第一話 雨にぬれた朝
一九三一年の冬の頃であった。英国は、まだ幼く無知でいた。精神の世界をいち早く捨て、目に見える確かなものばかりを追った十九世紀は、永遠につゞく夢を見ているようであり、そこに住まう人の誇りでもあった。しかし同時に、余裕余る者が取り仕切る、都合の良い解釈でもあった。柔らかく低い声でキングス・イングリッシュを話せても、正しく意味を受け取り、同じ強さで、同じ立場で呼び合える相手はいない。やがて二十世紀。
夢なぞ見る暇もなく多くの過ちや傷を一生背負い、絶対的に平等であらせられる神さまを信じる子ども達がいたとする。それは、発展した国の犠牲にも数えない。それは人ですらなかった。だが、人という型に囚われた忙しない大人達には持ち得ない翼を生やしていたのだ。したがって、彼らは独自の信仰による変化を目論み、息を引き取る間際、医者ではなく牧師を呼ぶ事を選択した。万が一、あこがれが手を解いたとしても、信じ続けるのが人の性でしょう。死に掛けている女はこう云う。愛しています、神さま。安宿も馬小屋も同等、主のお生まれなさった聖域。最期に許しを請い願い、厳しい試練を終えて楽園へと帰るのだという。当時、ぼくはまだほんの小さな子どもだったが、裕福な方だったし、天国へ行けない事が哀しかったのを覚えている。パンを食べる度、神さまの御手が遠ざかっていくようで、長生きすればする程に、均等が取れると思い込んだ。支払う代償は精神だ。たいへん鈍感になっていた自身の感受性に愕然とし、自惚れをしている大人達を憎しみから搾り出すような眼で軽蔑した。未来の自分を見ているようで痛かった。ぼく達は、少しでも長らく命が続く事を考える。
驚いたことに、毎朝のミサに通えない子ども達よりも熱心で薄情なカトリックで、許された小さき子は大人達の方だったのだ。
ぼくらは自ら手折ってしまった翼に、気付く余地もなく生きている。滑稽な生物の目の上におわします神さまに、それでも尚愛されてロンドンは存在する。それが、ぼくがこの街に足を踏み出す事を、なんなく受け入れる広い器の証明だ。
その日、朝方街の中心部にあたるホテルを出た時にはペニーレインが降っていたが、傘をさすまでもなく、フード付きの外套を羽織って背伸びすると、上手く賑やかな景色に加わる事に成功した。思ったとおり、夕方には冷たい空気に水滴は結晶化して雪になった。
しんしんにわかに積もりかけた白雪は、ブーツの跡で消えた。凍て付く地面を滑る馬車は忙しなく、また去ってしまうとほんの少しの淋しさを残して、歩幅の狭いぼくを置き去りにする。目地を転々と往来する人は様々で、成程、これでは誰が異邦人か判るまい。前方一面に広がるマーケットに、店番の目を盗み、ぼくとそう年の変わらない十二、三ばかしの少年が、物取りをしているのを見て、たまらなく目を逸らした。たとえ、一瞬でも見なければ良かったと、逃げ道を探す自身の浅ましさに、細い息を吐くと雑念は不透明な白であった。雲を製造する身体を抱き締めるように、銀の明かりが灯る街を走り出した。神さまの代弁者であらせられるイエス・キリストの生誕を祝う傍ら、人の波を逆流する孤独と戦わねばならないのだ。ロンドンは氷の街になってしまったっていうに、誰も気に留めやしない。ぼくだけが、変わり果てたロンドンに違和感を覚える。全てが光の中だ。と、いうのも田舎者の学生にとりまして、普段から見慣れぬものばかりを前に、目が疲れてしまったのかもしれない。眼球を貫いて頭痛を訴える額に手を乗せると、思わぬ冷たさに頭が冴えた。堂々と伸びる煙突に背の高い建物が、歴史を囁くように語り、華やかな装飾品が今日という日を表す。うんざりする程、混み合った路面バスを乗り継いで、本来の自分の教区とは遠く離れた協会まで。隣の子どもは賛美歌を繰り返して、詩篇第二十三番は聞き飽きた。
メリーメリークリスマス!
