aimer ―エメ―
連載中の長編小説「ひかりのまち」の元になった短編です。
シャルルドゴール空港の構内は、高く広がる、丸い天井に伸びる白い鉄筋が恐竜の背骨のようだ。
映画の舞台が似合う街らしく、床は赤い絨毯を模している。
降り注いでくる陽の光がガラスにきらきらと反射している。
フランス語と英語で繰り返される放送と、大きなスーツケースの上に座る金髪の子供。世界中の無数の他人が行き来する国際空港。
数ヶ月暮らすと帰国するのがなんだか寂しくなって、空港内の店で有名なマカロンとバニラゴーフルを買った。
ゲートまでジョシュアが見送りに来た。
彼は初めて食事に行った日と同じ、ネイビーのシャツに白いタイトなスキニーを履いていた。
会うときに彼のシャツにシワがよっていたり、革靴のつま先が剥げていたりしているのを見たことがない。
日本に帰ることを告げるためにバーでふたりでお酒を飲んだとき、彼とはこれで最後にするつもりだった。
けれど、そのあと私がアパルトマンを引き払う時に、現地のスタッフと上手くやりとりが出来なくて、結局彼しか頼る人がいなかった。
その時でお別れのつもりだったのに、荷物を持つと言われたら、断れなかった。
誰かへのお土産や重いワインの瓶なんかはほとんどないのだけれど、セレクトショップで服やフェルトの帽子やパンプスなんかまで買い込んでしまったから、荷物がずいぶんかさばってしまっていた。
それに、ここまで彼を完全に拒まずに来たのは、私なのだから。
ジョシュアとは、パリに来た初日に出会った。
数ヶ月前、この空港で入国審査を終えて、荷物を受け取ろうとしたときに、偽物の腕章を付けた男に腕を掴まれて荷物と時計を盗られそうになった。
早口でまくしたてられて、タバコと汗の臭いに吐きそうだった。
見かねた彼が助けてくれなかったら、見知らぬ男に脅される恐怖で倒れてしまっていたかもしれない。
彼は日頃から仕事でヨーロッパを飛び回っていると言っていて、スコットランド出身だと言うけれどもフランス語は流暢だった。
その時限りの出会いだと思っていたのに、数日後にアパルトマンの近くのマルシェで再会した時には驚いた。その日はパリの街を案内してもらった。
彼が私に好意を持っていることは、最初から分かっていた。
分かっていて、気づかないフリをして、異国でひとりで暮らす心細さを紛らわすためにたまに来る食事の誘いも断らなかった。
彼は優しかった。
ファッションの輸入をしているらしく、足の先までセンスがよくおしゃれで、話題の振り方が上手で話していて飽きなかった。
気を遣わせないように、あまり高くないけれど雰囲気のいいお店に何軒も連れて行ってくれた。
言葉の端に親密さをにじませているけれど、デートを重ねても必要以上に距離を縮めて来ようとはしなかった。
決して酔いにふたりの関係を任せてしまわなかった。
彼みたいな人の隣にいたら、きっと幸せなのだろうと思った。金髪とグレーの瞳は素敵だし、背も高く、羨まれる全てのものを持ち合わせているような男の人だ。
最後のデートは夜だった。
観光用の短いビザしか取っていなかったから、フランスの空気が冷たくなり始める頃、彼に日本に帰ると告げた。
マレ地区の裏通りのバーだった。
重低音の響くジャズとカウンターの端に座るゲイのカップルとネオンの看板。
ふたりでお酒を飲んだのは初めてだった。
その時飲んだマティーニがひどく苦かったのを覚えている。
さみしくなるよ、とだけ彼は言った。彼は強引に引き止めるようなことはしない人だった。
けれど帰り道、シテ島へと続く橋を渡った時、彼は立ち止まって、長い話をした。
彼が初めてした、プライベートの話だった。
昔、この近くで起きた小さな爆弾テロで、その時愛していた人を亡くしてしまったこと。
秋の始めの夜風が冷たかった。
この隣にある、ハートの錠に囲まれた芸術橋の上で、いつかの彼はその人と愛を誓いあったのだろうか。
目の前にはセーヌ川とノートルダム聖堂がある。決して揺るがないものとして私の前にそびえたっていた。
