Part 11-4 Medical record カルテ
NDC HQ Bld. Chelsea Manhattan, NYC 17:55
午後5:55 ニューヨーク市 マンハッタン チェルシー NDC本社ビル
マリーはパティが瞳を大きく開き何も言い出せずにいると思ったが、少女がぶつぶつと何かを繰り返し呟いている事に危険なものを感じとり大声で呼び掛けた。
「パトリシア!」
マリーに呼び掛けられてもパティはなおも呆然とした面持ちだったが、その呟きが途切れとぎれにはっきりとマリーには聞き取れた。
「そんな──今まで──わたしのダイヴから──逃れられた──人なんて──」
「パトリシア!」
マリーは名を怒鳴り同時に掌を叩き合わせた。その衝撃音に少女は反応し1度瞬きすると今度はしっかりとマリーを見つめた。
「どうしたの、パティ? ミュウに何かあったの?」
マリーが問うと少女は頭振った。
「わからないの──こんな事初めてだから──3時間前にはマンハッタンにいたのに──」
「パティ、あなた何処まで捜したの?」
「チーフ──わたしポンコツになったかも────メーンからフロリダまでスイープしたのに────ミュウを見つけられない」
マリーは驚いた。パティのダイヴという能力がそんなとてつもない広範囲にまで及ぶなんて想像もしていなかった。ほとんど東海岸を網羅している。それに関してマリーはルナの知識に誤りがある事に気がついた。ルナはパティの能力が距離に左右されないと認識していた。
「パティ、あなた一度ダイヴしたら絶対に見逃さないの?」
少女は軽く頷いて説明した。
「その人が寝てようと、気を失っていようと、死んでしまっていない限りは」
死んでいない限り、マリーはロウアー・マンハッタンで起きた爆破事件を思い出した。もしかしたらミュウはその車に──そこまで考えて眉根を寄せた。テロリストの首謀者は計画を細分化して末端にはバラバラにしか知らせなかっただけでなく、重要な事柄に関わった者の命まで奪っているのだろうか? マリーはその事をルナに尋ねた。
「ルナ、自動車爆破事件の乗車していた者の情報は?」
「チーフ、待って下さい。何か新しく拾い上げた事実があるかもしれません」
そう言って副指揮官はガン・ルームの出入口まで行くと誰かを手招きした。
「マリー、あなたどうしてそのミュウって子にこだわるの? 今は爆破実行犯の追跡に重きをおかないと」
フローラがマリーに指摘すると彼女は直ぐに説明した。
「その実行犯の主犯格の男が、今日とも知れない爆破の事をおろそかにして姪に工具なんかを運ばせる意味がまったくないからよ。ビッグアップルを廃墟にするのよ。そんなビルの1つに使われもしない道具を運び入れても、誰が喜ぶの?」
マリーが逆にフローラへ問い掛けたその時、出入口の所で報告を受けていたルナがマリーの方へ振り向き数歩戻り結果を知らせた。
「チーフ、車の中には男性が1名だそうです。年齢は20歳中から30歳中。燃え残った登録証をFBIが押収し鑑定して登録者と運転手が一致していたか調査中です」
マリーはミュウがまだ殺されていない事を声にせず祈った。その無言の間を、ルナはチーフがミュウをどうやって捜したらいいのか悩んでいると判断した。ルナはその沈黙と視線にマリーへと顔を向けていたが、いきなり踵を返すと出入口まで戻りファイルを持って近くを忙しそうに歩いて来た女性職員の1人に声を掛けた。
「3課のアルタウスを呼んで頂戴」
命じられた女性職員が大部屋の中ほどへ駆け去ると直ぐにスーツ姿のきりりとした欧州人の顔立ちをした中年の男が小走りでルナの傍に来た。
「ニコル、テロ主犯格の姪、ミュウ・エンメ・サロームの所在を探って。コロンビア大学の学生。核爆弾との関連が疑われています」
