第二話 ルードボーイ
否応なしに烙印を捺される瞬間は、過度の疲労を伴う。それでいて、玩具を与えられた子どものように、暖かな恍惚感に包まれるのだ。ぼくはサハライト神学校の生徒になった。
何か、掛け間違えていた符号が適合するのと似て、事の流れはスムーズだった。大騒動になってしまった、祖国の仏蘭西から初めて外国へ飛んだ冬。突如、優等生であったぼくの、突飛もない行動の効果は絶大で、再開を果たした時、公衆の面前ではゞかることも忘れて、慌てふためく両親に驚いた。知的な人達で、私情に流されることなく合理的に対処するとばかり思っていた。諭すようにゆっくりと、時間をかけて丁寧に己の胸の内を語った。少しでも立派に見えるようにと、背筋を伸ばしたぼくの姿を見て、母親はおいおいと泣いた。「こゝまでしなければならなかった程に、お前の決心は固いのだね」
と、震える皺の深い指にぼくの指を重ねた。
「ごめんね」
ディアマミー。一度切りだから、ジョーカーは威力を発揮する。カードは手の内を隠す意味がなくなる。賭けは成立しない。積み重ねた全てを投げ捨てる覚悟と、十四歳に出来る限りの行動力を持ってしなければ、真実を知ってしまったぼくの決意を理解して貰えなかったであろう。喉の渇きを訴える枯れた声で、父親は手続きの書類にサインを走らせながら、気が済んだら何時でも帰って来なさいと、云った。冗談じゃない。そんなことになりはしない。それきり、押し黙ってしまった父親に掛ける言葉はなかった。強固に変わらぬ威厳に、こんな男になりたいものだと、心の底から映ゆる輝きを願った。対照的に困り果てたのは、妹ディディエのはねっ返りだった。説明をしようにも陳腐な台詞など聞き飽きたと、顔をまともに合わせることも叶わず、朝食の席にも居合わせない。時間は限りのあるものへと変化してしまったし、其れまで、妹は本当によくしてくれた。兄としてぼくを慕い、愛してくれた。出発の前日に無理矢理、部屋に押し切りクロゼットの中で泣き暮らす妹を引きりずり出したのも、笑い事ではない。真っ直ぐ伸び伸びと、太陽に向かって明るく育てた妹には、どうしても心理的に討論をしたかった。慈しむべき少女の銀色の髪に鼻を埋めて、羽の触れるような頬擦りを交わす。ディディエ、ディディエ、分かっておくれ。ディディエ。お前を嫌いになどなりはしないよ。兄の勝手な振る舞いを許しておくれ。情熱的に謝罪を繰り返した時には、既に荷造りを済ませた後で、一挙に片付けるには一晩では足りない。
「エリーはこゝじゃ救われない、私には分かる。本物ばかりを求めて、嘘を付いて、それでも……本当に生きてゆけるの?」
神父になると宣言するぼくの言葉を、退く強い口調で問いかける。輝く瞳は、贅沢な感情により熱を帯びて、美しい。髪の色と瞳の造りしか似ていない妹は、誰よりもぼくの目論見を見透かしていたに違いない。証拠に、躊躇いがちに、言葉を選んでいるような口元。口の中で何かを呟いてから、可愛らしいマニキュアを塗った爪を表に指を当てゝ、「兄さん」と呼ぶ。それは残された術で、早くもこの刹那どうしようもない矛盾と罪悪感が遅れて追い付いてきた。悪の足は速く、遠く黄昏の光は眩いばかり。
「ほんとうが欲しいんじゃない。当たり前の事実を受け入れて取り戻したいだけなのに、どうしてお前は其れを無い物強請りと云う?何故分ってくれない?初めからぼくらには足りなかったんだ。そう、お前もだよ」
しばし黙り息を呑んだうち、彼女は絶望した顔を向けて、心にも無い事を放つ。
「人はみな平等です」
「はっ、ありえないね。なら何故、裕福な子どもと貧しい子どもがいる。巴里の下町を見給え、腐ってる」
とびきりの甘い声で耳元に囁く。