「僕は今でも彼女のことを懐かしんでいる。愛しているとか、そういうこと無しに。……もし君がそれを許してくれるなら、ユキコ、僕の気持ちに応えてほしい」
彼が本気なのは嫌というほど伝わった。
自分の全てをさらけ出してくれて、私が彼の気持ちを分かってて踏み込もうとしないのを辛抱強く待ち続けてくれた。
だから、私が一層薄情に思えた。
「ごめんなさい」
もらった満開の花束を胸に押し付け返すようなそっけなさで、私はこたえた。
彼の表情は花びらが散っていくようだった。
どうして、と尋ねてくる彼に、私はセーヌ川を流れる船のランプを見ながら冷たく言った。
あなたが亡くなっている人を懐かしんでると言うなら、私は生きている人を今もまだ懐かしんでいるから。
空港で、彼はもうそのことについては何も言わなかった。
ただ、君と出会えてよかったよ、と言って、優しいハグをした。それだけで、後は手を振って見送ってくれた。
彼は最後まで優しかった。
ガラス細工のようなもろく壊れてしまうものにそっと触れる優しさで、私のことをユキコ、と呼んだ。
Je t'aimeも言わず、私に穏やかな愛を与え続けてくれた。
フランスでも何かに傷ついてたら、きっとこんな気持ちで日本には帰れなかっただろうから、本当は心の底から感謝している。
だけど私はそれをちゃんと伝えていないままだった。私は、いつだってずるい。
フランスがどんどん遠ざかっていった。
身体になにか異物をいれるのが嫌で、フレンチの機内食もサービスドリンクも断って、水だけを飲んで、たまにイヤホンで音楽を聴いて、あとはほとんどの時間をぼーっとしていた。
ずっと目は開けていた。空の上で悪い夢を見たくなかったのだ。
だから何かを考える時間ならいくらでもあった。
何年も前の記憶が、頼んでもいないのに頭を巡る。
ジョシュアのことは好きだった。
けれどそれだけで、決して愛することはできなかった。
私は、生きている人を今もまだ懐かしんでいるから。
今でも、思い出さずにはいられない。
一度思い返すきっかけが与えられてしまえば、あとは呼吸をするのと同じ速度で。
自分が初めて本当の恋と呼べるものをして、おそらく世界でいちばん幸せだったあの時間を。
他に何も要らないくらいに満たされていた。
終わりがないと信じることすら当たり前で、世界のすべてがきれいに見えた。
幸せだと言いあうことがくすぐったくて、けれどそれが満足だった。
面子も、恥も、プライドもすべてかなぐり捨てて、魂のままで恋をしたあの瞬間を、何度も、何度も、思い出し続けている。
けれどそれは二度と帰ってこない。
気持ちは有限で、無条件に維持できる神様みたいなものじゃなくて、でもそれに気づけなくて、失ってからの後悔とそれでも残り続ける痺れるような満足感もすべてないまぜになったまま、私は悪い夢を見続けている。
寝覚めの悪い夢のように、何度も、何度も。
高校二年生の初日、隣の席の竜矢と出会った。
最初は、とても綺麗な顔をした男の子だと思った。
ホームルームでの自己紹介で、他の男子はけっこうふざけて笑いをとっていたのに、竜矢だけは「1年C組だった新庄竜矢です、よろしくお願いします」だけのサービス精神もなにもない自己紹介で、それで逆にみんなに笑われていた。
暗いわけではなくて、派手な男子のグループとも普通に馴染んでいるけれど、一緒に大声で女子の批評をしたり騒いだりはしない、そんな人だった。
隣の席だった間は、次の時間なに、とか、そういうので少し話す程度だった。
ある日、帰り道で、他のクラスの友達としゃべりながら帰る竜矢が前にいたことがあって、その時彼は大きな一眼レフカメラを持っていた。
写真が好きなのかな、と思うと同時に、彼があまりにも眩しい笑顔だったから、初めて見るその表情に戸惑った。
それから彼と少しずつ話すようになった。
そして夏が始まるころには、私は竜矢のことを好きになっていた。
たまに見せる唇の端を上げる薄い笑顔を、気がつくと目で追っていた。
毎日、毎日、どこかで竜矢と会えないか、どこかで話せないかとばかり気にしていた。
