Part 36-5 The one who grabs the hand 手をつかむもの
NDC HQ Bld. Chelsea Manhattan, NYC 21:45
午後9:45 ニューヨーク市内 マンハッタン チェルシー地区 NDC本社ビル
NDCビルに帰りデ・ブリフィーングもなくマリーから解散を言い渡され、それから十五分後にアンは社長室に呼ばれ廊下を歩いて来た。社長室の手前に隣接する秘書室に入るといきなり奥のドアが開きパティとアリスが出てきた。
「それじゃ、チーフ、また明日ね」
そう言いながら二人は出入口際で中へ小さく手を振ってドアを閉じた。そうしてアンの横を少女達が明るく駆けてゆき廊下への扉を押し開いた。
入れ替わりにアンは一度閉じたドアの取っ手を握り押し開き顔を少女達の後ろ姿から社長室室内へ振り向け出入口をまたぐ形に立ち止まってしまった。
いつもフローラが使っていた両袖机の横にスーツ姿に着替えたルナが立っており机の向こうに知らない女が椅子に腰掛けてアンを見つめていた。
「アン、お入りなさい」
ルナから言われアンは室内に入ったものの机の向こうに座る女をじっと見つめたままだった。金髪をアップにしたどう見ても二十歳そこそこの少佐とは似つかない見知らぬ女が腕組みして見つめ返している。
「今回の出動で貴女にチーフからお話があります」
ルナが取り澄ましてそう告げたのでアンは一度ルナへ顔を向け眉間に皺を刻み口を開いた。
「誰だよ、こいつ!?」
「アン、貴女、新任チーフをもう忘れたのですか?」
すらりとルナに言われアンは絡む様にルナに抗議した。
「だぁ、かぁ、ら! こいつ誰だって言ってんだよゥ!」
巻き舌で声を粗げかけアンは机の向こうに座る女を指さした。
「アン、ハミングバードの貨物室で貴女を投げ飛ばした私を忘れた──と?」
その見知らぬ女に告げられアンは口を歪ませ両眼を大きく見開いた。
副社長室のルナの机の天坂にマリーは横座り寄りかかり机の後ろからパティとアリスがニヤニヤしながらマリーの手元に置いたタブレットを覗き込んでいた。
マリーはヘッドセットのマイクに一度咳払いをすると部屋違いの社長室の椅子に座るNDC夜間コールセンターの女性職員に告げた。
「アン、だいたい貴女は、私が装甲車の下へ潜り込んだ時に『阿呆だ』と私をなじりましたね! 真っ先に対応していたのはケイスだけで貴女は私やパティを助けようとは考えなかったのですか!?」
マリーが告げる事を咳払いまで一字一句間違いなく夜間コールセンターのオペレーターはタブレットの中でアンに繰り返していた。
画面の中のアンはいきなり机に背を向けると両手を真っ直ぐに身体の横で下に伸ばし握りこぶしを作り床のカーペットを見つめブツブツと呟き始めた。
『くっそうォ! どうなってやがるぅ! あいつゥどう見ても少佐じゃねェぞォ──』
それを見聞きして少女達はきゃーきゃーと笑いだした。と、いきなりアンはルナへ振り向くとわめいた。
『おいっ、ダイアナ! こいつどう見ても少佐じゃねぇ! お前、頭がイカれたのかァ!』
言いながらアンは数回夜間コールセンターの女性職員を指さした。
『何を言ってるんですか、アン・プリストリ? この人が我々を指揮するとフローラも認めたマリア・ガーランドじゃないですか』
ルナにハッキリと否定されアンはまたしてもくるりと机に背を向けカーペットに向かい呟きだした。
『変だァ!? どうなってやがるゥ!? くそぅ────』
とうとうパティもアリスもお腹を抱えてゲラゲラ笑いだした。
「“キツい口調で”──だいたい、アン! 貴女は私の事を俺のものだと指揮官に対して大変失礼だと思わないのですか!」
マリーがそう指摘するとオペレーターが指示された通りに厳しい口調で背中を向けたアンへ告げた。
いきなりアンは引き攣らせた顔だけを椅子に座る女へ振り向けぼそりと呟いた。