「ねぇ、ディディエ。ぼくの中に二つの人格が居てだね、片時もぼくから離れる事なく耳元で囁いている。ひとつは良心と云う名の天使。恵まれた愛情にも自信を持ち、彼らを許せるだろうと甘く諭す。もうひとつは嫉妬心と云う名の悪魔。無知を恥じ全てを知り、ぼくは哀れみなど、跳ね除けられる人間だと甘く力強く断言する」
ディディエは悲しい顔をした。
「ぼくはレオンの長男だ」
「エリオン兄さん」
「庶子など神さまの子から外れた連中に、当主を任せる訳にはいかない。ぼくは確かめたい、神の御許で自分の立場を」
「エリー。もう、いや。聞きたくない」
かねてから恐れていた感情に、奢ることなく旅立ちを迎えた朝は優しく、繰り返し、繰り返し、子どもの頃のようにシーツに蹲り影に耐えた。父親が車を出し、母親から干草の匂いがする包容を受けて家を後にした。ディディエの姿はなかった。それだけが、心残りだった。仕立てのよい制服の上着に、皺が付かないように大人しく行動をした。真新しい外套に、皮の柔らかいブーツ。父親の横顔を見る。無理をさせた。入学式を大分過ぎた中途半端な時期に手続きを取った為に、ひとつばかし学年を下げる事になってしまったが、英国の神学校は難関校でもあるので、十分な教育と、退屈させない授業を約束してくれる。宿を取り次いだ長旅の末、再びサハライト神学校へ来ると、不可思議な焦燥感に胸を焦がれた。
「手紙を書くよ」と父親とも別れ、一人になると、余った時間でうっとりする程幻想的な子ども達の城を歩いた。ユーモラスな外装の造りに、響く静寂の持てる技の微かな囀り、光が差し込む道に、並ぶ木、木、木。日差しは強く、忌々しくも直接ぼくの肌を焼く。優しい人は御覧なさい。こゝに、ぼくらの理想郷がある。悪を知り、分かり合えると信じていた幼心が、傷付いたなら、帰ってくればいゝ。神の御許に。其れを決断出来ないのは、俗世間のつまらない物質欲に、惑わされているからだ。ぼくは、そんなものより、身体に刻まれた、たったひとつ、一切な何かが欲しい。雷を恐れるのと其れは同じ、後ろめたさが勝る滑稽。多くの人々が通過する学生時代の課程に、悪戯はつきもので、作戦会議をするには広場の片隅と相場は決まっている。気が付いたら広げなけりゃならない荷物を、門付近のベンチに置き去りに、駆け出していた。大人っぽい顔をして、大人っぽい振る舞いをしてきたぼくを、抑えていた純情多感な幼年期のぼくが手招きして見えた。残像はリアルで、いっこうにかまわない。
小鳥がこの上なく清らかに囀り、囁きなさる。通りすがりに他の生徒と出会うことはなく、肩を落としてぼくは校庭にいた。新学期の始まりには、伝統奥ゆかしい陣取り合戦が行われるのとばかり思っていた。どうやら、お上品な神学生は、おふざけでも争いを好まないのかしら。校舎から大分離れた、寄宿舎に隠れるように緑が茂るのだけれど、少し進むだけで公園の広場みたく芝生が馴らされている。ボールが幾つか転がっているだけで、ぼくはひとり。気まぐれを起こしてか意地になってか、更に羽目を外したくなる。足取りは軽く、未だ校長室ではなく木立の奥へと惹かれた。らしくない行動だと自負している。きっかけは、冬の物語から続いていて今は、学びの途中。何もなくとも田舎臭い雰囲はなく、神聖な場所に思える。小川からは、魚が躍り、寄り添うように流れを追う。つま先で小石を蹴って、飛ばす。思いの外、遠くへ行った小石を目で追うと、一本の樫の根元から、青白い手が生えていた。驚いて目を凝らすと、幹に隠れるように覗く其れは、子どもの手のように見えた。じんじんする下腹部の張りを感じつゝ、息を整えて駆け寄ると、たちまちぼくの決断は間違っていなかったのだと確信した。無表情に口を引き釣らした不恰好で、乾いた笑みが自然と漏れた。これは神さまのお導きに違いない!