消炎
大学のレポートの一環で書きました。初めて最後まで書いた作品です。
一応、一通り講義を受けた素人はこんな感じの作品や文体を書いていると、参考程度にしてください。
目を開くと見慣れたいつもの天井が見える。朧げな記憶だが、1年前に天井の穴を数え上げたことがあった。最近はそんな気を起こそうとも思わない。
眠る前に昔読んだ小説の続きが気になった。前回どこまで読んだかあまり覚えていないが、支店の融資課長である銀行員が粉飾による濡れ衣を着せられた話だ。その粉飾が作為的であることが判明したところまでは覚えている。あの融資課長の名前すら覚えていない。作者は愚かタイトルすら忘れてしまった。私が昔から忘れっぽいのではなく自然とそうなってきたように感じる。
背中が痒くてしょうがない。最後に風呂に入ったのはいつだったか。昨日は体を拭いただけだ。ほとんど寝ぼけていたので、さっぱりした感覚は一切なかった。
そういえば実家にいる飼い犬が今どうしているのかが気になる。座敷犬だったので、よく私の布団で一緒に寝ていた。私によく懐いてくれたものだ。私が帰ってくれば玄関まで駆けつけて出迎えてくれる。私はその子を抱き上げて顔を近づけると舌を出して口の周りを舐めてくれた。その子は舐め疲れると、私の腕がら降りようと必死の抵抗を見せるので、優しく床に置いてあげると壊れた玩具のように居間まで駆けていく。その姿によく笑わしてもらった。
今はテレビとベットが置いてある12畳くらいの個室に一人暮らしのようなものをしている。電話でもかけてみようかとも思ったが、この部屋には電話なんてものは置いていない。外で電話を探す気力もない。
寝る前にいつも聴いているラジオ、今日は地方局の看板番組が流れている。陽気なDJと可愛らしいゲストの女性声優の声が眠気を誘う。
眠い、とにかく眠い。瞼から力が抜けてきたので、今日はもう眠ることにした。
「ヒロちゃん、おかえり」
母親の声だ。おそらく夢を見ているのだろう。私の母親は亡くなってから随分と年月が経っている。
「そんなに汚して、風呂釜沸かしてあるからご飯の前に入っちゃいなさいよ」
確かこの日、友達と喧嘩をして泣きながら帰ってきたのを覚えている。
「ヒロちゃん、明日には仲直りできるわよ」
「知らねーよ、あんな奴」
親友だと思っていた、だから関係が崩れて疎遠になることが怖かった。でも強がった。他人に縋るのが嫌だったからだ。
「なによ、その態度。せっかく仲直りの秘訣を教えてあげようと思ったのに」
「いらねーよ、そんなの」
私のいたいけな自尊心が拒んだ。その時の母親はずっと困った顔をしていたのが印象深かった。それほどまでに子供を心配する親心は今になったらよくわかる。
「高橋くん、よく頑張ったね。100点よ!」
「すっげぇ、お前100点なんか取ったことねーのに、カンニングしただろ」
「んなことするかよ、バカ」
人生で後にも先にも100点を取ったのは小学校5年生の頃だけだった。次のテストで100点を取れば、うなぎをご馳走してくれると親父が言ったからだ。
私は初めてうなぎの匂いを嗅いだ時、死ぬまでに絶対1度は食べることを目標にしていた。
ずっと憧れていたうなぎ、食すチャンスなんてこれっきりだと思っていたから余計に頑張れた。
大人になってから、付き合いで何度も口にして、いい加減うんざりとしていたが、当時小学生だった私は未知の体験に、期待で胸を膨らませていた。
「ヒロ、美味いか?」
「なんか、思ったより生臭ぇ。親父はこんなのうめぇと思って食ってたのかよ」
「まだ、お前には早かったか。この”さんしょう”ってやつをかけて食うんだ」
初めて口にしたうなぎは生臭くてとても完食出来る代物ではないと思った。親父が私に山椒を勧めて、渋々振りかけた。さっきまでとは打って変わって箸が止まらず、無我夢中で食べた。それを見て笑顔で鰻重を頬張る親父。
私と交わした初めての対等な契約を完璧に履行しようと無理をしていた。
親父が笑う顔を見るのはこの日が最後だった。
「ヒロちゃん、そんなんじゃお父さんが可哀想よ。ちょっと貸して、死水はこうやるのよ」
寝たきり状態の親父の口周りを濡れた布で拭いていた。早朝に起こされて少し不機嫌だった私は母親に反発して適当に濡布を当てがっていた。
