母
若いうちに、しかも娘がまだ幼いうちに死ぬことになった私のことを不幸だと同情する人もいるけれど、私はそれを不幸だと嘆いたことはない。好きになった人に愛されて、その人と家庭を持って、可愛い子供と優しい夫に見守られて死ぬことの何が不幸なのかわからない。
確かに病気は苦しかった。家族と離れて入院し、治療を受けていても一向に治らなかった時は先の見えない恐怖に襲われ続けていた。でも、どんなに怖い時でも、苦しい時でも夫が傍にいてくれた。病気である自分自身や、夫と娘から泣きながら逃げ出そうとする私を引き止めてくれた。私に夫の温もりや、心臓の音が聞こえてくるようになるまで髪を撫でて、抱き締めた。そして私に囁く。
「愛してるよ。僕が一生を共にすると誓ったのは君とシンデレラだけだ」
その言葉に何度救われただろう。私の死後、夫が他の女性を妻として迎えることになると解っていても、私が生きている間はずっと一緒にいられるのだと信じていることが出来た。
段々と育っていくシンデレラも可愛かった。私の真似をしてキッチンに立ったり、ブラシや雑巾を片手に床を這い回ったりする。その姿を見ている時は病気の痛みも恐怖も忘れた。どうせ死ぬのならもっと多くのことをこの子に教えてあげたい、一秒でも長く生きてその成長を感じていたいと願った。
二人がいなければ病気であることに絶望してすぐに生きることを諦めてしまっていただろう。だからこそ、夫や娘を試すようなことを喚いて、取り乱してしまう。それによって二人を失ってしまったとしても絶望より、自業自得だと感じて諦められるような気がしていたのだ。
でも、そんな私を夫も娘も私をずっと支え続けてくれた。家で意識を失い、病院に運ばれた私の手を夫は目が覚めるまでずっと握り続けていた。目が覚めるとシンデレラが泣きながら私に縋りつき、痛いところはないかと聞く。
「大丈夫よ。もう大丈夫だからね」
娘を宥めるように、自分に言い聞かせた。大丈夫、まだ死んでいない。でも確実に別れの時が迫っている。次に意識を失ったらもう二度と目覚めないかも知れないと体が警報を発している音がした。
夫も同じことを思っていたのだろう。検査の結果を伝える医師の足元に額を擦り付けて懇願した。
「お願いします。どんな方法を使ってもいいですから、妻を助けて下さい。僕に出来ることなら何でもします。必要なら血だって、内臓だって差し出しますから、お願いです」
いつも冷静に医師の話に頷き、手を握って私を励ますように微笑んでいるだけだった夫が床に平伏して震えている。泣いているように見えた。医師は困ったように夫を起こし、今後の治療の方針について話し始めた。
入院して生活の一切を病院で管理する。食事も投薬の時間や量も管理されてその上で更に詳しい検査や機械を使った治療を進めていくというものだった。だが、現状から考えるとあまり効果が期待出来ないらしく、医師は方法を提示したものの曖昧に答えを濁していた。私にとってもまた家を離れ、シンデレラにも寂しい思いをさせてしまうのかと思うと気が進まない話だった。そんなことを黙って悩んでいる間、夫は医師を質問攻めにしていて、その姿はまるで妻を守るために勇ましく戦う騎士のように見えた。自分の置かれた状況も忘れて夫の姿に見蕩れてしまった。
帰り道でそんな話をすると夫はいつもの優しい笑顔になって私の頬を軽くつまむように抓った。その後、急に真面目な顔で私に聞いた。
「君はどうしたい? 治療を受けたいのなら僕は協力するよ」
「でもシンデレラが寂しがるわ。大切な家族と離れて、あの子に我慢させてまで効果が期待出来ない治療を受けるよりは一緒に家にいたいのよ」
「シンデレラのことが気になるのなら僕が説得する。遠慮しないで自分のやりたいことを言ってご覧」
私は足を止めて夫の顔をじっと見つめた。この幸せを失いたくない。死にたくないけれど、正直なところ治療を受けるために入院しても、家で過ごすとしても私に残された時間は変わらないだろう。
「あなたはどう思う? 私に入院して治療を受けて欲しいと思ってる?」
「わからない。君の望む通りにして欲しい。でも……生きることを諦めて欲しくないよ。何もしないまま終わってしまうなんて嫌だよ」
夫の目に涙が浮かんだ。堪えているのだろう、溢れて落ちない涙を見つめながら私は考えた。この人と愛する娘のために残された時間を過ごそう。彼が諦めて欲しくないというのなら、無駄だったとしても最期まで足掻いてみよう。シンデレラが入院は嫌だ、家にいて欲しいというのなら毎日病院へ通ってでも家で出来る最大の努力をしよう。
そう決意して家に帰った。夫から説明を受けたシンデレラは悩む様子も見せずに言った。
「お母さんは何処にいたって私のお母さんだよ。離れて暮らしていても、私とお母さんが他人になってしまう訳じゃないの。だから、二人で決めた通りにしていいよ。もう決まっているんでしょう?」
幼いと思っていた我が子の大人びた言い方に私は驚き、夫の顔を伺った。夫も驚いた様子で私を見て、目が合った。心の底では私の入院を望んでいた夫が口を開いた。
「いいのか? 入院したらお母さんは病院で暮らすことになって、シンデレラが寂しいって泣いても帰ってこないんだぞ」
夫の問いかけにシンデレラはしっかりと頷いた。一点の曇りもない目をしている娘の顔は、医師を質問攻めにしている時の夫に似ていた。これは愛するものを守るために戦うと決意した目だと直感した。
「私なら大丈夫よ。お母さんが決めたようにして」
シンデレラの言葉を聞いて私の心に残っていた迷いが消えた。
娘がまだ言葉も拙い頃に入院していた時は一人で病気と戦うのが辛く、とても耐えられなかった。家族には見舞いに来ないように言い、手紙だけでやり取りした。手紙に楽しいことばかり書いている時だけは自分の病気が良くなって家に帰れる日が来ると信じていられたのだ。二人の顔を見たら未来なんてなくても元の生活に戻りたくなってしまう。当たり前に存在すると信じて思い描いていた未来が病気のせいで失われたと認めたくなかった。二人の傍にいると現実を。この病気が完治しないと医師から聞かされた時も苦しみを我慢しているのは自分一人だと思い上がっていた。
でも、シンデレラが迎えに来て気付くことが出来た。一緒に苦しんでくれている人がいる。共に戦ってくれる家族がいる。私は思わず娘の小さな体を抱き締めた。
そして私は病院で暮らし始めた。朝、仕事に行く夫がシンデレラを私に預けて出勤する。治療は病院の配慮で出来るだけ病室のベッドで行われることになった。ベッドから離れる時は一緒に連れて行くか、静かに待っているように言う。戻ってくるとシンデレラは大人しく本を読んでいたり、絵を描いていたり、ベッドに潜り込んで眠っていたりと聞き分けよく過ごしていた。