ニコルと呼ばれた男は1度頷くと踵を返し作戦指揮室の中央へと足早に戻って行った。マリーはその男性とルナのやり取りを見ていてサブチーフが何をやらせようとしているのか思い当たった。
男は情報部第3課GM(/GeneraI Manager:課長)のニコル・アルタウスだった。第3課はあらゆる場所へのハッキング・リサーチを得意としている。ルナはあの短い指示一つであらゆる可能性とデータの総当たりを行わせようというのだとマリーは理解した。
ニコル・アルタウスは作戦指揮室の中心近くにある8角形の向かい合うブースの1つへと戻って来た。8角の外周各辺近くにキーボードが置かれ中心にやや寄った部分に8基のワイドスクリーン液晶モニターがあった。各セクション両サイドには立った人の胸の高さに仕切りがあり作業中は視線に余計なものが入ってこないようになっている。今は5つの席に若い男女が腰を下ろし作業に没頭していた。
「シーナ、オーダーだ」
ニコルが声を掛けると、仕切りの向こうから片手が上げられた。
「なぁあに、ニコル?」
返事をしたのは第3課のチーフエンジニア、シーナ・カサノバだった。
「ミュウ・エンメ・サロームを捜す。範囲は東海岸一帯。D.C.より北、ボストンより南」
「オプションはぁ?」
「顔認証を使い各都市の監視カム群を全てリアルタイムでサーチ。警察、警備会社、個別のビル管理会社をいとわない。それからカードの利用経歴、レンタカーの申請、航空各会社の搭乗登録────」
聞いていたシーナが突然腰を浮かせ仕切り板の上へ強引に顔を覗かせた。そこで作業していたのは、まだわずかにそばかすの残る20代前半の栗毛のウルフヘアをした可愛い女だった。
「あーっ、待って待って。何もかもでしょ。それって優先度は?」
「行方不明の核爆弾にリンクするかも知れない。最優先だ。全て並列処理で検索しろ」
「メインサーバーを限界まで使わせてもらうわ」
仕切り越しに彼女が指を鳴らす音が聞こえニコルは一瞬キーボードを打つ自分の指を見つめた。
「許可する。コプロ(:副演算装置。この場合助手を意味する)は誰に?」
「アイラ、聞いてたでしょう。貴女がコプロ。NYより南の監視カム群照合プロセス全部渡すから」
「はーい、チーフ。シャリア派の名簿作成、後に回すわ。ニコル、第2と第3サーバー使い切るわよ」
仕切りの横隣からシーナの席へブロンドのショートカットの若い女性が顔を覗かせた。彼女はアイラ・トゥワン、第3課セカンドエンジニアだった。
「ああ、アイラ。各カムの照合シークエンスでかなり負荷が掛かる。第4まで使え。それからミュウはコロンビア大学の学生だ。登録されている写真を照合用に流用」
ニコルが液晶画面を見ながら指示した。
「はかどるわぁ。ありがと、わたしの主任。ドーナッツ分けてあげる」
彼女が言った直後仕切りを越えて1個のオールドファッションがニコルの座る席へ飛んでいった。彼がそれを受け取った刹那、シーナが仕切りの上に右手を乗せパチンと指を鳴らした。
「ヒット! JFK(:ケネディ国際空港)、バーニア航空、1920発LAX行き、予約名簿にミュウの名」
シーナが報告すると空かさずニコルが指示を出した。
「アイラ、JFK国内線ロビーのカム、優先精査。特に搭乗ゲートと受付カウンター、待合室の客」
「10秒待って、主任。いま空港警備室のタイムスタンプ(:監視カメラ用のインターバル録画機器)へアクセス中──過去2時間に遡り全乗客の照合シークエンス開始」
「レンタカーの返却名簿に該当のデータ無し、あっ、ミュウの所持するカード判明、ユニモール発行のVISAカード、番号────」
シーナは一気に16桁の数字を読み上げた。直後、彼女はアイラに命じた。