「あなたの父親なのよ?最期くらい優しくしてあげようよ」
母親は病室で親父の顔を見るまで、私に死んだことを告げてくれなかった。
なんだか親父の顔色が白くなっていく。
見たこともない、従兄弟と名乗るおじさん達が病室の前に集まっていた。
その後、病院に併設されている会議室で久しぶりに親族と対面した。よく、年始にお年玉をくれた善二叔父さんと恵子おばさんが、どこの葬儀屋を呼ぶかについて神妙な顔つきで話をしていた。当時の私は難しい話が理解できなかったので、診察室の待合室で一人座って待っていた。
「高橋さん家のヒロシくん?お父さん残念だったね」
中年のベテラン看護師が私の姿を見てそう言った。
「うん。死んじゃったんだね」
看護師が私の隣に座って、背中を優しくさすってくれた。私は父の事で生まれて初めて泣いたのだ。
「あなた、お疲れ様でした。ヒロシの事は任せてください」
葬儀は家族葬で閑散としており、母親の遠慮がちに啜り泣く音が聞こえる。親父が死んでから母親は初めて涙を流していた。
普段白い和服にエプロンをしている母親が今日は真っ黒な喪服を身に纏う姿を見て、もう、取り返しがつかないのだろうと直感した。
明らかに違和感のある豪華絢爛な袴を着た坊主はひたすらお経を唱える。それに遺影の周りに飾られている、親父には似つかわしくない沢山の花。普段見慣れないそれらの光景に現実感を狂わされた。
「それでは、これが雄二さんとの最後になります。皆さん思い思いの言葉をかけてあげてください」
葬儀屋はそう言って、遺影の周りに飾られていた花の束を手渡してきた。
大人達は泣きながら、親父の顔を触って優しい言葉をかけていた。
私は何もかける言葉が見つからず、そっと親父の胸に花束を置いて、頬に触れた。
冷蔵庫から取り出したばかりの生の鶏胸肉を彷彿させる冷たさ。自分もいつかはこうなる、そう思うと不安にならずにはいられなかった。
「じゃあ、ヒロシ、お母さん仕事に出かけるから、夕飯はこれで好きなものを買ってね」
中学生の頃から私は一人で過ごす夜が続いた。母親は水商売を初めて、夜な夜な出かけていった。当然この生活に満足しない私は周囲に迷惑をかけながら過ごした。他人と関わりたいという気持ちを不器用な形で表に出していた。
下級生から小銭を巻き上げ、酒を掻っ払う。授業に出席せずに校舎裏でタバコを蒸す。そんな生活を毎日毎日繰り返していた。
ある日、母親の仕事を馬鹿にした国語教師の横腹を蹴り飛ばした。うずくまる教師を見ても罪悪感など微塵も湧かなかった。騒ぎを聞きつけた体育教師に取り押さえられ、そのまま職員室に連行される。
「どういうつもりだ、教師に暴力を振るうなんて」
職員室で男性教師達に囲まれ、詰め寄られた。
「何も答えないなら、お前の母親を呼び出して、説教させてやる」
「おい!勝手なことすんなよ!母さんは関係ないだろ」
母親という言葉を聞いた瞬間、今まで頑なに黙り込んでいた私は怒声を上げながら、鬼の様な形相で襲いかかった。受話器を拾い上げた中年太りの数学教師は一瞬たじろいだ。
「おい、これ以上騒ぎを起こすな」
他の男性教師達に押さえつけられ身動きが取れず、数学教師が電話をしている姿を黙って見過ごした。
「この度はうちのバカ息子が飛んだご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございませんでした」
私の頭を鷲掴みにして無理矢理頭を下げさせた。
謝る納得のいく理由が思いつかなかった。最初に仕掛けたのは向こうなのになぜ謝らなければならないのか。
「まあね、お母さん、他の生徒からの証言では最初に仕掛けたのは田島先生とのことなので、今回は警察不介入で穏便に済ませたいと学校としは考えを固めているん訳ですよ」
「はい。ありがとうございます。本当に申し訳ございませんでした」
「親の躾によって、息子さんの人格というものはいくらでも変わるんですよ。今回は田島先生も反省するところはあると思いますが、暴力で解決できると考えるようになってしまった、高橋くんのお母さんの責任でもありますからね」
「はい、今後はしっかりと息子に目をかけようと思います」
今思い出してもあの時の出来事は悔しい。母親を馬鹿にされて怒るなんて血の通った真っ当な人間の行動ではないか。中学生の少年が大人と言い合って勝てるはずがないんだ。