昼休みに夫が様子を見に来る。入院してから食欲が落ちた私がきちんと食事をするかどうか監視しつつ、シンデレラにも食事をさせてまた仕事に戻って行く。夫を見送って薬を飲んだ後、ベッドに並んで横になり、昼寝をする。
日が暮れる頃に目が覚めると夕食の準備が始まっており、仕事を終えた夫が来て私の着替えや不要になった物を入れた袋とシンデレラを抱えて帰っていく。その後ろ姿を見送るのは少し寂しいけれど、明日までの我慢だと自分に言い聞かせる。そんな風に入院生活を送っていた。
寂しくて不安ばかりだった一度目の入院と違い、二度目の入院は住む場所が変わっただけのように感じていた。家事などで動き回らない分、家にいる時よりも娘と過ごす時間が多くなるのでシンデレラは嬉しそうだった。寂しいのは夕方、夫と家に帰る時に別れなければならないことだけだ。
それ翌日、病院に来ると家の中でどうやって過ごしたのか、食事は何を食べたのかを教えてくれる。
「昨日はね、お父さんがご飯を作っている間、私はお掃除をしたのよ」
「そうなの。上手に出来たかしら?」
「お母さんが見たらきっと驚くわ。とても綺麗に出来るのよ」
「本当? それなら今度、見てみなくちゃいけないわね」
「お母さん、おうちに帰れるの?」
「体の調子が良い時なら少しくらいは帰れるわよ。今度、お医者さんに相談してみましょうね」
シンデレラは満面の笑みを浮かべて喜んだ。様子を見に来た看護師にも自慢するくらい嬉しかったようだ。今の私の状態では家に帰れる可能性はかなり低いが、看護師はそれを解っていて話を合わせてくれた。
自分の体が病に蝕まれているのは自分が一番良く知っていた。痛みが堪えきれない時間があり、食欲も以前とは比較にならないくらい落ちている。髪や肌が荒れて、体が筋張ってきている。鏡を見なくても自分が酷い状態だと解る。起きているのが辛く、最初は体を起こして聞いていたシンデレラの報告も今では横になったまま聞いているしかない。夜、食後に本を読んだり、夫への手紙を書いたりしていた時間は消え、寝る支度を済ませたらすぐに眠るようになった。朝もなかなか起きられず、朝食の時間を少し遅らせて貰ったりしていた。
休日、見舞いに来た夫が心配そうな顔をして私の頬に触れた。シンデレラは傍にいない。
「大丈夫なのか?」
「ええ、大丈夫よ。シンデレラは? 何処にいるの?」
「少し熱が出ていたから母に預けて来たよ。移すといけないからね」
夫の気遣いに心が痛んだ。俯く私の隣に座り、夫が聞いた。
「どうかしたのか?」
「駄目ね。私は母親なのに、熱を出した娘の傍にもいてあげられないの」
「仕方ないさ。……僕の気持ちが解ったかい?」
「え?」
「毎日、愛しい妻と可愛い娘を置いて仕事に出なければならないんだ。君の体調が心配でも、シンデレラを見ていてやりたくても傍にいられない。二人のために働けるのは僕しかいないんだって毎日自分に言い聞かせているよ」
そう言って夫はウインクして見せた。私は思わず笑った。
「そうよね。あなたはいつもこんな辛い思いをしながら私たちのために精一杯頑張ってくれているのね。感謝してるわ」
「僕だって感謝してるよ。ここへ帰って来て、君が『お疲れ様』と言ってくれる。シンデレラが『おかえりなさい』と言ってくれる。それを聞く度に僕は二人と家族になれてよかったと思ってるんだ。僕の仕事がお金を稼ぐことなら君の仕事は毎日生きて僕を迎えてくれることだ。シンデレラの傍にいられないことが気に入らないのなら思い切り心配してやればいい。体が傍にいられないのなら、心だけでも傍に寄り添ってやればいいさ」
夫の言葉に私は頷いた。入院の話をした時にあの子が言った言葉を思い出した。
「私は何処にいてもあの子の母親なんだもの。母親は子供のことを一番心配して、一番愛さなくちゃいけないのよ」
「それでこそ僕の惚れた女性だよ」
そう言って夫は頬にキスをした。それから私はシンデレラに手紙を書き、夫に持たせて早目に家へ帰した。家でベッドに寝たシンデレラに夫が私からの手紙を読み聞かせるところを想像した。
その夜は空を月明かりが照らすまで神に祈る時間を過ごした。無理をしてはいけないと言われていたけれど、愛していると伝えられない代わりに娘のための時間を過ごしたかった。
もし、私の体が明日までもたなかったとしても娘が元気になってくれたらそれでいい。私の分まで一日でも長く幸せに生きてくれたらいい。
シンデレラにとって私が何処にいても母親であるように、私にとってもシンデレラはただ一人の娘だ。成長を見届けられず死ぬことになったとしても、愛していると言って抱きしめられなくなったとしても、シンデレラを生んだ母親は私一人だ。命をかけてでも守りたいと思える存在。そんな存在と巡り合えたことに感謝したかった。
「世界中の誰よりもあなたを愛してるわ。生まれて来てくれてありがとう」
想像の中で眠るシンデレラに優しく囁き、そっと手を伸ばして汗で額に張り付いた髪を剥がしてやる。その温度と柔らかい肌に本当に触れたように感じて驚き、目を開くと空の星が僅かに揺れたような気がした。不意に頭の中に声が降り注いだ。
「シンデレラが幸せに生きることがあなたの望みなの?」
声は私の声だった。だが、漠然と私の意思ではない言葉のように感じた。幻聴が聞こえ始めた。そこまで私の体は病に蝕まれてしまったのかと怖くなった。
「ええ、そうよ」
震える声で頭の中の声に答えると、その声は無邪気に笑った。
「望みはそれだけなの?」
「出来るのなら、私のこの目でシンデレラが幸せになるのを見届けたい」
生きたい。いつかは娘より先に死ぬのだとしても、まだ想像もつかないほど遠い未来の話であって欲しい。そう願うと、声は困ったように唸った。
「どちらも叶えることは出来ないわ。でも、どちらか一つなら叶えられる」
「どちらか一つ?」
「そうよ。あなたの願いを叶えられるのは一度きり。だからよく考えてね」
面白い幻聴だと思った。私の願いを聞いてどうするつもりなのだろう。それとも私自身が自分の本心を知りたがっているのかもしれない。どうせここまで悪くなってしまったのなら自分を誤魔化すことは出来ない。この声は私に『もっと生きたい』と言わせたいのだ。でも、素直に答えるのは癪だった。
しばらく考える素振りを見せた後、私は小さな悪戯を思い付いた。
「決まったわ」
「何? 願いを聞かせて」
「シンデレラが幸せになるのをこの目で見届けること。それでどうかしら?」
