馬鹿なのは、誰だ。
こんな三角関係も、ある意味切ないかもしれない。
――馬鹿なのは、誰だ。
馬鹿なのは、葉菜子だ。
葉菜子は、いつも大樹に泣かされている。
あんな奴、やめてしまえばいいのに。葉菜子が愚痴をこぼす度に、そう思う。
だけど、僕は決して口を出したりしない。大樹をやっつけたりなんかも、しない。
葉菜子のことが大好きだから。僕にとっては、かけがえのない存在だから。
何も言わない。僕はいつも、ただ静かに二人のことを眺めていた。
ああ、だけど――。
今日もまた、葉菜子は泣いている……。
「私のことなんて、どうでもいいのかもしれない」
葉菜子が泣く前に呟くお決まりの台詞だ。
まずは瞳に薄い涙の膜を張る。そして唇をわずかに震わせ、眉頭に力を入れたところで、小さくこの言葉を吐くのだ。
「楽しみにしてたのに。めずらしく休みの日を合わせられたのに」
大樹の奴、今度は葉菜子と行く旅行の日に仕事の予定を入れてしまったらしい。
彼女がずっと前から楽しみにしていた旅行だったというのに……。よりによって、とはこういう時に使う言葉だろう。
葉菜子は大粒の涙をこぼしながら、抗議を続けている。僕に言ったって仕方ないのに、それはそれは一生懸命に、だ。
気持ちを言葉にして吐き出しては、溢れる涙を拭かずに、顔中をてのひらで撫で回す。小さい頃から直らない、葉菜子の癖だった。
「大樹の、馬鹿……」
これも、すっかり耳慣れた台詞だった。
何度も何度も繰り返し、その度に語尾が弱くなっていく。細くて長い深呼吸の後、そのまますうっと寝息を立て始めたら終了だ。
ああ、また泣き疲れて寝てしまった。いつものことながら、本当に世話が焼ける……。
僕はふわふわの薄いカーディガンを彼女の肩に掛けて、寝顔を覗き込んだ。
机に突っ伏したまま眠る葉菜子。目のまわりと頬を中心に、涙が全体を覆っている。
騒ぐだけ騒いだためか、その寝顔は実に安らかだった。
葉菜子は、もう何度大樹に泣かされているのかわからない。
奴が不器用で、気が利かないから。
葉菜子はいつもこっそり泣いている。
見ていられない。とても、見ていられない。
彼女は知らないのだ。僕がいつも切なさを感じる瞬間を。今、この時の感情の存在を。
ただ黙って話を聞き、すぐ隣で彼女が落ち着くのを見ているだけ。
だから、彼女は全てを話す。
だから、僕は縛られる……。
いつでも一番近くにいるのに。もしかしたら、一番遠い存在なのかもしれない。
もどかしく感じても、僕と葉菜子の距離は、単純には計れないものだった。
僕は、葉菜子のことが好きだから。
だからこそ、こんなにも悔しいのだ。
葉菜子を笑顔にできるのは、僕だ。僕は泣かせたりなんかしないし、ふて寝なんかもさせない。
閉じられているまぶたの隙間から、少しずつ流れ続ける透明な悲しみは、大樹と出会ってからのもの。
彼女は昔は泣き虫なんかじゃなかった。とても強い女の子だったのだから。
大樹の奴め。
僕は悲しい気持ちを何とか打ち消したくて、葉菜子の頬に軽く口付けをした。そして、頬に伝わり蛍光灯の光を僅かに反射させている涙を、優しく舐め取った。
「私のことを慰めてくれるのは、貴方しかいないのね」
葉菜子の言葉に驚いて、僕は慌てて離れようとした。
「待って……。もう少しだけ、そばにいて」
きらきらと瞳を揺らし、弱く甘えた声で手を伸ばしてくる。
僕は素直に引き寄せられて、きつく抱き締められた。
いつまでもこんなことをしていては、駄目だ。
僕はずっと、葉菜子のそばにはいられないのだから。
だから――。
葉菜子。頼むから、泣かないで。
僕は、葉菜子の笑っている顔が一番好きなんだ。
馬鹿なのは、大樹だ。
大樹は、いつも葉菜子を泣かせている。
お前なんか、葉菜子に相応しくない。大樹が失敗する度に、そう思う。
だけど、僕は決して口を出したりしない。葉菜子と引き離したりなんかも、しない。
大樹のことが大嫌いだから。僕にとっては、迷惑でしかない存在だから。
何も言わない。僕はいつも、ただ静かに二人のことを眺めていた。
ああ、だけど――。
今日もまた、大樹は泣かせている……。
「俺よりもお前の方が、葉菜子に近いよな」
大樹の奴は、何か失態を犯す度に愚痴をこぼす。
僕のことを、親友か何かと勘違いしているようだ。
「葉菜子を泣かせたくなんかないのに……。気づくと、いつも目が赤いんだよな」
使用したばかりの合い鍵を右手に、大樹は無表情のまま淡々と呟いている。僕に言ったって仕方ないのに、瞳をまっすぐに向けてくる。
大樹は、もう何度葉菜子を泣かせているのかわからない。
大抵は仕事絡みのことだが、不器用な言葉の使い方でも、度々衝突している。
何でも下手で、不器用で。