早速ぼくにガブリエルを会わせてくれたではないか!其処にいたのは、ぼくの胸の大部分を占めていた少年で、地の色が深い木の根元に、大胆に喉を曝せた格好で仰向けに横になり、可愛らしい寝息を立てゝいる。すでに夢の中なのか、死んだようにも見える。こんな場所だからクリスマス・キャロルで、ガブリエルを演じた美しい少年の謎の死と云うゴシップも、有り得るように思えた。まだ年明けだというのに、薄着で外套も羽織っていない。子羊のブーツが天を向いて、蝶が留まる始末だ。一向に動く気配もない。鮮やかな芝生に似合う、蜂蜜色の髪は柔らかそうに風に揺れている。愛しいと、心の底から湧き上る歓声に身を任せて膝を付き、少年の形の良い唇の際ぎりぎりにキスした。肩を揺すりながら「おきて」と、微笑むと煩そうに投げ出していたゆるく結んだ掌に抵抗を示された。幼子のような拳だった。
「やめろ……フレディ、起きるから」
薄く開いた瞳に、銀が散り填められている。
「誰だい、それ?」
ぼくの楽しそうな声に、目を丸くする美少年というのも、面白いもので、上向きの睫が光できらきらと輝くものだから、もう一度同じ場所にキスしようとしたけれど、拒まれた。沸き立つ情緒は脳内麻痺のものだけではなく、其処には、はっきりと刻まれた長い歴史が転がっていて、救い上げた怪物は身近な存在だと気が付く。現実は程よい緩和剤。柔らかな肌に石鹸の香り、至近距離で分かる薄っすら生えた産毛、生きていると叩き付けられる熱い体温、少年を形作る全てに、血が燃えた。
「あなた、だれ?」
怯えた野うさぎのような反応を期待していたのに、少年の反応は数回瞬いただけで、不機嫌そうに手の甲で顔を擦られた。赤くなった頬を見て、申し訳なさと温かいものを胸に感じつゝ不思議そうな瞳にぶつかった。ゆったりとした動座に、アルトの声は一層低い。
「あ・な・た・だれ?」
少し苛立ったようで、単語を区切る。寝そべったまゝだというのに気丈な振る舞いだ。
「ぼくは、エリオン・デグシュペリ。転校生。今日着たばかりだってのに、誰もいやしなくて退屈していたんだ。そしたら、樫の根元に天使が寝転がっているだろう、あんまり可愛らしかったからキスしちまったんだ」
微笑しながら「はじめまして」を、付け足して上体を起こす。綿菓子みたいな髪に絡まるチンチョウゲを解き、代わりに木の根元に咲き出でた菫を彼氏の耳元に挿した。色彩の淡い花も映える、蜂蜜をそのまま垂らしたような金の強いゆるやかな巻き毛は、肩の辺りで跳ねている。あんまりに透明な色だから、量を多めに作った前髪が妙に似合っていた。
「ふうん」と、相槌をされるもそっぽを向かれてしまう。また大きく瞬いて、確かめるように菫に触れる。朝露が花弁を伝って頬に落ちた。口元の筋肉をあまり使わない動き。口角は形が良いのに笑顔ではなく、奥歯を噛締める程硬く結ぶ事により、締まるのだ。彼が人付き合いをおざなりにして来たことが判る表れを、早くも察知する。どうも迷惑そうな様子の彼は、面倒臭そうに「あゝ、それだったら……」と、絡まった髪を梳きながら言い添えた。斜めに傾けてしまった機嫌を持ち直し、会話を続けてくれそうな冒頭に喜びを感じるが、其れも一瞬で終わる。天使の顔からは想像出来ない、その身に美を宿す者として冒涜的な舌打ちを見る。
「ペトラ!見付けたぞ!」
自己感情を高めていたぼくは、凝視していた少年から目線を上にスライドさせると、王立ちに立ち憚る、背の高い彼氏がいた。
「全校生徒が始業式とミサの時間だってのに、君はまたこんな所でおさぼりかい?え?」
生意気そうに長い前髪をかき上げながら、説教垂れる。長い足を交差させたり、大人っぽい立ち振る舞いをする所は共鳴するものがあるが。ぼくのことなど目の端にも入らない様子で、冷めた少年にお熱い正論を募らせる。