大好きだった。
他に何も要らないから彼がほしいと、当たり前のように言えるくらいには。
あの時、私の世界のすべてが竜矢だった。そしておそらく今もまだ。
けれど彼と私の人生はもう交わることはない。おそらく永遠に。
後ろで誰かが、あれが日本、と言っている。
まだらに千切れた雲の隙間から、黒々とした深緑の島が見える。
はっきり終わってしまったのはいつだったのか、今でも分からない。
ただ、涙を流すのと同じ淋しさで、ひたすらにごめん、と謝られたあの時に、彼は自分の気持ちに気づいたのだろう。
一度気づいてしまえば、熱が冷めるのは一瞬だ。潮が引くのと同じ速さ。
「ごめん。俺、由紀子が思ってるより馬鹿なのかもしれない」
彼は最初にそう言った。
ずっと私の傍にいる、ずっと守ってあげると言ったのに、それを裏切ってしまうことへの謝罪だった。
いつだって彼は私に全力を注いでくれていた。それに間違いはなかった。
謝らなくていいのに、人のためにばかり考えなくていいのに。
竜矢はいつもそういう人だった。
辛かったなら、いくらでもそう言ってくれればよかったのに。いくらでも不満をぶつけて、喧嘩すればよかったのに。
その過程も経ないで、自分で結論を出し続けてきた竜矢は、突然、私に耐えられなくなった。
空港に降り立った。
放送や周りの人の会話から、おびただしい日本語が耳に飛び込んでくるのに戸惑った。
空港の雰囲気があまりに騒がしいのと、やっぱり日本人が多いのでもうここは外国じゃないんだな、と思った。
初冬なのにとても湿度が高いように感じた。
ちょうど秋の連休で、家族連れが多いように感じた。
大学生だろうか、ノースフェイスのリュックをパンパンにした二人組のバックパッカーがいる。
周りの雰囲気が暖かくて、誰かが私を迎えに来てくれているような錯覚がしたけれど、そんなことはなかった。
高校を卒業して、私は進学すると同時にひとり暮らしを始めて、そのままそこで就職した。もう高校の友達と連絡を取ることはほとんどなかった。
だから、竜矢がどこでなにをしているのかは知らなかった。
けれど卒業してから、竜矢に一度だけ会ったことがある。
就職して四年目の冬だから、もう六年も前の話だ。
帰省していた時、十歳離れた妹は高校一年生だった。
彼女は子供の頃からバレエとダンスをしていて、たまたまその時に彼女の高校のダンス部の大会があるからと見に行った。
会場は彼女が通っている高校で、私の母校でもあった。竜矢と私が過ごした高校。
卒業してから初めてこの学校に来た。十年近く経つけれど、校門が新しくなった以外はほとんど変わっていなかった。
懐かしさと同時に、胸がぎゅっとなるような切なさがふいにこみ上げてくる。
観客や保護者がずいぶんと多かった。
体育館の周りには、きらびやかな衣装を着た集団がところどころで振り付けを合わせていた。
しびれるような寒さを全く感じさせない、はじけるような笑顔と全力の表現が眩しい。
体育館の入口は、観客の革靴やブーツで溢れかえっていた。
あれは、歩いているだけでつま先から凍っていくような一月だった。
中に入ろうと、下駄箱に手をついてブーツのファスナーに手をかけたとき、私のすぐ横をさっと通る女の子がいた。
羽織っていたウィンドブレーカーの背中に、この高校の名前が書いてあるのが見えて、思わず目で追う。
濃い緑のジャージの下から、薄紫の、何枚もチュールが重なったドレスが覗いている。
一歩歩く度にスカートのスパンコールがきらめく。
そこから伸びる細い脚にも、上げた髪であらわになった首筋にも透明感が見て取れる。
後ろ姿だけでも、女の私でも目を奪われてしまうような踊り子だった。
彼女が振り払うようにスニーカーを脱いだ時、私もちょうどブーツを並んだ靴の隅に置いていた。
この学校の中でも体育館はいちばん新しくて、私が入学した年に建てられた。
市民体育館のように、入口から武道場やコート、階段に繋がる広いホールがあった。
私が二階のギャラリーに上がろうとした時、前にいた彼女が何かを見つけてはっとなった。
