Part 35-4 Complete コンプリート
Newry Northern Ireland, Great Britain 09:10 Feb 13 1989 /
Brecon Beacons National Park Wales South, Great Britain 23:15 Dec 2 1999
1989年2月13日午前9:10 グレートブリテン(イギリス) 北アイルランド ニューリー /
1999年12月2日午前23:15 同国ウェールズ南部 ブレコン・ビーコンズ国立公園
珍しく雲の少ない空だった。
それでも霞み青空とはとても呼べそうにない北アイルランド特有の冬空だった。
風は強く冷たく板塀に張られた何かを訴える小さなビラ紙が剥がれそうに暴れていた。イギリス領北アイルランド南部の田舎町ニューリー。人口は少なく数千人の人々が寄り添う様に暮らす静かな片田舎だった。駐留する英国軍人や英国寄りの政治家を狙うIRAのテロが頻繁に起きるベルファストに比べテロとは無縁ともいえる中立の町だった。
朝の礼拝が終わり教会のドアを押し開き階段を駆け下りてきた子ども達がいた。小さな男の子と手をつないだ女の子が舗装されてない道へ出ると女の子が男の子の手を一生懸命に引っ張り少ない店が並んだ商店街の端にある小さな店に急いだ。
「ケイスお兄ちゃん、急がないと売りきれてなくなるよ」
五才になったばかりの妹のアビーが二つ年上の兄ケイス・バーンステインを急かした。
「だいじょうぶだよ、アビー。マッケンさんの店の動物パンは焼けたばかりだから売りきれてないよ」
「ううん、一ぴきもいないかも。みんなが買いにくる前に、みんな逃げちゃうよ」
そう言ってアビーはお下げの髪を振って兄の方を見て、ケイスが首を横に振り何かを言おうとしたら、アビーはまた前へ振り向き兄の手を前よりも強く引っ張った。
ケイスはこの時間にはまだ買い物に来る客なんてほとんどいない事を知っていた。珍しくマッケンさんのパン屋の傍に四つドアの古い車が停まっていた。いつもなら短い目抜通りにはほとんど人を見かけない。
だけど今朝は違っていた。通りの反対側から町長のマカシーさんが恰幅も身なりもいい鼻髭を生やした見かけない人に付き添い何かを説明しながらケイスとアビーの方へ歩いて来ていた。
ケイスはたぶん、何かの投資家さんか北部の大きな町の役人さんだろうと思った。だから見かけない車が一台道端に駐車しているんだと思った。この町の者で車で買い物に来る人はいない。みんな近いから歩いてやって来る。
アビーが兄から手を放し先にマッケンさんの店のショーウインドに駆け出して直ぐの事だった。丁度、町長と知らない男の人が停まった車の横に差し掛かった。その瞬間、車の中が真っ白に光り四つドアが弾け飛び白とオレンジの火焔が辺りに膨らんだ。遅れてきた爆轟にケイスは地面から両足が浮き上がり十ヤードも吹き飛ばされた。
「アビー──」
地面に叩きつけられたケイスは妹の名を呟きうつ伏せに倒れ気を失ってしまった。
「塵は塵に、灰は灰に、幼きアビー・バーンステインが神の身元に迎えられますように」
神父が最後にそう締め括ると、墓穴に納められた小さな柩に土が掛けられ始めた。
左腕を包帯で首に吊ったケイスは震える片手で大きすぎるスコップをぎこちなく操り、二度と目覚める事のない妹へ土を掛けた。両親は車を誰が爆破しアビーを死に至らしめたかなんてケイスに話そうとはしなかった。だけど葬儀に来ていた大人達が話しているのを彼は耳にした。
北アイルランド解放を訴える一味がイギリスに歩み寄る姿勢を見せていた町長と話し合いに来ていた隣街の町長を爆殺したのだと。それがテロというものであり妹はその犠牲になったと知った。その後から押さえきれない怒りと悲しみが、彼の歩むべき道を指し示していた。
