疲れただろ」
「まさかまさか。いっぱい良くしていただいて、感謝しかありません。着物まで貸していただけましたし」
「こっちはハラハラしたよ。嫌でも断れないだろ、あんなの」
「先輩は心配しーですねえ。私は嫌なら嫌ってハッキリ言う人ですよー」
香織は家族に気に入られた。
明るく人懐っこい性格をしているし、もともと心配はしていなかったのだけど、おどろくほどのスピードで馴染んでしまって、僕の方が面食らったくらいだった。
会話ははずみ、酒は進み、なぜか地元の夏祭りの話にシフトして、あれよあれよという間にお祭りに送り出されたのだった。
祭りの盛り上がりは既に最高潮に達しているようで、そこかしこで声が弾けている。休憩所に座っているじいさんばあさんも、すでに赤ら顔のご機嫌顔だ。
「ちょっと出遅れちゃったな」
「ふぉうふぇふは?」
「……いつの間に買ってきたの」
「ふぁっふぁいまれふへほ」
口いっぱいに焼きそばを頬張った香織は、見れば他にもたこ焼きや串焼きの入ったパックを抱えていた。
「夕飯あんなに食べたのに、よく食べられるね」
「お祭りに来たからには、屋台は制覇しないとダメですからね! ほら、先輩も手伝ってください!」
「いや、僕は――んむっ……」
口に突っ込まれた茶色いフードを咀嚼する。
ベタな味だ。だけど、不思議と気分は高揚する。
「おいしいでしょ?」
「……おいしいけど」
「けど?」
僕は笑って、少し先にある出店を指さした。
「ビールが欲しいな」
「お、いいですねえ。私もちょうど同じことを考えていたところです」
「よく食べるなあ、香織は」
「人のこと言えないと思いますけどねー」
香織は僕の袖をぐいぐいと引っ張りながら進んでいく。
祭りの空気に負けないくらい、エネルギッシュだ。
ビールを買って、出店の物をたらふく食べて、しばらくすると、僕たちはすっかりご機嫌になっていた。
「たのしーですねえ、せんぱーい」
「うん。ほんと、よかったよ」
「よかったって?」
「ちょっと、心配だったんだ。両親と会うの」
「それは、先輩がってことですか?」
「そうだね。上京してからしばらく会ってなかったし。なんか喧嘩別れみたいになっちゃってたから」
「喧嘩、ですか」
「でもさ、よくよく考えてみると、何を喧嘩したかもよく覚えてないんだ。向こうも、何もなかったみたいに出迎えてくれたしさ」
結局、僕は子供だったのだろう。
きっかけも分からない喧嘩を引きずったまま、なんとなく疎遠になって、気まずくなって、距離を置いていた。ただ、それだけの話。
「じゃあこれからは、毎年帰って来られますね」
「……ああ、そうだな」
「大丈夫ですよ、先輩」
香織はほんのりと朱を帯び始めた相貌を、優しくほころばした。
「いいことは、これからたくさんありますから」
ぷぁんと機械的な音が鳴って。
喧騒が少し、静まった。
その合間を縫うように、放送が流れる。
【花火の時間まで、残り十分となりました。
高見展望台でのご観覧を予定している方は、お急ぎくださいませ。
クロノスで表示されるルートには、三つのルートがありますが、そのうち――】
「花火ですって、先輩!」
「ああ、僕たちも移動しようか」
「ですね。人、多そうですけど」
見れば、クロノスを起動させた人たちが、ゆっくりと流れ始めている。
一番よく見える高見展望台まで、クロノスが示すルートは三つ。
さて、どこから行くのが一番楽だろうと考えていた時――僕はふと、あることを思い出した。
「よし、香織。こっちから行こう」
「へ? でもクロノスは――」
「いいから」
僕は自信満々に笑って言う。
「とっておきの場所があるんだよ」
※
僕と香織は、クロノスの案内を無視して進み続けた。
人の流れは一切なく、花火の様子を捉えようとしている映像捕獲型ドローンが、何台か通り過ぎた程度だ。
「気持ちのいい夜ですねえ」
香織はからころと下駄を小気味よく鳴らしながら、のんびりと言った。僕は「そうだね」と笑って返した。
それからしばらく歩くと、地面の質が急に変わった。辺りには、コナラやブナが生えていて、奥には小さな祠が建っている。
時の流れに取り残されたみたいだ。
「着いた」
