Part 29-2 Burkina Faso ブルキナファソ
Suburbs of Boston, Mass. 20:05
午後8:05 マサチューセッツ州 ボストン 近郊
獣用の罠に恐ろしい力でパンプス越しに締めつけられ、その伸ばした足を引き戻せずに何かしらないかと顔を上げた時柱の後ろから見つめていた男は、アネット・フラナガンを物の様に見下ろしていたが、ふと視線を逸らすと柱を回り込み、自由の利かなくなった彼女の足へそい爪先へ歩いた。
彼女は男が何を始めるのか恐ろしくて眼を離せず頭の先から足先まで見つめていた。
背を曲げ両手をだらしなく下げたまま歩く男はそれでもかなり上背があり、粗末にも見えるくたびれた灰色のトレーナーを着ており、いつ洗ったか分からない様な擦りきれたジーンズを穿いていて、靴は──素足に赤いミュールを履いているのが見え彼女は瞼をひきつらせた。
男がアネットの足下に立ち止まると、罠に咬まれた彼女の右足をしばらく見下ろし、いきなり閉じた罠の片側にミュールの足裏を押し当てた。その乗せられた体重にパンプスを喰い破った鋼の牙が右足の小指に食い込んだ。
瞬間、アネットは猿ぐつわを噛みきりそうなほど歯を喰い縛り激痛に堪えた。あまりの痛みに一瞬で気が遠退き──自分がどうしてこんな納屋みたいな場所にいるのか理解しようと意識し、くらくらする頭で足を見るとあんなに強く食い込んでいた罠がはずされて足の外に放り出してあるのを見て、いつはずしたのだと考えたが記憶が跳んでおり、アネットは自分が気を失っていた事に気がついた。
どれくらい気をなくしていたのかと考えながら辺りを見回すと男がおらず室内の雰囲気が変だと彼女は思った。
あの正面の壁際にあった様々な刃物が下がったボードの様な物が移動していた。部屋右手の壁の前にボードがあり、その下だけがコンクリートで打たれている事に彼女は気がつき、コンクリートには膝ほどの幅の細い溝が二本壁の外へ走っていた。
その溝を跨ぐ様に長テーブルが置かれており、そのテーブルにはビニールの様なシートが被い垂れ下がっていた。
シートには赤黒い乾いた何かが幾筋も垂れていてそれらがテーブルの上から流れたのだと理解し、さらに見つめているとテーブルの脚が頑丈そうなパイプでその上際から鎖が三フィート(:約91㎝)ほど垂れ下がっていて先に革製の手のひらの幅のベルトが金具で取り付けられて、同じものがテーブルの他の脚すべてに下がっていた。
あのベルトは何に使うのかと考え、拘束する以外に何に使うんだと怒りを感じながら見つめていると、テーブルの脚の下周囲にエンドウ豆を半分にしたような白い何かが幾つか落ちているのにアネットは気がついた。彼女が縛りつけられている場所からさほど離れてなくてしばらく見つめ彼女は息を呑んだ。
爪だわ! とそれを否定しようとしたがどう見ても途中から剥がれ落ちた爪にしか見えないそれらが、彼女をあのテーブルに上がらせてはいけないと痛いぐらいに警告していた。
「逃げない──逃げないと────逃げないと!」
震える唇で呟きながらアネットは顔を振り回し辺りを見て男の手から逃れる術を探した。
部屋の左の壁には古い農工具が幾つか立て掛けてあり、隙を突いてあそこまで逃げ出しサイズ(:大型の鎌。立ち作業で牧草や麦などを刈る農工具。大鎌とも)を振り回せば戦えそうな気がした。
いいや、あのピッチフォーク(:大型化したフォークの様な農工具。収穫フォークとも)なら十分に突き刺せる。
戦うしかない。気をしっかりもって、男の自由にならない様にしないといけない。
彼女がそう決断したその時、背後で木戸の開く音がした。錆び付いた蝶番が神経を逆なでするような音を響かせた。肩越しに振り返ったアネットは男が戻って来たのを眼にして、男が顔には透明なプラスチック製のゴーグルを掛けており、胸にはビニール製のエプロンをぶら下げている事を知った。
その表面には沢山の飛び散った血痕が乾いておぞましい赤黒い模様を描いていた。そうして男が右手に握った広い紙を筒状に丸めた何か。その時初めて男が口を開いた。
「ミズ・ブルキナファソ──始めよう」
アネット・フラナガンはまだこの時、アフリカにそんな名前の国があるなんてまったく知りはしなかったが、直後いきなり聞こえた声が男のものではないと理解した。
────大丈夫よ、アネット。もうすぐFBIが助けてくれるから────
その声に彼女はこの納屋にもう一人捕らわれている女性がいるのだと驚き左右を見回した。