王子
王宮で舞踏会を開こうと言い出したのは母だった。父は自分の仕事にしか興味がなく、生返事をしていた。僕も似たような返事をした。母の言う舞踏会が何を意味するか、言われなくてもよく解っていた。
父と母も王宮で開かれた舞踏会で出会った。王子だった父は王国中から集まった美女の中で一番踊りの上手い女性を妻にする気だった。美しい女性を見ればすぐに踊りを申し込み、少し踊ってはすぐに相手を変え、とうとう自分の好みの女性が見当たらなくなると伴侶のいる女性にも踊りを申込み始めたらしい。
国の王子から踊りを申し込まれたら断れる女性はいない。舞踏会に来ていた女性たちは父から差し出された手を取り、文句も言わずに踊った。その中で父は一人の人妻に声をかけた。人妻は自分の夫である男に困ったような視線を送った。しかし、男は妻を快く差し出した。そこで一人の少女が割り込んできた。
「ちょっとやめてよ! 私のママに何をするの?」
人妻は王子に対する失礼な口の利き方をする娘を咎めたけれど、少女は引き下がらなかった。
「ママの代わりに私が踊るわ。それで文句無いでしょう」
そう言って父が人妻に向かって差し出していた手を取り、ダンスホールの中央まで勢いよく歩いて行ったのだ。父は驚いたが、それ以上にもっと驚くことがあった。
少女の踊りはそれまで踊ったどんな美女の踊りよりも滑らかで、心地良かった。父が驚いていると少女は得意気に笑って父の足を思い切り踏みつけた。痛みに悶絶する父に舌を出し、少女は自分の母親の元へ帰ろうとしたが、父はそれを引き止めた。
その場にいた誰もは王子が少女に怒り、無礼に対する罰を与えると思っただろう。だが、父は少女の足元に跪き、ドレスの裾にキスをした。
「私と結婚して下さい」
「……そんな話? いいわよ」
そうやって父と母は結婚し、僕が生まれた。この馴れ初めは王宮の中で今も語り継がれていて、一言一句違えることなく書き取れる程、何度も聞かされ続けてきた。
「王子、あなたはそろそろ身を固めるべきです。お父様はもう仕事を退く時期なんですから」
「まだ早いよ。母さん。父さんはまだ王位を退く気はないはずだ」
そうは言ったものの、父は結婚する前から母の言いなりだ。母が『隠居してのんびり暮らしたい』と言えば、あっという間に僕の妻となる女性を探して結婚させ、自分は母と別荘に引っ越して悠々自適な生活を送るだろう。母もそれはよく解っている。
それならば父に勝手に決められた相手を好きになれるか、愛せるかと悩む日々を送るより、舞踏会に出て見た目だけでも自分好みの相手を探した方がいいだろう。渋々母の提案を受け入れ、舞踏会に参加することにした。
さて、舞踏会に参加するとなると王子という立場上、色々と準備しなくてはならないことが出てくる。王子と言われれば何もしないで召使をこき使って遊び歩いているイメージがあると思うのだが、実際は違うのだ。
まずは家庭教師にきちんと踊れるかどうか確認される。小さい頃から泣くまで教えられ、うんざりするほどさせられたことなので寝ていても出来るのだが、様々な人が来る場に一国の王子として出て行くからには隙を見せてはならないと言われて何故か舞踏会ではありえない曲目のダンスまで確認された。
次にフィッティングだ。結婚する女性と出会う場に相応しい服を新調しなければならない。仕立て屋が来て色々なデザインを見せてくれるのだが、僕は流行の服というのがあまり好きではない。折角のいい布地、丁寧な針仕事で仕立てられた服を流行が過ぎたからという理由だけでクローゼットの隅に追いやって、埃を被ったままにするなんてあまりに悲しい。それならば昔からある定番のスタイルで長く着続けることが出来る方がいい。
母は王子という立場に生まれたのだから庶民には出来ない贅沢をしろと言うが、流行が変わる度に服を作っては捨ててを繰り返すより、自分のために作られた愛着のある服を着回す方がずっと贅沢だと感じている。庶民ではいくら気を付けて手入れをしてもすぐに穴が開いたり、ほつれたりして着られなるかもしれないが、王子の立場なら職人が時間の経過など感じさせないくらい綺麗に直してくれる。作った職人の手で直せなくても国中から元通りに出来る職人を集めることが出来るのだ。それこそが王子という立場に生まれたからこそ出来る贅沢だろう。そう思うのだが、母の理解は得られない。
踊りと服という外面の確認が終わると次は内面を見られることになる。巷の女性が好む話題を演劇、小説、絵画、ファッション、ゴシップまで何でも教え込まれた。芸術は普段から馴染みがあるのですぐに覚えられたが、流行に興味がない僕にとって移り変わりの激しい女性のファッションや、根も葉もない噂を尤もらしく仕立て上げたゴシップを覚えるのは苦痛でしかない。それでも覚えておかなければならない理由は、ゴシップの対象となった家の娘や親戚筋の人間が舞踏会に参加していた場合に失礼な発言をしないよう注意するためだ。
破局したばかりの女性が失恋の傷を癒し、気分を変えるために舞踏会に参加していたとする。その女性に対して
「あなたのような素敵な方ならお相手がいらっしゃるのではないですか?」
などと言ってしまうのは良くない。相手の女性だけでなく周りの女性たちに対する印象も悪くする。勿論、そんな軽々しい発言は慎むべきだが、相手の好意をやんわりとお断りしたい場合には効果的な言葉として選ぶこともある。
特に今回は王子の結婚相手を見つけるために行われる舞踏会なのだ。女性たちはここぞとばかりに着飾って、僕に気に入られようとアピールしてくるだろう。僕はその中から王室に入るに相応しいとされる、自分の好みの女性を選び、結婚を申し込まなければならないのだ。
話題を覚えるついでに女性の誘い方や、誘われた時の断り方をスマートに出来るように練習させられる。母の母よりも年上の老婆を踊りに誘ったり、結婚を申し込んだりするのは苦行と言ってもいいくらいだったが、その代わり言い寄られた時に断る練習はかなり捗った。
世の女性たちが美肌になる食事や、ドレスを着るためにコルセットを締めている間、王子はより良い女性を見つけるために準備をしているのだ。決して遊んでいる訳ではないことが解っていただけるだろうか。
そこまですれば最初は嫌々だった舞踏会も段々と待ち遠しくなってくる。結婚相手を探すというよりは練習の成果を発揮するための試験の場といった感じだが、目的が何であれやる気のない王子より、積極的に参加を望んでいる方が来てくれる女性たちにもいいだろう。