『てめぇ──化け物か何かだな!』
「私を少佐、少佐と言うに及ばず化け物と愚弄するのですね、アン!──“アンを指さしなさい”」
マリーがそう言うとオペレーターの女性職員はブロードウェイ劇場の女優の様に勇ましく言い渡し最後にアンへ力強く指さした。
その刹那、机に振り向いたアンが両手を振り上げ数歩後ずさった。
それをじっと見つめていたルナはアンが不敏に思えてきたが、直後その考えをかなぐり捨て瞳を丸くした。
いきなりアンが社長室の両袖机まで歩み寄るとその手前角を右手でわしづかみするなりこめかみに青筋を立て両脚をふんばった。
一瞬だった。アンは片腕だけで横様に黒檀の高級事務デスクをひっくり返した。
轟音と共にカーペットの上でひっくり返った机の後ろに顔を引き攣らせたオペレーターの女性が革張りのチェアーに縮み上がってしまった。
それらをタブレットで見ていて少女達は「うわっ」と声をこぼし息を呑んだ。慌てたマリーは直ぐに指示を出した。
「“冷静な口調で”──貴女をどうするか、明日言い渡します。今夜はこれで結構。お帰りなさい」
同じ事を言い渡されてもアンは肩を怒らせたままそのオペレーターの女性を睨み場が固まってしまった。
『どうしました、アン? チーフが今夜はこれでよろしい、と』
ルナに言われアンはいきなり力が抜けた様に両手を落とすと一つ尋ねた。
『“今夜は”? ────明日もお前がいるのか?』
そのマリア・ガーランドを名乗る女へ押し殺した様な声で問い掛けるアンは亡霊の様な顔になっていた。
「ええ、もちろんですよ、プリストリィ」
マリーがわざと発音違いで彼女の名を明るく言うとオペレーターが正確に止めをさしアンは唖然としたまま仕掛け時計の人形が踊った後に穴へ戻る様に両肩を落とすなり秘書室へと出て行った。
途端にルナはカメラの方へ歩いて来ると右手の人差し指を立てレンズを見つめながらマリーをとがめた。
『満足ですか、チーフ!? オペレーターを職務に戻します!』
マリーは遊びの分からない女だとルナのことを思いながらタブレットに人差し指と中指をそろえて軽く敬礼してみせた。
「さあ、終わりよ。あなたたち。アンが馬鹿力の持ち主だと分かったでしょ。彼女をからかい過ぎると厄の元よ。アンに“貴女の”チーフは私だと教えに行きます。来ますか、パティ、アリス?」
少女達が勢いよく返事をしてバネ仕掛けの様にドアへ駆けた。
会長室でソファに腰かけフローラは向かい合ってヘラルドと会話をしていた。
「いいじゃないか。丸く収まったんだから」
「良くないわ。街にフレアをばら蒔くように命じ、さらには2・5マイルもの考えられない距離から核弾頭を狙撃してしまう彼女が適任なのか、大いに危惧するわ」
言い切りフローラがため息を洩らすとヘラルドは諭す様に彼女へとんでもない事を打ち明けた。
「マリーは、これから先にもっと途方もない事をやらかす。端的に言うと一国どころか、国連加盟国すべてと同時に賭けをする様な人なんだ。その度に君は彼女を咎める気なのかい? 地球の反対側にいても、もたないぞ」
彼があくまであの新任を擁護する気なのだとフローラは唇を歪めた。
「私はただ──」
言い掛けてフローラが口ごもるといきなりヘラルドはソファから腰を浮かし、二人の間のガラステーブルに両手をついて身を乗り出しフローラは眼を丸くした。
「フローラ、君は私がなんと言おうと、何れ彼女を受け入れ──奈落の底へ落ちかけたマリアの窮地を救う事になる。君が彼女に手を差しのべるのは宿命なんだよ」
彼のオレンジの瞳を見つめフローラは思い返していた。
何度かあった。
この人から堪えられない様な事を聞かされてそれが尽く実際にそうなった。
だけれど──貴方を盗られるぐらいなら、そのマリア・ガーランドの窮地に私は絶対に立ち合い──つかんだ手を放すだろう。突き放してやる!