優等生をしているようで、制服と限られた中で、セーターや靴などに気を使い洒落っ毛が強く、タイの結び方ひとつ垢抜けていた。精悍な顔立ちはどちらかに分類するなら、聖人の方に属するが、不良の真似事をする格好は絶妙なバランスで魅せられていた。対して、カッチリと規定の制服に袖を通す麗しの少年は、ふわふわの髪の毛に、枯葉を飾り付けて渋い顔をしている。勢いを付けて起き上がると、胸の上に広げていた本が滑り、挟んでいた譜面の束が散った。ぼくは楽譜よりも彼氏の耳元を飾る木の葉を摘むと、今度は勢い良く手を払われた。
「耳を塞ぐな、目を背けるな、何度云ったら分かるんだ」
万事の協調性など身に着けていなく、両の手で耳に蓋をして、そ知らぬ顔で黙んまりを決め込んでいる。右斜め上の方を上目使いで、睨んでいた瞳をやゝあってから、背の高い少年に合わせると、足を崩した膝の上に、肘を乗せて挑発的に頬杖を付く。
「聞いているのか?」
聞いちゃいない。返事の代わりにひゅーと、下唇を突き出し、ため息で前髪を飛ばした。
「ペトラ!」
これにはぼくも、大変失礼だが笑ってしまい、背の高い少年は前髪に持ち上げかけた右手を余して震えている。頭の上でひどく動悸が打つ音を聞いた。茶目っ気がある冗談は、可愛らしく魅力的であったが、それにより前髪で隠れていた額の火傷跡が露になり、痛くて、痛くて、痛くて。無理解にお構いなし。怒涛のごとく顔を赤らめた格好付けに、満足したのか、天使は目を細めて笑った。
乱暴に本を抱えたら、木漏れ日のさす中風木に祝福され楽しそうにかけて行ってしまった。短い笑い声が木霊越しに響いた。あれ程憤慨していた彼氏も、後を追うような野暮なことはしなかった。
「いやはや全く、あいつには困ったものだよ。すまないね、転校生。在校生が失礼なことをしなかったかい?ぼくはこゝの監督生をしていてね、出迎えるように言付けを承ってきたよ。遅くなってしまい申し訳ない」
落ち着いた気持ちの取り戻しようは、速やかで先程まで、手玉に取られていたってのに、どうにも楽しそうな晴れた顔をしていた。
「ア・ハーン。君がフレディだね」
「なんだい、ペトラが何か云ったのかい」
あからさまな困惑の色は少年の瞳に、揺れていて、あゝ、嬉しいのだとぼんやり感じる。
人を喜ばすような言葉も術を用いていないのに、何故ぼくが目の前の喜悦を受ける事が出来るのか、不思議で仕方がない。もっと、違う場所で本人同士が渡り合えば、より高みの幸福を理解しうるのではと考えるが、否。これはきっと、ささやかで秘めやかなる喜び所以、囁く程でなければ逃げてしまうものなのであろう。扉の向こうにいる妖精に、そっと語りかけるような、低さで。
地球の表面で存在するぼくは(この場合精神は別とする)不良と優等生を二重に交差させるフレディ・マクハミルトン(英語姓ハミルトンの前にMcが付く)に導かれ、再び宿舎まで戻り荷物を拾ってから、自室となるコリント室に来た。何故って、彼がそれはそれは、優秀な優等生であるがして、校長先生らにぼくが長旅で疲れているから気を利かせろと、頭の固い挨拶を後回しするように手筈を整えて、狡賢い不良少年らしく酒と煙草で歓迎会を開いてくれたからである。ぼくの館の生徒達が分けられた部屋は、パウロ書簡からローマ、コリント、ガラテヤ、エフェソ、フィリピ、コロサイ、テサロニケ、テモテ、テトス、フィレモンと名を貰っていた。単にパウロの名を借りただけのものであるのに、思想の歩みが伺い知れると新約聖書から抜粋される。ちなみにヘブライ室は存在しない。娯楽の少ない学校の七不思議だと、フレディが教えてくれた。奴は、やけにこういった俗事柄に詳しい。