僕が舞踏会に向けてやる気を出しているのを見た母はしたり顔で言った。
「やっと相手を見つける気になったわね」
「今夜で見つかるかどうかは解らないよ。もしかしたら好みの女性が来ないかもしれないし、いたとしても相手が僕を好きにならないかもしれない」
「そんなことないわよ。あなたは父親に似て強運の持ち主だもの。絶対にいい人が見つかるわ」
強運の持ち主は舞踏会で運命の出会いをした父よりも、王子に失礼なことをしてお咎めなしどころか玉の輿に乗った母の方ではないかと思ったが黙っておいた。
その日は念入りに体を磨かれて、女性を惚れさせる効果のある香りだと言って変な匂いのする油を髪につけられた。新調した服に袖を通し、鏡に向かって微笑んで見せる。鏡の中の男は王子らしくはないが、それなりに好青年に見える。
「悪くないな」
思わず呟いた後、慌てて周りがそれを聞いていなかったことを確かめた。
日が傾き始めた頃から続々と人が集まり始める。開始時間にはまだ早いが、遠方から訪れる人は出発が早いので道中にトラブルが起きなければ到着も早いだけなので気にする人はいない。一組、二組と集まってきて王宮の前の道が馬車で渋滞しているのを窓から眺めた。
あの馬車のどれかに僕と結婚して未来の王妃になる女性が乗っているかも知れないと思うと心が騒いだ。それと同時に面倒にもなってきた。
窓から見える範囲だけでも数え切れない程の数がいる。その中からたった一人、人生の伴侶となる女性を選別しなければならないのだ。それは藁山の中から針を探すに等しかった。藁と違って針は光るので藁山の上に針が乗っていれば探し当てやすいが、奥に埋もれてしまった針を手探りで探すのは難しい。うまく探し当てることが出来るだろうか。少し不安にもなった。
部屋の扉がノックされる。
「王子、そろそろお客様の前に出る準備をなさって下さい」
「ああ、解った。すぐに行くよ」
僕は返事をして窓から離れた。もう一度鏡を見て服装や髪型が乱れていないことを確認して部屋を出た。
王宮へ来た客人たちがダンスホールに入ってくるのを王である父、王妃である母と共に待ち受けるのが今夜する一番最初の仕事だ。身分の高い者から順番に入ってくるので、それぞれから挨拶を受ける。
貴族の娘たちは顔馴染みが多く、今更挨拶などしなくても顔と名前が一致するのだが、それでも名前と階級を聞き、言葉を交わす必要があるらしい。貴族の大半は生まれた時から婚約者が決まっていて僕の結婚相手にはなれないのに何故来るのかと思ったが、どうやら社交界に顔を売るためのようだった。
娘に付き添ってきた父親は娘を婚約者や女友達に任せて妻を傍らに人脈を広げようと挨拶を終えた貴族に声を掛ける。身分が上の人間から声を掛けられたら断ることは出来ないし、逆に下の身分の者から挨拶をされたら上の身分の者はそれを受けなければいけない。その家がやっている事業の調子や、事業拡大する予定、逆に縮小する予定など腹の探り合いをする男共を尻目に女性たちはお互いのドレスや髪型を褒め合い、その裏で相手の生活を覗き見る。
「よくもまあ……貴族ってのはどうしようもないな」
僕は誰にも聞こえないように呟いたつもりだったが、母の耳に入ったらしい。髪を直す振りをして首の後ろを抓られてしまった。
それからは思っても口に出さないように気を付けた。いつの間にか貴族の挨拶は終わり、庶民の娘たちが遠巻きに僕の方を見ていた。にっこり笑って見せると顔を真っ赤にして俯く子や、鼻息荒くウインクを返して来る子までいて退屈しなかった。
父の挨拶が終わり、音楽が鳴り出した途端に僕は席から蹴り落とされ、フロアに降り立った。
貴族の娘たちが一夜の遊びを求めて擦り寄ってくるのを微笑みで躱しつつフロアの中を品定めして歩いた。
正直なところ、庶民の娘たちの顔が全員同じに見えた。安い布地で作られた流行のデザインのドレス。派手に飾り立てられた髪。化粧まで揃っているせいか、見事に同じ顔が並んでいる。
貴族の娘たちは同じデザインでも布やレースに拘り、髪飾りにも個性を出している。何より化粧で顔を変えるような真似はしない。社交界は顔を覚えられなくてはならない場所だ。親の遺伝子を間違いなくアピール出来る自分の顔を隠してしまっては意味がないと社交界に初めて出た時から解っているのだ。
母の方に視線を送り、相手になりそうな娘がいないことを伝えると母は頬杖をついて首を振った。諦めずにきちんと探すように、という意味だろう。仕方なく重い足を持ち上げて歩き出した。
二週目は貴族だけでなく庶民の娘たちも声を掛けてきた。付け焼刃の優雅さを必死に見せている姿はいじらしいが、香水が強すぎて息が出来なくなり逃げ出した。
次に話しかけて来た娘も先程と似たような顔をしていたがどうやら別人のようだった。しかし、緊張しているのか話している内容が実につまらない。何とかして話を広げようと試みたが、質問に対して質問を返してくるので会話にならず、うんざりし始めたところで話していた女性を少し幼くした姿の娘が話に割り込み、小さく頭を下げて女性を引き取って行った。
「お姉ちゃん、あんなお話したら失礼でしょう。お酒を飲んだのね? 何してるのよ、もう……」
そんな会話が少しだけ聞こえてきた。どうやら先に話しかけてきた女性の妹なのだろう。ドレスは庶民的だが流行の物を着ており、化粧や髪型は控えめで可愛らしい。残念ながら少し幼過ぎる気がした。彼女が姉くらいの年齢なら間違いなく踊りに誘ったのに、と後ろ髪引かれつつその場を後にした。
目を皿にしてフロアにいる女性たちを見渡したが誘いたい女性は見つからない。母に叱られることを覚悟で自分の席へ戻った時、会場がざわめく音がした。振り返って首を伸ばし、フロアの入口を見ると遅れてやってきた一人の女性が立っていた。人々の注目を浴びて恥ずかしそうに俯いている。僕は無意識にその女性の方へ向かった。他の誰の声も耳に入らず、また誰の姿も気にならなかった。
女性のドレスは流行を無視したデザインで真っ白な布地に刺繍やレースを惜しみなく使い、無駄のない美しさを極めている。年代を感じさせる布の質感が手入れの行き届いて大切にされていたことを感じさせる。塗るところとそうでないところをきちんと分けた化粧のおかげで透明感のある肌や儚げに震える唇が際立たされている。
僕は女性の前に立ち、驚かさないように声を掛けた。
「こんばんは。ようこそいらっしゃいました」
「……こんばんは」