型通りの挨拶。神さま、どうかぼくに後少し時間を下さい。願わくは、願わくは。ロンドンの時計塔が鳴る前に、行かなければならないのだ。どうしても。
ぼくは、協会までの道程、ぼく自身の事ばかり考えていた。代々市民を相手に外来をし、医者に勤めているエリオン・デグシュペリ氏は、仏蘭西の地中海近くマルセイユの外れに屋敷を構える伯爵持ちであったが、金銭の頓着にも薄く、街の者達にも親しみ易い先生であり、ぼくの誇りに思う父だった。聡明で知識に長けていた氏は、跡取り云々のいざこざから遠く離れて、底抜けに明るく伸びやかに育てられた。持ち前の賢さの芽は眠るまゝかと思われたが、内なる冬は呆気なく過ぎ去り春はらんまんに訪れなさる。普仏戦争でデグシュペリの五人の兄弟の内、上の三人が亡くなり、残された二番目の姉と末息子であった氏が、家を守らねばならなくなったのだ。医者の名門名高いデグシュペリ伯爵は、何としても体面を保つ上での、表向きに出さぬようにそれまで自由豊満に育てきた氏に、教養を叩き込むと、奉公先を決めるや否や、古い田舎町に今の屋敷を建てた。これは棺桶で、子どもに残してやれる親として出た最後の財産だ。これまでも貴族らしからぬ種類の人間でいたが、あの年老いた両親と早々に嫁に出た姉を知る者なら、伯爵の称号を剥奪される未来を予期した行動だと云えよう。誰もが、付け焼刃に送り出された氏の将来を心配した。それで、一族の期待を一心に背負った真面目さを苦痛に感じる所か、氏は立派な医者となり帰って来たのだから、称号も失わず大層可愛がられた。母は小さな貿易会社の令嬢で、社交界で氏と出会い、ぼくが生まれ、コウノトリが妹を運んで来た。おぼろげに未だ覚えている。幸いにも年少から何不自由なく満足な教育を、父からは同じ名前と才能を貰い、あらゆる経験を積ませてくれた、幼く何も知らなかった仏蘭西での生活。人は、生きている内に何度でも生まれ変わると云う。ならば、ぼくが仏国から英国に渡った時点で、第二の誕生は確立する。無知は何よりも罪深いと気付いた時から、世界はがらりと視点を変えるのだ。
何もかも、遠い昔の出来事に思えてくるもので、平凡な暮らしは思い出の中。その時、周りの友人の中で一番に背が高かったがちっとも逞しそうに見えなくて、顔が母似だからと、二人は揃いの銀色の髪と、すみれ色の瞳を笑った。賞賛された伯爵の名に羞じることなく、神さまに敬意を払い知的な仏蘭西のデグシュペリの一族によせて、目を閉じる。瞼の下には静寂に流れる川と丘に囲まれて、妖精の庭、金糸雀が羽を休める木に、先祖が土の下で思い出を抱く墓。幸いだと信じて疑わなかった屋敷が浮かび、心が少しくじけた。
(どうしてお父さん。お父さんは――)
愛していた、家族を。その親元を離れて一月、淋しくなど、ない。ぼくがしている、一人の人間としての主張が、世間や大人達から見れば、たゞの子どものよくある反抗にすぎないのも知っている。けれど、決してこの家出が無意味に終わる事はない。たかゞ十数年しか生きていないからとて考えが散漫しているとは限らないし、幼さは年数で決まるものではなく、自身を万物の尺度することを止めて、違う目線で世界を見た時、答えは出た。許されるのならば、もう一度心より神さまと話し合いたい。医者にはなれない、身体よりも心をなぐさめなければならない。ぼくは牧師になりたい。
石炭の心臓、篝火の魂。さようなら、さようなら。父よ、母よ、貴方方の息子エリオン・デグシュペリは、海の蒼さに心を奪われて死んじゃった!渚辺に寄せるのを頼りに太陽の番を見たぼくはランボー!