ぼくに割り当てられたコリント室は既に五人の生徒が、収納された一番小さな部屋だった。間なく詰められたベッドに、これから雑魚寝をすることになるらしい。憂鬱だ。クロゼットは全員のコートを掛ければ満杯で、ベット下に備え付けられた個別の籠に所持品を仕舞う。小遣いは休日外出許可の下りた者が受け取れ、それまでは金庫番に預ける。貴重品は持たないのが、学校の良識だ。先生達はこれらによる規則で、生徒諸君の別け隔てない愛情を育み、マルクス主義における社会主義が学ばれていると信じているらしいが、連中は連中なりに一致団結して、資本主義だ。少年資本主義社会は、酒や煙草が主な交渉手段で、無断外泊黙認はコニャック一瓶から。部屋毎の会社は利害の一致でなんど、世界大戦前からの伝統だと云う。それにやはり、先生の目を盗み陣取り合戦も行われていた。今のところ、サッカーの勝敗からフレディ達が圧勝しているのだと、冗談混じりの武勇伝を聞いた。風を肩で切って歩く軍人や、下町で賭博する大人の素振りを真似する彼だけれども、一人大人振り、場をしらけさせるような事はしない。むしろ楽しくやろうと、先陣を切る平和主義者だった。殺風景な部屋に、煙を逃す為ガタガタ五月蠅い窓を開けると、急に寒々とした。
フレディは、皆よりひとつ年上の十四歳でぼくと同い年だった。成長期の食べ盛りな少年にとって、年齢差の壁は大きく、従って奇妙な優越感と疎外感を体験するであろうと、学力よりも対人関係で覚悟をしていたぼくにとっては、かなりな朗報で、フレディも同想いだったのかぼくらは早々に意気投合した。年上ってだけで、監督生を勤めるお山の大将は、一人よりも二人の方が楽しいと、格好付けはすっかりぼくを相棒と認めたようだった。彼は北アイルランドの出身で、一九二二年から一九二三年にかけて行われたアイルランド内戦を避けて、英国へ移民してきたのだと云う。独立戦争のいざこざで幼少に一年の学力的ブランクを負ってしまったが、彼は気に留めた様子はなかった。さて、何故初対面にしてこのような突っ込んだ話を行ったかというのは、彼が彼であり、同胞の匂いを察知する鼻が利き、優しく気を利かせてくれたからである。
「こんな時期に転校だなんて、珍しいね」
「まあね」
「父親の仕事の都合かい」
「いや。父親はフランスで医者を務めている」
「ふうん。余程、君は頭が良いのだろうね。英語をしゃべれても、英吉利の子ども以上に学力がなけりゃ許可が下りないだろう。いや、誰かしらの紹介状もいるね。どうして、わざわざ英吉利の神学校にきた?仏蘭西の方が母国語でもっと楽に学べるじゃないか」
神妙な顔つきで問われて、ぼくは反射的に口を噤んでしまった。あれこれ聞かれて、こゝで噛めば、お節介を焼かれ不本意な結果に繋がると思った。けれど、それきりフレディは何も聞かず、只煙を部屋中に巡らせて、煙草にふけていた。ギリギリの際までに迫り、脅迫観念もなく、穏やかに空間を造る。云わば、無理に話して欲しいわけじゃない、仲良くなりたかっただけなのだと、意図が読めた。大変、彼の器の広さと、社交界でも通用する会話術に感激してしまい、彼は信頼にたる人物だと決めた。捲くし立てるように熱弁する。
「英吉利には……弟がいる」
「大人しそうな見た目をして、君は結構無鉄砲なんだね。それじゃあ、生き別れか何かの弟を探してわざわざ来たと?」
空のコップを取り出して、灰を落とした。窓を開けた寒さからか、肺から出す煙と同化して見える。今はこれで精一杯。
「ふうん。訳有りって感じだね。名前は?もう会えた?」
「分からない。もう会えているのかもしれないし、まだ会えていないのかもしれない。この人だと云える核心が欲しい」
呆れたように雲を掴むような話だと、フレディは煙草の煙に手を突っ込んだ。
