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きみ想う、秋 【2092/9/6 - 2103/9/15】

【時計が刻む時間とは、空間化された時間に他ならない。

 純粋な時間の流れというのは、意識に直接与えられた、持続的なものである】

 Henri-Louis Bergson 1859-1941


「僕が悪かった」


 学校の帰り道、佐紀の背中に向かって謝罪する。

 山の向こうに落ちる夕日が、空を燃やすようだった。


「何が、ですか?」


 佐紀は振り向かず、歩調を緩めることもなく、僕に問う。


「それは……」


 思わず言い淀むと、佐紀は一つため息をついた。

 そして、あきれた表情で振り返る。


「いいですか、カズ君? 謝る時は、きちんと、何について謝りたいのか主語を明確にしてください。じゃないと、何について謝られているのか、私も分かりません」

「そう、だよな……」


 握りしめた両手の拳が、じっとりと汗ばんでいた。

 半袖ではもう耐えられないくらいには、季節が秋に傾いているはずなのに。


「な、夏祭り……一緒に行けなくて、ごめん」

「……用事ができたのではなかったのですか?」

「あれは……嘘なんだ」

「どうして嘘をついたんですか?」

「先輩に、頼まれたから……」


 僕と佐紀は、一緒に夏祭りを回る約束をしていた。

 毎年恒例、というわけではなかったが、中学まではよく一緒に行っていた。

 佐紀の叔父叔母が祭りの管理委員をやっているらしく、夏祭りは佐紀と気兼ねなく遊べる、数少ない行事の一つでもあった。


 その話が、どこからか漏れてしまったらしい。

 夏祭りを目前に控えたある日、先輩が僕に話しかけてきた。

 内容は至極簡単で、自分も佐紀と祭りを回りたいから、遠慮してほしいという話だった。


『緒方ってさ、雨甲斐さんと付き合ってるわけじゃないんだろ?』

『違いますけど……』

『じゃあさ、今年は俺に譲ってくれ!』

『……譲る、ですか』

『この通り! 先輩の顔を立てると思ってさ!』


 その人は、生徒会長もサッカー部の部長も務めている、学内の人気者だった。背も高く、顔も整っていて、話もうまい。

 顔をあげ、先輩の顔を視認した刹那――僕の脳裏によぎったのは、先輩と一緒にいつもの帰り道を歩く、佐紀の楽しそうな笑顔だった。


 それは、とても絵になる光景だった。

 男女間の関係がつり合うというのは、こういうことを言うのだと、まざまざと実感を持って見せつけられた気分だった。


 胸の中に溜まったもやもやとした感情がせり上がり、勝手に言葉を形作った。


『……分かりました。僕は断っておくので。後は……好きにしてください』

『サンキュー、緒方! 恩に着るよ!』


 こうして僕は、佐紀との約束を反故にした。

 夏祭りの日は、自分の部屋から花火を見上げていた。


 最悪の気分だった。

 決してそんなことはあり得ないはずなのに、なぜか、僕が佐紀を売り渡した気持ちになって、そんな感情を抱いた自分に輪をかけるように嫌気がさした。


 夏、夕立の帰り道、「夏祭り、楽しみですね」と言った佐紀の笑顔が、何度も瞼の裏にちらついて。そのたびに僕は、きっと佐紀も楽しんでいるはずだから、学校で人気の先輩が相手なら、僕と一緒にいるより楽しいに違いないからと、自分に言い聞かせた。



 佐紀が夏祭りに行かなかったと知ったのは、それからしばらく経った後のことだった。



「――それで、私に謝りに来た、と」


 一通りの説明を終えた頃には、互いの家は目と鼻の先にあった。

 佐紀はひたりと足を止めて、僕の方に振り返る。


「やっぱり、理由になっていませんね」

「え?」

「今の話が本当なら、別に謝る必要はないじゃないですか。カズ君は私に良かれと思って、先輩のお願いを聞いたのでしょう? 私はただ、カズ君の想いを無下にしただけ。ただ、お互いの意見が合致しなかっただけ。だったら、それでいいじゃないですか。カズ君は――ちっとも悪く、ないじゃないですか」