ホザンナ!ホザンナ!身体よりも先に精神が朽ちてしまった子羊は、淋しい思いから離れます。赤地の上に足を再び下ろせる事が、秘めやかな勝味。ここに、もう一度永遠を見付けた。何をしても、ぼくはぼくを守ってあげたかった。自分に負けないように強く。
もどかしい足で急坂を登り切り、ロンドンの郊外まで来ると、四マイルもない池があって、ぐるりと半周するよう木立の間に建物が並び、最奥には子ども達の城が待つ。蔓草に巻かれて飾り立てたその城らは、実際に夜も更けなんだ、人を寄せ付けぬ雰囲気を持ち、掲げる十字架は墓のよう。遠く不思議の色を帯びた森に突き刺さる建物は、時折眺める角度により森に飲まれるじゃあるまいか。はつらつたる神秘を目の当たりにし現実は離れていく。草木に飲み込まれて、頭を出した骨のような十字架。イエス・キリストの思想に則り、豊かな心の教育を目指す、善きクリスチャンをキャベツ畑式に培養する城は、創立八十周年を迎えるサハライト神学校付属の教会だ。今時、珍しいぐらいに伝統を守り、まるで目に見えぬものを忘れてしまった国に対しての、さゝやかな抵抗に思える。樹木たちに囲まれているにもかゝわらず、サハライトの神学校は、日の光が木漏れ日と共に、神さまの御慈悲であるかのように届くのだった。
年に数回の面会日を除いて、サハライトの神学校には、家族すら滅多に訪れることなく、御御堂も口には出さないが一般公開を歓迎せず、毎朝のミサは監督生が指揮を取り子ども達だけで行われる。本来学校は、無知を恥じるよう教えられるが神学校では違った。俗の事柄から遠ざけて、良心を守る。余計なことを考えず、天使を育てる為だけの器官は、さしずめ学校という箱で、教育は培養液だった。
都会の外れに隔離でもしなければ、生きれない透明な感情。理性で溢れるばかりの歓喜の声に耳を傾けて、悩ましい渇望に頭を振るわせる。思い出す事もあるだろう。ひたすらに美しい少年たちの紡ぐ青春の日に、もう一度、出来ることならぼくも仲間に入れておくれ。歳を取るにはまだ早過ぎる。たとえ、集まった生徒の多くが省かれ者や、懺悔といった理由があろうとも、だ。下の方で、大きく息を吸ったり、友と出会い削られて、苦しみの種類は正統なのだから耐えられる。祈りを捧げる時に寄付する銅貨は、こゝへ来る途中使い果たしてしまった。ポケットに詰め込んだお金が、こんなにも早く無くなるものだとは思わなかった。当然の事のようには、分け与えられる天使のパンを並ぶ列には加われないけれど、祈らずにはいられない。ぼくは聖書を説く人達の声に混じり、一口で息を吸い込みありもしないパンを舌の上に乗せるふり。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
主に子に、国と力と栄とは限りなく、汝のものなればなり。「祝福をお願いします」おそらく彼らの心の内も僕と同じであり、信仰深い事がどんなに嬉しいか。
すがすがしく浸透していく冷気に、胸が張り裂けんばかりだ。美しく白い壁面に、星に透けて床に落ちるステンドグラスの影と、また奥行きのある席列に感動しながら、祭壇上の壁にのめり込むまっさらな陶器のようなマリアにぼくは言い放った。「アーメン」と。これは背信ではない。何一つ恥じる事なく、簡単な問題なぞじゃない。ぼくがこの場所に辿り着けたのは、神さまの賜物に違いなく、聖母の微笑みに、残された時間の限りを知った。簡潔に十字を切って御御堂を出る。