「んーー前の学校も、ミッション・スクール?神さまの言葉なんて力を入れて勉強していなかったろうに」
「それも違う。以前は長男のぼくは公立の学校に通っていた。ラテン語もヘブライ語も面白いと思うし、父さん顔が利くから」
「あゝ分かった!小爵さまって訳かい!」
「よしてくれ!ぼくは家を継ぐ気はない」
ガウンを羽織ったフレディが窓辺に腰掛け、驚いたと煙草を持った手でオドけてみせた。
「それにしたって勿体ない。まあ、人それぞれだがね。誰にも云いやしないよ」
からからと笑う彼に釣られてぼくも、続けて笑った。
「ねぇ、エリオン。エリーって呼んでもいいかい?ぼくはね、エリー。一目見た時から君とは仲良しになれる気がしたんだ。本当さ」
前髪をかく動作もスマートで、目尻の下がった瞳に、釣り上がった凛々しい眉、いやらしくない口元は中々魅惑的で、同級生にはない艶かしさが覗いていた。「オーケー」と肩をゆらす。「それでは、ムッシュ」と、冗談めかしで交換にフレディの背景を知ることになったのだ。あるいは、この和解で後に、辻褄が合わなくなるのではと心配したが結局、杞憂に終わりほっとしている。別に酒は好みではなかったが、ぎこちなく友情を語るには必要だと思った。大人達は笑うだろう。煙草も、淋しい手に何かを握らせて置くと、考える手立てになる。折を見て、先だってからずっと気に留めていた少年の事を、尋ねてみた。コニャックの所為で、身体が重いのに軽い。
「あの子、ぺトラって云うのかい?」
「ん。あゝ、そうさ」
「ペトラは愛称?」
「ご名答」
「ピョートル、ペトリエラ、ペイラー……まさか、ぺーター?」
「まさか!」
無邪気にフレディの笑顔は眩しかった。この笑顔できっと、誰からも好かれるのだろう。
「ぺトルーシュカ。ぺトルーシュカ・ウェルト!だからペトラ!まったく、ママは似合いの名前を付けたものだね。男の子にも女の子にもなる。ロシア人名だがね」
どうやらぼくは夢中になって怠惰に足を崩し、あれ以来あの美しく高慢な天使が、どのような学園生活を送っているのか、すっかり聞く体勢に入っていたようだ。
「あのぺトルーシュカって彼氏は、砂糖菓子みたいに綺麗な顔をしているんだが、愛想がないし、とにかく無口でね。語らず、言わず何事も先に瞳でものを云うけれど、一癖も二癖も、三癖まである。しかも、上級生がお茶会に誘ってもあの跳ね返りときたもんだ。
寄宿舎裏の森はぽっかり真ん中が空いていて広場になる。俗世間と一切関わりを持たない、退屈にも見守られ過ぎている神域で、最も開放的でありうる背の高い樹木の影にさ、彼氏は上着をひっかけて、口笛を吹いたり、寝転んだりして、シェイクスピアを読んだりしてる。煩わしい全てがいなくなり上機嫌に、頬をほころばせると感じが良いね。頑迷で不機嫌そうにいつも眉を顰めて、背筋を伸ばしては五月蠅そうに髪をかき上げる。勿体ない火傷跡を隠そうともしない、なんのていらいもない仕草ひとつ、つまりは一切な誇りなんだ」
ぼくが「それで、君の彼氏は?」と続きを促すと、区切りが付いて熱っぽく話すフレディは、居心地が悪そうにわざとらしい咳払いをした。こうもしげしげと、上目遣い気味に皆から好かれる男が、心の内を悟られまいと、ひどく構えるものだから、いっそ「君はまるでぺトルーシュカに恋してるみたいに、お熱い口振りをするんだね」と悪戯心が沸く。「まさか」と、今度は上手く避けられてしまったが、しかと其の真意を突き止める事に成功した。物腰も低く、ふわりと笑う彼の瞳は嘘吐きの色をしてる。人を傷付ける嘘ではなく、自己の自我で人を傷付けない為に。生きる事は何かと戦う事であり学びであり、其れだけで、いらない恨みを買う事もある。避ける為に一歩引ける彼は、優しい人だ。自分には理解しうるが。繋ぎ目を解くように、話を戻そうとするけれど上手く呂律が回らなく、大分酔っている。フレディは、頬こそ赤いものゝ余裕のある表情をしている。