「竜矢先生!」
その声に、思わず振り向いてしまった。
彼女は、10メートルほど先にある自動販売機の方に小走りになった。その先に、ちょうど何かを買っていたひとりの男性がいた。
彼が振り向く。彼の顔がこっちに向いて、慌てて私は階段の影に隠れた。
(…竜矢)
十年経っても、その面影はほとんど変わっていなかった。筋肉がついてすこしがっしりしたようだ。
髪の毛は少しだけ茶色くなっていて、相変わらず猫っ毛で、前髪を右に流している。
見たことのない大きな黒縁のメガネをかけていて、そのせいで余計に目の印象が強く、十年も経っているとは思えないほど幼く見える。
けれど灰色のスーツにウィンドブレーカーを羽織って、首には引率の教員証を下げていて、確かに時が流れたのだということを教えてくれた。
彼は高校のときも世界遺産や世界史が好きで、教師になりたいと言っていた。
だけどまさか本当にその夢を叶えていたとは知らなかった。
首には大きな一眼レフカメラを下げていた。
それもあの頃と一緒で、記憶の中の彼と一致しすぎてかえって夢のように感じる。
仄香、と小さく竜矢先生が言った。
その場には彼らと私しかいなくて、発表と発表の合間でステージから聴こえる音楽もなかったから、途切れ途切れだけれど会話はわりあいはっきりと聞こえた。
「出番、まだなの?」
「私はまだ、でも、そろそろスタンバイかな」
緊張する、と言って、仄香と呼ばれた女の子が笑った。
「大丈夫でしょ、思いっきり踊ってこいって、見てるから」
「うん。えっ、恥ずかしいから見ないでよ」
「いいじゃん。後で写真あげるから」
竜矢が笑う。私じゃない人に向けられた笑顔に、分かっているのに切なくなる。
頑張って、と言って、竜矢が彼女の背中を叩いた。
これ以上見ていられなくて、私は階段を一歩上った。
どうしてあの子は、あんなに竜矢に親しいのだろう。
くだけた喋り方に、下の名前で呼ばれて、胸がぎゅっと痛くなった。
まるで世界に私と竜矢しか大切じゃないみたいに、あの子のことを嫌に感じてしまった自分が嫌になる。
何も変わっていないじゃないか、十年間必死に押しとどめてきたものが、一目見ただけでまたこんな風に崩れてしまうのか。
たった一瞬で、記憶がまた引き戻されてしまった。
それからギャラリーに上がって、妹が踊っているのを見た。
入場する前、遠くから見ても顔がこわばってるのが分かって、がんばれ、と祈っていたけれど、ちゃんと堂々と踊れていた。
室内履きを忘れてしまったから、何十分も冷たい体育館の床に立っていると足の先から凍りそうだった。
自動販売機でホットココアの缶を買おうと降りようとした瞬間、ステージに見覚えのある薄紫色のドレスが見えて足を止めた。
あの子だ。
私は降りるのをやめて彼女を見ずにはいられなかった。
彼女は曲が流れて、ステップを踏み始めた。
どこかで聴いたことがあるから、多分なにかの映画のBGMだろう。
ピアノと女の人の声の洋楽で、テンポは遅くないけれど切ない曲だった。
私は息を呑んだ。素人目でも、段違いに上手いのが分かった。
モダンバレエとジャズが融合したようなダンスだった。
抜きんでて難しい振りを難なくこなしているし、ものすごく身体が柔らかい。
目をそらしている暇がない。
絶えず回って、脚を上げて、指先を遠くに伸ばして、身体全体で悲しんでいるように見える。
ここにいる観客全員の目が彼女に引き寄せられているのが分かった。
まるで映画のヒロインのように、見ているだけで感動に引き込まれてしまう力が、彼女の踊りにはあった。
今までで一番大きな拍手が湧き上がった。
個人の優勝は、間違いなく彼女だろう。
先ほど見てしまった竜矢とのことも一瞬忘れて、純粋に感動した。
彼女の次のダンサーが踊り始めて、私はようやく一階に降りた。
けれど、さっき降りようとした時に彼女の発表に引き止められてしまったのは、きっと一種の運命みたいなものだったのだろう。
私がバッグから財布を取り出して、自動販売機に小銭を入れようとしたとき、広いホールに響く足音が聞こえた。