当時の私は大人と心を通わせる手段として暴力という過ちを選択してしまったことは今となっては十分に反省している。
「今日はいいものを見せてもらった。今までで最高の試合だった」
試合が終わって、自陣ベンチの挨拶を済ませた後、普段滅多に褒めない監督が立ち上がって拍手を送った。この日が高校生活最後の部活動だった。
私は高校に入学して持ち前の運動能力を活かそうと、サッカー部に入ったのだ。入部して直ぐ、未経験の私は経験者との歴然な差に打ちひしがれた。それでも諦めずに毎日他の部員が帰った後も、一人残って日が沈むのも関係なしに、校庭で球を蹴っていた。
いつしか、初心者である私を疎ましく思っていた部員達が自主練習に付き添い、次第に打ち解けていった。
初めて公式戦に出場した時は後半のロスタイム。時間にして約3分。今までの練習の成果を発揮しようと私は躍起になっていた。周りの状況が見えず、要求する味方の声にもくれず、奪った球を一人で相手自陣のゴールに目掛けて蹴り込んでいた。相手をかわしてボールを持ち運ぶ技量が未熟だった私の精一杯の抵抗だった。
味方からの指示や監督の怒声が耳に入らないほど、無我夢中で球を蹴り込む。
結局試合には勝てたが、自分勝手な行動を取り続けた私はサッカーという連携スポーツの前で自分自身に負けたのだ。人一倍練習を詰んだと自負していた私は己の無力感に男泣きをした。もう少し仲間を頼って自分のできる事、できない事、それらをチームで分業することの大切さ。この日を境に自分の力だけでは人間は生きてはいけないことをサッカーを通じて理解した。
「お前達はこの部活でサッカー以外の事も沢山学んだだろう。この先長い人生、3年間の経験はきっとかけがえの財産となるはずだ。それからいつまでも仲間の大切さ忘をれずにいろよ」
先生が私達の監督としての最後の言葉は、初めての公式戦で私が実感した事を表現してくれた。辺りを見回すと、レギュラー陣は皆、監督の言葉に心を打たれたのか涙を流していた。試合に出なかった部員達も神妙な顔つきで話を聞く。それぞれこの部活に対して思い思いの気持ちがあるはずだ。
やっと辛い練習から解放されると、この時ばかりは脳裏を過ぎる事もなかった。
「どうだ? 初めて契約を勝ち取った気分は?」
社用車の助手席で上司は運転している私に向かって尋ねた。
「これでやっと会社の穀潰しと言われないと思うと一安心ですよ」
「誰もそんな事言ってないだろ」
「でも、まさか契約にまで漕ぎ着けるとは夢にも思いませんでしたよ」
高校を卒業して就職したのは、地元の整備工場に部品を卸す会社だった。研修が終わってすぐに営業部への配属が決まった。就職活動の際、事務仕事を希望していたが、人手が足らないと言われ、この部署へと回されたのだ。初めの頃は希望通りの部署に入れなかったことが気に入らず、腹いせとして報告書を適当に誤魔化す有様だった。
見かねた課長は、私に担当する得意先を回したり、身の回りの雑用をやらせた。新規開拓の際も私を連れて、課長の仕事ぶりを間近に見せる事で営業のノウハウを徹底的に叩き込んでくれた。
私は次第に仕事に対する責任感が生まれ、遂には自分が主体になって開拓をやらせてもらうように課長に頼むまでになった。
そして課長の付き添いの下、遂に初めて契約を勝ち取ることができた。
「やればどんなことでも出来るようになる。お前の悪い癖は自分に不都合が降りかかったら途端にやる気が出なくなることだ。お前に色々と仕事を振ったのは、あのままじゃこの先やっていけないと思ったからなんだよ。折角苦労して入った会社に、やりがいを感じないとつまらないだろ?」
本当に事務がやりたいと思って仕事を選んでいたわけではない。楽そうだからという理由だけで選んでいた。
どんな環境下でもやりがいを見つければ次第に楽しさも見出せる。私はそれを課長からのメッセージとして胸に刻み込んだ。今でも大切にしている教訓だ。
「今日はもう夜も遅いですし、終電も無くなりそうなので、うちに泊まっていきませんか?」
「でも、女の私が立ち入るのは高橋さんは迷惑じゃないですか」
「心配いらないですよ。客が来た時用の布団だって買い揃えてるんですから。それに清水さんなら