緊張しているのだろう。鈴の音のように耳触りのいい声が震えている。僕が王子であることを明かすと彼女は驚いたようで、顔を上げて丸い目を見開いた。
はっきりとした意思を感じさせる綺麗な目だった。貴族の娘や他の女性のように打算や色目で王子としての僕を見ているのではなく、ただ純粋に顔を見上げている目だ。
今まで聞き飽きる程聞いてきた父と母の馴れ初め。父がどうして母に結婚を申し込んだのか解らなかったが、彼女に会って初めて理解した。父も僕と同じように一人の人間だったのだ。だからと言って僕は今、この場で結婚を申し込むつもりはない。親子二代で舞踏会の会場で結婚を申し込んだなどと噂になるのはごめんだ。
舞踏会の開催が決まってから叩き込まれたことを必死に思い出しながら僕は何とか彼女と会話を続けようとした。だが、彼女は演劇の話にもファッションの話にも曖昧に首を振るだけでなかなか打ち解けられない。最後の手段としてゴシップを語って聞かせてみたが、それも玉砕した。
だが、どうやら嫌われている訳ではないようだ。話を聞いて必死で頷き、笑ったり、驚いたりと表情を変えて僕を楽しませた。僕は意を決して彼女に言った。
「よろしければ踊っていただけませんか?」
「……ええ、そうしたいのですが、私……踊りがあまり得意ではないの」
「大丈夫。僕がリードしますからついて来て下さい。足を踏んでも構いませんよ」
そう言ってウインクをして見せると彼女は頬を赤く染めて笑った。差し出した手に手を重ね、フロアの中央までエスコートする。腰に手を回して抱き寄せると体が緊張して固まってしまった。
「力を抜いて、僕に身を委ねて下さい」
耳元で囁く。彼女の体から少しずつ力が抜けて僕の体に密着した。揺れながら足を進めると迷いなく僕のステップについて来た。難易度を上げてみても足がもつれず、きちんと合わせてくる。まるで昔からのパートナーのようだ。
「得意ではないなんて嘘ですね。お上手ですよ」
「ありがとう……あなた、不思議な匂いがするわ」
匂いと聞いて僕は首を傾げた。随分と時間が経ったので忘れていたが、香油を付けられていたことを思い出した。
「女性に好かれる香りだそうで、母に付けられたんですよ」
「まあ、そんなことしなくてもあなたならどんな女性にも好かれるでしょう?」
「今日は特別な一人を決める日ですから、僕が選んだ人に好かれなくては意味がありません。この匂いはお好きですか?」
「ううん……解らないわ。でもあなたの香りなら好きになれそうよ」
そう言って彼女が見せた心からの笑顔に今度は僕が赤面する番だった。素直に好きだと言われるよりずっと嬉しく、恥ずかしい。彼女は黙った僕を無防備な表情で見つめて首を傾げ、微笑んだ。僕の肩に頬を寄せて深く息を吸い込むと小さな声で呟いた。
「本当に素敵な夢の世界だわ。このまま眠り続けられたらいいのに。夢から覚めなければいいのに……」
「夢? 何を言っているんですか?」
僕が聞くと彼女は肩に頭をもたれたまま、微笑みながら小さな声で教えてくれた。
「舞踏会に行きたいって思いながらうたた寝をしていたの。そうしたら母が魔法使いになって現れて私にこのドレスを用意してくれた。素敵な馬車まで用意してくれて、私に舞踏会へ行くように言ったの。馬車に乗って王宮に着いたら王子様が出迎えてくれて、しかも一緒に踊ってくれた。とても幸せな夢よ。幸せ過ぎて覚めるのが勿体無いくらいにね」
「夢じゃない。これは現実だよ」
「いいえ、これは夢よ。夜が明けたら終わってしまう夢。目が覚めたらうたた寝をしていたことをママに叱られてしまうわ。でもママやお姉さんたちが舞踏会から帰る前に目が覚めれば大丈夫。私が眠っていたことは誰にも知られずに済むわ」
僕は混乱していた。彼女は気が狂っているのだろうか。でも覗き込んだその目は正気だった。本当にこれが夢だと信じているのだ。彼女の母親や姉がここにいるらしいが、彼女に顔の似た女性はいないし、見逃していたとしても声を掛けようとする気配すらない。
暗に僕と深い仲になることを断ろうとしているのだろうか。だとすれば何故、僕と踊ることを承諾し、今も腕の中で揺られ続けているのか解らない。彼女の本心が読み取れないのが悔しかった。こんなに近くにいて言葉を交わせるのに彼女の心は遠い何処かにあって手に入らない。僕は言った。
「いいでしょう。これは夢です。ですが、あなたが明日の朝、目覚めて今夜のことを忘れてしまったとしても僕はあなたを決して忘れません。もう一度、今度は現実のあなたと出会って恋をしてみせます」
「嬉しいわ。目が覚めたとしても今夜のことは忘れない。たくさんの夢が一度に叶った大切な夜だもの。一生大切にするわ」
彼女はそう言って少し寂しそうに微笑んだ。それから僕たちは黙って踊り続けた。音楽が変わってもその手を離さず、ただ抱き合って揺れ続けた。
不意に彼女が顔を上げた。慌てたように周りを見渡して視線を止めた。時計を見ているようだ。
「大変! 私、帰らなくちゃいけないわ」
「どうして? 舞踏会は夜通し行われてるんだ。朝までここにいればいい」
「駄目よ。お母さんと約束したの。魔法が解ける前に帰るって」
そう言って彼女の手が僕の手を離れた。突然の出来事に離れた手を掴んで引き止めることも出来ず、人混みを掻き分けて外に向かって走る彼女を追いかけた。
「待って、待ってくれ! せめて名前を教えてくれ!」
僕が叫ぶと彼女は振り返って悲しそうに眉を寄せた。
「さようなら、王子様。楽しい、素敵な夢をありがとう」
彼女は優雅にお辞儀をしてフロアから立ち去った。僕は後を追って走った。追ってくる足音を気にしながら走っていた彼女は王宮の入口にある階段を駆け下りる途中、躓き、転んだ。
「大丈夫か?」
僕は慌てて駆け寄ろうとしたが、追いつく前に彼女は立ち上がり、馬車に乗って行ってしまった。
踊り場にたった一つ、小さな靴を置いて。
父や母、舞踏会に参加していた貴族や王宮に仕える召使にも聞いてみたが、誰も彼女が何処の家の誰なのか知らなかった。名前も知らない彼女の残した最後の手がかりはガラスで出来た小さな靴だけだ。
彼女に興味を持った母が調べてくれたが、結果は芳しくない。
「王宮に出入りしている職人に聞いたけど、銘もないし、何処で作られた物か解らないそうよ。靴自体は高級な一点物だけど、とても古い物だから、もしかしたらこれを作った職人は既に亡くなっているかも知れないって……」
「それなら靴の出処から身元を割り出すのは無理だな」