完璧な願いだと思った。シンデレラが幸せにならなくては願いは叶わない。私が生きなければこの目で見届けられない。声は考え込むように唸って、急に大声を上げた。
「わかったわよ! 一つだって言ってるのに……仕方のない人ね。でも、二つの願いを叶えるんだからちょっとくらいの誤差が生じるのは勘弁してよ」
「誤差? 別にそれくらい構わないわよ。本当に叶うのなら気にしないわ」
「信じてないわね。まぁ、いいわ。後で驚きなさい」
そう言ったきり、声は聞こえなくなった。窓とカーテンを閉めてベッドに戻り、体を寝かせた次の瞬間には朝だった。目が覚めた私は自分で自分を笑った。
「やっぱり夢だったのね。変だと思ったわ。願いを叶えてくれるなんて、出来るはずないもの」
少しがっかりしたと同時に、幻聴が夢だったと解って安心した。機嫌よく目覚めた私に看護師が言った。
「おはようございます。今日は顔色がいいですね」
「そうかしら? 面白い夢を見たからかも知れないわ」
「夢ですか? それは良かったですね」
看護師が笑った。夢を見て喜ぶなんて子供のようだと思われたかも知れない。私は急に恥ずかしくなり、夢の内容は誰にも言わないことにした。
そういえば子供の頃はよく色々な夢を見て一喜一憂していた気がする。一番嬉しかったのは夫と結婚式を挙げた夢だった。夢は子供の私と夫がドレスとタキシード姿で永遠の愛を誓い合うというものだった。それが現実になった時は一生分の幸せを使い切ってしまいそうなくらい幸福に包まれていた。夢で見た時と同じドレスを身に纏い、大人になった私たちが愛を誓い合った。
あの日のドレスは娘が生まれた時に着て貰いたくて大切に保管してある。まだシンデレラには見せたことがないけれど、きっと気に入ってくれるだろう。そう思いながら二度目の眠りについた。
また夢を見た。夢の中で眠っているシンデレラが苦しそうに息をしている。熱が下がらなかったのか、と直感した私は額に手を当てた。すると薄らと目を開けて私を見て微笑んだ。
「お母さんの手、冷たくて気持ちいい」
思ったよりずっと熱が高い。私を見上げる涙で潤んだ瞳に胸が痛んだ。
「大丈夫よ。すぐによくなるわ」
そう言って額にそっとキスをした。唇を離して髪を撫でてやるとシンデレラは嬉しそうに笑ってまた目を閉じた。呼吸が落ち着いている。先程よりは苦しくなさそうだ。
安心して肩の力が抜けると、病院のベッドの上で目が覚めた。呼吸が浅く、早い。口の中が吐息に混じる熱で満たされた。様子を見に来た看護師が私の顔を見て慌てたように体温を測った。
「熱がありますね。先生を呼んできます」
そう言って氷嚢を渡し、病室を出て行った。私はベッドに横になって氷嚢を額に当て、目を閉じた。冷たく柔らかい感触が心地よく、いつの間にか眠ってしまったようだ。目が覚めると夫が近くにいた。
「目が覚めたか? 大丈夫かい?」
「ええ。シンデレラの具合はどう?」
「熱が下がって、やっと食事をしたところだよ。入れ替わりで君が熱を出したと聞いて驚いたんだ」
「そうなの。私がシンデレラの熱を吸い取ってしまったのよ」
「無茶しないでくれ。家族が立て続けに熱を出したら僕の休む暇がないだろう」
「ごめんなさい。あまり苦しそうだったから、ついやってしまったの」
「……そうだね。あの苦しそうな姿を見たら誰でも代わってやりたいと思うだろう。今度は僕の番だ。君の熱を移せるかい?」
「駄目よ。あなたが熱を出したら家のことは誰がするの?」
夫が軽口を叩きながらも不安で焦っているのが解った。私が感じているより、体調が良くないのだろうか。その頬に手を当てて私は微笑んだ。
「大丈夫よ。私はシンデレラが幸せになるのを見届けるまであなたたちの傍から消えないわ」
緊張していた体から力が抜けていく。夫は私が自分の焦りを感じたことに気付いたのだろう。困ったように微笑んで私の手を包んだ。
「僕が死ぬまで傍にいるとは言ってくれないんだね」
「あなたとは死んだ後も一緒よ」
「そうか。そうだね」
夫は安心したようにそう呟いて、私の手の温度を感じるように目を閉じた。私が死んだら彼はどんな風に残りの人生を過ごすのだろう。シンデレラと二人で過ごして一生を終えることを願っている。彼にとって妻と呼べる人は私だけであって欲しい。でも夫は優しいから、多くの女性の中から妻となる人を選べるだろう。私が死んでも幸せになって欲しいと願ってはいても、嘘でも私を忘れて欲しいとは言いたくなかった。
「私がいなくなったことをいつまでも悲しまないでね」
それが私に言える精一杯の言葉だった。
夫はそれを聞いて少し前までは悲しそうな顔をして気休めのようなセリフを言っていたけれど、今はもうそんな言葉さえかける余裕はないようだ。ただ黙って私の手を握り、涙を堪えて顔を歪めていた。
「そろそろ帰るよ」
「ええ。次はシンデレラも一緒に来てね」
「わかった。薬を飲んで、早く熱を下げるんだよ」
私は頷き、夫のキスを額に受けた。後ろ姿が扉の陰に隠れて見えなくなるまで見送って、そのまま意識を失うように眠った。熱に魘される自分の声を遠くに聞きながら頭の中で呟いた。
「嘘つき。見届けさせてくれるって言ったじゃない」
私の声が答えた。
「誤差が生じるって言ったでしょう」
「このまま眠り続けて望みが叶う瞬間だけ目覚める眠り姫になるのは嫌よ」
「わかってる。上手くやるわ。期待していてよ」
私の声なのに、まるで私ではないような軽い話し方をする。誰かが私の声を使って話しかけてきているようだ。でもその正体を確かめてはいけない気がしていた。これは私の幻聴。それでいいのだ。
眠る私の手を小さな手が力強く握って意識が引き戻され、目覚めた。目の前に今にも泣き出しそうな表情をしたシンデレラがいて、顔を覗き込んでいる。丸い目、澄んだ瞳、白い肌。大きく成長しても何も変わらない顔を一つ一つ確かめるように見て、思わず頬が緩んだ。
「どうしたの? そんな顔をして……悲しい顔は嫌よ。笑った、可愛い顔を見せて頂戴」
瞼は確かに開いているのに景色が暗く、揺らいでいる。目を閉じた時に終わるのだと予感していた。神様にもう少しだけこの子の顔を見ていられるように願った。
「お母さん、嫌よ。眠ってはいけないわ。ねぇ、お願い。起きていてよ」
「泣かないで。私なら大丈夫。いつもあなたの傍にいるわ」
震える声がしゃくり上げる。力の入らない手で精一杯、小さな手を握り返した。シンデレラの手の上から夫の手がそっと包む。幼い頃から何度も繋いできた温かい大きな手だ。目の前が真っ暗になるような絶望の時も、叫び出したいくらい不安だった時もこの手に支えられ、守られてきた。