憑かれた様に彼の叫びを見つめていた。心を揺さぶり続けられマリーはこれがケイスの消しようのない残響であり、テロと闘う源なのだと気がついた。
その一瞬、墓を前にうつ向いた少年の後ろ姿からマリーは急激に引き剥がされると、別な記憶の泡に落ち込んだ。
夜の帷に溶け込んだリンクスAH.1の輪郭を朧気に感じ、回転するローター・ブレードの生み出す強風がその存在感を確実なものにしていた。辺りは積もった雪が舞い上がり、冷たい塊が幾つも容赦なくケイスの身体を叩いた。
開かれたスライドドアの開口部からキャビンに乗る英国陸軍特殊空挺部隊の少佐がベレー帽を被った頭を向けていた。
「いいかケイス・バーンステイン軍曹。これが最後の精神と体力の試験となる。このブレコン・ビーコンズ国立公園の最も高いペン・イ・ファンを越え複数の峰を縦走し、二十時間で回収地点へ向かえ。夜明けを待てば持ち時間はなくなる。滑落したり凍死した場合は訓練中の事故死として遺族の元へ戻される。了承したか?」
「分かりました少佐。一つ質問を宜しいでしょうか?」
「質問を許す。何だ、軍曹?」
「今期のこの試験を合格出来た兵士は何名ですか?」
「36人挑んで0人だ。以上だ軍曹、耐え抜け」
少佐はそう告げスライドドアを閉じた。途端に回転の増した四枚のブレードが旋風を巻き起こすと、離陸も見送らずにケイスは白い息を吐き暗闇に浮かぶ数多の星を断ち切る稜線へ向け歩きだした。
気温は華氏二十三度(:約-5℃)を下回り着ている迷彩戦闘服は通常のもので容赦なく体温を奪われた。背負うベルゲンには防寒着など入ってなく、六十ポンド(:約27㎏)の役にもたたない石が入れられているだけだった。その石を一欠片捨てて徒破出来たとしてもSAS(:英国陸軍特殊空挺部隊)不適合の烙印を押されるのは分かっていた。
凍死したくなければ、ひたすら歩けと言われている様なものだった。ケイスは部隊の噂でこの冬に三人がこの試験で死亡したと聞いていた。だが、その四人目になるつもりは毛頭なかった。
戦闘服の内に首から下げたタグのチェーンに写真を入れたロケットを吊り下げていた。そのアビーの笑顔に服の上から右手をあて冷たく見下ろす山々の稜線を見つめ呟いた。
「折れるわけはない。そうだよな、アビー」
氷つくブーツを懸命に繰り出しケイスは魔神の様に歩き続けた。
彼の言葉を耳にした、マリーはまたしても彼の別な過去に呑み込まれた。
ケイスのあまりにも強いテロリストへの敵意と執着心がどの記憶にも染み込んでいた。その強い感情にマリーは溺れそうになっていた。自分も子供の時からテロリストを敵視していたが、今、感じ、経験しているすべてはあまりにも強かった。
彼がNDCの特殊部隊へSASからシフトしたのは政治的判断から追いつめたテロリストに手を出せない状況を嫌ったからだった。フローラの指揮するSTARSはテロリストを狩りまくった。それが彼の安寧であり、同時にルナを守るというグレート・ブリテン政府の命令で軍籍を抜ける事を許可されても負わせられた責務だった。
今やケイスの様々な経験と過去一つひとつが水泡の珠の様にマリーの周囲を取り囲み圧していた。
そう、アビーのために──強く自分自身が願っている事にマリーは唐突に気がつき愕然とした。
ケイスの過去がすべて自分が経験してきた様に感じていた。ああ、わたしはケイスの何もかもに呑み込まれようとしている──わたし、わたし自身はこのまま膨大なかれの知識に埋没してしまうんだわ──わたし、いったい、なにを、めざしていたんだ──ろう?
わたしは──誰なの?