水差しに手を伸ばしたところで、始業式から残りのルームメイトが帰ってきた。異端を嫌う英吉利人に取って、ぼくは快く思われない存在だと決め込んでいたが、彼らは気持ち良く迎え入れてくれた。神の身元で光を受け、伸びやかに育った子ども達ばかりであった。言葉を交わしている内に、フレディがそれとなくぼくが輪に馴染めるように根回しをしてくれている事が分かる。ペトルーシュカやフレディに比べ、やゝ平凡な印象を受ける連中だったが、致し方がない。ぼくの目は、美しいものを見て肥え過ぎた。幾度人の波に飲まれても、顔を出す。ペトルーシュカやフレディが印象的過ぎるのだ。
双子のように、寄り添っているベンジャミン・バートとカイホスルー・サザランドは真逆の性格をしていた。お調子者で自己主張の激しいベンジャミンに、むかっ腹を立てる事なく柔和で曖昧な返事の多いカイホスルーが中和して、短所と長所の均等を二人共同で取っていた。外見的にも性格は現れていて、バネの利いた少年らしい手足を持つベンジャミンは、さわやかに短く切りそろえられた髪を、子猫のように引っかいている。くるくると回る瞳孔は、好奇心が強く常に新しいものへと向けられていた。一方、片割れは皆ほとんど同じ食事を取っているにも関らず、柔らかそうな肉を蓄えて頬は丸く赤い。カイホスルーは人の良さそうな笑顔で困ったように笑い、隣で騒ぐベンジャミンを宥めているのが常だ。入学してからの付き合いだと云う。二人は野苺のジャムとハムを別けてくれた。
もう一人は兎に角変わり者で、小柄な身体に合わないサイズの制服を羽織っているバーソロミュー・クゥエイフだ。女だらけな十人兄弟の長男坊だった。あじきないところはあるが、嫌われている訳ではないらしい。そばかすの散った肌に似合う赤毛は典型的に莫迦にされ易い外見であった。しかしながら、バーソロミューは外見と反して一本芯が通った男で、大変面白い考え方を兼ね備えていた。悪意のない冗談から発展する、悪趣味な少年達の小言にも深刻な状況に決して陥りはしなかった。詩を書くのが上手く、内ポケットには手帳が何時も温められている。愛称はぐるぐる眼鏡のバーソロミュー博士!同室の者からも一線引き、頼られた風である。ロンドンの時計塔やイギリスの風景が描かれたポストカードを何枚かくれて、家族に送るといいと云ってくれた。
「最後は噂のぺトルーシュカ王子だよ。ほら、其処の端のベッドがそう。人見知りはするが、悪い奴じゃない。既に顔を合わせているから、気兼ねないだろう?」
ぼくは微笑気味に苦い顔をした。好意的でありながら転換期に登場するには、ぼくは気が重い存在であろう立場だからだ。確立の上でぼくの探し人は彼氏しかいないと真っ直ぐになっていたが、気持ちの上で謎めいた秘密に失敗は許されないとも思っていた。
「どうかな、早くも嫌われちまったから」
「どうしてだい?」
「あいつ、君から逃げる時、ぼくの足を蹴るの忘れなかった。やられた」
兎のように軽やかに、優雅に後ろ足で膝を一撃。振り返ってしてやったと、鼻を鳴らす可愛らしいピーター・ラビット。上着は忘れなかったかい?案山子に取られてしまうよ。
「うん、そうでなけりゃ王子じゃない!まったくもってペトラらしい!」
それまで口数が少なかったパーソロミューが、満足そうに甲高い笑声を上げた。
「ねぇ、ぐるぐる博士。ペトラはぼくを歓迎してくれると思う?」
「どうだろうね。彼は誰に対してもあの跳ね返りだから、気にすることはない。誤解されるような行動ばかり取る彼氏が悪い」
「誤解ね」とフレディが同情心からか、声を漏らした。