「今度は私が守るわ。だから安心してね」
「何を言ってるんだ。今までだって僕は君に守られてきた。君がいたからどんな時でも挫けずにいられたんだよ」
「これからは私の代わりに、私の分まで娘を守ってね」
「君も一緒だろう? まだここにいてくれよ」
「ここにいるわ。二人の傍にずっと一緒にいる。だから私のこと……忘れないでね」
微かに見える歪んだ視界の中で夫とシンデレラが頷いているのが見えた。もう思い残すことはない。呼吸と共に思いが溢れ出るように言葉になった。
「あなたと出会えて良かったわ。シンデレラの母親になれて良かった」
「僕も君と出会えて良かった。君とシンデレラと家族になれて良かったよ」
シンデレラが震えを隠すように手に力を込めた。
「私も、お母さんの子供に生まれて良かった」
何も見えなくなった目を休ませるように瞼を下ろした。死を受け入れる準備は出来ているのに、死にたくない気持ちが強く反発していた。もっと二人と一緒にいたい。この手の温もりと感触をいつまでも感じていたい。愛する人たちに見守られて逝くことがこんなに贅沢で、愛しさで心満たされるものだとは思ってもみなかった。
「こんなに幸せでいいのかしら」
夫は、シンデレラは私の言葉に何か返事をしただろうか。確かめる間もなく私の魂は肉体を離れた。息苦しさも、いつの間にか日常になっていた痛みも怠さも消えてすっきりと軽くなっていた。生まれ変わるというのはこういうことなのか。もし次の人生があるのなら、またシンデレラや夫と一緒にいられるものになりたい。
「もしかして誤差ってそういうこと? 生まれ変わって二人の傍に戻れるの?」
誰にともなく呟いた。返事はなかったが、不思議なことに肉体を失ったはずの私の声が響く感触があった。声が出ている実感がある。もしかしたら、死んだと思っていたのは勘違いで本当はただ少しの間、意識を失っていただけなのではないかと期待した。目が覚めたら病気は治っていて、シンデレラと夫がいつもの優しい微笑みで私の顔を覗き込んでいる様子を想像して思わず笑みが溢れた。
恐る恐る目を開けて見たが、視界には何も映らなかった。いや、映っているのかも知れないが真っ白だ。そこにもう一度声をかけてみる。夫と娘の名を呼び、首を左右に振って周りを確かめてみた。返事はない。視界も真っ白なままで変化はない。
「ここが天国だとしたら随分と寂しいところなのね」
私はポツリと呟き、もう一度目を閉じた。どうせ何も見えないのなら目を開いていても、閉じていても同じだ。
何もすることがないと空想ばかりが広がってしまう。夫と二人で過ごした頃のことや、シンデレラが生まれたばかりの頃を思い出す。夫と結婚したばかりの頃はどんな風に家で過ごしていいか解らず、おままごとをするように毎日を過ごした。愛する人のことを考えながら暮らしていたあの家が私の理想だった。そこに可愛い娘が加わって三人で力を合わせて小さいけれど幸せな家庭を築いた。
柔らかくて温かいシンデレラの体を抱き締めている時、この小さな娘が世界で頼れるのは私一人なのだと思うと誇らしくなった。同時にまだ泣くことと眠ることしか出来ないこの子を守れるのは私だけなのかと思って不安がこみ上げてきた。眠っている時や、私を見上げて乳を吸っている間は可愛いがそれだけじゃない。お腹が満たされて、体も清潔にしたばかりなのに大声を上げて泣き止まないことだってあった。
その度に私は何が悪かったのか心配して狼狽え、どうしようもなくて途方に暮れた。
「苦しいの? 痛いところがあるの? どうして泣いているの?」
そんな言葉を囁いてみたところでまだ言葉で意思の疎通が出来ないシンデレラが答えられるはずもなく、顔を真っ赤にして泣く娘を前に私も泣いてしまった。
仕事から帰って来た夫がシンデレラの寝ているベッドを覗き込み、私に聞いた。
「どうしたんだ?」
「解らないの。手は尽くしたわ。でも泣き止まないのよ」
「そうか。それなら少し出掛けて来るよ。君は休んでいるといい」
「出掛けるって何処へ?」
一人にしないで、と言いかけた私の目の前で夫はシンデレラを抱き上げた。持ち上げられて手足を動かして抵抗のような仕草を見せるが、子供の力が大人の男性に敵うはずもなく、シンデレラは軽々と夫の腕の中に収まった。
「この子はきっと僕に話しかけているんだよ。だから君には泣いている理由が解らないんだ」
遠回しに母親として力不足だと言われたようで私は少しムッとしてしまった。夫はそんな私の顔を見て笑った。
「シンデレラは君に似て賢い子だ。お母さんが疲れているのが解るんだよ。だから、僕に『外に連れ出してくれ』って泣いているんだ。君を休ませてあげるためにね」
「シンデレラがそんなことを?」
思わず自分の顔を触る。疲れていても笑顔を絶やさないように、辛い顔は見せないように気を付けていた。夫の手がその上に重なった。
「毎日君の顔を見ていたはずなのに、どうしてこんな顔をするようになるまで気が付かなかったんだろう。シンデレラはこんなに小さいのに気付いたんだな」
「当たり前よ。ずっと一緒にいるんだもの」
「そうだな。気付いたけれどどうやって伝えればいいか解らなかったんだろう。だからこんなに泣いているのか?」
夫は腕の中で泣くシンデレラに問いかけた。その様子が夫の言っていることを本当だと認めているように見えて、可笑しくなった。
「君が努力家で、いつも僕やこの子のために頑張ってくれているのは知っているよ。でも僕だって君のために何かしたいと思ってる。もっと甘えていいんだよ。何もかも自分一人で完璧にしようとしなくていいんだ。君には僕や娘に縛られず、自由にしていて欲しいんだ」
夫の真剣な眼差しに私は頷くしかなかった。
「解った。そうなるように努力するわ」
そう言ってみて違和感があり、私は首を傾げた。夫は苦笑した。
「僕も君が無理をしないようによく見張っていよう。シンデレラ、君もよく見ていてやってくれ」
今は泣き止み、丸い大きな瞳で私を真っ直ぐに見つめていたシンデレラは泣き腫らした目を夫に向けて返事をするように手を伸ばした。夫は優しく微笑み、シンデレラに上着を着せて私が外出する時に持って行く荷物を片手に出て行った。
家の中で一人きりになってみると驚く程静かだった。夫と二人暮らしだった頃はこんな時間が多かったはずなのに何故か落ち着かない。シンデレラが来てからというもの、家の何処にいても人の気配を感じていた。家の片隅に自分の一部がいる感覚。それが消えて、心が欠けてしまったような気分になった。