とにかく、葉菜子を泣かせすぎなのだ。
見ていられない。とても、見ていられない。
大樹は知らないのだ。僕がいつも悔しさを感じる瞬間を。今、この時の感情の存在を。
僕は、葉菜子の笑顔が好きだから。
だからこそ、こんなに腹が立つのだ。
葉菜子を笑顔にできるのは、僕の方だ。僕は泣かせたりなんかしないし、ふて寝なんかもさせない。
気づいて欲しい。大樹に、彼女の悲しみを知って欲しい。
そんなに愛しそうに葉菜子を見つめていたって、彼女の笑顔は戻せないのだから。
不器用な奴め。
僕は苛立つ気持ちを何とか鎮めたくて、葉菜子の頬を軽く撫でた。
頬に残る涙の通り道を、大樹に見せてやりたかった。
「葉菜子の涙、見たことないんだよな」
当たり前だ。
葉菜子は隠しているのだから。
僕が残さず舐め取って、彼女の悲しみを吸い取っているのだから。
「葉菜子には、いつも笑っていて欲しいのにな」
ゆらゆらと瞳を揺らし、弱く震えた声でささやいた。そして、何かに気づく。
大樹は葉菜子の手を掴むと、しばらく固まったように動かなくなった。
大樹は、葉菜子が両手で弾いた涙が、まだ彼女のてのひらに残っているのを――彼女の涙の粒を、ようやく見つけたのだ。
僕と大樹は同じ気持ちを持っている。
僕は――僕たちはずっと、葉菜子の笑顔を見ていたい。
だから――。
葉菜子。頼むから、泣かないで。
僕は、葉菜子の笑っている顔が一番好きなんだ。
馬鹿なのはーー。
葉菜子と大樹の旅行は、彼女が泣きじゃくった日から、丁度三ヶ月後に変更された。
真夏に予定されていた海水浴プランは当然無効となり、山肌を覆う紅葉を眺める内容となった。
そして、今――。
何故か、僕も同伴している。
あれから、何となく気まずくなった二人は、必ず間に僕を挟むようになっていたのだ。
まったくもって、迷惑な話だ。
「綺麗だね」
「こんなにのんびりと過ごしたのは、久し振りね」
顔を見つめてしまいそうになり、慌てて視線を外す葉菜子。
肌に触れてしまいそうになり、そっと腕を離す大樹。
そして、縮まらない二人の距離と、それを繋ぐように存在する僕……。
ふと、秋の冷たい風が三人の間を吹き抜けた。
はらり、と時々落ちる葉が、時間を止める術のように思えた。
ああ、寒い。
澄んだ空気、爽快な空間。
それなのに、ただ、風を寒いと感じるだけ。
早く時間が進めばいいのに。
僕を間に置いて、二人は少しも笑わない。まともに話さない。
僕は、葉菜子が笑っている顔が一番好きなのに。
それなのに――。
葉菜子。頼むから、笑って。
大樹。頼むから、葉菜子を幸せにして。
もういい加減にして欲しい。そう思った。
馬鹿なのは、僕だ!
馬鹿なのは、僕なんだ!
だって、僕は――。
――かりっ。
僕は、葉菜子の手を引っ掻いた。
「痛いっ」
葉菜子の小さい手――左手の薬指に、細くて長い線が付いてしまった。
僕が、付けた。僕が、傷付けた。
ああ……。
――がりっ。
僕はやり切れない思いを抱えながら、続けて大樹の手も引っ掻いてやった。
「いてっ」
大樹の大きな手――左手の薬指に、太くて短い線が付いた。
僕が、付けた。僕が、引っ掻いてやった。
ああ、すっきりした……。
ずっと一緒にいる、と二人が約束を交わしたしたのは、それから三分後のことだった。
僕が付けたばかりの傷を覆うように、二人ともきらきらと光る綺麗な輪を指にはめている。
「普通、箱に入っているのを見せたりするものじゃない?」
「あんなのいらないんだよ。ずっとはめてるんだから」
泣き顔の葉菜子と、困惑顔の大樹。
だけど、先ほどまでの二人の顔とは違っていた。
安心して、見ていられる……。
僕は、縮まった二人の距離を邪魔しないように、乗ってきた車へ向かおうとした。
すると――。
「あ、銀河、待って」
馴れ馴れしく僕の名前を呼び、大樹が何かを首に巻き付けた。
「銀河にも……?」
葉菜子の言葉を聞いて、僕は自分の首を引っ掻いた。
――からん、からん。
何かが爪に弾かれ、音を立てている。
その正体がわからずもがいていると、葉菜子が鞄から手鏡を取り出し、僕の顔を見せてくれた。
巻き付けられた首輪の真ん中には、葉菜子の指にある輪と同じものがぶら下がっていた。
「銀河の瞳と同じくらい綺麗な銀色だろ」
僕は、大樹の顔を見上げた。
「俺、銀河のことも大好きなんだ。これからも三人で、ずっと一緒にいたい」
大樹の奴め。
また葉菜子が泣いているじゃないか。
僕は、葉菜子のことが大好きだから。
僕は、大樹のことが大嫌いだから。
仕方がない。
もう少しだけ――二人のそばにいてあげよう。
僕は、付け心地の良い首輪のお礼に、今度は大樹の首を引っ掻いてやった。
そして、猫らしく自分の手を――前足を、ぺろりと舐めた。