「ここが、とっておきの場所ですか?」
「そうだよ」
上の方から、微かにざわざわと喧騒が聞こえる。
クロノスの示した展望台は、ここのちょうど、真上にあるのだ。
「なるほどなるほど」
香織はあたりを見渡すと、訳知り顔で頷くと、
「先輩が学生時代、何人もの女の子をここに連れ込んだのは良く分かりました。人気がなくて、薄暗くて、なんていうかこう……恰好の穴場ですね。まさにとっておきです。先輩ったらやーらしー」
「馬鹿言うなよ」
僕は笑った。
「言ったろ。付き合うのは香織が初めてだよ。ここはたまたま偶然、散歩してる時に見つけたんだ」
「ふふ、そうでした」
僕は祠の前にある小さな石段に腰かけて、となりを手で払った。
「座りなよ。疲れただろ」
「いえ、私はここで」
香織はくるっと後ろに回り込んで、両手を僕の肩の上に乗せた。
「いいのか?」
「はい。今日はこういう気分なので」
だったら僕も立とうかと思ったが、両肩に置かれた手のぬくもりが心地よかったので、そのまま腰を落ち着けた。
よくよく考えてみれば、香織は着物姿だ。
母親から借りたものを汚さないようにしているのかもしれない。
僕は勝手に、そう納得した。
「あっ」
後ろで香織が声を漏らした。
同時に、前方から甲高い笛の音がする。
真っ暗な夜空を、明々と燃える火の玉がゆっくりと昇っていく。
やがて。
どんっ。
と内臓を揺らすような破裂音がして、夜空に大きな光の華が咲いた。
「きれい……」
このお祭りの花火は、大体上空200m~300mの高さに打ちあがる。
その直径は、大体150m~300m。
そのため三角比の定理から、打ち上げ場所から大体2~300mほど離れた場所から、仰角60度程度で見上げるのが、最も美しい。
それがこの場所。
この人知れずぽつねんとたたずむ、祠の前なのだけれど。
今はそんな説明は必要ないかと、僕は静かに花火を見つめた。
五号玉、七号玉の花火たちが意気揚々と上がっては、刹那に弾けて消えて行く。
糸を引く閃光、しなだれ堕ちる火花、踊る火の玉、零れ落ちる白炎。
辺りは、昼間のように明々と燃えた。
「すごいです、先輩! 私、こんなに間近で花火を見たの、初めてかもしれません!」
「気に入った?」
「はい!」
香織は子供のようにはしゃいだ。
僕はそんな彼女の体に、背中をそっと預けた。
気づいた香織が、肩に置いていた両手を、前に回した。
少し冷え始めた夏の夜に、心地よい温もりを感じた。
「なあ、香織」
「なんですか?」
「僕たち、結婚したんだよな」
「そうですよー。どうしたんですか、急に」
「んー。まあ、どっちでもいいんだけどさ」
色とりどりの火花を眺めながら、僕は言う。
「いつまで、敬語なのかなって」
「あぅ」
「母さんたちも不思議がってたよ。結婚しても先輩って呼ぶのは、ちょっと変わってるよなって」
「えーっと……そのぉ、ですね……」
香織は珍しく、歯切れ悪く答えた。
「先輩は、私にとってはずっと先輩だったので……長年の習慣を変えるのは、ちょっと怖いと言いますか、やや勇気がいると言いますか……」
「僕は構わないよ。どっちでも」
「いやでもでも! でもですね! 色々ご近所づきあいとかをする中で、『先輩がー』なんて言ったら絶対変に思われますし、それにこれから先、子供が生まれたりしたら――」
そこで香織は言葉を切った。
そして、顎を頭の上に乗せる。
「……まあそんなこんなで……なんというか、変えたいという意志はありますです」
「じゃぁまず、呼び名から変えてみる?」
「呼び名、ですか?」
「そ。敬語を取るのは時間がかかるかもしれないからさ、まずは名前で呼ぶところから始めてみようよ」
「名前……」
「和希だよ」
「し、知ってますよそれくらい!」
僕はけらけらと笑った。
香織がここまで余裕がないのは、ちょっと珍しい。
「じゃ、じゃあ言いますね……」
「うん」
僕は頭をそらして、香織の顔を見た。
その背後で大きな花火が、空を食うように咲いていた。
もうすぐ、フィナーレだ。
「え、えと……カズ君……」
「うん」
「……カズ君」
「うん」
「カズ君」
そして香織は、照れたように笑って。
「カズ君。わたし今、とっても幸せです」