白いタンポポの春 【2082/3/24 - 2103/3/20】
【かつて未来であったものが今現在であり、やがて過去になるだろう】
John McTaggart, 1866-1925
まだ、僕が小学生だった頃。
その子を初めて見た時、僕が抱いた感想は「薄い」だった。
色素が薄く、存在感が薄く、そして、体が薄い。
公園の隅。新緑生い茂る中、小さくうずくまっていた彼女は、ともすれば背景に溶け込んで、そのまま消えてしまいそうだった。
「ここで何してるの?」
僕が問うと、
「……隠れてるんです」
と彼女は言った。
「かくれんぼ?」
「いえ……家の人からです」
随分と丁寧な言葉遣いの子だと思った。
少なくとも、同年代の友達が使っている粗野で適当な言葉とは、まったく毛色が違っていた。
「どうして、家の人から隠れてるの?」
「……」
答えはなかった。言いたくない事情でもあるだろう。
僕は質問を変えた。
「隠れてる間、何してたの?」
「花を、見ていました」
「花? どの花?」
「これです」
少女が指したのは、真っ白なタンポポだった。
「タンポポ、珍しい?」
「白いのは初めて見ました」
「えー、うっそだあ!」
僕は思わず声をあげた。
「白いタンポポなんて、そこら中に生えてるよ」
「そうなんですか?」
「うん。クジラ公園にもいっぱい生えてるし、長辺川の近くにも、わんさか」
「わんさか……」
少女は人形のように大きな目をぱちくりと瞬かせた。
「タンポポって、黄色いものだと思っていました」
「ふーん、変なの。じゃあ一緒に見に行く?」
「え?」
「タンポポ。白いのいっぱいあるよ」
僕が誘うと、少女はうかがうように言った。
「……いいんですか?」
「うん。どうせ暇だし」
「……それなら」
おねがいします。
消えてしまいそうなくらい、か細い声だった。
「ん、じゃあ行こっか。ところで……」
僕はふと思い出して、振り返る。
日陰から出た少女に温かな日差しが当たっていた。
無地の白いワンピースからむき出しになった、か細い肩。
薄い体は、春先の穏やかな風にすら煽られてしまいそうに思えた。
「名前、なんて言うんだっけ?」
「私、ですか?」
「他に誰がいるのさ」
僕は笑って、
「僕は和希。緒方和希。君は?」
「私、は……」
少女は言った。おずおずと。
「雨甲斐、佐紀……です」
これが、僕と雨甲斐佐紀との、最初の出会いだった。
※
「わぁ、白いタンポポだ!」
公園を散歩していると、香織がひょいと腰をかがめた。
三月。
責めるような寒さがなりを潜め、ほのかに春の陽気を感じ始めた。
土の中で眠っていた草木も、顔をのぞかせ始めたらしい。
「珍しいですねー。タンポポって言えば黄色なのに」
「まあ、こっちの方ではあんまり見ないかもな」
「こっちの方ってどういうことですか?」
僕も香織の隣にしゃがんで、白い花弁を撫でた。
中心部分が黄色くて、外側にいくにつれて白味が増していく。
目玉焼きみたいだな、なんて思った。
「僕も昔は知らなかったんだけど、シロバナタンポポって、西の地方じゃ珍しくないんだよ」
「西というと、先輩のご実家の方ですよね」
「そうそう。家の周りには、白いタンポポがたくさん咲いててさ。タンポポと言えば黄色い花だと思ってた、なんて言われた時は驚いたよ」
「へえ、なんだかおもしろい話ですね。先輩がそういう知識を持ってるのって、意外です」
「どういう意味だよ」
「だって先輩、花とか草とか、あんまり興味ないと思ってたので。花より団子っていうか」
「まあ、否定はしないけどさ」
そういえば、僕はどこでこの話を知ったのだろう。
香織の言う通り、自発的に調べるとは到底思えない。
こっちに越してきた後に誰かと話したのか、それとも――
「……っていうか、花より団子なのはお前も同じだろ。美術館と屋台村、どっち行きたいって聞いたら、迷わず屋台村選んだくせに」
「えへへ、バレましたか」
悪びれもせず、にかっと笑って、香織は僕の腕に抱きついた。
「そこはほら、似た者同士、仲良しさんということで」
「いいようにまとめたな」
「収まりどころが良いとも言います」
小気味よい会話を続けながら、僕たちは再び歩き始めた。
シロバナタンポポのことをどこで知ったのか。誰に聞いたのか。
そんな疑問は。
そんな疑問が湧いたことさえ。
すぐに忘れた。
※
「わぁっ……!」
川辺につくと、佐紀は感嘆の声をあげた。
「すごい、ほんとにわんさかあります!」
「どう? これで信じてくれた?」
「はい!」
ふわりと屈んで、佐紀は白いタンポポを見つめた。
そして、
「こうやって日向で見ると、なんだか目玉焼きみたいですね!」
元気そう言って。
だけどすぐに「あっ」と口をふさいだ。
「す、すみません……つい、はしゃいでしまいました……」
「いいじゃん、別に。なんであやまるの?」
「その……はしたないので」
「はしたない?」
「えっと……行儀が悪い、ということです」
「はしゃぐのは行儀が悪いの?」
「そう、らしいです……」
「ふうん」
後から知った話だが、彼女の両親は事故で亡くなっていて、親戚の家に預けられていた。
叔父叔母の教育はとても厳しく、大人しい佐紀は文句を言うこともできず、ただじっと耐えることしかできなかったらしい。
当時の僕は、そんなことは知らなかった。
ただ、ようやく感情らしい感情を見せてくれた彼女が、また押し黙ってしまったのが気に食わなかった。
たぶん、そんな取るに足らない理由だったと思う。
「ふっ」
「きゃっ……!」
タンポポの綿毛を吹きかけた。
「ふっ、ふっ、ふーっ!」
「ちょ、ちょっと何するんですか!」
「へへ、悔しかったらやり返してみろよ」
「や、やり返すって……」
「ほら、迷ってる暇なんてないぜー!」
僕はタンポポの綿毛を、これでもかというくらい佐紀にかけた。
最初のうちは両手で顔を覆っていた佐紀だったが、やがて耐えかねたのか、
「……え、えいっ!」
そっと綿毛をすくって、僕に向かって投げつけた。
綿毛は僕には届かずに、ふわふわと宙を舞う。
「ざんねん、僕の勝ちー」
「これ勝負だったんですか……?」
「うん、今決めた」
「そ、そんなのズルいです!」
「くやしいんだ」
「別にそんなことは……」
「じゃぁさ」
僕はどさっとその場に寝そべって、空を見上げた。
とてもとても、いい天気だった。
「明日も一緒にやろうよ」
「……え?」
「明日も、明後日も、その次の日も。一緒に遊ぼうよ」
これもたぶん、大した理由はなかった。
僕は僕で遊び相手を探していて、たまたま近くに、ちょうどいい相手がいただけで。
いや……もしかしたら僕は、消えてしまいそうなくらい儚げな彼女に、無意識に惹かれていたのかもしれない。
記憶はあまり、定かではない。
けれど。
「はい、お願いします」
嬉しそうな彼女の言葉は、よく覚えている。
そしてその後、
「私……一生忘れません」
「何を?」
「この白いタンポポに包まれた景色のこと。今日のこと。一生忘れません」
「大げさだなあ」
「そんなことないですよ。だって――」
「今日は本当に本当に、素敵なことがあったんですから」
彼女がこぼれそうな笑みでそう言ったことも。
よく、覚えて――