それでも夫が折角時間を作ってくれたのだから、と私は時間をたっぷり使ってシャワーを浴び、ベッドで横になって本を読みながらうたた寝をした。やがて夫の帰って来る気配がして目を覚ました。
「おかえりなさい」
「ただいま。ゆっくり休めたかい?」
「ええ。おかげさまで……ありがとう」
私の顔をじっくり覗き込んだ夫は不意に笑った。
「本当に休めたみたいだね。じゃあこの子は君に返そう。外に出ても機嫌が悪いままで……やっぱりお母さんじゃないと駄目みたいだよ」
「私もこの子が傍にいないと駄目みたい。一人で家にいるのは落ち着かなかったわ」
お互いに笑い合うと二人の間でシンデレラが嬉しそうに口を開けて目を細める。その顔を見る度に幸せで満たされていた。泣き顔や悲しい顔をさせないように気を付けて過ごしてきた。
娘は寂しくて泣いていないだろうか。母親を求めて悲しんでいないだろうか。それだけが心配だった。私はもう一度目を開いて娘の姿を探した。泣き声が聞こえて来ないかと耳を澄ませた。小さな弱々しい声が耳をくすぐった。
「シンデレラ?」
私は声に呼びかけた。自分の娘の声を聞き間違えるはずがない。声は先程より大きく響いてきた。
「お母さん、いるの?」
「いるわ。ここにいる」
不意にシンデレラが笑ったような気がした。お腹の辺りが温かく、柔らかい何かが腰に巻き付いた。
「会いたかった……死んだらもう会えないと思っていたの」
「あなたの傍にいるって言ったでしょう?」
「ええ、そうね。そうだったわ」
温かい感触を抱き締めると、それは私の腕に馴染む大きさだった。懐かしい形が間違いなく娘の体であることを実感させる。姿は見えないけれど、ここにいるのだ。
「あなたが辛い思いや悲しい思いをして私の名を呼んだ時、私は必ずそこにいるわ。姿が見えなくても、声が聞こえなくてもそこにいる。忘れないで、愛しいシンデレラ」
そう言って私はもう一度、見えない体を抱き締めて離れた。シンデレラは私を追いかけようと手を伸ばしたが、それを振り払うように身を躱した。そこで視界から私の姿が消えてしまったのだろう。少し寂しそうに眉を寄せて、唇を噛み締めた後、シンデレラもその姿を消した。
視界が段々と色付き、白い世界が消えていった。私は家でよく着ていた服を身に纏い、家のリビングに立っていた。夫が仕事に向かい、シンデレラは鞄を背負って学校に行こうとしている。私の記憶より少し大きくなったその姿が自分自身の願望なのか、現実なのか解らない。だが、娘の姿を見ていられるならどちらでもよかった。
シンデレラは俯いたまま玄関へと向かい、扉を開けて振り返った。
「行ってきます」
「ええ、気を付けて行ってらっしゃい」
私が答えると不思議そうに眉を寄せて出て行った。扉が閉まると私は家の中に一人、残されてしまった。扉には触れられるが開かない。外には出られないらしい。リビングの真ん中に私の写真が花と共に飾られている。
写真の額は古そうなのに少しも誇りを被っていない。花もまだ新しく、取り替えたばかりのようだった。
「綺麗ね。私の好きな花だわ」
私は呟いた。花の一つに触れると、揺れていい香りを漂わせる。目を閉じてそれを胸いっぱいに吸い込んだ。
再び目を開くと今度は見知らぬ女性がいた。シンデレラと同じ年頃の女の子もいる。女性の娘だろう。顔がよく似ている。その妹らしき女の子はシンデレラの後ろを追いかけるように歩いている。どうやら共に暮らしているらしい。私の写真がリビングから消えていた。
「再婚したのね……」
そう呟いてみて急に寂しくなった。寝室に向かい、クローゼットに指を這わせる。以前は私の服が入っていたところだ。シンデレラに結婚式で着せたかったドレスもここにあったはずだ。今は彼女の服が収まっているのだろう。そう思って佇んでいると夫が入ってきた。
「ねぇ、幸せなの? 私のことなんて忘れてしまったかしら?」
夫はクローゼットの前に立って扉に額を付けた。目を閉じて何かを堪えている様子だ。
「彼女と喧嘩でもしたの? 駄目よ。仲良くしなくちゃ、シンデレラが心配するわ」
私が肩に手を置いて言うと夫は急に顔を上げた。手の感触が伝わってしまったかと驚いた私が手を引くと、夫の手がクローゼットの扉を開いた。そこには私がこの家にいた頃と変わらず、私の服が収まっていた。よく見ると数が減っているけれど、全く埃を被った様子もなく色褪せてもいない。今すぐ私がここへ帰って来ても着替えられるくらい清潔に保たれている。
夫はそのうちの一着に触れて呟いた。
「もうすぐ君のところへ行くよ。少し早くなったけれど……シンデレラはもう大丈夫だ。あの子はどんな場所でもやっていける」
「どういうこと? シンデレラはまだあんなに小さいのに、一人にしては駄目よ」
「君と同じ病気だなんて、本当に僕たちは一生を共にする運命だったんだな。死ぬのが少しも怖くないんだ。死ぬ瞬間まで君と一緒にいられる気がして……それとも君が呼んでいるのかな。一人でそっちにいるのは寂しいだろうけど、少しだけ待っていてくれよ」
「私と同じ病気になったの?」
信じられなかった。この様子から察するに病気は進行していて先は長くないのだろう。夫なら私の分まで生きてシンデレラを幸せにしてくれると信じていたのに、まさかこんなに早く死んでしまうなんて酷すぎる。しかもまだ子供のシンデレラを置いて死んでしまうのだ。
次に私が目を覚ましたのは夫のいなくなった家の中だった。シンデレラは美しく成長し、相変わらず継母や継姉たちと暮らしている。前に見た時は私の胸くらいの高さまでしかなかった背が今は私と肩を並べるくらいになっている。幼かった顔つきもすっかり大人の顔をしていた。どのくらいの月日が経ったのか解らないが、夫の死後、新しい家族とはあまり仲良くやれていないようだった。
「シンデレラ、いつまで食事の片付けをしているの? 早く掃除をしなさい」
「ねぇ、私の服を洗ってくれないかしら。明日出掛ける時に着て行くんだからそれに間に合うようにしてね」
継母と継姉の命令にシンデレラは反抗心を見せず、素直に返事をする。
「ここはもうすぐ片付け終わりますから、すぐに掃除を始めます」
「解りました。早目に洗っておきます」
殆ど無表情の顔のまま、口元だけ愛想笑いを浮かべてシンデレラは頭を下げた。キッチンから出て行く後ろ姿を二人が顔を真っ赤にして見送る。それまで二人を傍観していた継妹が言った。
「だから何度も言ってるじゃない。シンデレラにそんな嫌がらせをしても無駄よ。そろそろ諦めたら?」
「うるさいわよ。あなたは小さかったからお母さんがどんなに苦労したか、私が彼女にどんな思いをさせられたか、何も知らないでしょう。黙っていなさい」