「ええ。それにしても小さな靴ね。さっき履いてみたけど足が入らなかったわ」
「やめてくれ。これは預かり物なんだぞ」
「怒らないでよ。試してみて似合っていたら同じ物を作って貰おうと思っただけなんだから」
僕は母の手から靴を取り上げて睨んだ。
「調べるのに協力してくれたことには感謝してる。だが、この靴は名前も知らない彼女が残した大切なものなんだ。唯一の手がかりが壊れたら僕はもう二度と彼女に会えなくなってしまう」
「あら、手がかりならもう一つあるわよ」
母は高飛車にそう言って怪訝な顔をする僕を鼻で笑った。
「私の足は他の女性よりも小さいの。その私の足が入らないくらい小さな靴よ。ということは普通の女性よりも小さな足を持っていることがあなたの探している彼女の特徴ね」
「だが、もしかしたら小さな靴を無理に履いていたかも知れないだろう」
「それはありえないわ。無理に履いたらこの靴が壊れてしまうもの。それに彼女はこの靴を履いてあなたと踊ったり、走って帰ったりしたらしいわね。窮屈な靴を履いてそんなことをしたら、あっという間に足の皮が剥けて血塗れになるわよ」
母の言葉に僕は頷いた。足に合わない靴を履いた後の悲惨な状態は僕もよく知っている。踊っている間、彼女が自分の足を気にしていた様子はなかった。それならばこの靴は彼女の足に丁度良いサイズだったということなのだろう。
「しかし、どうやって彼女を探したらいい? この国に女性は数え切れない程いるんだ。全員にこの靴を履かせて足に合う女性を探すのか?」
気の遠くなる話だが、他に方法が思いつかない。母が呆れたように言った。
「馬鹿ね。命令すればいいのよ。『この靴に合う足を持つ女性を探している。足の小さな女性は名乗り出るように』って御布令を出せば国中から足の小さな女性が集まってくるわ」
「そんなことで国民を振り回すなんて……」
母の提案は確かにいい方法だと思うのだが、僕は迷っていた。次の王妃となる女性を決める結婚は国のために必要なことだが、再び会うと約束した相手を探しているのは僕の個人的な事情だ。悩む僕に母が言った。
「王子なら王子らしく我侭を言いなさい。あなたは少し聞き分けが良すぎるわ」
母は聖母のような微笑みを浮かべてそう言った。傍若無人に振舞ってばかりいる母のそんな顔を見るのは記憶にある限り初めてのことだった。
「あなたは小さな頃からそうだったわね。国民のことを考えて自分のことはいつも後回し。周りが王子だからって気を遣っているのに子供らしい我侭も言わず、相手を怒らせるような失礼もしない。私はいい子を育てたとよく褒められていたけど、寂しかったわ」
「寂しかった?」
「ええ。私は親なのにあなたの素顔を知らない。あなたは私に対しても王子として求められている姿しか見せなかった。誠実で謹厳実直、心優しくて何事にも動じない完璧な王子であるあなたしか私は知らないの。子供らしく食べ物の好き嫌いをしたり、転んだ痛みに泣いてみたり、大人の注意を集めるために悪戯をしたり……そういう人間らしいあなたを見たことがないの。母親なのにね」
「僕は王子らしく振舞おうとして今の僕になった訳じゃない。確かに面白みのない人間かも知れないけど、それが僕の個性なんだ」
「ほら、あなたはそんな言葉さえ受け入れる。普通は怒るところよ。人間らしくない、なんて言われて怒らない人はいないの。今は王子だからそれでいいかも知れないわ。でも王になったら国民は私と同じ気持ちになるでしょうね」
「母さんと同じ気持ちに? 寂しいと思うってこと?」
「そうよ。王は国民を守り、豊かにしてくれるけれど、国民から王にしてあげられることは何もないなんて寂しいわ。国民は王室を別世界だと感じて、同じ国なのに切り離されたように感じる。それではいけないの。王国は王と民がお互いに支え合わなければならない。王は民を守ることで自分と国を守り、民は王を守ることで自分たちの生活を守っているの」
「でも、その話とこの靴の持ち主を探すことは別だろう?」
「同じよ。王子の我侭を受け入れるのは国民が自分の国に対して出来る小さな恩返しだもの。そう思えないのなら国民に貸りを作ったと思えばいいわ。あなたが王になってから返すべき大きな貸りをね」
いつも子供のように自由気ままな母の本当の姿を見たような気がした。僕が父と母の子として恥ずかしくない自分でいようと思うように、母も王妃として相応しい自分を演じていたのだ。それが解った僕は母の提案を素直に受け入れることにした。
早速、国中に御布令を出して彼女が落としたガラスの靴を履ける女性を探した。結婚を申し込む相手を探しているのにわざわざ王宮まで呼びつけるのも失礼ということで自ら一件ずつ家を訪ねることに決めていた。
その後、舞踏会で会った彼女の見た目から大凡の年齢を予想し、自分の身長と靴の踵の高さから彼女の背の高さを計算する。覚えている限りの特徴を、髪の色、瞳の色、肌の色や抱き締めた時の感触まで書き出して、御布令を見て名乗り出た女性の下見に行かせた人間に伝えた。
名乗り出た女性の大半が条件に合わない者ばかりだった。足の大きさが合わない者、背格好がどう見ても彼女からはかけ離れている者、到底舞踏会には参加し得ない子供を差し出した者までいて驚いた。
毎日、休みなく届く報告書に目を通しているうちに国民が僕の身勝手な命令を楽しんでくれていることが感じられてきた。下見に行った人間に、名乗り出ていないけれど条件に合いそうな娘がいると教えてくれる人がいたり、どうして靴に合う女性を探しているのか聞き出そうとしたりしているらしい。
特に隠す必要はないので、舞踏会で出会った女性に結婚を申し込むために探しているのだと教えたところ、名乗り出る女性の数が急増して母に大笑いされた。
「正直に答える必要なかったのに、馬鹿ね。こんな馬鹿な子の何処がいいのかしらね」
「うるさいぞ、母さん。邪魔をするなら出て行ってくれ」
報告書の山に埋もれながら僕は母を睨みつけた。初めは勉強部屋だけに収まっていた報告書は今や両隣の図書室と書斎を保管場所として空けなければ収まりきらない程に膨れ上がっていた。
足のサイズと見た目、年齢以外にも、本当に舞踏会に参加していたか、行ったとすればどんなドレスを着て、どんな髪型や化粧をしていたかまで聞き取り調査を行い、やっと勉強机に載せられる数の報告書にまで絞り込むことに成功した。
僕は舞踏会の日に着ていた服と当日付けていた変な匂いのする香油を身に着けて、ガラスの靴を片手に王宮を旅立った。