渡り廊下に続いて隣接する校舎の大広間へと向かうと、蝋燭の灯りに導かれる鼠を見つけたとたん可笑しくなって、ぼく達似た者同士ね、と笑った。家を出てから、初めての自然なほころびであった。人は、言葉も通じない、語らない、小さな生物にも支えられて生きている。気にも留めやしないひとつ、ひとつの事がどんなに大切で生きて行く上でどれ程必要不可欠か。すっかり星が登った夜空は、真空よりも澄んだ世界に思えて、広がる色に比べて小さなぼくの悩みなど無に等しいと気付く。もとより、観念上の実在しない苦しみなど考えるだけ悪い原因で、人間らしく子どもらしく――あの、年老いた両親に相応しくあろうとしてみたに過ぎない。軋む廊下の心持ち端を歩きながら、ぼんやりらしくない感傷に漬かっていると、こゝの教員らしい初老の男性と肩が当たった。よろけた際に、被っていた帽子が落ちたが、相手の男性はすまなそうに拾ってくれて、大丈夫かと問うてきた。ぼくは、出来るだけ平然を装い、帽子を受け取ると爪先を早々に前へと向き直した。何故ならば、とっさに喉を通った母国語に、怪訝そうな眉を寄せられたからだ。しまったと内心舌打ちをしても遅く、伸ばした銀色の前髪のカーテンから見慣れない、生徒でもないぼくの素性を探ろうとしている。「君、」と、呼ぶ声を無視して先へと進むしかなかった。こゝまで来て邪魔をされては、たまったものではないし、今捕まえられたら、社会的に自身を弁明しうる者はいないのだから。
校舎の造りは主に温かい快感のする木材で、内から腐りかけた秋の名残の枯葉の匂いがきつくしたけれど、少なくとも外見的には十分綺麗で、整っていた。色んなものが、素晴らしく清らかで、空気すら心なしか塩辛いと感じてしまう。たえず聞こえてくる子ども達の笑い声、そのすぐ後に響く先生の雷、静寂。
不行儀なことがあったとしても、明るい所に彼らはいるのだと思うと、いかに良心に語りかけたしつけが行き届いているか判り、ぼくは一層この神学校が好きになった。そればかりではなく、所々にマリア様の顔のレリーフが彫られている。常に聖母に見つめられる習慣を、表面上の監視ではなく、見守られていると感じられるまでゝなければ、今時真面目な英国の神学生など勤められない。学校は、悪との接触を訳になくはっきりと恐れていた。
廊下の天井も高くて、澄んだ空気が良く通る。
伝統が重々に守られた、まじないのような校舎をかろやかに堪能しながら、目的の場所まで着くと、すでに多くの保護者が、幕が隠したステージを、今か今かと待ちわびていた。教室がゆうに六つは入る程だというのに大広間は人で溢れ、用意された椅子も全て埋まっていた。ぼくは、きょろきょろと見渡して、子どもが一人でいても目立たなそうなスペースがないかと、確認してから後ろの方へゆるりとまわった。ぼくの両親よりも随分若い、彼らの間に挟まり、少しばかりの孤独も顎を引いて、前を見据えて勇気を示した。腕に抱きかかえるように、裏地を表に外套を畳むと、煤けた袖のくたびれた様子に改めて、ぼくがしゃにむに行動して来たのか判る。肩の辺りが冷たく濡れた外套を脱いで、ようやく落ち着いた。次に、ぼくの深い溜息と同時に時計塔が騒ぎ始めた。それが合図であったかのように、ステージ脇に構えていた生徒達の手によって幕が上がり、客席からは拍手が続く。照明が途切れた。