押し寄せてくる他人という濁流の深みに呑み込まれていた。自分自身が経験してきたすべてが上書きされ次々と消されゆく。心の片隅でケイスへレベル幾つでダイブしているのかと恐怖を感じたがそれすら掻き消されてしまった。
最早、深みからは引き返せない分岐点を過ぎ、彼という完結した魂の渦巻く濁流に引き込まれラピスラズリの瞳が動揺に染まりきり拡散した虹彩は、自我の経験と記憶と感情の織り成すすべてが解れ四散してゆく最後を見つめていた。
マリーは力尽きる寸前、自分を引き止め様と右腕を伸ばしつかめる何かを探し求め──。
突然、魂を揺さぶられた。
伸ばしたその手首を何の前触れもなくいきなりつかまれ引き上げられた。
そう意識した寸秒、後ろから抱きしめられていた。あれだけ息も出来ない様に押し寄せていたケイスの残響は掻き消えていた。それなのにそのすべてが融合し確かに内に存在しているのを微かに感じた。
──迷妄の子よ、心安らぎましたか?──
声ではなかった。かといってパトリシアのリンクの様な眼底から差し込んでくる言葉でもなかった。頭の奥から湧き出てくる清み渡った他の者の意識──思念。
「誰なの、貴女は?」
──思い出せぬも、無理ありませんね、愛しのマリア──
とてつもない優しさが思念に溢れていた。だけどそこまで優しくされるほど思念の主に思いあたらず、後ろから抱きしめるそのものを見ようとマリーは首を回そうとした。その顔にすり寄った頬に何ものにも代えがたく安らぎを覚えその触れ合うものが耳元で囁いた。
──我らが父なる万物の創造主デウスが創りし闘いの女神マース。数多の試練を乗り越える大いなる力と尽くしてきました──
「デウス!? 神話の?」
──あのものが生み出され永劫の刻が流れ、そしてこの先、百八十八という人の年月の節目に虚無の闇がもたらす大惨禍を控え、凄惨な干戈を交えこの世界すべてを救うためにあのものに遥かに優る闘神として我らが父は貴女を創造されました──
「創った? 闘神? 凄惨な干戈? いったい何のことを?」
──そう、貴女のポリバレンス(/Polyvalence:多様性)を授けたのは大いなる父。彼が徒死することを許しません。貴女はあらゆる能力を身につける事のできるフル・スペックなのよ──スプレマシー・マリア──
「あらゆる能力? なぜ私なんかが?」
──貴女はまだ卵から生まれたての天使。これから先永い年月を重ねあらゆる闘いに學びそれを乗り越え闘神となる定め──
「待って! どうして私なの?」
──宿命と心得なさい。さあマリア、貴女の力を開華させ歩き始めなさい。覚醒の時が訪れたわ──。
そのものが告げマリーを抱く腕が緩め始めた一瞬それが耀く翼となり大きく広がり、辺りに煌めく白銀の羽根が舞い上がった。その光景に見入れられてラピスラズリの瞳を丸くし耀かせたままマリーが感じたもの。これが最高のエクスタシーなのだと知った。
「待って──まだ聞きたい事が──貴方は誰なの?」
──貴女を目覚めさせるために遣わされた我が名はミカエル──何れ貴女の億万の兵、数多の剣となる者。さあ、自信を胸に抱きお行きなさい──
幾つもの舞い降りてくる白銀のそれをマリーは静かに見つめていた。押さえきれないぐらいに気持ちは勇躍し、一片のそれに両手を上げ掌を揃え差し伸ばした指先で受け止めた。それは輝く羽。穢れなき証。その刹那、ラピスラズリの虹彩が急激に収縮すると彼女はすべてを掌握した。
マリーが振り向き見上げた先に、翼を広げた天上人の姿が眩いばかりの耀きに溶け込んでゆく狭間、周囲で舞い踊っていた幾つもの羽根が、一瞬にして辺りに舞い上がり止まった粉雪一つひとつとなり、その瞬間すべてがゆっくりと動き始めた。
その吹雪の先に見えたのは刃物を構え今にも飛び掛からんとするテロリストの男だった。
イズゥ・アル・サロームを眼にした須臾、マリア・ガーランドは自分へと呟いた。
「コンプリート!」