Part 1-5 Château de verre 硝子の城
N.D.C. HQ Bld.(/Building) Chelsea, NYC 15:45 Nov.22th
11月22日午後3:45 ニューヨーク市チェルシー地区NDC本社
フローラとマリーの乗るリムジンはマンハッタンに慢性的な少しばかりの渋滞に巻き込まれミッドタウンよりさらに西のハドソン川よりにある地区、チェルシーに建つNDC本社ビルに半時間もかかり到着した。
車は地下駐車場に入ることなくビル正面のスロープを登り正面玄関前にまわされた。ガードマン兼任の執事がドアを外から開くよりも先にマリーは自らドアを開き急ぎ降りた。そうしてフローラが下車する間マリーは超高層のビルを間近から見上げていた。
別名グラス・シャトー──硝子の城。
どんよりとした雪雲が全面スモークの硝子張りの高層ビル一面に映り込み天空と地上が一本の柱で交わってるように見えた。
どこかで同じ様な光景を──とマリーはとり憑かれた様に見つめていた。
「どうかしたの、マリー?」
「不思議な気が────懐かしい──いえ、なんでもありません。お気になさらずに」
フローラは一瞬何か言いたげな面持ちを浮かべたが、マリーから離れ出入口へと歩きだした。
ニューヨークに住んで2年がたちその間にここへは足を伸ばしたことは一度もなかったとマリーは思いながら振り向きCOOと執事の後に続いた。
ブロンズガラスの半円柱状の大きな自動ドアの一つが開くと、中に立ち入りマリーはその広さに驚いた。
エントランスがテニスコート10面ほどもあるのではないかとマリーは広く感じた。天井も高く三階建ての家が余裕で入りそうなほどもある。その天井の不規則な位置に何重にも織りなった豪勢なシャンデリアが幾つも吊り下げられている。床は淡いマーブル模様の広がる総大理石だった。マリーの予想に反してその上を歩く人通りは多かった。だが行き交う人々はスーツ姿ばかりではなく、カジュアルな服装など一般姿の者や家族連れ、カップルも多く見受けられた。
無理もなかった。今やグラス・シャトーは観光名所にもなっておりエンパイヤーステートビルやクライスラービルのように多くの観光客が押し寄せていた。
お目当ては165階にある展望台だった。全周囲マンハッタンの眺望を楽しめる。宝石箱の中のような夜景も堪能できるよう夜遅くまで営業していると彼女は耳にしたことがあった。
行き交うスーツ姿の男女数人がフローラの姿に気がつき会釈してきた。その先、入ってきた出入り口から正面20ヤードと離れた所に湾曲した受付カウンターがあった。そこに座っていた7人の女性達が一斉に立ち上がった。揃いのネービーブルーのスーツを着込んだ美しい受付嬢達が一斉に腰を折り頭を下げた。
「お帰りなさいませCOO」
そろえた声で挨拶されたフローラは素っ気なかった。「御苦労様」と会釈もせずに言葉を返しただけだった。だがその出迎えにマリーは畏縮した。今さらながらに世界一の大企業本社に連れて来られたのだと痛感した。
フローラと執事、それに付き従うマリーは一般客が待っている大型エレベーターのドアから離れた10ほど並んだ小型エレベーターの方へ歩きその1つの前に立ち止まった。
小型といってもベンツのハイグレード車が余裕で入れる間口があった。
扉の前に立ってマリーはドアに奇妙な陰影があることに気がついた。眼をこらすとそれが表面にエッチングされた枝葉がらのエンボスだと判った。模様の盛り上がった部分にプラチナのようなものがコーティングされ強調されている。それは素人目にも高価と判る装飾でこんな所にも惜し気もなくふんだんに財を尽くしてあることにマリーは呆れ返った。
今やNDCの吐息き加減一つでナスダックの指標が大きく乱高下すると言われるくらいなのだ。エレベータードアの1枚、髪の毛ほどにも思ってないことが明らかだった。
ドアが開くと先に乗り込んだのはフローラだった。後に続くと思われた執事が乗り込まないことにマリーは彼の横顔に視線を振り向けた。その途端、見られていることを知ってますと言わんがばかりに彼が振り向いた。
「わたくしはここまでですので御嬢様どうぞ」
そう言って執事は数歩エレベーター入口の横へ移動すると会釈した。マリーは御嬢様と言われたことにどぎまきして直ぐに歩き出せなかった。唐突にドアが動き出し執事がそれに手を当てて止めたことでマリーは我にかえり慌ててエレベーターに乗り込んで静かにドアが閉じるとフローラはドアの傍らに移動した。
「スタッフ・フロアーに」
そう彼女がそう告げるとどこからかポンッと電子音が鳴り階のデジタル表示が目まぐるしく変わり始めた。
マリーが階表示パネルからフローラのつば広の帽子へ視線を移したときフローラが唄うような口調で客に問うた。
「緊張なさってるの? マリー」
「ええ、少し。まだお招き頂いた理由すらも漠然としていて理解出来てないものですから」
フローラはククッと微かにしか聞きとれないほどの声で笑った。
「慣れない環境でも御自分を見失わないのね貴女は」
また唄うようなイントネーションでマリーに話しかけた。マリーは軽く見られたように感じて唇を引き締めて真っ直ぐ下に伸ばされたフローラの右手指に視線をさ迷わせた。
彼女の指が細く長く美しいことに気がつきじっと見つめるとマリーは驚いた。その右手人差し指第一間接そばの指の腹に見なれたものがあった。
一瞬それが理解できずにマリーのラピスラズリ(:紫を帯びた濃い青。瑠璃色)の瞳孔が1度拡大し、記憶と結実したその瞬間虹彩が一気に収縮し見たものが信じられずにマリーは眉毛を寄せていた。そして今この瞬間にあれほど毛嫌いしていた父マイク・ガーランドを思い出していた。
真っ白な制服で颯爽と歩く父。前から歩いてくるセーラー達が立ち止まり姿勢を正して敬礼する。その都度に父は素早く答礼をして右腕を腰に戻した。その伸ばされた人差し指に長年の訓練でできた皮膚の盛り上がり。
フラッシュバックに眼をしばたいたマリーはフローラの親指の腹にも見られるであろう痕跡を無意識に確認していた。
そうだ。ボディガードに守られなければならない日常を過ごす超巨大企業の長だわ。自分自身で射撃の訓練を行っていても不思議ではない。だが生半可な鍛練でできるようなものでもないのに──とマリーが不思議に感じたその時、唐突にフローラが半身振り返りマリーの視線が自分の掌に向けられていることに彼女は気がついた。
フローラは無言で顔をドアの方へ戻すとわずかな沈黙の間が二人に流れた。いきなりCOOは何かを思いついたように自分の右掌を顔の正面に持ち上げ、手の甲と腹をかえすがえす眺め始めた。
直後人差し指を見つめた瞬間彼女の動きが止まった。
だがそれもしばしの間だった。フローラは黙ったまま腕を戻し間をおいて唐突にマリーへ問い掛けた。
「ガーランドさん、貴女──どうして?」
背を向けたまま語りかけられたフローラの質問をマリーはどうとってよいのか戸惑った。だが困惑は直ぐに緊張感にすり代わった。
十代中にして獲得した本能が最大級の警告を発していた。この直感を軽んじて何度危うい立場に立たされたかとマリーは内臓が締め付けられる思いをした。170階にデジタルの階表示が止まって音もなくドアが開きだすと半分開放した間口からそれは凄まじい勢いで飛び込んで来た。