そうなのだ。ぼく達一族の話を述べるには、ぼく達が其々を生きてから再開を果たした、この場所を外す訳にはいかない。もとより、若さ故の過ちも不合理もこゝから始まり、君が十字架にかけられた物語のターニングポイントとなってしまった。現実は、高らかなラッパの音に始まり、中央のスポットライトがそのまゝステージに落ちると、大きな光の三角形が出来上がる。こんなに胸が脈打ったのは、後にも先にもたゞこの時だけだ。云うが早いが、其処に少女がいた。この世の愛情という愛情を不思議な朗らかさと共に、その聖なる身に宿しているかのように、少女を見ているだけで幸せで、心の根の深い部分は次第になぐさめられていく。色のない水銀灯のような肌は、ほんの僅かな穢れからも傷付いてしまいそうで、舞台化粧を施した不自然な頬紅と口紅が少女元来の良さを台無しにしていた。ひとりぼっちで、安っぽい椅子に座ってる。――ねぇ、君を見上げる、こゝに集まった阿呆共を見てごらんよ。こんなに清らかな少女の内も、素顔も知らずに満足している。貴女の姿、淋しそうな薄いベールを頭に乗せて、悪戯にはみ出した長い金糸は波のようにあまねいて、誰の胸にも目が眩む程の印象を与える。虚ろな瞳の澄んだこと。まるで真っ暗な夜空で見付けた星じゃあるまいし、これをとにかく半端じゃない矛盾がぼくの中を駆け巡ってだね、思わず帰りたくなってしまったよ。あの日に、遠く早まった三日月、退屈な日々平和な日々、手を指し伸ばせば少女ごと手に入りそうで、怖いよ。激しい世界はコンマ単位で進んでいて、大部分を視ることで補っている。一瞬の流れがすぐさま新たなぼくの願いを成就させてくれる。
なかなか狙いの定まらない手前のスポットライトが次に、ぶきっちょそうに命中させたのは、実に美しい天使だった。ぼくは熱を入れ過ぎてしまって、絞った明りの所為で上半身が暗闇かで浮かんで見える少々の不気味さも神々しく、はっきりそう感じだ。突き刺すようなちりちりとした鈍い痛みに、理解を深くする。白いロープに奇妙な明るさが敬神に変わり、頼りない光が、適度に彫りの深い中性的な顔の造りが彼氏をより一層、人間離れさせていた。手作り感に満ちた銀紙の羽と輪でも、何か一種の奇跡を予感させてくれる。両の手を広げて、目を伏せると際立つ真っ直ぐな鼻のラインが綺麗な横顔で、少女だけに微笑みなさる。「ガブリエル」生徒の誰かゞ声を漏らしたけれど、それどころではなく、並ならず正面から彼氏を見つめたい思いにかられた。いや、それも叶わない。
ぼくがあの大きな碧い宝石に捕まれば、動ける筈もなく、まったくどうにもなりはしないし、忠実な光と闇の対立が夢の内に終わってしまいそうだから。思考を停止させるのは不得手で、次から次へと流れてくるまゝ煮え立たせては、ひとり論議する。身体中の器官が、進化する過程で自己形成するような成長痛に似た鈍さに脳睡が焼ける。光の中の人、二人。自己の意識を奪われて、今度はいったい何を奪うの?観客席上の使われていないスポットライトが、ぼくの頭の上に落ちるのを子どもじみた妄想で待った。
ガブリエルの彼氏がひとたび動くと、其の指先から光がほとばしるがごとく、温かさに包まれ、さらさらと鈴のこしらえが響いた。其処で、ステージいっぱいにライトが不愉快にも付く。表れたのは手書きのちんくしゃな部屋の背景で、静かに鳴り響いていた音楽の中にコーラスが加わり、袖で待機していた六人の天使の格好をした生徒が、腕を虚空に泳がせながらやって来た。不恰好にも玄妙な残りの天使達は、世界から切り離された二人を囲んで声を張り上げる。
「ユダヤの国のナザレのマリヤよ」
「マリヤは大工ヨセフの許婚」
「喜びなさい、マリヤ」
「私達は神の託を伝えにきた」
「おめでとう、マリヤ」
「汝は選ばれた」