「私だってどんな暮らしだったかくらい解っているわよ。解った上でお姉ちゃんがシンデレラに対してそんな態度をするのはおかしいって言ってるの。それはただの八つ当たりよ」
「黙っていなさいって言ってるでしょう! 何も知らないくせに!」
継姉に強い口調で叱られた継妹は呆れたように首を竦めた。
「はいはい。二つしか違わないけど私は何も解らない程小さくて、お姉ちゃんはご立派だったのよね」
それはとても皮肉の篭った言い方だった。継姉は更に目を釣り上げ、怒りに戦慄いた。
「あなたは彼女に騙されているのよ。どうして解らないの? 彼女は頭のいい優しい子じゃないわ。私たちの父親になるはずだった人を一人で占領し続け、お母さんまで奪おうとしていたのよ。あなたまでそうやってシンデレラの味方をするなんて……妹まで私から奪うつもりね。嫌な子。ここから出て行ってくれたらいいのに」
「やめなさい。あなたはお姉ちゃんなのよ。妹の前でそんなことを言うのはやめて」
継母は継姉を制した。継姉は舌打ちをして継妹を睨んで顔を逸らした。継妹は継姉を嘲るように言った。
「そもそも彼女は二人に何もしていないわよ。父親が思い通りにならなかったからって彼女に恨みを持つのは間違っているわ」
「うるさいって言ったでしょう! もう出て行きなさい!」
金切り声で叫ぶ継姉を憐れむような目で見つめ、継妹は部屋を出て行った。継母は継姉を宥め、継妹の姿が消えた方を心配そうに見ていた。私は継妹を追って部屋を出た。継妹は掃除をするシンデレラを眺めて廊下に立っていた。気配に気付いたシンデレラが顔を上げる。
「どうかしたの?」
「いえ……別に。いつもの喧嘩よ」
継妹はそう言って眉を寄せた。
「どうしてシンデレラは何も言い返さないの? 掃除や洗濯くらいならあの二人にだって出来るのに、どうして何もさせないの?」
私はその言葉に頷いた。まだ生活を垣間見ただけだがシンデレラへの待遇が良くないことは解る。着古した服はあちこち破れて何度も繕った跡がある。髪は自分で切ったのか、それとも二人の手によって切られたのか、長さが不揃いで綺麗とは言えない。手は水仕事ばかりさせられて傷だらけだ。それでも何故、言われるがままに従っているのか不思議だった。シンデレラは愛らしい顔に笑みを浮かべた。
「どうしてかしらね? 別に辛いとは思っていないの。この家のことをしているとお父さんやお母さんがまだ生きているような気がするの。きっと傍にいて私を見守ってくれてる。そう思うと頑張れるのよ」
シンデレラはその手で継妹の髪に触れた。優しい微笑みを浮かべ、囁くように言った。
「あなたがそうやって私のために悲しんでくれるから、私は絶望せずにいられるの。あなたは最高の妹よ
」
「そんなの詭弁よ……そんな言葉じゃ誤魔化されないんだから」
継妹は悔しそうにそう言ったが、顔は微笑んでいた。シンデレラと顔を見合わせて笑い合った。
玄関に来客があった。継妹は立ち上がり、それに応じる。戻ってきた彼女の手にあったのは厚みのある封筒だった。
「お知らせだわ。『王宮で王子の妻を探すため、舞踏会を開催します。国中の女性たちは奮って参加して下さい』ですって」
継妹の読み上げる声を聞いた継姉が飛び出してきてその封筒を奪った。
「すごいわ。もし気に入られたら未来の王妃になれるかも知れない! そうでなくても貴族の方とお近付きになれるわ」
「お姉ちゃんじゃ無理よ。第一、踊れるの?」
「当たり前でしょう。あなたこそ相手の足を踏むようなことにならないようにしなさいよ」
二人が言い合っていると継母が間に入った。
「やめなさい。顔を合わせれば喧嘩ばかりして……ダンスよりまず先にドレスが必要だわ。王宮に集まる誰よりも美しいドレスを用意しなければいけないわ」
「新しいドレスを買ってくれるの?」
「そうね。折角だから流行りのドレスを新調しましょうか」
継母の言葉に二人の娘たちは喜んだ。その傍らで静かに掃除を続けているシンデレラに継妹が声をかけた。
「シンデレラも行くでしょう?」
「何を言っているの? シンデレラは家で留守番に決まっているでしょう」
そう言ったのは継姉だった。継妹は抗議したが聞き入れられなかった。
「よく考えなさいよ。私たちのドレスを新調するだけでもお金がかかるのに、シンデレラの分まで用意出来るはずないわ。それとも彼女は舞踏会に着て行っても恥ずかしくないようなドレスを持っているの?」
「でも、一人だけ置いて行くなんて酷いわ」
「仕方ないでしょう。普段着ている服をどんなに飾ってもドレスには見えないし、場にそぐわない格好をして行って恥をかくのは彼女なのよ。それともあなたが留守番をしてシンデレラを代わりに行かせてあげる?」
継妹は言葉を詰まらせた。若い娘にとって王宮で行われる舞踏会は憧れだ。しかも流行りの新しいドレスまで買って貰えるという話を同情のために人へ譲るのは惜しいだろう。
返す言葉のない継妹を見て優越感を顕にする継姉に対してこのまま引き下がるのが悔しくなったのか、継妹は口を開いた。ところが、シンデレラがそれを遮った。
「私のことはお気遣いなく。舞踏会、楽しんできて下さい」
掃除を終えてその場を立ち去ろうとするシンデレラを継妹が引き止めた。
「あなたも行きたいんでしょう? ちゃんと言わないといけないわ」
「いいのよ。私はドレスを持っていないし、ダンスも苦手だから……それに今、自分が我慢して私を行かせようとしたでしょう。そんなことしては駄目よ。私はあなたよりお姉さんなの。妹に我慢をさせて舞踏会に行っても楽しめないわ」
シンデレラがそう言って継妹を愛しげに見つめた。継妹は背後にいる二人の姿を見て誰にも聞こえないように小さな声で呟いた。
「シンデレラが私の本当のお姉さんだったら良かったのに」
継母と継姉はドレスの話に夢中で継妹の様子など気にしていなかった。シンデレラは困ったように微笑んで継妹の肩をポンと叩き、洗濯物を抱えて出て行った。
浅ましい親子だと思った。自分のことだけが大切な継母と継姉。継妹は比較的まともでも二人を止められない。責任を取れる立場ではないし、下手をすればシンデレラに更なる被害が及ぶことを考えると強気な態度に出られないのだろう。何より彼女自身に逃げる気がない。長い年月をかけて逃げ出す気力を失ってしまったのか。でもその表情は明るく生き生きとしている。
あの優しい夫がどうしてこんな人を新しい妻に選んでしまったのか、それだけが不思議だった。夫にとっては良い妻だったのかも知れないが、こんな酷い仕打ちを平然と出来る人間にシンデレラを託して死ぬなんてあんまりだ。夫の見る目がなかったのか、それとも夫が死んだことで何かが壊れてしまったのか。ただの魂である私には解らなかった。