町を走る馬車の中で近いところから順番に並べられた報告書を眺めながら、高鳴る鼓動を抑えつけようと何度も深呼吸をした。
もうすぐ彼女に会える。そう思うだけで嬉しくて、再び彼女を抱きしめることが出来るのが楽しみで仕方ない。それと同時に不安もあった。
彼女は僕と過ごした時間をうたた寝の間に見た夢だと思っていた。舞踏会に行っていないという理由から名乗り出ていない可能性もある。他者からの目撃情報も含めて調べて貰ったので取りこぼしはないと信じているが、もし彼女がこの中にいなかったとしたら、全てが無駄になってしまう。
無事に会えたとしても彼女から拒絶されるかも知れない。僕から結婚を申し込まれたとして、彼女がそれを承諾しなければならないという決まりはないのだ。王室に入るという重圧から結婚を断られることもある。想像しただけで気が滅入ってしまいそうだ。
一緒に馬車に乗っていた従者が急に笑い出した。
「どうした?」
「いえ、失礼しました。王子があまりに絶望的なお顔をなさっているもので、つい」
「笑う程酷い顔をしていたかな?」
「すみません。ですが、よく解りますよ。私にも覚えがあります」
従者は腕を組んで深く頷いた。
「私も妻に結婚を申込もうと決めた日は一日、気分が上がったり下がったりして落ち着かない気分でしたよ。その代わり、結婚を承諾して貰えた時はまさに天にも昇る気持ちでした。空を飛べと言われたら本当に飛んでいたでしょう」
「そんなに嬉しいものなのか」
「そうですよ。結婚というのは両者の承諾がなければ出来ないものですから不安になるのも解ります。ですが、大切なのは自分に自信を持つことです。相手を必ず幸せにする。心にそのことをしっかりと縛り付けて、断られないと信じてはっきり申し上げるのです」
「だが、彼女とはまだ一度しか会ったことがないんだ。たった一度、しかもほんの僅かな時間踊っただけなんだ」
「だからこそ自信を持つことが大切です。一度しか会っていなくて不安なのは彼女も同じなのですから、必ず幸せにすると約束して安心させてあげなくてはいけません」
「なるほど……」
僕は頷き、報告書を指先でいじりながら物思いに耽った。彼女は今、どんな気持ちでいるのだろうか。本当にあれが全て夢だったと思って日々を過ごしているのか。その日常の中にほんの少しでも僕のことを思い出してくれる時間があるだろうか。
約束通り再び会いに来て夢でなかったことを証明し、今度は結婚を申し込んで永遠の愛を誓う。そんな夢の続きを願ってくれているといいのだけれど。
ぼんやりしている僕を従者が現実に引き戻した。
「王子、そろそろ一人目の家に到着しますよ」
「ああ、解った。さっきの話、ありがとう。参考になったよ」
「頑張って下さいね。上手くいくように微力ながらお祈りしておきますよ」
そう言って従者が馬車の扉を開くとそこには大勢の人々がいた。僕を出迎えるために集まってくれたらしい。一人ずつに感謝を述べながら目的の家まで歩いた。
着いたのは小さな家だった。いや、周りの家と見比べるとこの程度の家が普通なのだろう。従者が扉を叩くと中から顔を覗かせたのは可愛らしい少女だった。従者が声を張り上げた。
「舞踏会で出会った娘を探している。王子の結婚相手となる女性だ。この家に若い娘はいるか?」
「はい。います。どうぞ、お入りになって下さい」
少女は扉を大きく開いて僕と従者を中に招き入れた。家の中には先程の少女を除いた三人の姉妹が立っていた。僕が来ることを知って化粧と服を整えたようだ。浮き足立って落ち着きがない。
一目見た時から僕には解ってしまった。この三人の中に彼女はいない。落胆を顔に出さないように注意しながら従者に目配せをした。
従者は小脇に抱えたクッションを床に置き、その上にガラスの靴を置いた。
「この靴の持ち主こそが王子の結婚相手である。履いてみよ」
三姉妹は顔を見合わせた。無言で順番を決めた後、まず一番目の姉が一歩前へ進み出て靴を試した。
姉の足は確かに小さかったが、横に広がっていて、指先だけしか靴に入らなかった。悔しそうに引き下がった姉の次に二番目の姉が足を入れた。ところが彼女の足は甲が高く、靴に足が収まったものの靴の履き口が足に食い込んで、脱いだ時には真っ赤になっていた。三番目の姉も一番目の姉と同様、横幅が広く靴に足が入らない。
「誰の足にも合わないようだな」
僕が言うと三人の姉妹は肩を落として項垂れた。ふと見ると部屋の隅で僕たちを出迎えてくれた末の妹が三人の姉を羨ましそうに見ている。舞踏会に来られる年齢ではなかったので条件から外されたのだろう。
「試しに履いてみるかい?」
声を掛けてみると目を輝かせて何度も大きく頷いた。緊張した顔で伸ばした足が靴の中に入ることには入った。ところが姉たちとは違い、彼女には少し大きくてすぐに脱げてしまった。
「残念だったね」
僕が苦笑しつつそう言うと末の妹は落ち込んだ様子もなく嬉しそうな顔をして頷いた。王子である僕や結婚には興味がなく、大人と同じように扱われ、美しい靴に足先だけでも触れられたことが嬉しいのだろう。
姉妹たちに協力してくれたことへの礼を言い、幼い少女に手を振って僕と従者は和やかな気分で馬車に戻った。馬車は再び大勢の人々に囲まれて見送られ、二件目の家へと向かった。
馬車の中で従者が言った。
「残念でしたね」
「簡単に見つかるとは思っていないさ。まだ行く先はこんなにある。このどれかに彼女がいればいい」
僕はそう言って大きく伸びをした。垣間見た無邪気な笑顔を思い出しながら呻くように呟く。
「せめて名前だけでも聞いておけば良かったな……」
一応、聞くには聞いた。だが慌てていたため教えてくれなかったのだ。名前さえ解っていればもっと簡単に調べられただろう。数ももっと絞り込めたはずだ。
ガラスの靴を磨きながら従者は言った。
「名乗れない事情でもあったんでしょうかね?」
「いや、それなら偽名を名乗るだろう。単純に男性と話したり、男性から誘われたりすることに慣れていないだけだよ」
「そうですか。王子がそう仰るのならそうかも知れませんね」
従者の手が靴を高く持ち上げる。外からの光がガラスの靴に反射して馬車の中を美しく照らした。
二件目の家には二人の姉妹がいて、そのどちらも一件目と同じような理由で靴に足が入らなかった。三件目、四件目と休む暇なく回って行ったがなかなかこの靴を履ける女性が見つからない。
移動中、馬車の中で丁寧に靴を磨いてくれる従者は難しい顔をした。