明るい世界で、まだ幼さの残る変声期前の子らは真剣に物語を語り始めるが、ぼくは其の頃ひどく動揺していた。そっぽを向いていたガブリエルが一歩前へ進み出でると、ギリシャ美を連想させる横顔からでは、見えなかった左額が露になり、カインの印を表す。カインの印は彼氏の左顔、こめかみから瞼の近くギリギリまで刻まれていて、あゝ、そう。何千という誇りを失った人にとって映るのは、たゞの醜い火傷跡だ。昂然と何か真実が崩れて己の枷が外れる音を聞いた。ガブリエルは垂れ揺れる裾を掴み会釈。ざわめく民衆を宥める高貴さは、さながらマリー・アントワネットだ。観客に軽く微笑み、再び少女マリヤへと慈悲深い視線を送る。安っぽい笑みなどではない。不特定多数に向ける愛想笑いは、何処か挑戦的でフーン(おばかさん)と、聞こえてきそうだ。まるで砂の城を這う蟻を相手にしているかのごとく、愛に満ちている。彼に取って対等なのは少女だけ、彼氏の星に住む人間は二人だけなのだ。無数のざわめきと感動の渦の中、彼氏は弧を描きながら身体を恭しく屈めた。強い力で激しく火花は飛んで胸の中、ぼくらからは彼氏の左顔が見えている。
「貴女は――男の子を生むでしょう。其の子にイエスと名付けなさい。其の子は、大いなる者となり、やがては人々の救い主となるから」
奏でた、柔らかく聞こえの良いキングス・イングリッシュ。可憐な少女のような、小さく品の良い口から紡がれるには、なんて不釣合いな低音!そのくせ小粋な言い回し!呆然自失気味なぼくには、其の英語の意味を理解しない。彼氏はもとより、精神の歴史に天使を過ぎているのだけれど、遡なければならない。そもそも不躾が合意の上で許可されたと思いたくもない。瞼がこんな時ばかり重くて精一杯瞳を凝らした。事実、ぼくはひどく疲れていた。ひび割れした唇よりも、渇きを訴える初心な心臓、固まらない足元は不安定で、進め進めと、急かした心が満ち足りて。飾り気のない言葉の語るより早くたかゞ、一度切りで満足してしまう熱っぽい視線に、どうして涙が出たのだろう。胸の深みへと届くのだろう。逢いたかった、逢いたかったぼくのガブリエル。年を重ねて、ぼくが一人の人間としての確立に踏み出して、海を越えて山を越えて、ようやく、ようやく……長かった。意識的に聴覚を遮断したのではなく、何よりも透明な聖水を流したまゝ彼氏を見る。天使達が何かを呟いて、あるいはまた聖歌を歌ったけれど、戒められた耳に入らないことは分かっていた。盲目的に、二人だけを見つめて、目の端で躍起になって追う。上から見たら、其々の表情は一目瞭然であるがして、下々の者は目を見張らせて信号を送るのだよ。アーメン。
やがて、新たな子ども達が演ずるローマの帝王アウグストが、自分の国の人口を調べようと、命を下して場面が瞬く間に変わる。羊飼いが列を作り、天使からイエスの誕生を意味するお告げを受けるやいなや、三人の賢者までステージに上がっていた。
こゝまで来て、ひとつの異常に気が付く。少女は何時までも同じ場所に座ったまゝだ。君の横で、子ども達は躊躇いがちに頬を染めては可愛らしく、それでも君の心は晴れない。あの夢を見ているような様子。只の一言も口にはしない。お蔭ではっきりと謎が解けてきた。これまで薔薇色の唇は微動駄にしない。台詞を最初から、意図的に用意されていないと考えられる、皆の不可思議な行動の数々。もしかしたら、難聴なのではないかと思いきや、多くの人々から一点に見つめられて、目の前で演技する子ども達の気持ちは遂げられた風でもなく、悩ましげに睫は頬に影を作るのを見て盲目の疑いをかける。其れに、目をよく凝らすと、少女の腰掛ける椅子の四肢に車輪が付いている事に気付いた。哀れなマリヤ。口をきく事も、音を楽しむ事も、完全な世界を眺める事なく、前へ進む足もあらぬ。どうしたら。お人形さんのマリヤ、白い服の下、車輪を忍ばせて。若いガブリエル、死神にも見える。踊れないエトワール、光の中の妖精達、君よ、美しい。傷を負った子ども達が共鳴し合う、万年雪も溶け始めた冬、クリスマスを祝う滑稽さに少し哀しくなっただけ。燃えているのは巴里でロンドンじゃない。クリスマス・キャロルは終盤に差し掛かり、ぼくはぼくしか知りえない罪に胸を苛ませながら、許して下さいね、これから神学生になろうというのに歓喜の涙が止まらないのです。