意識のある間、私はずっとシンデレラと共にいた。もっと私に力があれば継母や継姉が何もして来なくなるように仕返しでもしてやるのに、私には何も出来ない。彼女たちを呪うことも、シンデレラを助けることも出来ない。
それでもシンデレラは毎朝毎晩、部屋に飾ってある私と夫の写真に花を供えて祈ってくれた。私が死んだ日から欠かしたことはないのだろう。助けてやれない無力な私のために祈るのを忘れない優しい娘だ。そう思うと嬉しくて娘への愛しさが増した。
舞踏会のドレスが出来上がり、それに合う靴やバッグを磨かせていた継姉は手を休めず働くシンデレラにしつこく絡んだ。
「あなた、本当に行かないの?」
「ええ。舞踏会で恥をかかずに踊れる自信がないの」
「自信がない? 踊れたとしてもあなたにはドレスがないのよ。しかもその薄汚れた顔。手も荒れ放題じゃないの。そんなみっともない姿で王宮に行ったらみんなの笑いものね」
「本当にそうね。あなたたちはいつも綺麗にしてる。私とは大違いよ」
「当たり前でしょう。女として毎日そんなみずぼらしい姿で過ごすなんて耐えられないもの」
継姉の言葉に私の中で怒りが生まれるのを感じた。娘から普通の生活を奪って虐げているのは自分なのに、それを全く悪いとは思っていないのだ。
「もしあなたにドレスがあったとしても流行遅れの古いドレスでしょう。行けなくて良かったわね。一緒に行く私まで笑い者にならずに済んだわ」
嫌味たっぷりに継姉が言うとシンデレラは思いがけず笑った。継姉はショックを受けたような顔をした。
「そうね。良かったわ。王子様と踊れるといいわね」
「何よ。どうせ王子となんて踊れないと思って馬鹿にしているんでしょう!」
「そんなことないわよ。どうしてそう思うの?」
「笑わないで! あなたって本当に嫌な人ね。私が王子様と結婚することになっても絶対に結婚式には呼んであげないわ」
「それがいいわよ。私には結婚式に出るためのドレスもないし、きっと緊張して倒れてしまうかも知れないから」
シンデレラは笑いながらそう言った。継姉は更に怒って部屋を出て行った。乱暴に閉められたドアをポカンと見つめていたシンデレラは再び靴を磨く手を動かした。鼻歌の合間にブラシの音が混ざる。
「ねぇ、シンデレラ。あなたは本当に舞踏会に行きたくはないの?」
問いかけても聞こえない。目の前にいる自分の娘が一体何を考えているのか、想像もつかなかった。どうしてあんなことを言われても笑っていられるのか理解出来ない。
やがて手を止めたシンデレラは小さなため息をついた。
「舞踏会か……王子様にはきっと決まったお相手がいらっしゃるんだろうな……。でも王宮ってどんなところなのかしら? 召使がたくさんいて、王様とお妃様と王子様が豪華な暮らしをしているんだろうな」
夢見心地に呟くシンデレラを見ていると悲しくなってきた。やはり我慢しているのだ。人前でそんな顔はしなくても舞踏会に行ける人が羨ましいのだろう。
娘のために何か出来ることは、と私は考えた。声も聞こえない、何も触れられない私に出来ることなどあるのだろうか。せめてドレスだけでも用意してあげられたらいいのに、と思った時、不意に思い出した。
「シンデレラのためにドレスを残しておいたはずよ」
夫と結婚した時に着たドレスが家の何処かにあるはずだ。夫は自分が死ぬまで私の物を大切に保管しておいてくれた。夫と私の寝室だった部屋は今、シンデレラが使っている。継母や継姉たちに見つかっていなければあのドレスはシンデレラの部屋にある。
「どうにかして伝えられないかしら?」
いつかのように夢の中で話しかけてみればいいだろうか。でも、私の意識は途切れがちだ。眠っている時間に必ず傍にいられない。魂になってからは生きている人間と時間の流れる感覚が違うため、娘が眠っていそうな時間に予測を付けて声を掛けることも難しい。
どうにかして肉体を手に入れたい。一日だけでもいい。一時間でもいいから、あのドレスをシンデレラに着させてあげる時間が欲しい。
願い、足掻くうちに時間は過ぎてしまい、結局何も手段がないまま舞踏会当日を迎えてしまった。
継母や継姉が髪と顔を整えるために街へと出掛けて行った。継妹は家に残り、シンデレラに髪を整えて貰っていた。
「ごめんね。ドレス、間に合わせようと思って縫っていたんだけど無理だった」
「間に合わせる?」
「うん……私が持っているドレスを上手く作り直したら舞踏会に着ていけるんじゃないかと思って。いつもシンデレラがしているのを見ていたから自分でも出来ると思ったの」
継妹が申し訳なさそうに言うとシンデレラは笑った。
「あなたのドレスは私が着るには小さ過ぎるわよ。それにドレスなんて私にも作れないわ。作れるなら最初から作っていたでしょうね」
「そうよね」
継妹は落ち込んで俯いた。シンデレラはその顔を上げさせて、鏡越しに言った。
「でも頑張ってくれたのね。ありがとう」
髪をブラシで梳きながらシンデレラは囁くようにそう言った。涙ぐむ継妹を宥めて手際よく髪をまとめ上げる。最後に花飾りを付けた。
「さあ、泣き止んで。そんな顔をして舞踏会に行ったら王子様に笑われてしまうわよ」
涙を拭いた継妹は頷いて微笑んだ。
「ありがとう」
「どういたしまして。きっとパーティで美味しい物が用意されるでしょうから、夕食は軽い物にしましょうね」
そう言ってシンデレラはキッチンへ行った。私は後を追って、何とかしてドレスのことを伝えられないかと試行錯誤する。声を掛けても意味がないし、物に触れられない。シンデレラは一人になると深い溜息をつき、気を取り直して料理を始めた。
夕食が出来た頃、出掛けていた二人が帰って来た。派手な化粧と髪型をしている。とても王宮に行くような雰囲気ではないが、私が死んでから何年も経っている。変わった部分も多いのだろう。シンデレラにはもっと質素で落ち着いた雰囲気が似合う気がする。私は空想を膨らませた。
三人は食事を済ませてドレスに着替えると家の前まで迎えに来た馬車に乗り、意気揚々と出掛けて行った。シンデレラはそれを見送って少し寂しそうな顔をした。
使い終わった食器を片付けながら鼻歌を歌う。体が揺れて、気分は一人舞踏会のつもりらしい。悲しくも微笑ましい光景に私は思わず笑った。
「本当に行きたかったのね」
シンデレラの肩に力が入り、手にしていた鍋をシンクに落とした。恐る恐る振り返り、目を丸くして固まった。やっと口を開いて言葉を捻り出した。
「誰ですか?」
私は周りを見回した。誰もいない。よく見るとその目線はまっすぐ私に向けられている。色褪せた写真とはいえ毎日見ている母親の顔が解らないのだろうか。少し悲しくなったが、自分の体を見下ろして納得した。