振り向かなかったのは、心のどこかでそうだと思っていたからかもしれない。
ガタン、と缶が落ちてきたとき、
「由紀子…?」
驚いた声がした。
私は振り向いた。神様は残酷だ。
竜矢はさっき私がいたことには全く気づいていないらしい、ただでさえ黒目の大きな目を見開いて、じっとこっちを見ていた。
私も、たった今気がついたふりをした。
「うそ、竜矢」
竜矢はゴミ箱にコーヒーの缶を投げ捨てた。
ガコン、といびつな音がする。
「…久しぶり、どうして」
「妹が出てるから、見に来たの」
「妹?そっか、そんなに離れてるんだっけ」
「うん…あなたは?本当に先生になったの」
竜矢は首の教員証を持ち上げて笑った。
「一応。今年から新しい高校に移ったんだけど、そこに……ほら、益田先生って覚えてる」
「ああ、体育の」
「そうそう、あの人がいてさ、なんかダンス部の大会があるから、お前カメラに詳しいなら広報用の写真を撮ってこいって」
「そうなの」
竜矢が短く笑う。私がそう言って、ふたりとも、しばらく黙った。
あまりにも突然すぎて、必要以上のよそよそしさが充満している。
「……よかった、元気そうで」
間を埋めるために、何も考えずそうつぶやいていた。
瞬間、竜矢が顔をわずかに歪める。
そのわずかな表情に、情けないくらい、胸がぎゅっとなった。
それからしばらくして、私はパリに旅立った。
いつまでも思い出から逃げ出せない自分が許せなくて、半ば逃避行のような旅行だった。
あの時もっと何か言えばよかったのだ。私は何回も何回も後悔した。
沈黙が漂って、互いにどうすればいいか決めかねている時に、目の前の入口から、踊り終わったあの女の子が出てくるのが見えた。
落ちてきた髪が首筋に張りついている。
遠目にも汗をかいて頬が上気しているのが分かった。
彼女は誰かを探しているようにきょろきょろしている。
その誰かは考えなくても分かった。
あ、と思う間もなく、彼女がこっちを向いて、目が合った。
唇をきりりと結んだ顔が、わずかに歪んだ。
彼女の戸惑いと嫉妬を感じて、優越感を覚える自分が嫌だった。
「…話せてよかった」
ただの社交辞令を口にした。
「用があるみたいだから、私は帰るね」
彼女の方をチラリと見て私は言った。
なんて嫌な女なのだろう。露骨に嫉妬が滲み出ていて、口に出した瞬間後悔する。
竜矢が何か言う前に、私はじゃあ、と呟いて踵を返した。
階段を一歩踏んだ途端、口の中に酸っぱい物が満ちた。自分のことを馬鹿だと思った。
その日、もう竜矢を見かけることはなかった。
本当は、この旅さえも逃避行でも何もなかったのだ。
昔、竜矢の家に行ったときに、彼が高校に入る前にフランスに旅行した話を聞いた。
彼の家の玄関にはルノワールの模写が飾ってあった。
竜矢は芸術橋でハートの南京錠の多さに驚いた話と、そこにいた金髪の小さな男の子と女の子が可愛かったことが忘れられなかった話をしてくれた。
それらが生み出したものが今の私なのだろう。
結局、どこへ行っても私は変わらない。
観光バスとタクシーの群れを抜けて、バスターミナルまで歩く。
多くのバスが並ぶターミナルのいちばん端だから、ここまで来ると人はまばらだった。
家の最寄りまで行く高速バスに乗り込んだ。
時間の感覚がまだ分からないけれど、今日中に帰ってしまうつもりだった。
座席は半分くらい埋まっている。
橋の下の海にビルの屋上の赤いランプが無数に反射していた。
一面暗い鏡のように波は静かで、光は揺らめいていなかった。
時々、上空を飛行機が通過した。
赤だけだと工場みたいだと思いながら目を閉じていると、バスが出発する前に眠ってしまった。
目が覚めると、ちょうど大きな駅が窓から見えた。
窓に切り取られたその風景はずいぶんとごちゃごちゃしていた。この街はまだ眠らない。
昔から田舎よりも都会の方が好きだった。夜の駅を歩くのが好きだった。
誰もが立ち止まることなく切符を買って改札を通過していく、無関心にあふれた、通過点が駅だった。