あゝ、幼いぼくの青さが叫んだけれど言葉にならなかった。あらかじめ確認を取り合った生徒諸君には申し訳ないが、纏まりのない動きでセットを馬小屋に変える様は、スマートとは云い難く、始末の悪い本物の藁を少女の背に投げた。無論、隣にはマリヤの夫ヨセフ役の、生意気にも髯を付けた背の高い少年がいたけれど、完全に蚊帳の外で、二人の妖精が持つ雰囲気に勝てる訳もなく背景と化す。
この旅路も、とうとうガブリエルの彼氏がイエス・キリストをマリヤに添えることで、ぼく達を巡る魂と肉体の戦いにも意味が付いて、ぼくは万物を愛する資格を得る。これは、只の神学生の劇なぞじゃない。本当にこの聖なる夜に、何かが生まれた。終末を容易に描かれんが所以、繰り返し、繰り返し、言葉や仕草が雑になってしまわぬように、一言一句直接届ける。この劇の本意を知らぬ者どもの一部でしかない、ぼくは受け止める次第だ。小さな小さなガブリエルの手に、希望の子ども(もちろんレプリカである)が布に包まれている。腫れ物を扱うように優しい動きでしっかりと、マリヤの手を握り締めてから受け渡す。
こんなにも切実に何かを願ったことはない。ぼくは魔法使いでもなければ、神さまでもないけれど、この先起こりうる未来の見通しが出来てしまった。他意のない天からの忠告の力が物語る物狂いが、理屈でもなく大部分が悪い冗談だ。神さま、神さまは冗談もなさるのですか。静まり返った大広間全土に、マリヤに寄り添っていたヨセフの息を呑む音がエコーズした。彼の腕が無常にも宙を切る。ガブリエルが離れてものゝ数秒、動かないマリヤの手は力が入っておらず、抱えられさせたイエスが膝の上から垂直に落ちた。お気の毒に!イエスはころころと転がってガブリエルの足元まで来た。ぼくの耳にはこう聞こえたがね、ハロー、ガブリエル!ぼくは神の見使い――眩暈がした。何処からともなく短い悲鳴が無慈悲に広がる。今、声を上げた奴の喉元を切り裂いてやりたいよ。この芝居に割り込んで、今すぐ救えるだけの自由が欲しい。力よりも。ぼくは、いったい何処へ行けば良いというのか。気まずさを打ち倒したのは、背の高いヨセフで、マリヤを庇うように前へ出た。単体で見ると思ったよりも精悍な顔立ちである。
「やっぱり、ジョンロゼには無理だったんだよ」
ヨセフの言葉に次いで、周りの子どもらも口々に文句を云い愚弄極まりない。実際の所、ヨセフ自身からは少女を攻撃する言葉はひとつもありはしなかったが、苦しみぐらい伝わる。そうじゃない、と。子どもは、湧き上がってくる悪徳すら、一方で押し寄せてしまうから残酷だ。其れでも少女の心を読み取り気に病んでくれる代弁者がいるのだから、人は必ずひとりぼっちじゃない。腹を立てた天使が、頭に乗せていた輪を乱暴に外した。
「なんだい、なんだい皆して大声を出して、莫迦みたいじゃないか。つまらない!」
これではどちらが子どもか分からない。この哀しい空気は次第に暗くなっていくばかり。折角の落ち着いた低い声もきんきん頭に響いた。「こんなもの」と、羽を折ってヨセフに投げ付けた時の彼氏の表情は、何処か苦水を飲んだように息苦しそうで、ひどく傷付いた風にも取れた。難破した劇は、空しく止まったまゝどうする事も出来ないで、観客も一緒になって騒ぎ立てる。ガブリエルを堕りた少年は、白いロープの裾を掴んでかろやかにステージから通路までの着地に成功すると、振り返って「バイ」と、ひらひら手を上げた。ずいぶん小洒落たことをする。思わず不謹慎だが、噴出してしまった。こゝに集まる者共を見給え!一同、これまでと違った目と、同じ視線で君を捕らえている。スポットライトなどなくとも時が停止したかのように、見惚れる。心あらば、闇に紛れて白は生き生きと、気持ちの良い快感に胸が晴れた。
