白の18分(上)【2102/12/31】
365.25日。それが一年の正確な長さです。
この余分の0.25日を何とかしようと、古代ローマ人はユリウス暦を作り、ローマ法王グレゴリウス十三世はグレゴリオ暦を作りました。
俗にいう、うるう年の誕生です。
それから約500年。
グレゴリオ暦は長きにわたり、私たちの日常を支えてきました。
状況が一変したのは、36年前のこと。
地球の近くを通過した巨大隕石「GOAT」が地軸を約0.000215度傾けたことで、一年の周期がわずかに変化。グレゴリオ暦の調整を余儀なくされます。
また、同年、2月29日生まれの人々が起こした反乱、俗にいう「誕生日革命」では、うるう年の廃止が切に叫ばれました。
これらの時代情勢を受け、NASA及びIERSを中心として発足された国際地球時刻管理機構・IETMOは、世界時間を設定しました。
その根幹を成すのが、同時期に開発された、健康管理AIを元に作成された、時間管理AI。
通称――「クロノス」です。
……
…………
【そして現在。カレンダー上での一年が365日に固定されて、20年近くが過ぎました。
クロノスの普及率は全世界で92%を超え、地球上のほぼすべての人間が装着している計算となりました。クロノスは、余分の0.25日を一年内に振り分け、世界時間の適宜修正を行います。
中でも特に重要とされているのが「白の十八分」の存在で――】
「正直さあ。一年が365日でも、366日でも、どっちでもいいよな」
博物館の中に流れる音声ガイドを聞きながら、僕はつぶやいた。
隣で香織が同意する。
「ですねえ。そんなことより、今年の祝日はどこになるのかなーとか、年末年始の連休はつながるのかなーとか。そっちの方が気になります」
「まさにその通り」
僕は笑って、腕に巻いたクロノスをタップした。
空中にカレンダーがホログラム投影され、今日の日付を示す。
十二月三十一日、木曜日。
残念ながら年末年始の連休は、長期休暇にならなかった。
年末の業務は多忙で、僕と香織、二人揃って有給を取ることは難しい。
ゆえに。
「今日みたいに、デート先が駅近の博物館になっちまったしな」
「ほんとですよー。わたし、温泉行きたかったのになー」
「まあ、そう言うなって。意外と空いてていいじゃないか」
「それはそうですけどー」
一年最後の休みの日。
僕と香織は都内で一番大きな博物館に足を運んでいた。
僕としては、家でまったりとくつろいでも良いと思ったのだけど「いやです! わたしはデートがしたいんです! 先輩とお出かけしたいんです!」という強固な意志に押し押され、こうして足を運んだわけだった。
「来年は絶対行きましょうね、温泉。ほら、見てくださいよー私の画像フォルダ。映像捕獲ドローンからダウンロードした温泉の画像でいっぱい」
「はいはい。早めに予定決めて、有給組もうな」
なんやかんやと不満を垂れてはいるけれど、多分、香織はご機嫌だった。
お気に入りの服に身を包み、雑誌に載っていたレストランでランチも堪能した。人が少ないからと腕を絡め、しなだれかかってきている様子からも、それは伝わってくる。
もう付き合い始めて二年になる。これくらいのことは分かって当然だ。
と、その時。
【申告:予約電車発車の時刻まで、残り四十二分となりました】
香織のクロノスが、控えめなアラートを鳴らした。
「えー、もうそんな時間? まだ余裕あるでしょー?」
香織のぼやきを質問と受け取ったらしい。
クロノスは空中にマップを投影して、ルートと所要予測時間を算出し始めた。
【ひとひら時間博物館から最寄り駅まで、香織様の足で徒歩十二分。
途中、信号が三件。一つ当たりの待ち時間が平均一分二十三秒。
ご実家へのお土産を買う時間が、およそ十四分。
現在時間のキャッシャーの込み具合から推測される会計に要する時間、およそ二分。
売店からホームへの歩行予測時間、およそ三分。
その他ランダムな要素を加味し、ホームへの予測到着時刻は列車発車の五分前となります】
非の打ちどころのない完璧なシミュレーション結果がはじき出されて、僕は苦笑した。
「だってさ」
「うぅ……」
香織が恨めしそうな目でクロノスを見たので、僕は自分の胸に埋もれた小さな頭をそっと撫でた。
「まあほら、年始には会えるから」
「去年もこうだったじゃないですかあ……。なんでお母さん、急に帰ってこいなんて言うんだろ……」
香織の両腕が、僕の右腕をがっしとつかむ。
そして不服気に唇を尖らせて、
「こうなったら、このまま先輩も実家に連れてきます」
「無茶言うなよ」
「75%本気です」
「真実味のある数字だなあ……」
実家に来て欲しいと言われたのは、これが初めてではない。去年あたりから、定期的に香織の口から飛び出している。
僕自身、そろそろ頃合いだろうとは思う。
同じ会社で働き、二年付き合い、二人とも将来的にはそれなりのポジションにつくだろう。
三年前、大企業から転職してきた僕のことを「天下り」「エリート崩れ」と揶揄する声は多かったが……今ではそんな声も露と消えた。
上司のお覚えもめでたく、周囲からは早く結婚しろと急かされているくらいだ。
問題はない。
順風満帆と言ってもいい。
だけど……だけど何故か、最後の一歩を踏み切れずにいた。
理由は分からない。
何か良く分からない灰色の靄のようなものが、僕をその場に引きとどめているのだ。
「……」
いや、と内心で首を振る。
元来僕は優柔不断な性格だ。きっと結婚という人生の節目に対する不安とか、懸念とか、そういういろんなものがごちゃ混ぜになって、足を踏み出せずにいるだけだ。
こんなことじゃ、ダメだよな。
僕は彼女の耳元に口を寄せた。
「来年は、一緒に行くから」
「……本当ですか?」
「うん」
頷くと、香織はくすぐったそうな表情でこちらを見た。
黒目がちな大きな目に、僕の顔が映っている。
周りには誰もいない。
館内アナウンスも、音声ガイドの音も。
僕たちを包んでいる透明な膜のようなものの、その向こう側から聞こえてくるようだった。
そして僕たちは――
【申告:登録された『周囲に見つからずキスできる場所』として、現地点が最適です】
香織のクロノスの無機質なアラートに、僕たちは動きを止めた。
改めて視線を戻すと、両頬を真っ赤にした彼女が長いまつ毛に瞳を隠していた。
「……香織?」
「…………てた」
「これって……」
「シークレットサーチの音声アナウンス設定切るの忘れてたぁー!!」
その後、僕は顔の火照りが取れない香織の手を引っ張り、彼女を定刻の電車に乗せるため、ひとひら時間博物館を後にした。
……
…………
博物館で見聞きしたクロノスの話は興味深いものが多かった。
だけど……どこか現実味がなくて、ふわふわしていて、ぴんと来なかったのも事実だった。
結局僕たちにとってクロノスは、便利な機能がたくさんついた、仰々しい時計なのだ。
ひと昔前に流通していたスマートフォンの延長線にある、ただのツールで代替品。
世界時間の調整だとか、うるう時間の挿入だとか、そういう専門的なことと、僕たちは無縁なのだ。
テクノロジーの恩恵にあずかりはしても、その裏側まで知ることはない。
その必要もない。
そう、思っていた。