そう決心してフローラはこの場を彼に折れる事にした。
「分かったわ。彼女の社長就任式に出席してその脚で私は欧州支社へ向かいます。今夜は疲れ過ぎたわ。お休みなさい、ヘラルド」
フローラはそう告げ立ち上がり松葉杖に支えられ会長室を後にした。ドアが閉じるとヘラルドは隔てた扉を見つめながら愁いを帯びた眼で呟いた。
「フローラ、君は自身が引き込まれると分かってもマリアから決して手を放さない。両手でつかんだ助けを求める彼女の手を握りしめながら──」
シリウス・ランディはエレベーターを出るなり、なぜ社長に呼ばれるのかその理由を考え続けながら通路を歩んだ。
病院でニコル・アルタウルスから言い渡された“精査”するの言葉は未だ実行されず、彼からもあれ以上問いつめられる事はなかった。
まだ私の本職である中央情報局職員という肩書きはまったく露呈していない。
病院で襲撃者の一人を倒し単にニコルを助けたという行為をフローラから称賛されるのかとも思ったが、もう夜更け前の十時を回っており核爆弾テロの阻止が成されたからと、大企業の長がこんな夜遅くにするような事ではないと思った。
彼女は社長室の前に立つと一瞬息を殺し、すべてはアドリブで対応出来る範囲だと決意するとノックしてノブに右手を当てドアを押し開いた。
初めて足を踏み入れるそこは廊下よりも明るかったが眩しいと言うほどではなく、部屋の片側に壁一面をスモークガラスで被った棚がありその前に簡素なそれでいて安っぽくない机が備えつけられていた。
机の上はよく整理されており中央に揃えられた書類と数冊のファイル、片側にインカムがテーブルの線に平行に置いてある。
正面奥にはもう一つ扉があり彼女は今、自分がいるこの部屋が秘書室なのだろうと判断し、奥の扉まで歩くと前に立ち一度ノックをした。
そうしてまた同じように扉を押し開くとテニスコート半面ほどの広い部屋だった。奥のブラインドが降りた窓の前に──ひっくり返った高級そうな両袖机が一つあり彼女は一瞬眼を強ばらせた。その後ろの椅子には誰もおらず、転がったインカムから受話器が外れていた。
その前に一組のオフホワイトのソファーがありそのどこにも人の姿がなかった。
彼女は一瞬部屋を間違えたのだろうかと考え、いいや社長室のあるフロアーを覚え間違うはずはないと否定した。では、病院を出るときにニコルが本社に戻り社長室に行くようにと言った事が間違っていたのだろうかと思い、あんなに用心深い男がそんな事もあるまいと思った。
それではフローラ・サンドランが現れるまで待たせてもらおうとシリウスは室内に数歩足を繰り出し開いていた扉を手首のスナップ一つで放し戻した。
何も感じたものがなかったはずなのに、唯一の何かから、いきなり声がするよりも速く瞳を大きく開くと一瞬で笑顔に切り替え振り向いた。
ドアを支える蝶番のある袖壁の際に背をあずけ見知らぬ女が腕組みして立っていた。副社長のダイアナ・イラスコ・ロリンズの様な色合いのプラチナブロンドのセミロングに近い髪型をした安っぽいスーツ姿の女だった。
「ひっくり返った机は気になさらないで。私、癇癪持ちだから。貴女がシリウス・ランディ希少資源開発課長ね」
笑えない冗談だとシリウスは思いながらその女をじっと見つめた。本社では一度も見た事のない女だった。女は青に紫の混じる不思議な色合いの瞳を細め微笑んだ。
「どなたですか? 社長室で何を?」
