Part 1-2 The beginning is small ささやかな始まり
Wall St. N.Y.C.(/New York City) NY., U.S. 15:00 Nov.22th
11月22日午後3:00 合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ウォール街
ニューヨークのここ証券街も数日の雪で人通りが少なかった。証券会社として大手のキンダリー証券も例外ではなく店内のロビーは閑散としており受付嬢のマリア・ガーランドは三度目の欠伸を噛み殺した。それでも彼女の視線は時折通りを流れる灰色や黒のかたまりを磨りガラス越しに追いかけ、急な来客に備えていた。ひまな時間をもてあますとろくなことはない。過去に刺さった棘が膿をともなって音もなく蘇ってくる様な気がした。
──I don't know if I have the strength to do over again...──
(:私に、また立ち向かう勇気があるのかしら──)
そう己れ以外に誰にもとどかぬ呟きをもらし、過去の戒めをまた感じると、彼女は自分が選んだこの仕事がほんとうに自分に合っているのか不安になってしまう。
茫洋たる未来の一つの答えに過ぎない今の生き方にどうして自信がもてないのか、あのとき定められた道から外へ踏み出したのは間違いではなかったはずだとマリーは言い聞かせるように念押しした。それでもくすぶるような苛つきにまた怖くなる。
マリーは伏せ見がちになり、こんな事ばかり考えてしまうのは夜遅くに見た夢に堪えきらなくなって目覚めたからだと思った。また叫び声を上げ起きたのだ。久しぶりに精神科医にカウンセリングをうけにいった方がいいだろうかと迷っている時だった。
オフホワイトのジバンシーのコートに同色のつば広の帽子、それにシャネルのサングラス姿の女性が優美にドアを開き入ってきた。
羽を隠した天使。一目見てそう思ったマリーはこの客を逃すまいと背筋を伸ばし急いで肩までのプラチナブロンドの髪を手櫛で調えるとにこやかに微笑んだ。だが直ぐに、他に五人いる受付嬢の誰かにこの天からの使者をとられてしまうという予感にさいなまれだした。
その上品な客が顔をめぐらしてマリーの方で視線を止めると優美に歩いて近寄ってきた。マリーは思わず握りこぶしをカウンターの天板の下で握りしめ小声で「やった」と呟いた。
「貴女がマリア・ガーランドさんね」
名前を呼ばれてマリーは一瞬ドキリとしたがカウンターの隅にネームプレートが置かれているのを気がつきほっとした。
「ようこそキンダリー証券へ。どのような投資をお望みなのでしょうか?」
マリーはこの天使が大口の投資家で間違いないと直感で思い出来るだけ要望を叶えようと決めた。
「複雑で貴重な投資を考えているの。マリー、貴女に出向いて欲しいの。よろしいかしら?」
まるでカンタービレを意識しているのではないかと思わせる様な美しく唄うような話し方だとマリーは感じた。
「喜んで。直ぐに上司の許可をとって参ります。失礼ですが御名前をお受け賜りますでしょうか?」
マリーの問いかけに天使の客は優美な指の動きでヴィトンのハンドバッグから名刺入れを取り出し中に入っていた一枚の名刺を抜き取りマリーの前のカウンターに乗せさしだした。
マリーはそれを眼にした瞬間小さな鏡だと思って手に取った。だが彼女は手にしたのが鏡ではなく名刺サイズのプラチナだと気がついて驚きを押さえ、じっと見つめた。そこには、エンボス(:型を押し付け凹凸模様を作ったもの、キャッシュカードの文字も一例)で名前と勤務先、それに役職が表示されていた。
フローラ・サンドラン
N.D.C. C.O.O.
マリーは唐突に目の前の相手に思い当たり名刺を落としそうになった。NDC──ナショナル・データリンク・コーポレーション。世界一の超特大複合企業でありそこの最高執行責任者兼社長! マリーは何らかの経済紙で撮られていた写真を思い出して天使の顔を横目で見つめた。
間違いない。
これはとびきり上物の取り引きになる。マリーはフローラにしばらくお待ち願えますかとことわり、上司の机まで急ぎ足で歩き名刺を見せて早口でまくし立てた。
超ハイクラスの客に課長は直帰しても構わないので客の要望をかなえるように二言返事で指示した。ベテランのアナリストを付けると彼が提案したが、これが昇進の足掛かりになると思ったマリーは大丈夫ですからと断り急ぎ足でカウンターに戻った。
マリーはアタッシュケースにつめられるだけの資料とマックのノートパソコンを一台入れて椅子の上で蓋にお尻を乗せロックを掛けるとにこやかに立ち上がった。そうしてカウンターを小走りに回り込みNDC社長の傍らに立った。
「お待たせしましたサンドラン様」
フローラは頷き立ち上がりマリーと共に正面玄関へと歩いた。マリーは自分の後ろ姿を目にする同僚たちが何を囁きあってるか聞こえてくるような気がした。
そうよあなたたちに一馬身抜けてみせるの。私のスパートをよく焼きつけておきなさいとマリーは思い元気よく歩いた。
マリー達が歩道へ出ると何処かで見ていたのか1台の黒塗りのリムジンがすぐに走り寄って来て路肩に止まった。どうして正面玄関前に駐車待ちしてなかったのだろうとマリーが思いを廻らしていると、すぐさま助手席から厳つい男が降りてきて後ろの舗道側の座席ドアを開いた。
マリーはその男を目にして一人納得した。NDCほどの大企業ともなるとボディーガードが執事のような仕事をしていても不思議ではない。定位置で駐車待ちして襲撃者にもくろみをさせない防止策で離れた場所に待っていたのだとマリーは考えフローラ・サンドランほどの人物になると身辺警護にも気を使わないといけないのだと一人納得した。
サンドランの後にマリーが乗り込むと静かにドアが閉じられた。彼女は包み込むような柔らかなシートに腰掛けると気が付かないうちに車が走り出した。その乗り心地はマリーが車というものに乗るようになって初めて体験するものだった。動いているのが分からないぐらい驚くほどスムーズなのだ。
マリーは思った。向こう十年の収入をすべて貯蓄してもこの豪勢なリムジンには手が届かないだろう。その様な良い暮らしをしていてもボディーガードが必要なCOOの生きざまが幸福なのか、それとも何の心配もなく地下鉄を利用できる安サラリーの自分の生活が幸せなのか。黙ってるのも気まずくなってマリーはサンドランに声をかけた。
「ミズ・サンドラン、今回の御投資は貴社からですか? それともプライベートなものですか?」
サンドランはマリーの問いかけに微笑み返した。
「多くは会長。これを提案したのは彼だから。だから私は少しばかり賭けをしてみることにしたの。マリーと呼んでもよろしいかしら。貴女に投資するのよ」
マリーはそれを投資先を任せると判断した。
「元本が安全なファンドに致しますか、それともハイリスキーになりますが──」
「ハイリスクになるかもしれないけれど貴女自身に投資するのよ。マリー」
マリーはその意図を計りかねた。同時にその真意を小指の先ほども想像していなかった。