「靴くらい誰でも履けると思っていましたがね……人それぞれと申しますが本当なんですね。足の形がこんなに違うなんて」
「そうだな。僕も彼女ではない女性がこの靴を履けた時、どうしようかと思っていたよ。まさかこんなに大勢の足が合わないなんて、気難しい靴だな」
「全く同感です」
僕と従者は笑い合った。試す人数が増え、履けない人間がこれだけ現れると靴が持ち主を選んでいるように思えてくるのだ。本当は彼女の足が特殊な形をしているだけの話なのだが、靴が意思を持って持ち主のところへ帰ろうとしていると思った方がずっと面白かった。
十件を過ぎた辺りで報告書にも全て目を通し、外の景色もあまり変わらず暇になった僕は布で靴を擦る従者に言った。
「なぁ、僕にも靴を磨かせてくれよ」
「そんなこと、いけませんよ。私の仕事を奪わないで下さい」
「何もすることがなくて暇なんだよ。お前はずっと靴を磨いているだろう? 僕にその仕事を代わってお前は休んでいてくれ」
「いけません。王子に靴なんか磨かせたら私は仕事をクビになってしまいます!」
「馬車の中だけだ。誰も見てないよ」
「駄目ですよ。この靴は慎重に扱わなければならないんです。もし王子が磨いて壊れてしまったらどうしますか? 彼女に会えなくなってしまいますよ」
そう言われると大人しく引き下がる他ない。黙って従者の作業を見守って、道具を持っている振りをして手を動かし、従者にコツを教わりながら脳内で靴を磨いて時間を潰した。
行く先々で人々が温かく出迎えてくれるのは嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。対象となった娘の家の対応も様々で、紅茶や菓子を用意して歓迎してくれる家もあれば、料理をもてなしてくれる家もある。親まで緊張していて娘の足が靴に合わないと解ると泣き出す人や、暗い顔をして囚人のように部屋から娘を連れて来て、僕たちが礼を言うとまた部屋に戻す人もいる。
「不気味な家だったな」
従者に小声で言うと、従者も同感だったらしく小さく頷いて見せた。
一番強烈だったのは僕と従者が出て行くまで和やかで平和な家庭だったのに、扉が閉まった途端、急に喧嘩を始めた家だった。
「だから私じゃないって言ったでしょう! 王子様の前で恥をかいたわ!」
「どうして無理矢理にでも足を入れなかったのよ? そしたらあなたは王子様と結婚出来たのに!」
その後も大声で繰り広げられる罵詈雑言の嵐に僕と従者が呆然としていると近所の人が顔を赤くして寄ってきて馬車まで送ってくれた。話を聞くと、あの家であの程度の喧嘩は日常茶飯事なのだそうだ。
「世の中にはすごい人がいるもんですね……」
「そうだな。しかしあれを毎日やっているとなると丈夫な喉をしているものだな。僕は母の寝酒に付き合わされて、あのお喋りを小一時間相手にしただけで翌朝、声が出なくなるというのに、何とも羨ましい限りだ」
僕が言うと従者も、馬車まで案内してくれた町の人も笑った。
「王妃はそんなにお喋り好きなのですか?」
「ああ。家では食べる時と眠る時以外はずっと何か言っている。幼い頃は公務で人前に立った時の淑やかで優雅な母は影武者ではないかと疑っていたんだ。不思議なことに同一人物だったけどね」
少し誇張はあるが、それは話を面白くするための一手間だ。公務で人前に立った時の母は服の下で腹や胸を締め付けるコルセットが息を苦しくするせいで自然と口数少なくなるだけであって淑やかではない。優雅に見えるのは召使や僕を顎で使ってあまり動かないせいだ。しかしそれは母の名誉のために黙っておくことにした。
日が暮れてきたので町の宿で一泊して翌日から続きを回ることになった。
まだ行っていない家の報告書と訪問が済んだ家の報告書を見比べた。
「このペースなら明日で全部終わりそうだな」
「そうですね」
従者は頷いて手の上にある靴を見つめた。しばらくの沈黙の後、再び口を開いた。
「明日になれば王子は運命の女性に再会出来るんですね」
「まだ解らないさ。この中に彼女はいないかも知れない」
僕が言うと従者は急に立ち上がり、怒ったように言った。
「いけませんよ! 私は申し上げたはずです。信じなければ何も手に入りません。この旅で必ず彼女に会えると信じて下さい。この紙の束の中にはいなくても、信じていれば必ず出会えます。歓迎してくれる人々の中や、こうやって馬車で走っている間にも彼女と出会うチャンスが訪れるかも知れない。彼女に再会することや、彼女があなたに会いたいと思っていることを信じて諦めないで下さい」
勢いに圧されて黙って頷くしか出来ない僕を見て我に返った従者は萎れるように座って俯いた。
「申し訳ございません。言葉が過ぎました」
「いや、いいんだ。ありがとう」
僕の言葉に従者は顔を上げた。今にも泣きそうな顔をしていて、狼狽える僕に小さな声で言った。
「王子、私には目があります。耳があります。自分の意思と感じる力があります。王子と一日中ずっと一緒にいて、王子がどんなに素晴らしい方かよく解りました」
何と答えていいか解らず僕は黙って頷いた。従者は話を続けた。
「町の人の歓迎に対し、王子は必ず一人一人に感謝を述べました。同じようなことが何度も繰り返されても、どの町でもその日初めて歓迎を受けたかのように振舞った。慣れても手を抜くことはなく、王子であることをひけらかさず、誠実な一人の人間として町の人に接していました。勿論、私にもそうでした」
「王子だからって僕には何の権限もないんだ。それに国民がいなければ王も王子も成り立たない。僕は国を愛してくれる国民に礼を言うべき立場でなければならないのは当然だろう?」
「それが当然でない方もいらっしゃるのです」
従者はそこで言葉を切った。唇を噛み、奥歯に力を入れているが、目からは涙が溢れそうだ。僕はハンカチを差し出した。従者は礼を言って涙を拭いた。
「私には伺ったお宅で靴を差し出し、女性に履かせるより前に王子の探している彼女はいないと解っておりました。王子の目や声が深く沈んでいらっしゃるのが傍にいた私に伝わってきたのです。それでも王子は心の内を言葉にして女性たちにお伝えになったり、顔や態度に表すようなことはなさいませんでした」
「それは女性たちがこの靴を履けば僕の妻になれると夢を見ていたからだ。どうせ違うのだから履く前から台無しにすることはないと思って黙っていただけだよ」
「お優しい方です。本来ならば怒っても良いことなのですよ。女性たちはこの靴が自分の物でないことを知っていて履こうとしているのですから。でも王子は彼女たちを許し、且つお礼までしていた」