シリウスが尋ねると女が笑みを仕舞い瞳を大きく開き彼女を見つめた。
「私の名はマリア・ガーランド。貴女の会社の新しいCOOです」
シリウスは一瞬、怪訝な面持ちになりすぐさま片側の口角を持ち上げ否定した。
シリウスはこの女は頭がおかしいのかと考え、いいや勝手に社長室に入り込み私を欺こうと何かしら企んでいる可能性もあると予想し、理詰めでいくよりもしばらく歌わせて様子を探るべきで想定される反証は──だと幾つかの質問を頭に画きながら返事をした。
「ガーランドさん、貴女が仰っている事の意味が──新しい社長ですって? どうかしてるわ。夕刻までそんな報告は──」
シリウスの言葉をまるで止める様にマリーは組んでいた腕をほどき右手をシリウスに差し出すと人差し指を立てた。
「中々な人ね。私が声を掛ける前に気がつき振り向いただけでなく、私が言い出しつくした後に否定する言葉組までも選んでいる」
すらりと言いマリーは腕を戻すとまた胸の前で組んだ。
耳にした瞬間、シリウスはまたしても唇を歪ませてしまった。
「ガーランドさん、何度も言うようですが貴女がおっしゃてる意味が──」
「とぼけなくて結構よ。あなたがニコルを助ける為にあの襲撃者の顎を叩き上げ、その男の鼻にペンを打ち込み、股間を蹴り上げ再び顎に膝を蹴り上げたのも私は知っていますから」
ガーランドと名乗っている女がどうしてそこまで知っているのかとシリウスは驚いた。
もはやその心の内を隠す事に意味はなかった。
「もう夜遅いから、話を早く済ませましょう。シリウス・ランディ──貴女、明日からNDCの対テロ情報部隊要員として働いていただきます。もちろん、CIAのアセットとしての職務も継続しながらです」
シリウスは心臓をつかまれた様な驚きに口をだらしなく開いていた。
どこで、いつの時点で中央情報局職員としての肩書きが分かってしまったのか──ヘマは過去に一度もしなかったはずだと自分に言い聞かせていた。優秀な政府職員であるこの私がと。
「そうよ。貴女は“ヘマ”をしてない。優秀な政府の官給品よ。でも私は貴女にもっと複雑高度な能力を要求します」
シリウスはガーランドというこの女がまるで表情をよむ様に自分の考えている事を繰り返している事に気がつき鳥肌立った。
その刹那、女が口にした内容に戦慄が走った。
「シリウス、二重スパイになりなさい」
黙ってシリウスはガーランドという女を見つめていた。
問いたい事を数十も思いついたが、今、何か言えばもっと恐ろしい言葉を返されそうで彼女は口に出来なかった。
「怖がらなくてもいいわ。貴女は姉──パメラを超えたいんでしょう」
女が告げた事はいまだかつて他人に口外した事はなかった。それをなぜこの女は知りえたのかまったく理解出来ずにシリウスは愕然として見つめるしかなかった。
「その道を与えるのが貴女の最も望む私の一番の報酬よ。もちろん、年報は今より遥かに多い額を約束するけど」
シリウスは震えかけた唇で深く息をし尋ねた。
「本当に────姉さんを越えられるの?」
「ええ、約束するわ」
いとも簡単に言質を渡したこのガーランドを信用出来るのか? とシリウスはわずかに考え不思議とそこに迷いを感じずに返事をした。
「分かったわ」
その言葉に女が瞳を丸くして微笑んだ。シリウス・ランディは今になってマリア・ガーランドの虹彩が宝石のラピスラズリの様なのだと理解した。