大歓迎ですよ」
この日、初めて女性を自分の家に招いた。会社の後輩に誘われて参加した合コンで意気投合し、店を抜け出して二人きりで飲んだ。時間が経つのを忘れるほど、夢中で色々な話をした。
酔った勢いではなく、彼女と過ごしたい一心で思い切って自宅へ招待した。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
下心なんてなかったが、ことの成り行きで私は清水さんを抱いた。肌と肌が接触する心地よさ。彼女の体温、心音を間近で感じ取る。そして、何度も何度も唇を重ね、私は次第に彼女を求めるようになった。
初めての行為は少しぎこちなかったが、彼女は満足してくれたようだ。
「ねぇ、今日だけの付き合いじゃなくて、これからも会いに来ていい?」
行為が終わって、二人は布団に横たえ、彼女は私に身体を密着させて囁くように言った。
「うん、いいよ。毎晩仕事が終わったら迎えに行くよ」
その後、疲れ果てた二人は愛を確かめるように抱き合って眠った。
「高橋! お前のお袋さんが心筋梗塞で倒れて緊急搬送されたそうだ。今日の仕事は切り上げて今すぐ病院に向かえ!」
内線を受けていた課長が血相を変えて私に言った。突然のことなので課長の言葉を理解するのに数秒の遅れが生まれた。課長が冗談を言う人じゃない事は分かっている。それでも認めたくなかった。
「冗談きついですよ。悪ふざけにしては笑えないですよ」
恐らくこの場に居合わせた社員達は私の素っ頓狂な発言に唖然としていただろう。
「バカ! こんな冗談言うわけないだろ。高橋、今すぐに来い、俺が車を出してやる。小柳さん、後は任せますよ」
課長が私の腕を掴んで無理やり外に連れ出し、私を車の後部座席に押し込んだ。
「お前の母親は倒れて直ぐに病院に運ばれたそうだから、きっと大丈夫だ」
課長の慰めの言葉が耳を通り抜ける。私は上の空だった。
「残念ながら、過度のストレスと疲労、それに加齢が引き起こす動脈硬化が原因で、急性心筋梗塞によって亡くなられました」
考えても見れば、予兆はあった。実家に戻る度に頻繁に胸を押さえて苦しんでいる姿を見ていた。
何でもっと早く病院に連れていかなかったのか。事が起きてから、対策に講じても遅い。そんな自分の詰めの甘さに腹が立った。
父親が死んだその日から、母親の死に目には立ち合おうと決めていたが、その願いも叶わなかった。
病室で眠っている母親。面布を外すと、心なしか悔しそうな表情を浮かべている。まだ、やり残した事が沢山合ったに違いない。その表情を見て目頭が熱くなり、母親の頬に雫が伝い落ちる。私はまだほんのり人間の暖かさを感じることのできる母親の顔を両手で優しく包み込んだ。
「母さん、お疲れ様」
「本日、私たちは皆さまの立会の元で、挙式を行なうことができますことを感謝いたします。
楽しいことも、辛いことも、ふたりで分かち合い 幸せにあふれる家庭を築くことをここに宣言します」
私と裕子は向かい合う。裕子の右手を優しく持ち上げて薬指に指輪を通す。今度は私が右手を差し出す。裕子の細くしなやかな手が私の右手をそっと持ち上げ、ゆっくりと指輪を通してくれた。そのまま私は少し屈んで、裕子の顔を包んでいる半透明なベールを捲る。今この瞬間、私の目が世界一美しいものを写していると自信を持って言える。少しだけ見惚れ、唇を近づける。重なり合った瞬間、幸福が全身を駆け巡り、私と裕子はお互いを一生をかけて幸せにする義務が課された。
無神論者の私はこの時ばかり、天国にいる両親に届いていて欲しいと強く思った。
「ほんぎゃぁああああ!」
「やりましたね! 元気な男の子ですよ」
「やったじゃないか! よく頑張ったよ裕子!」
裕子の手を握って子供のようにはしゃぐ。私は裕子のお産の頑張りを見て勇気を貰った。そして、自分の息子との初めての邂逅は、何にも形容し難い気持ちだ。
「名前は決まっているの?」
「ああ、真っ直ぐ直向きに努力を惜しまず、自分の決めた信念を最後まで貫いて欲しいと言う俺の願いを込めて」
「”直道”だ」
「素敵な名前ね! そうかぁ直道かぁ。直道、直道...」
彼女のお腹に子供を宿した時から今日までずっと考え続けた名前を気に入って貰えた。裕子は腕の中で眠っている息子の顔を見つめながら、優しく何度も名前を呼んでいた。
