きみと二人だけの場所 【2095/8/16 - 】
「すみません、私のせいで……」
「いいんだよ、気にしなくて」
花火を見に行こうとした。
高見展望台から見える花火の景色はとても有名で、祭りに来た多くの人たちが当然のように足を向ける。
僕たちもその例に漏れず、人の流れに乗ろうとしたのだが――
「思ったよりも、体力落ちちゃってたみたいです」
「仕方ないって。ずっと寝たきりだったんだから」
高見展望台は、今の佐紀には少し遠すぎた。
人が多いのも良くなかったのだろう。
展望台にたどり着く前に、佐紀の体力は限界を迎え。
僕たちはこうして、人気のない石段の前に腰かけているのだった。
「飲み物、買ってこようか?」
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ、ハンカチ濡らしてきたりとか――」
「カズ君」
佐紀は、僕の肩に頭を乗せた。
「今離れたら、怒ります」
「……わ、分かった」
「嘘です。怒りません。その代わり泣きます」
「そっちの方が怖いんだけど」
「ふふ、冗談ですよ」
と佐紀は口元に手を当てて上品に笑った。
ユリの花びらが、はらりと落ちるような笑い声だった。
「それにしても……こんなところに祠があったんですね」
「うん、僕も知らなかった」
祠というのは確か、神様を祭るための小堂だったはずだ。
こんな人気のない場所に、ひっそりと、忘れ去られてしまったようにぽつねんと建っているのは、なんだか少し、物寂しく見えた。
「せっかくですから、お参りしておきましょう」
「そうだな」
「んーっと……カズ君にちゃんと友達ができますように」
「おい」
「えへへ」
佐紀はペロッと舌を出して、おどけた。
そんなくだらないことを願うなら、自分の病気のことをお願いすればいいのに。
そう、思ったけれど。口には出さなかった。
代わりに、心の中で願う。
佐紀の病気が、早く治りますように……。
「ところでカズ君」
「ん、どうした」
「周りには誰もいませんね」
「そうだな。みんな展望台の方に行ってるだろうし」
「私たち、二人っきりですね」
「そうだな」
「何もしないんですか?」
むせた。
狼狽した。
むちゃくちゃにせき込んで、両目に涙を流しながら、僕は言う。
「お前、ばか……変なこと言うなよな……」
「結構本気なんですけど」
「なおさらタチが悪いわ」
熱でもあるんじゃないかと思って、佐紀の小さな額に右手を添える。
佐紀はその手を取って、そのまま引き寄せた。
互いの鼻が、微かに触れ合う。
細く、けれどしっかりと柔らかな佐紀の体が、密着する。
しっとりと、艶やかに光る瞳が、僕を捉えて離さない。
「こんな機会……もうないかもしれませんよ?」
「……おい」
「明日からはまた家から出られない毎日です。そしてもうすぐ私は、家を出て入院します。そうなれば、もう――」
「おい、お前。いい加減に――」
その刹那。
背後で笛のような甲高い音が長く響いて。
そしてあたりを明るく染め上げた。
破裂音と共に、振り返る。
花火が上がっていた。
そしてそれは、今まで見たどんな花火よりも美しかった。
「仰角60度……」
「え?」
「ピタゴラスの定理ですよ」
佐紀はつぶやくように言う。
「花火は大体、200~300mの高さに打ちあがると言われています。直径は約150m。ですので、打ち上げ地点から大体2~300mの地点から仰角60度で見上げるのが、一番花火を美しくみられるポイントなんです」
「それが……ここだったってことか」
「はい。上の展望台では、角度が浅すぎてここまでダイナミックに見ることはできないでしょう。この誰も知らない、周りから隔離されたような空間が、たまたま偶然、絶好の干渉スポットだったということなんです」
「それは――」
「奇跡です」
佐紀は。
らしくもなく、そんな言葉を口にした。
運命とか、奇跡とか、天命とか、占いとか。
そういう、非科学的で、非論理的な現象を、言葉を、佐紀はあまり好んで使わないのだけれど。
この時に限って、佐紀は、琥珀色の美しい瞳を輝かせ、まるでうわ言のように、奇跡という言葉を口にしたのだ。
「私、きっともう、花火は見られないと思っていたんです。今日見ることができなければ、もうカズ君と一緒には見られないんだろうなって、思ってたんです」
「そんなこと言うな」
まるで、今日が最後みたいに。
これから先、ここに戻ってくることはないみたいに。
そんな言い方をした彼女を。
彼女の運命に諦観している彼女を。
僕は許せなかった。
「約束だ、佐紀。病気が治ったら、必ずまたここに来よう。二人しか知らない、二人だけのこの場所に、一緒に来よう。それで――」
佐紀の瞳の中では、色彩豊かに火花が散って。
僕の顔がそこに映って。
その湖面が、ゆるやかに揺れる。
「花火を見るんだ。僕ら二人で」
ひときわ大きな音が鳴って。
十号玉の大きな花火が、僕らの頭上で両手を広げた。
辺り一面を強烈な光が照らし出し、展望台の方から上がった歓声はひらひらと僕らの周りに舞い落ちた。
少しの間、僕たちは呼吸を共にして。
視線と思いを、撚糸のように絡めて。
そして佐紀は。
「……カズ君」
「うん」
「カズ君……」
「うん」
「カズ君……!」
僕を抱きしめて、言った。
「私、今、とっても幸せです」
※
その年から、佐紀は入院した。
僕が大学を卒業しても、就職先が決まっても、彼女を取り巻く環境は変わらなかった。
それなのに、彼女の存在は年々儚さを増していって。
僕は彼女の病室を訪れるたびに、必死に笑顔を作るようになっていって。
僕が社会人一年目を過ぎ、二年目に入ろうとした時。
彼女に余命が宣告されて。
そしてその二か月後、面会謝絶が言い渡され。
さらにその一か月後。
彼女は息を引き取った。




