Part 33-2 Crying 慟哭(どうこく)
Suburbs of Boston, Mass. 20:15
午後8:15 マサチューセッツ州 ボストン近郊
男の手にするピッチフォークだけに眼が向いているわけではなかった。赤いミュールが、首からぶら下げられたビニールの安物のエプロンが、そしてそいつのニヤついた表情すべてが脅威だった。
そいつが片手でピッチフォークを後ろに引き、その尖った五つの先を次に突き出して来るとアリシア・キアは間合いから逃れ様と後ずさった。
それ以上の速さでそいつがミュールの踵をバチバチ言わせ迫って来る。
その瞬間、そいつが出てきた出入口の広がる明かりの際に彼女は自分が落としたグロックがあるのを見、刹那踵を引っ掛けてしまい派手に地面へ尻もちをついた。その時、急激にそいつがピッチフォークを前へ突き出してきた。
駄目だ! 刺される!
アリシアは防ぐ金目の物が何かないかと焦り咄嗟にベルトのカフスケースから手錠を抜き出しその片側を握り締めたまま振り上げた。
刺された、と彼女は息を呑んだ瞬間眼にした光景に驚いた。握ってない方の手錠の輪がピッチフォークの一本のスピアに引っ掛かり彼女の伸ばした手の先から短い鎖が延びきりピッチフォークをアリシアの顔の寸前で食い止めていた。
そいつが慌ててピッチフォークを引き戻そうと腕を引き始め、彼女は手錠が抜けたら今度こそ刺されると猛然と跳びだしそいつの脚目掛けタックルした。
そいつはミュールが禍して退き損ね農耕工具を手にしたまま後ろ向きに倒れた。
アリシアは咄嗟にそいつの足に絡めた手を放し這い登る様にそいつの腹まで移ると思いっきりそいつの顔面目掛け拳を打ち込んだ。顔が歪み間違いなく鼻が折れたのが拳の感触一つで理解できた。その一発でカタがつくと彼女が思った瞬間、両腕をつかまれアリシアはそいつの頭越しに投げ飛ばされた。
背中から地面に落ちた彼女は肺からすべての空気を絞りきった。それでも急いで体勢を立て直さないといけないとアリシアが振り向いた時にはもうそいつがピッチフォークを握り締め立ち上がるところだった。
危機感を持ってそれを見つめた彼女の左手の指先に硬いものが触れ落雷の様な衝撃に反射的にそれをつかんだ。見もせずにしっかりと握り締めたその感触が彼女に沸き上がる勇気を与え左手に握ったそれを男へ一直線に振り上げた刹那、その男は投げるようにピッチフォークを突き出してきた。
三度響いた炸裂する発砲音にテーブルに縛りつけられているアネットは言い知れぬ戦慄を感じた。
私を救おうとしてくれている誰かさんをどうか勝たせて下さいと彼女は三度も神に願った。
そうして頭を持ち上げて静かになった外の様子を開いた出入口越しに見ていた。
そこに希望が見えてくるのか、それとも自分を飲み込もうと闇が蠢くのかと震える唇を押し止め出来なくてアネットは一心に見つめていた。
その開口部にゆっくりとピッチフォークの尖った櫛先が見え始めた。
「そんな──」
彼女が呟きその数本に滴る血糊が何を意味しているのかと否定しようとしてしきれない自分が身体の芯から震えだし始めている事を漠然と理解し見いった。
その木製の柄を握り締める手が──一人の見知らぬ女性が──右手にピッチフォークを左手に拳銃を握り締めた保安官の制服を身に纏った女性がゆっくりと戸口に姿を見せアネットの方へ顔を向け信じがたいといった表情を一瞬だけ浮かべ彼女の方へ歩き寄って来た。
「だいじょうぶよ──彼奴は私が倒したから」
そう告げられ大丈夫じゃないのは貴女なのよとアネットは思った。
その女性のシェリフは両方の上腕が血だらけで肘の先まで朱に染まっていた。その大怪我をしているはずの両手で縛りつけている革紐をほどきながらシェリフはもう一度言い聞かせた。
「だいじょうぶだから」
耳にした言葉を理解してながらそれでも込み上がる激情を抑えきれずにアネット・フラナガンはしゃくり上げながら大泣きし始めた。