こんな光景がずっと好きだった。
今自分がどんなに普通じゃなくても、何事もなくここに立っている自分は普通だと思わせてくれるものが、第三者ばかりで居合わせた駅にはあるから。
テールライトの群れが行き交うひかりのまち。
会場は広かった。この街で一番高い駅前のホテルの18階だった。
天井には大きなシャンデリアがいくつもある。
新郎が海が好きな人らしく、大きな丸テーブルに敷かれたクロスは深い青色だった。
テーブルの中央には、青と白のバラが飾られている。
ピアノでアレンジされた3月9日が流れていた。
お色直しが終わって、妹は薄い水色のドレスを着て出てきた。
シンデレラみたいでしょ、と彼女が気に入っていたドレスだ。
相手はサークルで出会った同級生らしく、髪の毛が短く運動ができそうな男の人だった。
ずっと野球をしていると言っていた。
挨拶をしたときに話したけれど、方言の抜けない真面目な話し方がかわいかった。
妹は地元の大学にすすんで、卒業してすぐに結婚したから、当然彼女の大学の友達が多く、知りあいもいないので退屈だった。
内輪にしか受けない余興のビデオも面白くない。
招待客が帰っていくのを両親が挨拶をして見送っている間、酔いを覚ますために外に出た。
すっかり夜になっていた。
駐車場でも妹の友達は集まってお互いに写真を撮っている。
ホテルの前の歩道に立って、タクシーが何台も止まっている向こうに、無数の車が行き交う道路をぼんやり見ていた。
夏の夜風が気持ちいい。
向こうから、男の集団が騒ぎながら歩いてきた。三人組だった。
大学生だろうか。そのうちひとりが、こっちを見て口笛を吹いてきた。
鬱陶しいなと思って顔をあげると、茶髪に眼鏡の男の人が私に手を挙げて笑いかけてきた。
「お姉さんひとり?ねえ、今から遊ばない?」
違います、と言って、私が困っているのを見て、彼の連れのひとりが「おい、やめろよ」と言ってくれた。
そっちの方を見ると、
「りゅう、や」
思わず口に出してしまって、人違いだったらどうしようと思った。
けれど、目が合った途端向こうも目を見開いて、そして顔をこわばらせた。
確かに、竜矢だった。
「竜矢、……どうして」
「…由紀子」
友達の手前か、彼は久しぶり、とわずかに笑った。
えっ知りあいなの、とさっきの眼鏡の男に茶化されている。
高校の同級生、と答える彼。悲しいくらいに懐かしい。
「どうしたの、結婚式?」
彼は私のグリーンのドレスを見て訊いた。
「ええ、妹の披露宴が今終わったとこ」
「妹?へえ、おめでとう」
「ありがとう。竜矢は、元気?」
「まあ、一応」
そっか、と私はつぶやいた。
私たちが話してるのを見て、竜矢の友達ふたりは道の端でしゃべって待ってくれているけれど、そこで沈黙が流れた。
また、距離の取り方がわからない。
そして思い出してしまう。
かつてあのダンスの大会のときに竜矢と親しげに話をしていた女の子――比嘉仄香という名前だった――は、妹の同級生で、しかも後から訊くと彼女の親友だった。
無垢な彼女は間違いなく、竜矢に恋をしていたと思う。
あの子と目があってしまったときのことが思い出される。
真っ直ぐな憧れと少しの嫉妬と悲しみが混ざった表情。
けれど、今はもう関係ない。
出会って、恋をして、そして別れてもう十年以上の時が流れているのに、その相手が目の前にいるのが信じられなかった。
「あ、お友達待たせてる。ごめんね」
大丈夫、と竜矢が笑った。
かつて好きだった人に向けた、遠慮がちな明るい言い方で。
「うん。……由紀子も、元気で」
じゃあ、とどちらともなく言って、一瞬だけ、視線が交わる。
それだけで、信じられないくらいの幸福感が押し寄せてきた。
待って、竜矢。
彼が背を向けると同時に、言いたかった言葉が、ずっと言えていない言葉が一気に溢れてきた。
待って、竜矢。まだ好きなの。
あれから私はあなたにしか恋をしていないの。
あなた以外を愛せないの。竜矢。待って。
けれど声に出せない。
竜矢の背中が遠ざかっていく。今もまだ、私の世界の中心にいる竜矢が。