その姿に少しだけ母親の面影を重ねてしまう。
「パ 、パパ、......」
「なおちゃんったら、今あなたのことを呼んでいたわよ」
「本当だ! パパって言ってるみたいだ」
息子が初めて意味のある言葉を口にしたのは、ママじゃなくてパパだってことに優越感を得た。正直、直道が意思を持って「パ」を連続して口に出したのかは判断に苦しんだ。それでも、無意味な喃語ばかりを口にしていた直道と初めて心を向き合わせられたのだと感じた。
「直道が小学生にでも上がったら、どうせ、俺の呼び方なんて”親父”になっているんだろうな」
冗談めいて裕子には言ったが、本心はそうなって欲しいと思っていた。私の息子だ、少しガサツで不器用なくらいが丁度いい。
「なら、私は”母さん”になっているのね」
親父と対になるお袋呼びではなく、少しだけ上品に感じる”母さん”呼び。恐らく裕子も漠然とそう思っているのだろう、少しだけ優越感を得ている風に見え、やり返された気分だった。
「見てくれよ、お父さん! ちゃんと100点取ってきたぜ」
期待に反する呼び方で私の目の前にテスト用紙を叩きつける直道。
「うなぎ、つれてってくれるんでしょ?」
直道は私の幼少期とは違い、物分かりが良く、テストで満点を取る事も珍しくなかった。
この日は、算数のテストが返却される日だったらしく、私は約束をすっかりと忘れていた。
私は財布を取り出して、中身を確認した。給料日前だったためか、私が自由に消費できる所持金で二人分の鰻を注文することができない。
「約束だ、うなぎを食べさせてやる。でも、店じゃなくて、出前にしよう」
以前交わした息子との約束を大人の都合で少しだけ捻じ曲げてしまった。それでも、息子は大層喜び、私の気分を害さないように肩を揉んで胡麻をすった。
赤い重箱を目の前にした息子は、蓋を開けることをせず、舐めるように隅々まで入れ物を確認した。
「これって、二人前の大きさなの?」
重箱が一つしかないことが不思議だったのか、私に率直な疑問をぶつけてきた。
「いや、一人前だ。お前が全部食べていいんだよ」
手で重箱を指して、直道に向けた。
「先に食べていいよ」
息子は重箱を私に差し出した。
「お前の手柄だ、お前が全部食べていいんだ」
「なんだよそれ、俺は二人で食べるもんだと思って楽しみにしてたんだよ。お金を出したのはお父さんなんだから、食べる権利はそっちにあるだろ」
息子の気迫に押された。私はその時、気付かされた。自分の欲のためだけにテストを頑張ったんじゃない、私と過ごす時間を増やそうと必死だったんだと。
目の前に座る私そっくりの小さな分身がとても尊く感じた。同時に昔二人分の鰻を躊躇いもなく注文した親父の偉大さを痛感した。
「直道、この”さんしょう”をかけると、箸が止まらなくなるんだ」苦い顔をしながら鰻を食べる息子に山椒を手渡した。
「お帰りなさい。直道合格したよ!!」
待ち侘びた裕子が、私が帰ってくるなり玄関まで駆けつけた。
息子が大学に合格したのだ。私は静かに胸を撫で下ろした。この日、仕事中も直道の合否が気が気ではなく、裕子の知らせを実際に聞いて安堵した。
「お父さん、俺やったよ。早稲田だよ、早稲田!」
直道の喜ぶ姿を見て私も一緒に喜んだ。まさか自分の遺伝子から難関大学に合格するなんて、夢にも思わなかった。高校受験で第一志望に落ちてから一念発起、不貞腐れることもなく頑張り続ける息子の姿を見習わなくてはならい。
「俺一人の力では無理だったよ。お父さん浪人を許してくれてありがとう。お母さん毎日見守ってくれてありがとう」
息子は泣きながら、私達に感謝の言葉を口にした。一人の力では困難な課題に打ち勝つことができない。高校の部活を通じて私が学んだことだ。それが、息子も今この瞬間に実感しているのだろう。
「この合格は通過点だ。これからもっと大変な事が待っているかもしれない。その時は一人で悩まずに、誰かの力を借りる事を恥ずかしがってはいけないよ。今回それがわかったはずだ」
「うん」
私は息子の肩に手を置いた。
「うーん、正直この仕事に将来が見えないんだよね」
大学を卒業して、直道は地元の市役所に採用が決まり、実家に戻ってきた。息子と初めて酌み交わす席で突然仕事の悩みを打ち明けられた。