「ち、違うんだ、そうじゃなくて……」

「そうじゃなくて……なんですか?」


 僕たちの間を乾いた風が吹き抜けて、佐紀のスカートを揺らした。

 佐紀の言う通りだった。


 僕の言っていることは、少しも要領を得ていなくて。

 僕の気持ちの上澄みをすくうばかりで、ちっとも核心に触れていなくて。

 だからこそ僕は、自分が何を言いたいのかが分からなかった。


 どうしてあの時、僕は罪悪感を抱いたのか。

 どうして佐紀に謝らなくてはいけないと思ったのか。

 自分の気持ちが――分からない。


「もう、秋ですね」


 口をつぐんだ僕の前で、佐紀はふと空を見上げた。


「そういえば、和歌で一番読まれているのは、秋の恋についての詩だそうですよ」

「和歌?」

「はい。カズ君は嫌いですか? 和歌」

「僕は……」


 好きでも嫌いでもない。

 それ以前に、どうして突然和歌の話をし出したのか。

 理解できなかった。


「どうして春でも夏でも冬でもなく、秋なんでしょうね。不思議ですよね」

「……」

「もしかしたら――」


 佐紀は言う。


「夏の間にこぼれ落ちた後悔が、秋に溜まっていくからかもしれませんね」

「夏の、後悔……?」

「はい」


 佐紀は何を言いたいのだろうか。

 何を僕に伝えたいのだろうか。

 分からない。分からないけれど。


「ねえ、カズ君」


 何か、背中を押されている気がした。


「本当に私に言いたいことは、なんですか?」


 ここで踏み出さなければいけないのだと思った。

 だから。

 僕は。


「佐紀」

「はい」

「僕は」

「はい」

「僕は」

「はい」

「僕は――」


 何度も言葉をつっかえて、何度も言葉を引っ込めて。

 自分の優柔不断さに嫌気がさして、自分の愚かさにうんざりして。


 だけど、佐紀はずっと待っていてくれたから。

 僕が勇気を出すことを待っていてくれたから。


「僕は、君のことが――」


 自分の気持ちを、正しく伝えられたのだと思う。

 草木が艶やかに枯れ、空気が色気を帯び始めた頃。

 僕たちは少し、大人になった。



 ※



「もうすっかり秋ですねえ」

「だなあ」

「お、見てくださいよ先輩。あそこのカップル、公園のベンチでチューしてますよ。しかも体をあーんなに密着させて。大胆ですねえ」

「……あんまり見てあげるなよ」


 ベランダから身を乗り出して、興味深げにカップルを観察する香織の肩を引っ張って、部屋の中に引き戻す。香織はそのまま後ろに下がり、僕の膝の上に着地した。


「最近多いですよね、あーゆーカップル。秋だからですかね?」

「関係あるのか、それ?」

「だってほらあ、見てくださいよ」


 香織は手をぐっと伸ばして、部屋の片隅に転がっていた雑誌を指の先で手繰り寄せた。

 膝の上からは頑なに動かないところが、いじらしくて可笑しかった。


「ここにも書いてあるじゃないですかー。『秋は恋の季節! カップルが増える五つの理由!』って」


 派手な見出しに、見目麗しい男女が、仲睦まじく映っている写真。

 なんともまあ、ベタな特集だなと、苦笑いがこぼれる。


「こういうのって結局、『デートの場所にはどこそこがおススメ!』みたいな内容につなげるための、ただ導線なんじゃないのか?」 

「そんなことありませんよー。私の友人も、最近になって二、三人彼氏ができましたし」

「へえ、そうなのか」

「まあ同じ時期に四、五人破局してましたけど」

「だめじゃん」


 二人してけたけたと笑って、そういえば、と僕は思い出す。


「ああ、だけど。和歌の中では秋の恋についての詩が一番多いって言うし。もしかしたら、あながち間違いでもないのかもしれないな」

「……ぷっ。くくく……」

「なんだよ、何笑ってるんだよ」

「あはは、ごめんなさい。先輩の口から、和歌なんて言葉が出てくるのがおかしくって、つい」

「失礼な……。和歌くらい、高校の頃に習うだろ」

「それはそうなんですけどねー」


 そう言うと香織は僕の膝の上で、ゆらゆらと左右に揺れた。

 どこか含みのある声音が、少し気になった。

 背中越しなので、表情は見えなかったけれど……。考えすぎだろうか。

 しばらくすると、「ああ、そうだ」と、香織が思い出したように口を開く。


「年末の帰省の話ですけど」

「うん。今年は一緒に行くよ。約束したし」

