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短編集

ワカレ

作者: 海蔵樹法

 今の俺に何が出来るというのだろう?

 人は間違う生き物だ。完璧なものなど何一つ在るはずがない。この身が人で有る限り。



 何をどこで間違ったのか。今となってはもう何もわからないが、心に去来する感情が失った虚無感以外にも何かしら有る以上、俺はその事を、まだ、割り切れていないのだろう。



 人の人生は、点を一つ一つ積み重ねて、それを一つの建築物にする事に等しい。これがジェンガのような棒きれを積み重ねるものなら、どんなに簡単なことか。



 だからこそ、人はどこかで、積み重ねたそれを崩すまいと堪え、耐え、細心の注意を払いそれを守ろうとする。

 それは自然な行為だ。間違いではない。寧ろある種の正しささえそこには在るはずだ。



 積み重ねたものを、守ろうとする事。保とうとする事。それの何がいけないのだ?


 それを根底から否定するということは、己を否定すること。

 それは、生きながらにして死んでいるような、そんな気がしてならない。



 事実は小説より奇なりとはよく言ったものだ。きっとこの言葉を考えた先人は、自身に起こった現実が、到底受け入れ難いものだったに違いない。だがそれが現実である以上、受け入れるしかない。



 様々な困難を乗り越え、何かを学び、再び立ち上がり歩き出すことを人は成長と呼ぶのだろうが、困難に打ちひしがれ、それでも前を向いて歩くしかないとするなら、それは成長には程遠く、そこから何かを学び取ることは難しい。

 本当の意味での困難がそれだとするなら、人生における困難の意味を、俺は今知りたい。

 感情ではなく、理屈でもなく、純然たる意味を、俺は今知りたい。




 それでも生き続ける。この意味は何だ?

 生物としての本能がそうさせるのか?



 ただ生き続ける事の意味は、わからない。本能がその意味ならば、そもそもこの思考の全ては無為。であるならば、意味は自分で見出すのが答えなのだろうが、それすらも出来ないのなら、いよいよもって終止符を打たなければならないのだろう。



 事実は現実。人生は主観。ならば一体、真実はどこにあるのだ?






 自分という概念が曖昧になりつつあるなか、俺は一つの答えに行き着いた。


 さあ、目を閉じよう。直ぐに終わる。

 そこには苦しみなどなく、今の俺に許されたただ一つの自由。


 解放が待っているのだから・・・。


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