「希望通りの部署じゃないし、3年で異動できるって言われてるけど、正規採用で5年も同じ部署に居続ける先輩職員もいるらしいし、もう辞めたいよ」
生活保護課で毎日、我儘な市民の対応に追われているそうだ。税金回収する立場ではなく、市民に渡す立場である事が唯一の救いだ。辛いなら転職も一つの手段として頭の片隅に入れておいて欲しいと思ったが、それを伝えるのは辞めた。
「まだ、入庁して半年じゃないか。今辞めてしまったら、世の中に存在する全ての仕事が辛いものだと認識した状態で苦しみ続けることになるぞ」
昔、新入社員としてやりたくない部署に配属された際、感じていた事だ。
「やり続ければどこかで、楽しさを見出せるものだ。父さんは昔お前と同じく、新入社員の頃は悩んだ。仕事もできない、やる気もない、辞める一歩寸前で上司が俺にものすごい量の仕事を押し付けてきたんだ」
「へぇ」
直道は私の話に興味を示した。
「やることなす事と全部怒られた。でも、無我夢中で考える暇もなくやり続けたんだ。いつしか、仕事に対する責任感が生まれて、会社が好きになっていったんだ」
直道は完全に私の話に聞き入っていた。
「お前も市民と心を向き合わせて、一生懸命仕事をこなせば、“なんだ、こんなものか大したことないじゃない“と思えてくる。そしていつしか通じあう事も出来てくるんだ」
柄にもない事を言ってしまった。それでも、直道は私の話を馬鹿にする事なく頷いていた。
「そうだね。まだ、半年足らずの小僧に仕事の不向きなんて分からないじゃないか。こんな気持ちで仕事をするなんて市民や上司に失礼だよな」
直道の言葉に成長をしている事を知らされる。未熟だった息子はもう私の前にはいないのだ。
「父さん、今日は話を聞いてくれてありがとう。俺、頑張るよ」直道は手に持ったグラスを静かに口元に運んだ。
息子の酒を飲む姿を初めて見て、歳を取った事を痛感させられる。
「父さん、母さん。挙式はどうだった?」
真っ白なタキシードに身を包んだ息子とウィディングドレスを着た女性が私達の前に歩み寄ってきた。
「私泣いちゃったよ。直道がこんな素敵な奥さんを貰えるなんて」
「大袈裟だなぁ、 結婚する事は半年以上も前からわかっていたじゃないか」
挙式の際、教会で誰よりも涙を流していた裕子が、披露宴で息子を目の前にして再度泣いていた。
「おいおい、流石に泣きすぎじゃないのか?」
裕子の背中をさすってやった。
「僕たちの結婚式で泣いてくれるのは嬉しいんだけど、門出じゃないんだから、そんなに泣かないでくれよ」
いつでも会いに行ける事はわかる。でも、裕子の泣いている理由はそういう事ではないのだろう。私もおそらく裕子と同じ気持ちだ。
これでもう息子に関して何も心配する必要はない、これからは裕子と二人で歩む人生が待っている。そう思うと喜ばしい事なのに、虚無感が押し寄せてくる。もう少しだけ苦労を楽しみたかった。
「お父さん。直道さんを一生を懸けて幸せにしますね」
薫子さんはありきたりな言葉を私に言った。でも、何故かその時はどんな詩的で甘美な表現をされるよりも心に響いた。この人なら安心して息子を任せられる。隠し続けていた感情が爆発して、私は俯いて目元を拭った。
「父さん、顔を近づけるなよ。赤ちゃんが嫌がっているじゃないか」
初孫は女の子だった。薫子さんに似ていてとても愛くるしい見た目だ。私の遺伝を強く引かなくてよかった。私にそっくりの見た目の女の子なんて学校でいじめの対象にされる。
「直道さん! ごめんなさいねお父さん。もっと近づいてこの子に顔を見せてあげてください」
直道よ、お前こんないい奥さんとこんな可愛い娘を持って幸せ者だ。嬉しくなった。
「直道、この子の名前はもう決まっているの?」
裕子が赤ん坊を抱き抱えて直道に尋ねた。
「薫子といろいろ話し合って決めたんだけど」
照れ臭そうに頭を掻いていた。
「”直子”」
この二人にしては凡庸な名前だと感じた。
「父さんが付けてくれた俺の名前結構気に入っているから、そこから一つ貰うことにしたんだ」
「それから私の名前からも一つ」
打ち合わせでもしたかのように、二人の息が合っている。
