白の18分(下)【2104/12/31】
『でもその前に、まずはお説教ですね』
映像の中の佐紀は、一つ、大きく息を吸い込んで。
『こらー! 何してるんですかー!』
浴槽の壁が揺れるくらいに大きな声を出した。
彼女の涼やかな声は、壁や天井に当たっては跳ね返り、跳ね返っては当たり弾んで、僕の鼓膜を幾度となく揺らした。
『今、自殺しようとしてましたね? そんなの、絶対にダメですからね。私に生きる意味を与えてくれたあなたが、自分から命を絶つだなんて、そんな悲劇を、私は認めません』
「どう、して……」
『どうして分かるのかって? 愚問ですよカズ君。そんな質問、愚問が過ぎると言うものです。だって――』
佐紀は、まるで僕の答えが分かっていたかのように。
まるで、返事をしてくれているかのように、言う。
『このデータは、カズ君が自殺しようとした時に流れるよう、カズ君のクロノスにこっそり送信する予定なんですから』
「僕が……?」
『では、なぜそんなことをしたのか。これも答えは簡単です。
そもそもおかしいとは思いませんでしたか? 最初の挨拶が、「こんばんは」だなんて。まるで先輩の行動が分かっているみたいじゃないですか』
佐紀は、生き生きとしていた。
その姿は、既にかなりやせ細っていて。
抗いようのない死の足音を、ひたりひたりと感じさせるのだけれど。
だけど、生き生きとしていた。
『ここまで言えば、もう答えは分かりますよね? 先輩が自分から命を絶とうとする。そんな愚かな行為に走るのは、きっと正常な精神状態にない時でしょう。何かしらの理由で、まともな思考ができない状態にある時でしょう。例えばそう――』
『ゴート・シンドロームを発症している時とか』
「……っ!?」
どうして……その単語を佐紀が知っている?
ゴート・シンドロームは、秘匿にされているはずだ。
罹患した患者と、その親族、一部の人間だけが知る、歴史の闇に埋もれた病のはずだ。
なのに――
『どうして私が知っているのか。カズ君が次に気になるのは、きっとそこでしょう。罹患した患者と、その親族。その他、ごくごく一部の人間だけしか知ることのない、隠蔽された病。そんなトップシークレットを私が知っている、その理由』
僕は、心臓が一つ脈打つのを感じた。
『ふふ、賢いカズ君なら、もう分かったんじゃないですか? そうです。可能性は一つしかありませんよね』
『私は、ゴート・シンドロームに罹患しました』
『ところで――つい先日、私の余命が宣告されました。
もって、あと三か月だそうです。
先日導入された、最新医療AIに言われました。私の病気を治す方法は、あと三年ほどで確立される見込みだと。そんな事実……知りたくなかったです』
佐紀は、眉を八の字に下げて、困ったように笑った。
口調はまるで軽いのに、その内容はあまりにも深刻で、残酷だった。
『それからしばらくして、私はゴート・シンドロームを発症しました。理由はもう、明白ですよね』
ゴート・シンドローム。別名、超ストレス性行動障害。
その原因は、強いストレスに起因すると推測されている。
佐紀の場合……それが、自分の余命宣告だったのだろう。
『今度は、これまでとは違うお医者様が来ました。
お医者様だけでなく、政府の関係者だという方まで現れて、私が新たに発症した奇病について、つまびらかに教えてくださいました。原因と、病状と、そして――その対処法を』
はっとした。
ゴート・シンドロームに最も有効な治療法は、ストレスの原因となった記憶の消去だ。
だとすれば。
『私は最初、自分の余命に関する記憶を抜き取られるものだとばかり思っていました。けれど、実際には違ったんです。私がゴート・シンドロームを発症した直接の原因は、それではなかったんです』
だと、すれば。
『そうです。一番の原因はカズ君、あなただったんです。自分の余命が少ないことよりも、あなたにもう会えなくなることが、私にとっては何よりも辛かったんです。ふふ、愛を感じませんか?』
佐紀は少しおどけて言って。
そして続けた。
『私は、薄々自分の体が弱っていることを自覚していました。このままいけば、例え余命宣告された記憶がなくなったとしても、自分の命がもう長くないことに気付くでしょう。そうなれば堂々巡り。結局はゴート・シンドロームを発症してしまいます。だから』
