Part 36-2 Decay 崩壊
Quay Promenade of Battery Park Lower Manhattan, NYC 20:45
午後8:45 ニューヨーク市 ロウアー・マンハッタン バッテリー・パーク 波止場遊歩道
テロリストのイズゥが嚇怒を顔に刻みながら引いた刃物をありったけの力で突き出すために右に上半身を捻りながら駆け込んで来る様に、男の目を正視しながら直線的に相手が刺し込んでくる様に顎を上げ頸を差しだしそう仕向けた。
一度しかチャンスはない。しくじればミュウ・エンメ・サロームの元へ彼を謝りに行かせる事など永劫に訪れなくなる。
どれほどの痛みがあるのだろうかと、意識の隅に十代前半の頃、本物のナイフで格闘訓練を初めて行った時の事を思い出した。緊張感は硬質ラバー・ナイフの比ではなかった。
緊張し身体が思う様に動かず、逃がし遅れた左腕にその切っ先が突き刺さった。貫かれる瞬間、痛みはない。溢れだす血を追いかけ脈打つ様に激痛が沸き上がると堪えられない痛みと震えと熱を感じながら、刺された腕が身体から繋がりを失った様に冷たくなっていった。
感じてしまった万華鏡の様な過去のリフレインを押しやった先に、イズゥが急激に迫り彼の顔へ手が届きそうな近さになり、 男が捻っていたバネを開放し一気に右腕を前に突き出し青白い稲妻が激しく迫ってきた。刹那、マリーは幾つもの身体の輪郭の残像を曳いて瞬時に身体を右へシフティングした。
突き出した刃がサーヒラの首を打ち抜くと信じていた。それなのに女が砂嵐の中を舞い飛ぶ砂つぶの様に瞬間に左へ身体を移した。
イズゥは右手に握るナイフの切っ先がサーヒラの左肩に入って行くのをすでに止めようがなかった。その寸秒女が身体を横へと大きく捻った。
甲高い音が走り抜け、彼が握りしめた半月刀が途中から崩壊し裂けた。
イズゥは手首を曲げ手にした折れたナイフを見つめ女へと視線を戻した。その時になって女が歯をくいしばり、唇を歪ませ、寄せた眉間の皺に耐え難い苦痛を内に綴じ込めているのが理解出来た。そうして女が口を開き一度深くため息をついた。
「はァ───痛いわね! 約束よ。ミュウへ謝りなさい!」
こんなことがあるか!
怒りは消え失せていたのにイズゥは戦い抜いてきた兵士の反射神経で女に飛びつく様に踏み込み左手で女の太股に着けたスカバードからファイティング・ナイフを引き抜きわずかに引いた腕を女の顎下から脳へと振り上げた。
半月刀を受け入れる覚悟はしていた。問題は男の突き出す刃の青白いベクトルが左肩の鎖骨と肩胛骨が作りだすわずかな隙間に収まるかだった。
前面からの角度からその作りだす隙間はほんのわずかだった。
そこへマリーは切っ先の斜めに切り落ちた刃が入った瞬間、奥歯が割れるのではないかというほど歯を噛みしめ痛みを押さえ込み、肩上部の僧帽筋と鎖骨の後ろを斜めに横切る広頚筋で絡めた瞬間上半身を右へ最大限捻った。
その瞬間、男の手にする刃が歪み折れた。
狙い通りに男の自信の源を叩き折った直後堪えきれそうにない激痛を言葉として吐き出した。
「はァ───痛いわね! 約束よ。ミュウへ謝りなさい!」
言い切る刹那あろうことか男はさらにマリーへ踏み込み左手で彼女のナイフを抜き盗りそれを顎の下目掛け振り上げるのが圧縮された空気の感覚だけでマリーには分かった。躱すなんて間合いはなかった。マリーは咄嗟に右手を引き上げ手のひらで顔を守った。
手の筋の間隙をカミソリで紙を切り裂く様に易々と刃が突き抜けた。
それでも男のナイフを握りしめた手に被せる様にマリーは手の腹が触れるまで押し下げ止めていた。
マリーの手の腹から流れ出した血が男の拳から手首へと筋を曳いていた。マリーは痛みの塊である右手の指で彼の拳をそっと包み、身体から流れ伝わる私の温もりを彼が理解出来ればと願った。
そうしてマリーがイズゥ・アル・サロームを見つめると彼の顔にとり憑いていた殺意が跡形もなく消え失せていた。
「お前──そこまでして──俺をミュウに────」
イズゥのその言葉にマリーは一度頷くと彼はいきなり彼女の手のひらを刺し貫いていた刃物を引き抜いた。力なく彼がナイフを握りしめていた左手へマリーは左手を伸ばしファイティング・ナイフを返してもらった。
「どうしてなんだ────?」
「貴方が謝らなければ、彼女は赦されないからよ」
マリーがそう教えた直後、多数の銃口が自分とイズゥに向けられた事を知り彼女は愕然とした。男を折る事と激痛に延伸していた六勘が今更ながらに働き出したのを後悔したその時、よく知っている声に警告された。
「動くな! 動けば容赦なく射殺する!」
それでもゆっくりと横へ瞳だけを振り向けたマリア・ガーランドが見たのはカービンを構えた数十人のシールズ兵を引き連れた父──マイク・ガーランドだった。