昔、私が一生懸命考えて付けた名前、息子が気に入ってくれていた。私の意思が孫にまで受け継がれる。この日から私が生きた証が当分の間この世界に刻まれ続けるのだろう。
「おじいちゃん! ルナちゃんがうんちしたから、お掃除手伝って」
仕事で忙しい直道達の代わりによく、直子を預かった。
孫煩悩とでもいうべきなのだろうか、とても愛おしく、好きなものを何でも買ってあげたくなる。
誕生日にポメラニアンを買ってあげると、大層気に入り、額の特徴的な三日月模様から“ルナ“と直子が名付けた。
「ルナ、所構わずうんちをするなよ。 裕子、犬用トイレの替えって階段下の戸棚だったよね?」
「......ええ、そうよ。 薫子さんがそう言ってた」
寝室から裕子の力ない声が聞こえる。
「たくっ、直道の奴、トイレの躾くらい最初にやっておけよ」
私は文句を言いながら、犬の糞をトイレットペーパーで拾い上げて、トイレに流した。
直子が面倒を見ると言う約束で“ルナ“を家族に迎え入れたが、ルナの粗相を全て直道の責任だと常に責めていた。孫の責任は息子の責任だ。直子は最愛の孫だが、無責任ゆえの無常の愛情で気楽に接していた。
「おじいちゃん、ありがとう。ルナ! トイレでうんちしなきゃダメでしょ!」
直道達のやり方に口出しはできない。黙って直子の成長を見届けるだけだ。
「心臓の音の停止、呼吸の停止を確認しました。合わせて瞳孔の散大と対光反射の消失を確認しました。御臨終です。時間は18時48分です」
裕子が亡くなった。69歳という若さで。医師は落ち着いてカルテに志望時刻を書きこんでいる。
悲しくはなかった。裕子は自分の使命を果たしてこの世を去ったのだから。
死因は癌だった。裕子は病室のベッドでいつも「もう未練はない」と私に向かって言っていた。
裕子は私と人生の大半を過ごして幸せだったのだろうか。プロポーズをしたのは私からだった。私は裕子を選んだ。裕子は選ばれる立場だった。
他に素敵な人との出会いがあったかもしれない。その人に自分の思いをぶつけられたかもしれない。仕方なしに私と一緒に過ごしていたのかもしれない。
そんな考えが、私の脳裏に過った。
「母さんは、父さんと一緒に過ごせた時間は、幸せだったと思うよ」
私の否定的な考えを打ち消してくれたのは、他でもない私の一人息子だ。
「そうね。あんなに楽しそうな夫婦、他に知らないもの。私たちが羨ましいと思うほどですもの」
夫婦として当たり前に過ごす時間、側からみれば幸せそうに見えていたようだ。
「おじいちゃん、泣かないでね」
直子がその小さい手で私の背中をそっとさすってくれた。
「ああ、泣いてなんかいないよ。笑顔で送らなきゃね」
心配そうに私を見る直子の頭にそっと手を乗せてあげた。
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「ヒロちゃん、おかえり」
「高橋くん、よく頑張ったね。100点よ!」
「ヒロ、美味いか?」
「ヒロちゃん、そんなんじゃお父さんが可哀想よ。ちょっと貸して、死水はこうやるのよ」
「あなた、お疲れ様でした。ヒロシの事は任せてください」
「じゃあ、ヒロシ、お母さん仕事に出かけるから、夕飯はこれで好きなものを買ってね」
「この度はうちのバカ息子が飛んだご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございませんでした」
「今日はいいものを見せてもらった。今までで最高の試合だった」
「どうだ?初めて契約を勝ち取った気分は?」
「今日はもう夜も遅いですし、終電も無くなりそうなので、うちに泊まっていきませんか?」
「高橋!お前のお袋さんが心筋梗塞で倒れて緊急搬送されたそうだ。今日の仕事は切り上げて今すぐ病院に向かえ!」
「本日、私たちは皆さまの立ち会の元で、挙式を行なうことができますことを感謝いたします。
楽しいことも、辛いことも、ふたりで分かち合い 幸せにあふれる家庭を築くことをここに宣言します」
「ほんぎゃぁああああ!」
「パ、パパ、......」
「見てくれよ、お父さん!ちゃんと100点取ってきたぜ」
「お帰りなさい。直道合格したよ!!」
「うーん、正直この仕事に将来が見えないんだよね」
「父さん、母さん。挙式はどうだった?」
「父さん、顔を近づけるなよ。赤ちゃんが嫌がっているじゃないか」