映像の中で、佐紀の両手がぎゅっと布団のシーツを握りしめた。
『カズ君に関する記憶の一切合切を消すよう、命じられました』
「……そんな」
僕が彼女の記憶を消されたように。
彼女は僕の記憶を消されていたというのか。
死の間際、彼女は僕のことをすべて忘れて、なかったことにして。
そうやってひっそりと息を引き取たとでも言うのか。
そんな、ことは。
『許されませんよね。有り得ませんよね。非人道的にも程がありますよね』
そうだ、許されない。許されてはいけない。
だけど、僕にはもうどうすることもできない。
だって彼女は、もう――
『なので私は、めちゃくちゃ暴れました』
「……え?」
僕は再び視線をあげた。
佐紀が、映像の奥でにやっと笑っていた。
『私、往生際が悪いんです。頑固なんです。性格がひん曲がってるんです。
世界の秘密なんて知ったこっちゃありません。誰が傷つこうが構いやしません。
私から、大切な大切な、人生の中で最も愛した人の記憶を奪おうとするのなら、断固抵抗する構えを見せました。ええ、それはもう、病人とは思えない大立ち回りでしたとも』
「はは……」
『そしたらですね、なんとびっくりしたことに、おじさんとおばさんも加勢してくれたんです。もうすっかり年を取って丸くなってきたかと思ったんですが、役人さん相手に切った啖呵は中々の物でしたよ。役人さん涙目になっちゃって、私ちょっぴり同情しちゃいました』
「ははは……」
やっぱり、佐紀は強い。
僕はただ、頷いただけだった。
役人の言うままに手続きを踏んで、記憶の処置を行った。
つらい現実から、目を背けたかったんだ。
結局、何もかもを先延ばしにしていただけなのに。
『交渉の結果、私に記憶消去の措置は取られないことになりました。 余命が三か月だったことが決め手だったみたいですね。ゴート・シンドロームの症状が顕著に出始める前に、他の病で死んじゃうわけですから、まあいいか、ということらしいです。
たぶん、二か月後には面会謝絶になっちゃうかもしれませんが……カズ君のことを忘れることに比べたら、何億倍もマシってものです』
佐紀はそこで言葉を切って、サイドテーブルに置かれた水に口をつけた。
まだ話したりないことがある。
そんな風に、見えた。
『さて、前置きが長くなりました。ここからがようやく本番です。私の危機は脱しましたが、同時に、私の中にはある懸念が生じました』
「ああ……そういうことか」
『はい。確率は極々低いでしょう。ただストレスを受けただけで発症するなら、もっと多くの人が罹患しているはずですから。
だけど……心配なんです。不安なんです。そしてこういう予感は、残念なことによく当たるんですよね、私。だから――』
『私が死んだあと、カズ君がゴート・シンドロームにかかった場合に備えて、メッセージを残すことにしました』
僕は。
その場から動けなかった。
ただ、食い入るように、佐紀の顔を見つめ続けた。
『ねえ、カズ君。人って、忘れてしまう生き物なんですよ。
誰もが、昔の思い出を、感情を、少しずつ失っていく。
そして新しい経験と気持ちを背負って、そうやって人生を代謝させて、ずっとずっと、生きていくんです。忘れることは、決して悪いことではないんですよ』
ああ、そうだ。彼女の言う通りだ。
人は忘れ、記憶し、そのサイクルを繰り返す生き物だ。
そうやって記憶の脱皮を繰り返して、少しずつ成長していく生き物だ。
だけど、これは違うじゃないか。
僕は自然に忘れたんじゃない。
半ば強引に記憶を引きちぎって、その記憶を、毎年十数分だけ思い出す。
風化しない記憶に苛まれるんだ。
相反する感情が、僕を体の内側から引きちぎろうとするんだよ。
こんなの、どう考えたっておかしいじゃないか。
もう終わりにしたいと思っても、しょうがないじゃないか。
『そうですね』
佐紀は、まるで見透かしたように言って、
『だけど私は、素敵なことだとも思うんです』
「……え?」
『私、考えたんです。カズ君は素敵な人です。 優柔不断でちょっと頼りないところもありますが、優しくて穏やかで、器用に生きていこうとする人ほど、惹きつけられるような魅力のある男性だと思います。
だから……私以外にもカズ君を好きになる人は、絶対に現れます。というか、現れて欲しいです。じゃないと、私の趣味が悪いみたいですし』
佐紀は続ける。