「ペトラ!」
顔を真っ赤に染め上げたヨセフが悲痛に名前を呼んで、叫んだけれど、彼氏の軽い足取りの障害になる程想いは届かず、伸ばした其の細い指の間から遠くなる背中を覗くだけ。
「ペトラ!ペトラ!戻って来い、ペトラ!」
止められる筈あるまいさ、お節介焼きのヨセフ。傷付いた振りしたって無駄さ。一番この空気に当てられているのは、不器用な彼氏の方だ。優柔不断に、場を取り持つのではなく、自分のしたい事をすればいゝ。動けないマリヤを放っておく決心すら固まらず、本当は彼氏を追って行きたいって目をしてる。其れに比べて、全てに認められる業ではないけれど、彼氏は動く。動かない自分を許せなくなるであろうから、後悔しない?愛情の所有の意味を誰よりも知っている清らかさが、良心を強引に住み着かせるのだけれど、陰鬱な匂いがする。彼氏は感じたまゝに行動する子どものようで(実際に子どもだったのだが)これら全ての秩序と、無縁だということは、現代では素晴らしいことなのだよ。美しくて、自分の徳を考えず行ける。光の中の人だ。誰がなんと云おうと、彼は不行意な生徒なぞじゃない。たえず、傍にいることだけが、大切なたったひとりを守る秘密にならない。
そうして、感情の追い付かないまゝ劇は教師の謝罪が行われて終止符を打ち、残った子ども達で聖歌を歌い直すことで体面を、やもえず穏やかに守った。しかし其れが、明るい可能性にはならず、少女の姿も何時の間にか消えていた。そう、残念なのは、一層少女が気を閉ざしてしまうだろうことだ。しつけが良さそうな、ヨセフ役だった少年は、実に立派に優等生を続けていたし、ぼくはやがて接し合う境を感じていた。一番乗りで去ってしまった、君にまた会える日を心待ちにしている。この計画はゆっくりと模範を繰り返さねばならぬ義務があった。途方もない、誰にも云えはしまい。ぼくにとって厳格に、平和的に夢見てきた最後の瞬間が訪れる。
「エリオン・デグシュぺリ君だね?」
この世界の未来に、君と交わることを祈るよ。やるべきことは、いたるところにまでやり尽した気がする。
「仏蘭西の御両親から、英吉利にまで捜索願が出されているよ」
どんな欲より、深いものを心に育ててきてしまった。独立独行これまでだ、廊下で肩を合わせたこゝの教員がまんまと通報なさったのだから。何も発表中にまで、忍び込んで来なくとも良いものを、御丁寧に小言で「聖歌を最後まで聴いていくか?」と、問うてくる。そんなもの最初から決まっている。答えはノーだ。君がいない、君がいない、意味がない。ぼくはやるべきことはやった。後は彼氏に任せるしかない。ぼくに気付いておくれ、ずっと待っている。
突然の終わりは味気なく、興味も程々に思い出ばかり酔うよ。自己非難ではなく、なさけない気持ちも十分にあった。心ひそかに警察に連れて行かれるまでの間、両親に何から話そうか、妹に謝るべき言葉や、今日劇で見付けた二人の妖精のことばかり考えていて、少しばかりの変化を、しみじみとその身で感じることが出来た。只、自覚している中に耳に残って離れない、ヨセフの叫びが煩わしかった。
ペトラ!ペトラ!戻って来い、ペトラ!
前を向いて歩いて来た筈なのに、思い出がなければ進むことも叶わない不安に、心を病ませつゝ、眠くなるのを待った。早く、君がいた夢をみたい。