「ペトラの親戚は、沢山寄付金を寄せているって聞いたよ。多少、乱暴者でも、成績もすこぶる良いし、顔も他の女の子より可愛いじゃない?快く思っていない奴も多かれ少なかれいるって訳さ」
「それも愛情の裏返しみたいもので、ペトラに突っかかる連中、本当はペトラと仲良くしたいだけなんだよ」
ベンジャミンとカイホスルーまで口を挟み、客観的意見に議論はなかった。哀れな少年の身の上に課せられた人の性は、羨むべきものではなく、多く与えられた者は恨まれ憎まれる。対価無くして受け取ると云う事は、恐ろしいことだ。跳ね返る不幸と災いを背負いたいとも思わない。何も知らなかったぼくは、冷たく、火傷跡で相殺だと憤った。手の平を返しては、何度自分に嘘を付けば良いのか、いやいや、己しか分かるまいよ、君。
設けられた椅子から腰を浮かし、一番端のぺトルーシュカのベットに腰掛けると、心なしか薬品の匂いと甘い匂いがふわりと広がった。窓辺が一番近い、カーテンのない枠からは、夜になると大層瞬く星空が一枚の絵画となるのであろう。洗いたてのシーツに真っ白な布団が何処か淡白だ。我慢ならぬ探求から、枕元に触れる。冷たい金属の感触に、指先を絡めると平たい銀のペンダントを見つけた。恐る恐る裏返して見たサインは「Petrouchka」。仏蘭西語だ。アクセントに沿いなぞる様に、瞳で神経質そうな綺麗な字を追った。気が狂いそうになる。母国語に確信を強くするも、何故、彼が「ウェルト」を名乗るのか想像し尽きた。ぺトルーシュカはぼくの、探していた人物ではないのか、弟として愛して良いのか、目に見えない答えが欲しい。信仰でしか得られないけれど、君の悩みを抱えた横顔が忘れられない。
しばらく談笑を続けていると、部屋のドアが開き、ぺトルーシュカが重たそうに教科書を抱えて帰ってきた。自分の部屋なのに律儀にノックをし、「ただいま」を忘れない彼氏の初々しさが微笑ましい。ぼくは膝を叩いて、「やあ、さっきはどうもね」と愛想を良くした。揃いも揃って同年代の少年の顔を見比べた後、ぺトルーシュカは怒りで引き吊らせた表情を見せた。角の尖った部分もお構いなしに、手持ちの分厚い教科書をぼくに向かい投げてきやがった。「ペトラ!やめろ!こどもじゃないんだ、瞳にでも当ればどうなるか分かるだろう!」と、フレディが怒鳴り細腕を掴むと、顔を朱に染めて、ガラス玉を落っことしてしまいそうな程、瞳を開いた。驚いた。彼氏でもこんな顔をするのだ。それに、華奢に見えるが貧相では決してない。フレディと並んでも目線は其処まで下がらなく、背丈はぼくら三人が頭一個分抜いて、他の生徒はどんぐりの背比べみたいものだろう。
ぺトルーシュカは口元をきゅっと結び、足元に残りの教科書をばら撒いた。腕に残った聖書をフレディの胸に押し付け、再び背中を向けるとコリント室を後にした。自室に足を踏み入れることなく拒絶し、行き場はあるのだろうか。走り去って行ったぺトルーシュカを追って、フレディもぼくに侘びを入れてから部屋を出る。伝言ゲームじゃあるまいし、ぼくの胸には手持ち沙汰に、彼氏の聖書が押し付けられた。
残った4人の間に気まずい空気が流れるが、バーソロミューだけは平然と、むしろ楽しそうに散らかった教科書を拾ってくれた。人のベットに勝手に座っていたのだから、癇癪を起こされても致し方がない。感情を向けてくれることの事実が何倍も幸福で、あの可愛げのない王子さまに少し近づけた気がする。ただじゃおかない。ベンジャミンがおずおずと、カイホスルーが用意してくれた冷やしたタオルを投げて、こちらを伺うように顎を引いて尋ねてきた。
「エリー、君、いったいペトラに何をしたのさ?」
「別に。これも愛情の裏返し」
ぼくは得意げに笑ってやった。