夕立と雨宿りの夏 【2092/8/4 - 2103/8/8】
【熱いストーブの上に1分間手を置いてみると、1時間にも感じられる。
かわいい女の子と1時間座っていると、1分ぐらいに感じる。
それが時間の相対性である】
Albert Einstein 1879-1955
激しく打ち付けられた雨粒が、火照ったアスファルトを冷やしていく。
夏の夕立は気分屋だ。
ほんの数分前まであきれるくらいの快晴だったはずなのに、今はもう視界が煙るほどに雨糸が引いている。
「最悪、びっちょびちょだ」
「まさかこのタイミングで降ってくるとは思いませんでしたね。はい、カズ君。タオル」
「ん、サンキュ。佐紀はいつも準備がいいな」
「備えあれば憂いなし、ですから。カズ君も見習ってください」
「ふうん。だったら傘も持ってきてくれれば良かったのに」
「あー。そういうこと言う人には、もうタオル貸してあげません」
「うそうそ、ごめん。ちょっと言ってみただけだって」
慌てて謝ると、佐紀はくすぐったそうに笑って「冗談ですよ」と言った。
濡れた髪の一房が頬にかかり、小さな顔の輪郭を浮かび上がらせている。
不意に、鼓動の音が高まりそうな気配を感じて、僕はあまり佐紀を直視しないことにした。
「まだしばらく止みそうにありませんね」
「だなぁ。こんなことなら学校残って、夏祭りの準備でも手伝ってた方が良かったかもな」
忘れて欲しくなさそうに立っている、もう使われていないバスの停留所。
ところどころに穴の開いた木の屋根が、僕たちを守ってくれていた。
斜めに降り込んでくる雨を少しでも避けようと、二人とも壁にぴったりと背を預ける。
「いいじゃないですか、たまにはこういうのも。夏って感じがして」
「佐紀って、そんな風流なこと言うキャラだっけ」
「ふふ、知らないんですか? 学校では大和撫子って言われてるんですよ」
「……知ってるよ」
「知っていましたか」
「うん」
「それはそれで……なんだか照れますね」
佐紀は人気がある。
小さい頃からまとっていた薄くて、儚げで、どこか消えてしまいそうな危うさに、ガラス細工のように繊細な笑顔が加わったからだろう。
佐紀と出会ってから、十年。
彼女はよく笑うようになった。それと比例するように、性格も明るくなり、注目を浴びるようになった。
当の本人はあまりその変化を口にはしないけれど……自覚はしてるんだろうな。
「どうしました? たった今、苦虫を嚙み潰したばっかり、みたいな顔をしていますよ」
「そりゃ、帰り道に夕立にあったら、苦々しい顔にもなるだろ」
最近、必要のない嘘をつくことが多くなった。
原因に思い当たる節はあるし、薄々気付いてはいるけれど。
僕はまだ、その気持ちを直視できない。
「カズ君は夕立が嫌いなんですね」
「好きなやつなんて、いないだろ」
「いますよ。ここに」
「へぇ」
それは初耳だった。
「変わってるな」
「そう思いますか?」
口の端をわずかに上げて、目をすっと細める。
いつの間にか、こんな笑い方が様になるようになった。
「だってそうだろ。服は濡れるし、足止め食らうし、寒いし、散々だ」
「なるほどなるほど。一理ありますね。それでは――」
佐紀は一拍置いて続けた。
「問題です。どうして私は、夕立が好きなのでしょうか」
「突然どうしたんだよ」
「いいじゃないですか。雨宿り中の暇つぶしということで」
「うーん……」
僕は少し考えて、答えた。
「……風流だから?」
「なくはありませんが、一番の理由ではありませんね」
「雨の匂いが好きだから?」
「んー、お日様の香りの方が好みです」
「涼しくなるから?」
「じめっとするのは、あまり好きではありません」
「……降参だよ」
両手を軽く挙げて、ぷらぷらと振った。
僕の貧困な想像力では、到底考え付きそうもない。
「もうギブアップですか」
「しょうがないだろ、分からないんだから」
「仕方がありませんね。では、答えを教えて差し上げましょう」
自分から問題を振ったくせに、と思ったけれど。
なんだか佐紀が楽しそうだったので、口を挟むのはやめておいた。
そして。
「カズ君」
「うん」
「最近あまり、私と話してくれませんよね」
とうとつな話題に、面食らった。
「は、はあ? なんだよ、いきなり……」
「中学まではあんなに仲良くしてくれたのに、高校に入ってから急によそよそしくなりましたよね」
「別によそよそしくなんか……」
僕は言葉を濁した。
佐紀は人気がある。
特に高校に入ってからは、それが顕著だ。
噂では、僕たちの高校の生徒だけではなく、他の高校の生徒からも告白されたりしているらしい。
日に日に魅力を増していく佐紀は、僕の目から見てもまぶしいくらいに可憐で、美しくて。
どう接していいか、時々分からなくなる。
それを認めるのが、なぜかとても悔しいような、恥ずかしいような。
心の内にかかったフィルターが、素直な言葉をすべて吸い取ってしまっているようで。