「おじいちゃん! ルナちゃんがうんちしたから、お掃除手伝って」
「私もう未練はないわ」
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「弘さん、お疲れ様でした。あと少しだね。もうちょっとだけ貴方を待たせてもらうね」
一瞬の出来事だった。
「それでは時間になりましたので、今日はここまで!次回のゲストは人気ラッパーの神楽坂さんです。それではSee you next week」...... 聞こえているはずのラジオからの声が届かない。
目が開かない。開けようとも思わない。開ける方法すらわからない。
頭の中がボヤけている。考えられない。考えることすらわからない。
「......裕子」
私は誰なのだろう。分からないけど苦しい。苦しさは感じる。唯一感じ取れる。他にはもう何もない。
「裕子、来てくれ!会いたいんだ!早く!」
久方ぶりに出した大声、暫くまともに喋ることすら出来なかった。違和感なんて感じない、自分が声を出していることすら分からない。何も感じない。
「高橋さんしっかりしてください」
異変に気づいて駆けつけた看護師が身体中を管で繋げている老体に呼びかける。
なにやら聞こえる。わからない、聞こえているのかもわからない。わからないことがわからない。
「......先生204号室、高橋さんの部屋までお願いします」
何かを察した看護師が落ち着いた声で内線に連絡を入れる。
暫くして、走ってかけ付けた医師は部屋に入ってすぐ看護師に詳細を尋ねる。
「先生、高橋さんの容態が変わりました......そろそろだと思います」
白衣を着た当直の医師が静かに様子を伺っている。
「高橋さんのご遺族に連絡を入れてください」
同じような状況に何度も立ち会っている医師はとても落ち着いていて頼もしい。マニュアル通りの完璧な対応をこなす。
「御臨終です。時間は午前6時40分」
医師は直道達にそう告げた。高橋弘は80年の人生に幕を下ろしたのだ。
「亡なった直後は鼓膜は正常に稼働しているんです。是非、優しい言葉を呼びかけてあげてください」
弘の担当をしていた看護師が面布を取って、病室のベッドに来るよう右手で誘導した。直道と薫子は口を半開きにさせる、魂の抜けた遺体に顔を覗かせる。
「父さん......やり切ったって顔してるよ」
「ええ、そうね。顔に染みもなくて、とても綺麗な顔をしているわ」
薫子は皺だらけの顔に涙を浮かべながら、笑顔を作った。
「ほら、お前達もじいちゃんに顔を見せてあげなさい」
直道は壁越しに腰をかけている、直子と小さな男の子を近くに来るように手招きをした。
直子は弘の頭にそっと手を乗せた。
「あんまり会いにいけなくてごめんね、お爺ちゃん」
直子の目からは涙が見られなかった。
「私、泣いてなんかいないよ。だって笑顔で送らなきゃね」
直子はベットよりも頭身が低い、弘明と呼ばれる男の子を抱き抱えて、顔を覗かせた。
「ほら、弘明。曾お爺ちゃんが笑っているよ」
弘明は状況を理解していない様子だが、率直な感想を口に出した。
「寝ながら笑ってるなんて、きっと楽しい夢を見てるんだね」
失敗、成功、出会い、死、匂い、家族。これらは歳をとっても色褪せない記憶として残り続けるものだと思います。走馬灯は一瞬で過去の記憶を呼び起こすと本で読みました。この作品はイメージだけを膨らませて、私独自の妄想で書きました。
この課題を出されて直ぐの頃は私が必修科目で培った、法律と政治を絡めた学園ドラマを書こうとしました。しかし、それは率直に難しい題材だと思いました。
友人に途中までの過程を見せたところ、「読み手が飛ばすことも考えなければない」。さらに、「自分の思想を分かりやすく伝えてこそ面白い」と言われ、その通りであると納得しました。
今回は友人の助言を活かして、飛ばし読みをしてもある程度理解ができ、万人に受けるように工夫をしました。
実際に人に見せることなく、提出となったため、それらが改善されている保障はありません。
1年間、教授と実際に会う機会は少なかったけど、オンラインで楽しい授業を提供していただきありがとうございました。来年度、履修科目に教授の名前を見かけた際、必ず履修いたします。