「バージニアの搭乗手続きはまだよ。現在1813、受付開始まであと20分弱。カウンター、ゲート近辺、待合室のカムを確認して」
「照合中、五秒足らずで終了予定──コンプリート。搭乗手続きカウンター近辺、ゲート近辺、待合室にミュウはいません」
アイラは報告を済ませても、もしやと思いさらに捜し続けた。
「まだ空港に来てないのかしら? 各社レンタカーを使ってる記録はないから、キャブ、シャトルバスかも? アイラ、国内線バスストップと営業車の車寄せのカムを洗って」
「了解、うりゃ! 10ヵ所のカムをリアルタイムで照合中、1813のボルト・バス(:米の長中距離定期路線バスの一社)到着。客が10数人、だめ、照合するまでもないわ。目視でもいない。次のバスを待ってみる。キャブの車寄せにはこの時間、車両なし。こちらもリアルで照合中」
「ニコル、待ち時間よ。他にどこ捜す?」
チーフエンジニアが主任に促した。
「各病院、通院経歴を確認」
確証はなかったが彼はミュウが急病で病院にかかったことも潰しておくべきだと考えた。
「市内の各病院サーバーからクラッキング開始。ニコル、病院のカルテ管理サーバーはスタンドアローン(:外部との接続が無いもの)が多いわよ。もっとも最近は医師が学会など出先からカルテの閲覧をする事も多いらしいけど」
シーナが主任に捕捉するとニコルは追加して指示した。
「構わん。ネットから独立してカルテ・サーバーを管理している病院はリスト化、人海戦術で電話を掛け親族を装い通院してるか裏を取る」
即座に彼は2課の主任エレナ・ケイツに応援を持ち掛けた。2課のケイツは応援に加わると確約し、10人余りが各デスクの電話に手を伸ばし指示を待った。
「ニコル、ビンゴ! セントマリア・ホスピタルの管理サーバーにミュウのカルテ発見。性別、年齢、住所、適合。同姓同名で別人の可能性限りなくゼロ」
シーナが大声で主任に知らせニコルは席から立ち上がった。
「シーナ、カルテを俺にまわせ」
「えっ? ニコルあんたドイツ語分かるの?」
「祖父はドイツ人だ」
素っ気なく彼が答えた。
「道理で頑固だもんね」
そうシーナが言いながら仕切り越しに左手を振ると、ニコルのモニターにカルテが映し出された。情報局第3課主任は立ったまま眼を細めそれを見つめ呟いた。
「大変だぞ。急病どころの話じゃない──」
「ねぇ、ニコル」
シーナがふと疑問を感じニコルに声を掛けた。
「なんだ?」
「その娘、核爆弾の場所を知っているとしたら、消される可能性ないかしら──例えば搭乗予定だった便に爆弾を仕掛けられるとか、今いる病院に殺し屋がやって来るなんて」
ニコル・アルタウスは返事もせず椅子に躓きそうになりながら振り返ると、猛然とガンルームへ歩き去った。
シーナは腰を上げて仕切り越しに主任の後ろ姿を見送るとキーボードとマウスを操作して書体認識変換ソフトと翻訳ソフトを立ち上げた。
そこへカルテにびっしりと書かれた筆記体のドイツ語を一定エリアごとに認識識別させテキストに変換し、文章を翻訳ソフトへコピー・ペーストし始めた。翻訳は一瞬だったが、シーナはロボット翻訳に「おバカさん」と呟きがっかりした。
第2肋骨、第3肋骨、複雑骨折した、第5頸椎(脊椎最上部の7つの骨の一つ)挫傷、口外裂傷、縫合された。
翻訳された短文を読み進むにつれシーナのライムグリーンの瞳孔が収縮した。
脳挫傷、脳内出血、脳幹圧迫、患者は、意識しなく、強い混濁が、ICU(:強化看護室)に入った、12時間バイタル監視看護、重体、投与、“リンゲル”、成分輸血、血漿(けっしょう。血液中の成分の一種類)────。
「この娘──殺されなくても死にかかってる」
シーナ・カサノバは驚きながら呟いた口に片手を当てた。