「帰るときは、一緒だろ。今日だって……ほら」
僕と佐紀の家は、同じ方向にある。
なんの部活にも入っていない僕たちは、特に約束を交わさなくても、示し合わせたように同じ帰路に着く。
「その通りです。学校ではほとんど話してくれなくなったカズ君も、二人っきりでなら話してくれます」
「そりゃぁ、黙ったままっていうのも、気まずいしさ」
「けれど、帰り道は十五分しかありません。どれだけゆっくり歩いても、二十分もあればついてしまいます」
「寄り道はできないだろ。お前んとこのおばちゃん、厳しいし」
相も変わらず、佐紀の叔父と叔母は厳しかった。
学校帰りの寄り道なんてもってのほかで、休日に友人と遊びに行くこともままならない。
ほとんど嫌がらせとしか思えない仕打ちだった。他人の家庭の事情なので、深く詮索はしていないけれど。
「ええ。少しでも遅くなったら、大目玉を食らってしまいますね」
「だったら――」
「だからこそ、です」
佐紀はそっと、右手を雨の中にかざした。
陶磁器のように白い肌の上を、雨粒が幾重もの水跡を残して滑り落ちていく。
「突然の雨。傘もなく。余儀なくされる雨宿り。これなら、帰るのがちょっと遅くなっても文句を言われません。至極まっとうなで、正当な理由ですから」
「それはそうかもしれないけど……」
だからどうしたって言うんだ。
佐紀が言ったことと、佐紀が夕立を好きなこと。
その二つが上手く結び合わさらなくて、僕は困惑する。
そんな僕を見て佐紀は、
「にぶいですねえ、カズ君は」
「わ、悪かったな、鈍くて……」
「私はいいと思いますよ。カズ君らしくて」
そう、笑って言った。
「ここ、いいですよね」
「……ただの廃れたバス停だろ」
「雨に仕切られてて、時計もなくて。時間がゆっくり流れてるようでもあり、だけど早くも流れてるようでもあり……。ぎゅっと濃縮された時間が、特別な一瞬を与えてくれているような気がして」
「……」
佐紀の言っていることは、良く分からなかった。
だけど、佐紀の声が良く聞こえたので。
雨音が消えていることに、僕は気付いた。
夏の日差しが、雲の切れ間から遠くの山を照らしている。
もうすぐここも、暑くなるだろう。
「ねえ、カズ君」
「なんだよ」
佐紀はゆっくりと壁から背中を離した。
何故だか少し、名残惜しそうに見えた。
けれどそう感じたのはほんの一瞬のことで、次に振り向いた佐紀の笑顔は晴れやかだった。
「今度の夏祭り、楽しみですね」
※
「そういえば、先輩と初めて話をしたのもこんな雨の日でしたねー」
会社からの帰り道。
とつぜん降り始めた夕立に、僕と香織は足止めを食らっていた。
ビルの陰で雨宿りを決め込んだ僕たちは、ぽつぽつと他愛ない思い出話に興じる。
「そうだっけ?」
「あ、ひどーい。覚えてないんだー」
ぷくっと頬を膨らませ、香織は不満を主張した。
「私が転属した最初の週に、すっごいゲリラ豪雨が来て。慌てて私は雨宿りをしたんですけど――」
「ああ、そういえばあったな。そんなこと」
当時はまだ、僕も香織も、二人で話したことはほとんどなくて。
お互い濡れネズミになりながら、苦笑いをかみ殺して短い会話を交わした覚えがある。
『急な雨って困りますよねー。降水確率10%くらいだったのにー』
『そうだね。傘、持ってきたらよかった』
『髪の毛はまとまらないし、べたべたするし、頭は重いし、もう最悪です』
『この後、誰かに会う用事でもあるの?』
『わ、正解です! どうして分かったんですか?』
『会社終わりなのに、身だしなみに気を使ってたから』
『な、なるほど。先輩ってば、探偵みたいですね』
たしか、こんな会話だったような気がする。
本当に他愛のない、日常の記憶の中に埋もれてしまいそうなほどに、ありふれた会話。
「で、その後先輩、タオルをくれたんですよ」
「タオル?」
「はい。まだ一回も使ってないから良かったら、って。自分も雨でびちゃびちゃなのに、なんて優しい人なんだろうって思いました」
「そう、だったっけ」
「もー、覚えててくださいよー。私にとっては、すっごく大事な出来事だったんですからね」
そういえば僕は、雨が降りそうな日にだけ、タオルを持ち歩くようにしている。
そんなに几帳面な方ではないし、準備が良い人間でもない。
降水確率が10%くらいの微妙な日に、傘ではなく、タオルを持ち歩くようになったのは、いったいいつの日からだっただろうか。
「私、雨って嫌いだったんです。髪の毛はまとまらないし、べたべたするし――」
「頭も重いし?」
「その通りです」
香織は少し嬉しそうに頷いて、続けた。
「だけどあの日、先輩に出会えたから。ちょっとだけ、雨の日が好きになったんです」
「どうして?」
「そんなの決まってるじゃないですか」
そして香織は、とびっきりの笑顔で言った。
「こうして雨が降るたびに、先輩と出会った日のことを思い出せるんですから」