Part 37-1 Welcome back my master お帰りなさいませご主人様
Residenza-Marone 23 W.85 St. West End Av. Uptown, NYC 23:45
午後11:45 ニューヨーク市 アップタウン ウエスト・エンド街85丁目23番地 レジデンツァ・マッローネ
左手で鍵をあけエントランスに足を踏み入れると自動で点いた照明が出迎えた。腕時計を見るともう日付をまたごうとしていた。踏んだり蹴ったりの一日だったとマリーは痛む左肩をかばい右肩を下げた。
一日に二度も刺されたのだ。多分、これが二十代最悪の日で明日からは薔薇色の人生が待っているのだと自分に嘘を吹き込んだ。
アンをからかった咎だと言わんがばかりにルナから半時間以上かけ二日後の社長就任式までに必要な二ダース余りの約束をさせられた。
多くのネットワーク中継や報道記者のカメラのフレームに耐えうるだけのスーツを用意し、指定の高級ヘアーサロンへ行き最低三時間かけセットをしてもらい、ネイルサロンで指先に気品を主張してもらい、最高級ブランドのバッグや小物を揃え、胸元には恥ずかしくない、それでいて飾り過ぎないアクセサリーを探さなくてはならなくなった。
ルナは言うだけ言って、貴女専用ですのでと黒いクレジットカードを手渡した。
上限無しのカードだからと、いくらアメックスのブラックカードを渡されていても、時間を買うなんて芸当は到底できない。就任式は二十四日の午前十時からなのだから、もう三十五時間を切っている。二日分の寝る時間を差し引いたら二十三時間余り、一日もないのだ。
「こんな事なら引き受けるんじゃなかったわ──」
マリーはぶつぶつとぼやきながら、修理中の貼り紙をエレベータードアに見つけ、恨めしそうな面持ちで向きを変えると重すぎる脚を繰り出して階段を登り始めた。
もしもCOOになり、毎日時間に追われる様になれば十代前半の頃に逆戻りだと思った。
それでもサンディエゴの訓練施設を基点に移動の時間さえ寝る時間を奪いとられたあの頃がまだマシかもしれない。朦朧としながらも、絶えず目標が与えられそれを乗り越えれば安らぎが待っていると自分を励ます事が出来た。だけれど──。
ルナが課した何れもが、ハードルのはっきりしない事ばかりだった。
「手足を縛られ、溺れる事に慣れろと海水を満たしたプールに放り込まれたあの時の方がまだ楽だわ」
そう呟いたものの吐き戻した塩水の感触を思いだしマリーは胸がムカムカした。
十分以上時間をかけ、だらだらと自分が借りる六階フロアーが見えるまで登るといきなりマリーは怪訝な表情で脚を止めた。
消して出掛けたはずの部屋の灯りがドア下からわずかに見えていた。しかもその光に何かが横切るのをじっと見つめた。
誰か、室内にいるわ!
誰かを招いた記憶はなかった。なら中にいるのは招かれざる客──泥棒か、強盗なのかと彼女は眉間を寄せた。
勘弁してよと、一瞬泣きっ面になった顔を引き締めた。
取れる方法は限られている。
一つ、大屋さんの部屋に駆け込み、また訳のわからないスペイン語で捲し立てられる。
二つ、警察を呼び、逮捕してもらい、事情聴取と調書作成で明け方まで分署に軟禁される。
三つ、痛む左肩と右手を押して、大立ち回りを演じ、不貞の輩をノックアウトし通りへ放り出す。
三番目に手を上げたマリーはそんな体力があるのかと条件を吐き捨てた。
「くそぅ、“小”立ち回りよ──“こォ”立ち回り!」
左手にドアの鍵を握りしめて、ドアを開いた瞬間、その鍵を相手の額に打ち込む!
そうじゃない! それじゃあ死んじゃうじゃないとマリーは唇を歪ませ鍵穴に鍵を入れながら、怪我した左肩と右手は大して使いものにならないから、パンプスを相手の腹に蹴り込む事にし、急所となる臓器は避けないと、と後で訴訟を起こされた時の事を危惧した。
結局、危うい遭遇戦はいつもアドリブになるのだと彼女は割り切り、静かに鍵を回し、デッドボルトが壁から抜けると鍵を握ったままの左手で勢いつけてドアを押し開いた。そうして眼にしたものに唖然となった。
眼の前でメイドがお辞儀をしている。黒に近い紺のメイド服を着た頭にホワイトブリムを乗せたメイドがスカートの左右をつまんで広げ、片足を後ろに引き丁寧に頭を下げ出迎えられた。
マリーは玄関内の短い廊下に見たものがストレスによる幻覚なのだとドアを閉じかけた。そうして部屋を間違ったのだとまた自分に嘘をついた。
「お帰りィなさいませェ。ご主人様ァ」
閉じかけたドアの先でメイドが巻き舌で挨拶した。巻き舌で──!?──巻き舌で!
