白の18分 【2103/12/31】
【時間とは、運動の先と後に即して運動そのものを計測した数である。
つまり、時間は本来数えられない】
Plotinus 205-207
【申告:記憶の再アップロードが完了しました】
また、この時間がやってきた。
去年と同じだ。なにもかも。
一年間忘れていた佐紀との記憶が、脳内をあっという間に満たしていく。
僕は叫び声をあげながら、部屋の中をのたうち回った。
頭がどうにかなりそうだった。
痛みはないのに、頭をぶん殴られたような衝撃があった。
【使用者のバイタル異常を確認。鎮静剤を使用します】
腕にちくりと痛みが走り、それと同時に胸の動悸が落ち着いていく。
少しだけ冷静になり、だけど依然、滝のように流れ落ちる冷や汗は収まらなかった。
僕は結婚した。
結婚を、した。
自分の口で、香織にプロポーズの言葉を送った。
あの言葉に、偽りはない。
僕は香織を愛している。
この感情に、偽りはない。
けれど。
僕は、佐紀が死んだ直後から、佐紀の記憶を消している。
だから彼女を失った悲しみが、風化しきらないままに、怒涛のように流れ込むのだ。
たった数時間前まで彼女の手を握っていた、そのか細い感触すら思い出せるのに。
幸せで満ち足りた記憶も、僕の中には確かに存在していて。
相反する二つの記憶は、どちらもちぎりたてのバジルのように瑞々しく、生々しく、僕の体の内側を、情け容赦なく引き裂いていく。
「嫌だ……もう、嫌だ……」
頭を抱え、床の上にうずくまった。
罪悪感と自己嫌悪で、気が狂いそうだった。
佐紀を愛する気持ちと、香織を愛する気持ち。
佐紀を失った悲しさと、香織と一つになれた喜び。
僕の頭の中で、すべてがごちゃ混ぜになっていて。
そこに、香織にプロポーズしたことの罪悪感と後悔が、ほんの少しだけでも立ち上ってきてしまって。そんな自分に、吐き気を催すくらいの嫌悪感を抱いて。
「こんなの……治療でもなんでもないじゃないか……」
僕は涙をぼろぼろと流しながら、泣き言を吐く。
【説明:クロノスを用いた記憶復元法はゴート・シンドロームへ対する最も有効な医療措置として結果を残しています。
ゴート・シンドロームが生じた人間は、攻撃性・凶暴性が著しく増大する一方で、記憶復元法を用いた患者においては、その両方の症状が共に有意に減少しているという報告が複数あがっています。
ゴート・シンドロームの原因となる記憶を、仮に毒と例えたならば、致死量の毒を一度に接種すれば死んでしまいますが、何十回にも分けて少しずつ投与すれば死なない。そして、その毒に対して耐性ができる。ごく簡単に説明するならば、そういう原理です。
自暴自棄になってしまう患者も一定数見られますが、自殺保護プログラムにより、患者の安全は保障されています。
ちなみにストレス源となった記憶の質にもよりますが、現在報告されている中では、最短で十二年で治療が完了したという例もあり――】
「そんな話が聞きたいわけじゃねぇんだよっ!」
【それでは、何についてお話ししましょうか】
冷静な声音が癪に障った。
AIに感情なんてないと分かりながらも、何か言ってやらなければ気が済まなかった。
「こんな不安定な人間が、普通の生活を送れるわけないだろ! こんなの香織に隠しておけるはずがない! 僕が毎年死んだ彼女のことを思い出してるなんて知ったら、あいつは傷つくに決まってる! それなのに僕はあいつに結婚を申し込んで、あいつもそれで幸せそうで! だけど無理だ! こんな生活、続けられるわけが――」
【申告:水無瀬香織は、あなたの病気のことを既に知っておられます】
「……は?」
【ゴート・シンドロームを発症した家族、および近しい関係性にある人間には、政府が事前に話をしています。一年と一年の間にある、18分間。「白の18分」における患者の不安定性と、それに対する安全性の保障については、十分なマージンをとって説明を行っています】
「ちょっと待てよ……」
【あなたのケースパターンでは、水無瀬香織の両親はあなたとの結婚に反対し、水無瀬香織と対立しました。最終的には水無瀬香織の判断により、あなたとの結婚が成立したと記録されています。
本日0時前から彼女がコンビニエンスストアに出かけているのも、あなたが一人になれるようにという配慮の元――】
「ちょっと待てって言ってんだろ!」
腕ごとクロノスを床にたたきつける。
傷一つ付かないが、クロノスから発せられる滝のような情報は停止した。
「じゃあ……じゃあなんだよ。あいつは、僕がこんな病気を抱えているって知りながら、それでも、僕と――」
【肯定:あなたは非常によきパートナーに恵まれました】
「だけど……やっぱりダメだ。僕の心が耐えられない。こんな気持ちで、あいつと結婚するなんてできっこない」
【申告:問題ありません】
クロノスは言う。
【あと一分で、記憶の再回収を開始します。そうすれば、あなたは元に戻ります。水無瀬香織を心から愛し、これから暖かい家庭を築かんとする、緒方和希に戻るのです】
「そういう問題じゃ――」
【申告:時間になりました。記憶の再回収を開始します。緒方和希さん、お疲れさまでした】
機械的な声が、情け容赦なく記憶を回収していく。
同時に、胸の内に渦巻いていた混沌とした感情が、嘘のように消えて行く。
忘れてはいけないと手を伸ばし――けれどすぐに、どうして手を伸ばしていたのかすら分からなくなる。
……
…………
「…………あれ?」
気づけば僕は、床の上に横になっていた。
飲み過ぎただろうかと頬をかく。そんなに飲んだ覚えはないのだけれど……。
なんとなしにクロノスを弾くと、時刻は午前零時を少し回ったところだった。
コンビニに行くと言っていた香織は、そろそろ帰って来るだろうか。
「ただいま戻りましたー! うー、寒い寒いー」
「おかえり。悪いな、一人で行かせちゃって」
「なんのなんの、すぐ近くですから。それより除夜の鐘鳴ってますよ、除夜の鐘!」
「おー、せっかくだし、外で聞く?」
「いいですね! 日本酒あっためて、燗で飲みましょうよー」
「おっけー、準備するよ」
「じゃあ私はおつまみ並べよーっと」
決して広くはないキッチンで、二人の肩が何度も触れ合う。
窓の外から、除夜の鐘がくぐもって聞こえる。
「せーんぱい」
「ん、どうした?」
「今年も……ううん。今年からは、もっともっとよろしくお願いしますね」
「うん、こちらこそ」
僕たちは互いに微笑んで、晩酌の準備を進めた。
こうして僕は。
僕だけが知らないままに。
また、すべてを忘れた。