従者はハンカチに顔を埋めた。
「王子は素晴らしい方です。非の打ち所のない完璧な方です。ですが、もっと欲張ってもいいんですよ。彼女と再会するために来たのでしょう? 会えなくてガッカリしたのなら我々に文句を言ったり、泣いたりしてもいいんですよ。どうして笑って全てを受け入れようとなさるのですか?」
以前にも同じことを言われたと思った。母に怒られたのはこういうことだったのだろう。この心優しい従者を泣かせてしまったのは僕だ。僕が変わらない限り、こうやって優しい人を何度も泣かせてしまうのだろう。そう思うと胸が痛んだ。
翌朝は早くから移動を始めた。馬車に乗り、まだ眠りから覚め切っていない頭で考え事をしていた。もしかしたらこのまま彼女に再会しても、他の人と同じように寂しい思いをさせたり、泣かせたりしてしまうのだろうか。
ずっと無口な僕の機嫌を伺うように従者が言った。
「王子……昨日は出過ぎたことを申しました」
「いや、構わないよ。言ってくれたおかげで以前に母から叱られたことの意味が解ったよ。母も昨日のお前と同じようなことを言っていたんだ」
「王妃が私と同じことを?」
「母には申し訳ないが、母から言われただけでは理解出来なかった。お前に同じことを言われて初めて心に沁みたよ。僕が王になるためにはこのままではいけないんだな」
「そんなことはありません。王子は今のままでも立派な王になります」
従者は昨日の失言を取り繕おうとしているのだろう。平身低頭して言った。
「今更気を遣うな。そんなことをしたところで昨日のお前の発言を僕は忘れはしないぞ」
僕がそう言って無表情を装うと従者は情けない顔をして僕を見つめた。その顔があまりに可笑しくて僕は笑いを堪えきれなかった。
「王子は意地悪でいらっしゃいますね」
従者は拗ねたように言って口を尖らせた。
やがて馬車は町に着き、止まった。昨日と同じく盛大な歓迎が行われ、僕はまたいつも通り王子として振舞った。僕が人々の歓迎に対して礼を言うだけで町の人々は喜んでくれる。それが嬉しくてたまらない。これを当然だと鼻で笑う奴がいるとしたらそれは寂しい奴だ。人を喜ばせる幸せを知らない悲しい人間にはなりたくなかった。
女性の家に行っても同じだった。目の前にいる娘たちが僕の探している彼女ではないと解っていても僕はそれを言わない。解っていて娘たちが落胆するのを待つのは悪趣味にも思えるが、確かに従者が言った通り、彼女たちはこの靴が自分の靴でないと解っていて僕が来るのを待っていたのだ。お互い様だろう。
移動の馬車でそんな話をすると従者は大声で笑った。
「王子は素直になるとそういうことをお考えになる方だったんですね」
「そうだよ。だから人には隠していたんだ。これは秘密にしておいてくれ。もし誰かに言ったら、お前が僕に偉そうに説教したことを父に言い付けてやるからな」
「おお、怖い怖い。解りました。誰にも申しません」
従者はわざとらしく身を震わせ、恭しく頭を下げた。
男同士の仲が深まり、お互いに立場を気遣い合わずに物が言えるようになった頃、僕たちは最後の町に到着した。
「この町には三組の家があります。何処から先に行きますか?」
「近い家から順に行こう」
僕が答えると従者は黙って頷き、僕の前を誘導するように歩いた。一件目の家に着き、扉をノックする。
「舞踏会で出会った娘を探している。王子の結婚相手となる女性だ。この家に若い娘はいるか?」
「ああ、いますよ。少しお待ち下さい」
出てきた男は家の奥に向かって誰かの名前を呼んだ。それが娘の名前なのだろう。僕はあまり期待しないように気を付けた。最後の町で残りは三件しかないのだ。そろそろ彼女が見つかってもおかしくない。だが、見つからない可能性もある以上、期待し過ぎると違った時に思わず落胆した顔をしてしまうかも知れない。
扉の向こうから現れた娘はやはり彼女とは違う女性だった。僕は気持ちを押し隠すように微笑み、従者に目配せをした。従者は心得たとばかりに娘の足に靴を履かせ、首を振った。
「王子、この娘は王子がお探しの娘ではありません」
「そうか。それは残念だ。協力に感謝します。ありがとうございました」
僕が頭を下げて家を出ると従者も慌ててついて来た。後ろから恐る恐る僕の表情を覗き込んでくる。
「大丈夫だ。信じていれば必ず会えるんだろう?」
「ええ、その通りです」
従者は安心したように頷いた。
二件目の家では娘が出てくるまで少し待たされることになった。その間に従者が靴を磨いていると近所の子供たちが興味津々で集まってきた。磨いたばかりの靴に指の跡をつけられないよう、従者が必死に逃げ回っているのを僕は笑いながら眺めていた。
やがて家の中から顔色の悪い娘が現れた。母親に抱えられるようにして立っている。
「すみません。元々体があまり丈夫ではなくて、舞踏会から戻った頃から体調を崩しているんです。王子様に病気を移してはいけませんから従者様だけお入り下さい」
従者は困ったように僕を見た。意見を求められた僕は首をゆっくり振った。
「構いません。体調が悪いのにこちらの都合で押しかけたのです。あなたがこの靴を試す気があるのなら私は病気のことなど気にしません。どうしますか?」
「試します。私の足が合うかどうか解らないけれど、その綺麗な靴を履いてみたい……」
娘の言葉に母親が咎めるような視線を向けた。自分の足に合うかどうか解らない、ということはこの靴が自分の物ではないと認めたようなものだ。だが、この靴が彼女の靴でないことは一目見た時から解っている。それでも拒むことなく履かせてきた。病気が移るかも知れないからと言ってやり方を変える気はない。
「それならばお邪魔しましょう。いいですか?」
僕は母親に尋ねた。母親は興奮気味に僕を迎え入れた。
娘を椅子に座らせて従者が足を自分の膝の上に乗せる。そこにガラスの靴を当てて履かせようとしたが、娘の足は靴よりもかかとが少し大きく、無理に詰めれば入るが、とても踊ったり走ったり出来る状態ではなかった。
「残念だわ」
娘はそう言って青白い顔に笑みを浮かべた。母親は赤くなった娘の足を擦りながら悲しそうに眉を寄せていた。
「ご協力感謝します。ありがとうございました」
「こちらこそ夢を見させてくれてありがとう。王子様のお嫁さんになれるかも知れないなんて滅多に見られない夢だったわ。私を選んでいただけないのは残念だけど、こんなに優しくて素敵な王子様の選んだ女性なら最初から私なんかに勝ち目はないわね。仕方ないわよ」