「アン、あんた何してるの!?」
マリーは後退りかけた脚を止めて自分の言葉にしがみついた。
「えへへへェ、少佐をお待ちしてましたァだァ」
薄ら笑いをしながら顔を上げたアンをマリーは睨みすえた。
「あぁ、貴女をオペレーターの娘を使ってからかったから、仕返しに来たんでしょ!」
マリーは薄ら笑いを浮かべ続けるアンを指差し言い切った。
「そんなこたァ、ちィィとも、気にしてねェよ、少佐」
顔だけを上げてお辞儀のポーズをとり続けるアンが不気味に思えてきてマリーは慌てだした。
「分かったから──話を聞いてあげるから、そこを通して中に入れなさい」
マリーがそう言い後ろ手にドアを閉じるとやっと呪縛が解けた様にアンが立ち上がった。
「少佐、お前んちィ、せめェな。あれか? 人数を笠に攻めて来る連中を警戒してんのかァ?」
「なんで私が襲われなきゃいけないの!?」
マリーはこめかみに血管を浮かべながらアンを押し退けリビングへ歩いた。
「そりゃァ、NDCの有望筆頭株だからなァ。フローラなんか一年に三回誘拐され掛かり、競争企業が差し向けたヒットマンが五、六回狙いに来たしなァ」
そんな事あるもんかとマリーはムカつきながらさっさとリビングに入るとまた眼を丸くして立ち止まった。
部屋のど真ん中にトライポッドに載った多銃身火器──ミニガンが鎮座していた。しかもドラム缶ほどの多量のベルトリンクの弾薬が横にとぐろを巻いている。
「なによ、これ!!!」
マリーが怒鳴ると後ろから近づいたアンが耳元に囁く様に説明した。
「この入口を押さえたらァさァ、弾薬が尽きる二分は時間稼げるからァなァ。部屋の中でクレイモアぶっぱなすより、いいんでねェ?」
アンの言い種にマリーはもしやと思いながら、ソファへ歩き寄り出入口に近いクッションを取り上げ顔を引き吊らせた。
クッションの下、背もたれとの角に七百の鉄球を内臓する対人地雷が二個も据え付けてあった。
顔を強ばらせクッションを握ったままマリーは振り向きアンに尋ねた。
「アン、あんた私の部屋で戦争を始める気じゃないでしょうね!?」
視線をそらし口笛を吹くように口を尖らせているアンをマリーは睨みつけていてバッテリー・パーク越しに聞こえた爆発音を思い出した。
「アン、あんた今夜、二度もクレイモアを使ったでしょ!?」
「さぁすがァ少佐! ビンゴだぜェ!」
マリーに顔を向け片足で床を蹴り笑顔を浮かべた女のスカートの中からスローイング・ナイフが落ちカーペットに突き立った。
それを見てマリーは視線をアンに向けると視線がぶつかり彼女はいきなり顔をまた背けた。
マリーはアンを睨みながらクッションを握ったままそれを前に突きだし彼女にぶつけた。ぶつかる瞬間、アンが顔を強ばらせ逃げようとし、躱しそこねた。
「あっ、バカ、やめてェ、少佐ァ!」
スカートの下に手榴弾が六個ぶら下がった。
それを眼にしてマリーは数歩後ずさってしまった。
六個ともセーフティ・ピンのリングにスカートの中から伸びた紐で繋がっており、一瞬にして六本のピンが引っ張られ抜けると、セーフティ・レバーが軽い音と共に六個アンの前後に弾けた。
マリーはアンを捨て置いてバスルームへ駆け出すとバスタブへ飛び込んだ。
その背中にぶつかる様にアンが駆け込み飛び込んできた。刹那、連続し重なった爆轟がバスタブに罅を走らせ、彼女らの背後で火焔が走り抜けバスルームの窓を粉砕した。
「おいッ、少佐、大丈夫かァ!?」
アンが身体を起こしマリーを揺するとマリーは一日の疲れからバスタブの底で丸まり眠っていた。その天使の寝顔を見てアンは苦笑いした。
"No nosebleeds."(:鼻血ねーな)
"Anything except the left hand and the shoulders,No visible signs of trauma."(:左手と肩以外は目立った外傷もねェし)
"There's no signs of struggle."(:こりゃ苦しんだ痕もねェ)
"Almost peaceful sleeping."(:安らかな寝顔だァこと)
「さぁて、警察と消防、それにご近所さんにガス漏れの爆発とでも説明すっかなァ──あっ、ミニガンとクレイモア隠さねェと」
そう言ってアンが立ち上がるとバスタブがばらばらに砕けた。