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白の18分(上) 【2104/12/31】

【我々が存在する意味は、時間の中にある】

 Martin Heidegger 1889-1976


「ぁああああああああああああああああああああああああっ!!!」


 また、この時間がやってきた。

 一年間忘れていた彼女との記憶が、脳内をあっという間に満たしていく。


「違うんだ……! 違うんだよ佐紀……! 僕は、僕は……ッ!」


 一年と一年の間の空白の時間。

 白の18分。


 僕が佐紀との記憶を取り戻す間、香織はやはり席を外していて。

 一人、誰もいない部屋の中で、割れそうな程に痛む頭をひたと抱えた。


 クロノスは僕のバイタルの異常を検知して、腕に巻き付いたデバイスから鎮静剤を投与する。

 何か僕に向かって話しかけている、警告している。


 だけど、そんなことはこの際どうでもよかった。

 僕はもう、耐えられなかった。


 佐紀との日常を忘れ、香織と付き合った。

 佐紀との愛情を忘れ、香織と結婚した。

 まだ、耐えられた。

 まだ耐えられたんだ。

 だけど、僕はついに、侵してはいけない領域に踏み入った。


 夏祭り。

 花火の日。

 祠の近くにぽっかりと空いた、人気のない場所。


 あの場所だけは。

 あの場所だけは、侵してはいけなかった。


 佐紀と共にまた来ようと言った。

 二人しか知らない、二人だけの場所に、また来ようと誓った。


 その口で。

 その足で。

 僕は香織を連れて行った。

 佐紀が死んだその後で、佐紀のことを忘れ、佐紀と約束した場所に、香織を連れて行ったんだ。


 許せなかった。

 自分が許せなかった。

 すべてを忘れ、のうのうと幸せになろうとしている自分のことが。

 香織を連れて行ったことを、侵されたと表現してしまう自分のことが。

 あんなに楽しかったのに、あんなに幸せに満ちていたのに、少しでもそれを後悔している自分のことが。罪悪感を抱いている自分のことが。

 吐き気がするほど憎かった。


「……終わりにしよう」


 正常な思考は、既に働いていなかった。

 ただ、この苦しみから解放されたかった。

 感情の乖離に耐えられなかった。


 二人の女性への感謝と懺悔と恋慕と悲哀が、僕を縦横無人に引っ張って。

 フェルトでできた人形みたいにあらぬ方向に伸びきって。

 そして僕の体は繊維の一つ一つが断たれるように、丁寧に丁寧にちぎれていって。

 そうして真っ白な綿をあたりにまき散らしながら、みっともなく埃に変わる。


 這うように部屋を移動し、浴室の扉を乗り越えた。

 浴槽の中には、香織が沸かしてくれていた温かなお湯が、白い湯気を立てながら満ちていた。


 クロノスには自殺防止プログラムが組み込まれている。

 自分を傷つけようとすれば、即座に麻酔薬が打ち込まれ、僕はたちまち意識をなくす。

 また、すべてを忘れる。


 だけど――溺死ならば。

 もしかしたら、僕は死ねるかもしれない。

 何もかも、終わりにすることができるかもしれない。


 そんな一縷の望みをかけて。

 短絡的で退廃的な、灰色に輝く望みを持って。

 僕は浴槽の中に顔を――



『カズ君、ストーップ!』



 雷が走ったみたいだった。

 僕の体はびくりと大きく痙攣して、そのままぴくりとも動かなくなった。


『止まりましたか? ちゃんと言う通りにしてますか? もし私の声が聞こえているなら、ゆっくり顔をあげて、クロノスの方を見てください』


 聞き間違えるはずがなかった。

 僕の中にはまだ、彼女の記憶が瑞々しく残っていて。


 彼女の顔も、においも、髪の手触りも、手を握り返してくる弱々しい反応も。

 そして――あまりにも美しい声音さえ。


 鮮明に、覚えているのだから。


「佐、紀……」


 クロノスが浴室内に映像を投影する。

 僕が何も命令していないのに、なんの操作も加えていのに。


『こんばんは、カズ君。雨甲斐佐紀です』


 その映像を、投影していた。


『少しだけ、私の話を聞いて欲しいんです』



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