『で、ですよ。可愛い子がアタックしてくれば、カズ君はまんざらでもないはずです。私のことさえ忘れていれば、すぐに付き合って、そのまま長く付き合い続けて、やがて結婚することだって、あるはずなんです』
「でも、それは――」
『ヒトは、忘れる生き物なんです』
被せるように、佐紀は言った。
『五年かかるか、十年かかるか。どれくらいの年月が必要かは分かりません。
だけどいつかきっと、私という人間は風化して、紅茶に入れた角砂糖みたいに緩く崩れて溶けて行って、カズ君を構成する一部分となって、ちょっとしたエッセンスになって、だけどいろんなことを、忘れていくんです。
それはちょっぴり寂しいですけど……だけど、自然なことだと思うんです』
もし、僕がゴート・シンドロームを発症していなければ。
僕が佐紀の記憶を失っていなかったとしても。
いずれ、そう遠くない未来に、僕は佐紀のことを忘れていた。
忘れなかったとしても、きっとゆっくりと霞んでいた。
彼女はそう言った。
僕は、何も言えなかった。
そして、佐紀は言う。
結論にむけて、話を進める。
『でもね、カズ君。そうはならなかったんです。これを聞いているカズ君は、ゴート・シンドロームに罹患して、そして毎年毎年、フレッシュな私との記憶を思い出しているんです。
ゴート・シンドロームが完治するまで何年かかるか、詳しいことは私には分かりません。だけど、少なくとも向こう数十年は、私のことを毎年毎年、思い出してくれるわけじゃないですか。
それって、なんというか……私としては、結構嬉しかったりするんです』
佐紀はにへらっと、珍しくしまりのない笑顔を見せて。
二本の指を立てた。
『いいですか、よく聞いてください。私は今から、あなたに二つのお願いをします。今から死にゆく、そして過去に死んだ私の、最後のお願いです。絶対に守ってください。いいですね? ちなみに拒否権はありません』
ほっそりとした中指が折りたたまれる。
『まず、一つ目。幸せになってください。私に負い目なんて感じず、めいっぱい幸せになってください。私が好きだった人が、私のせいで幸せになれなかったなんて、私は許せません。
そうです。これは私のエゴです。身勝手で傲慢な、私のわがままです。カズ君は、そんな私に振り回されればいいんです。振り回されて振り回されて、いっぱいいっぱい幸せになればいいんです。ざまーみろです』
「なんだよ、それ……」
視界が歪む。
僕は、きっと今から助けてもらう。
もういない彼女に。
もういなくなった彼女に。
きっと今から救われる。
そう分かっていて。
そう分かっているから。
頬を濡らす涙を止められなかった。
『そして、二つ目』
佐紀が、人差し指を折りたたむ。
『とはいえ、きっとカズ君のことです。自分が幸せになればなるほど、私のことを思い出すたびに泣き叫ぶでしょう。時には死にたくなることもあるかもしれません。
『違うんだ』『ごめん』とうわ言のように繰り返すに違いありません。いくら私が謝らないでと言ったところで、無駄なのは分かり切っています。そこで、です』
佐紀は折りたたんだ人差し指をもう一度立てた。
今度は、僕に向けて。
『毎年、謝ってください。私に対して、謝ってください。誠心誠意、心を込めて。
そしたら、私はあなたを許します。毎年毎年、同じ言葉であなたを許します。
それでチャラ、貸し借りなしです。ね、それでいいでしょう?』
そう言って佐紀は、小首をかしげて笑った。
僕の悩みなんて、そんな程度のことなんだよと。
謝って許して、それで済んでしまう話なんだよと。
肩をぽんと叩かれた気分だった。
『そうだ、ちょっとここで練習してみましょうか。謝り方は、知っていますよね?』
「……うん、覚えてる」
僕は、思い出す。
高校生の秋。
まだ、佐紀と付き合っていなかったとき。
そして、佐紀と付き合うことになった時。
彼女に言われた、あの言葉を。
【いいですか、カズ君? 謝る時は、きちんと、何について謝りたいのか主語を明確にしてください。じゃないと、何について謝られているのか、私も分かりません】
「佐紀」
『はい。なんですか?』
「ごめん」
『もっとちゃぁんと、言ってください』
「うん」
僕は涙を拭いて、彼女をみた。
もうこの世にはいない、だけど、記憶の中で瑞々しく弾ける彼女を見た。
そして。
僕は。
「365日の間、君を忘れてごめん」