「いえ。もう、来なくても大丈夫です」

「……え?」


 手足の先が、一瞬で冷たくなった。

 さっき香織が口にした破局した四、五人の友人の話が脳裏を過る。


「……どういう、こと?」

「言葉通りの意味ですよ」


 そして香織は。

 もぞもぞと僕の膝の上で向きを変えて。


「だって」


 そして。

 がばっと僕に抱き着いた。


「私も今年からは実家に帰りませんから」

「……」

「どうしたんですか先輩? 嬉しくないんですか? 今年は二人で年を越せるんですよ? もっと喜んでくれても良くないですか?」

「あのさぁ……」

「はい?」


 体中の力が一気に抜けて、へなへなと情けなく香織の体に寄り掛かった。


「びっくりさせんなよぉ……」


 僕はそのまま、香織の肩に顔を埋めた。

 少しまとまりのないくせ毛が、肌をくすぐる。


「せ、先輩?」

「別れ話かと思っただろ……」

「……おお、なるほど。そういう捉え方もあるんですね」

「むしろそれが普通の解釈だと思うけど」

「ふふ、馬鹿ですねえ先輩は」


 香織はゆっくりと、僕の頭を撫でた。


「私が先輩をフるわけないじゃないですか。むしろ、その逆です」

「逆?」

「はい。私は、先輩と別れないために、実家に帰らないんです」

「……どういうこと?」

「実はですね」


 そして香織はゆっくりと話し始めた。

 僕を紹介したいと両親に言ったこと。

 なぜか両親が良い顔をしなかったこと。

 地元の良い人を紹介するから、僕とは別れた方が良いと、遠回しに、しかしはっきりと言われたこと。


「それで私、頭に来ちゃって。だったらもう家には帰らない! って、言ってやりました」

「……いいのか?」


 僕がそこまで両親に倦厭される理由は分からない。

 一度も会ったことはないし、煙たがられるような経歴でもないと思う。


 だけど今はそれ以上に、香織のことが気になった。

 仲の良い家族だったはずだ。

 そのご両親と喧嘩別れのような形になってしまうのは、彼女にとっても本位ではないに違いない。


「いいんです」


 だけど香織は、はっきりと言い切った。


「私は両親のことが大好きです。私を育ててくれたこと、自分のことを好きでいられる私に育ててくれたこと、すごく、すっごく感謝しています。だからこそ、そんな私が選んだ人が、間違いであるはずないんです。今は分かってもらえなくても、きっといつか、分かってもらえると思うんです。だから今は――これでいいんです」


 いつもはふわふわと能天気で、どこかあか抜けない香織が。

 今はとてもしっかりとした、一人の女性に見えた。


「ねえ、先輩」


 香織のライトブラウンの瞳が、僕を見据える。


「もう、このまま言っちゃいますね」

「な、何を?」

「もー、先輩ってば鈍いですねえ」


 困ったように眉尻を落とし、香織は笑った。

 まるで、ここまで来たら話すことは一つしかないだろうと言わんばかりの表情だった。


 そして、何かを決意したような。

 何かを決心したような。

 そんな大人びた顔をして。


「あのですね、先輩。もし先輩さえご迷惑でなければ、私と――」

「ちょ、ちょっと、ちょっと待った!!」


 慌てて口を挟む。

 僕の予想が間違っていなければ、きっと香織は――


「な、なんで止めるんですか! わたしは今まさに、一世一代の重大な告白を――」

「だから止めたんだよ!」

「なんで!」

「なんでって、それは……」


 僕は視線を落として、言う。


「……そういうのは、僕の口から言いたいんだ」

「……え?」

「……香織」


 僕は、優柔不断な人間だ。

 大事な時に足踏みし、大きな決断を前にしり込みする。

 小心者で気弱な、とても弱い人間だ。


 だけど。

 こういう時くらいは勇気を出さなくちゃいけないと。

 大切な気持ちは口に出さなくてはならないと。

 僕はちゃんと知っていたから。


「香織」

「はい……」

「今はすごく頼りないかもしれないけど、いつかきっと、君が胸を張ってご両親に紹介できる立派な人間になる。必ず君を幸せにする。後悔もさせない」

「はい」

「だから」

「はい」

「だから、僕と――」



 そして。

 僕たちは結婚した。



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