黙って足を擦り続ける母親に向かって娘は言った。母親は悲しそうな顔に微笑みを浮かべて頷いた。
「あなたのような素直で愛らしい女性ならきっと僕以上に素敵な男性が現れますよ。夢を見るだけではなく信じることです。必ず出会って幸せになれると諦めずに信じ続けていればいつか夢は現実になります」
「そうですね。信じてみるわ。ありがとう」
「体を大事にして下さいね」
僕は娘の脆く壊れそうな手を握った。娘の手は弱々しく握り返してきた。その表情は明るく、力に満ちていた。
母親に見送られて家を出た僕は何か言いたげな従者を軽く睨んだ。
「何も言うな」
「ええ、何も申し上げませんよ。次が最後のお宅ですから覚悟しておいて下さい」
「そうだな。泣いても笑ってもこれで終わりだ」
「嬉し泣きの準備ならお借りしていたハンカチをお返ししておきましょうか」
「結構だ。泣く気もないし、そんな汚い物で顔を拭く気もない」
軽口を叩きながら歩いていたが、最後の家が見えてくると自然と口数が減って来た。心臓の音がうるさいくらいに聞こえる。それを深呼吸で無理に落ち着かせて家の前に立った。従者が扉を叩く。中から母親らしき女性が顔を覗かせた。何処かで見た顔だ、と思った。
「舞踏会で出会った娘を探している。王子の結婚相手となる女性だ。この家に若い娘はいるか?」
「ええ、もちろんおりますよ。お待ちしてました」
女性はそう言って扉を開き、僕たちを家の中へ案内した。リビングのテーブルには二人の娘が座っていて、その顔を見た時に思い出した。舞踏会で話しかけてきた姉妹だ。妹の方を可愛らしいと思ったのでよく覚えている。
不意に従者が僕の顔を見つめているのに気付いた。知った顔だったのでこれまでと僕の反応が違っていたのだろう。この二人のどちらも僕の探している彼女ではない。その意味を込めて僕が微笑むと従者は心得た口上を述べて二人の娘の足に靴を履かせた。
姉の方が前へ進み出て靴の履き口に足を入れた。どう見ても入っていないのは明らかなのに諦めず、角度を変え、力加減を変えて無理矢理にでも足を収めようとする。努力は認めるが、往生際が悪いのは美しくない。僕が呆れていると妹が慌てて姉を突き飛ばした。
「やめなさいよ、お姉ちゃん」
「もう少しで入りそうだったんだから邪魔しないでよ!」
「王子様が呆れていらっしゃるわよ」
妹が冷たく言うと姉は僕を見て言葉を詰まらせ、愛想笑いを浮かべた。誤魔化したつもりかも知れないが何故か意地汚い印象を抱いてしまった。僕は首を傾げた。
次は妹の番だった。妹は従者が差し出した靴をしばらく無言で眺めていたが、母親に背中を押されて漸く足を靴に入れた。靴に収まりそうな足を見て母親と姉は驚いたような、喜んだような表情を浮かべた。
だが妹の足は靴より少し大きかったようだ。踵がはみ出してしまっていた。妹は安心したように微笑んで従者に靴を返した。
「この家に他に娘はいませんか?」
「ええ、私の娘は二人だけですわ」
僕の質問に母親ははっきりとそう答えた。
彼女以外の娘の足が靴に合わなかったことを安堵しながら、絶望感が襲い来るのを感じていた。あれだけ時間と手間をかけて調べた結果の中に該当者はいなかった。
重い気持ちを押し隠し、僕は母親と姉妹に言った。
「残念ながらこの家の娘は僕が探している娘とは違ったようです。ご協力に感謝します。ありがとうございました」
一刻も早くここを立ち去りたかった。馬車に戻って彼女と再会出来なかったことを思い切り嘆きたい。踵を返して立ち去ろうとする僕の背中に叫ぶような声が突き刺さった。
「お待ち下さい!」
僕が振り返ると妹が思わず出た自分の大声に驚いたような顔をしていた。母親と姉が怪訝な顔をして妹を見ている。僕は聞いた。
「どうした?」
「この家にはまだもう一人、娘がいます」
「今、そこの母親が娘は他にいないと言っていたが……嘘をついたのか?」
僕が怒りを込めて睨みつけると母親は怯えたように狼狽えた。
「いいえ。共に住んでいるだけで、実の娘ではありませんの。嘘などついてはおりませんわ」
その母親の言葉を聞き、妹は鋭い目つきで詰め寄った。
「嘘つきね。私には王子様には知られないように黙っておけって言ったわ」
「やめなさい。人前で母親にそんな口を利くものではありません」
「子供に醜い嘘をつけと教える人が母親なもんですか。あなたたちにはうんざりよ。私は私の正しいと思ったことをするわ!」
そう言って部屋を飛び出した妹は大声で誰かの名前を呼んだ。
「シンデレラ、あなたも来て。私たちに権利があるのならあなたにも試す機会が与えられるべきだわ」
引きずられるようにして連れて来られたのは汚い服を身に纏った娘だった。母親と姉は現れた娘に対して顔を顰め、敵意を顕にした。従者が意見を求めるように顔色を伺っていたが、僕は構わず娘に手を差し出した。
「シンデレラ?」
僕が名を呼ぶとシンデレラは頬を赤くした。恥ずかしそうに微笑むその顔は舞踏会の夜、初めて彼女を見た時と同じ顔だった。
「現実の世界のあなたを探してここへ来ました。あの夜の約束を果たすために。今度こそ夢ではないと信じていただけますね?」
僕は彼女の足元に跪き、手を取ってその柔らかい指にそっとキスをした。
「僕と結婚して下さい。イエスならばこの靴に足を。ノーならば……黙って手を離して下さい」
シンデレラは困ったように眉を寄せた。従者がその足元に靴を差し出す。手はまだ僕の手の中にある。まだ受け入れられる希望はあるが答えは出ない。迷っている様子だった。
従者の声が頭の中で聞こえた。信じるんだ。彼女を幸せにすると信じろ。僕は彼女の手を強く握った。
「あの夜、君が僕から逃げ出した時から僕がどんな思いでここまで来たか解るか? もう二度と君を手離す気はない。王子である僕がここまでしたからには望む返事を聞くまで何時間でもここに居座り続けるからな」
何て乱暴な言い方だろう。もっと他に言葉はあったはずなのに、それを選べなかった自分自身に呆れてしまった。ところが彼女はその言葉で覚悟を決めたように笑った。
「あなたの好きなようにしていいわ。だって、答えは決まっているんでしょう?」
「勿論だよ。このまま君を連れて帰ろう」
僕が抱え上げるとシンデレラの足にガラスの靴が収まっているのが見えた。無理のない、この足のために作られたような靴は光を浴びて輝き、漸く見つかった主人に喜んでいるように見えた。