ふくよかな女性の体だった。死んだ時や、写真の頃の私はあまり体が丈夫ではなかったこともあって細身で長身だ。唯一太ったのはシンデレラを生んだ時くらいだが、覚えているはずがない。それに手を見ると少し歳をとっているようだ。老婆という訳ではないが、娘にとっては中年の見知らぬ女性になっていた。
怖がらせないように愛想よく笑顔を作る。
「あなた、舞踏会に行きたいのよね?」
「……ええ。そうですけど、何故知っているの?」
恐る恐る頷き尋ねるシンデレラ。私は久しぶりになる娘との会話に緊張して、話をどうやって続けていいのか解らずにいた。いきなり現れた見知らぬ女に母親だと名乗られても信じられないだろう。泥棒だと悲鳴を上げられないだけで奇跡なのだ。どうやって怪しい人間ではないと信じさせるべきか、必死に考えた。
「私には誰の願いでも解るのよ。魔法の耳を持っているの」
「魔法の耳? あなたは魔法使いなの?」
「ええ、そうよ」
シンデレラの表情が和らいだ。その理由が解らなかったが、とりあえず話を合わせることにした。
「あなたの願いを叶えに来たの。舞踏会へ行きましょう」
「でも、私にはドレスがないのよ」
「大丈夫、心配しないで」
そうは言ってみたものの、問題があった。他人を名乗った以上は部屋を漁ってドレスを探す姿を見せる訳にはいかない。家の何処かにある私のドレスを探し出すために必要な時間を稼がなければならなかった。私はシンデレラを家から出す方法を考え、咳払いをして言った。
「いい? 願いを叶えるためには三つの物が必要なの。一つ目はかぼちゃ。大きくて立派な物を選んでね。二つ目はハツカネズミ。これは真っ白で綺麗なネズミを連れてきて欲しいの。最後にトカゲよ。とびきり足の早いのを選んでここへ持ってきてね」
「それなら集められそうね。待っていて。すぐに戻ってくるから」
シンデレラは嬉しそうに言うと勝手口から飛び出して行った。姿が見えなくなってから扉を閉めた。物に触れられることを喜んだのも束の間、大慌てで家の中を探した。まずはシンデレラの部屋から探し始めた。クローゼットの中を端から開けて確かめるけれど、何処にもドレスはない。
「捨てられてしまったのかしら……?」
私は不安になり、呟いた。そんなはずはない。あのドレスは値打ちものだった。継姉にそれを見る目はないとしても継母が捨てさせたりしないはずだ。ということは継母の部屋にあるのかも知れない。私は急いで継母の部屋へ行った。
意識がある時はいつもこの家の中を見てきたので何処が誰の部屋になっているかはよく覚えている。継母の部屋は最初に彼女たちが三人で使っていた部屋だ。鍵はついていないので部屋への侵入は簡単だった。
かつて自分の家だったところが知らない場所のようだった。家具の配置が変わったり、継母の服や靴、それに写真が飾ってあったりするだけなのに、この部屋が私を異質な物として認識し、受け付けていないのを感じた。
その部屋の中で一角だけ私の意識を惹く場所があった。遠くから見た時はローテーブルだと思っていたが、上にかかっている布を外してよく見ると木製の箱だった。開けてみるとそこには綺麗な状態に保たれた私のドレスがあった。
やはり自分の懐に入れようとしたのか、と継母を恨んだ。だがそれも一瞬だけだった。広げてみるとドレスは私が着ていたままの状態だ。自分の物にしようとしたのなら継母の体に合うように作り直していてもおかしくはないのに、裾の長さも袖の長さも変わっていない。彼女の二人の娘に譲るにしては細身過ぎる。このまま着たら破れてしまう。
幸いにもシンデレラに似合いそうなサイズだった。一緒に保管していた靴もそのまま入れてある。
「意外と悪い人じゃないのかも知れないわね」
そう呟いた時、勝手口からシンデレラが戻ってくる音が聞こえた。慌ててドレスと靴を抱えて部屋を出た。
シンデレラが帰って来た。かぼちゃを抱え、反対側の手に持った金網のカゴは真っ白なハツカネズミが入ったネズミ捕りだ。ポケットから取り出した布の袋からトカゲを取り出し、得意満面だった。
「おかえりなさい。お疲れ様。よく捕まえてきたわね」
「ええ。そんなに難しくなかったわ」
「それじゃあ、願いを叶えてあげるわ。このドレスに着替えてきてね」
古いデザインのドレスだけど決して流行遅れの類ではない。真っ白なドレスは刺繍やレースが惜しみなく使われており、質素に見えても解る人にはとてもいいドレスだと解る。王宮の人間なら間違いなくこのドレスの価値が解るはずだ。
「綺麗なドレスね……ありがとう、魔法使いさん」
喜んだシンデレラは私の胸に飛び込んできて強く抱き締めた。私は成長した娘の温もりと感触を感じて思わず涙が溢れそうだった。
「いいから、早く着替えていらっしゃい。舞踏会に遅刻してしまうわよ」
私が言うとシンデレラは満面の笑みで頷き、部屋に行ってしまった。残された私はシンデレラに集めさせたかぼちゃやハツカネズミを手にして溜息をついた。
王宮に行くには馬車が必要だ。私が本物の魔法使いなら杖を振って馬車を用意するところだが、残念なことにただの人間である。杖も持たなければ、自分の姿さえ借り物の死んだ人間に一体何が出来るのだろう。
途方に暮れているとテーブルの上に投げ出された布の袋が動いた。中に閉じ込められたトカゲが広いところに出ようともがいているのだ。
私は袋の口を開いた。袋から飛び出したトカゲは私の方を一瞥し、テーブルの脚を伝って床に下りた。でんぐり返しをするように体を丸めた次の瞬間、手乗りサイズの人間へと姿を変えた。
驚く私の目の前でトカゲだった人間は見る間に大きくなり、私より背の高い男性の姿になった。服は燕尾服で、まるで貴族の家の執事か召使のようだ。
男はテーブルの上のかぼちゃとネズミ捕りを持ち、勝手口から外に出た。男が地面にかぼちゃを置くと、かぼちゃは成長するように膨れ上がった。蔓が伸びて渦を巻き、大きくなったかぼちゃを支えるように持ち上げてタイヤになった。見上げるほど膨らんだかぼちゃの皮に亀裂が入り、広がって窓と扉に変わった。小さな亀裂も装飾になり、かぼちゃだったとは思えない程美しい馬車が出来上がった。
「見事な馬車ね……でも馬は何処?」
「只今御用意いたします」
男はそう言って頭を下げた。手にしていたネズミ捕りの金網を開くと、その隙間から逃げ出した真っ白なネズミは迷わず馬車の方へ走り、蔓で出来た手綱に潜り込むと立派な馬に姿を変えた。
シンデレラが私に言われて用意した三つの物が次々に変化していく。その様子を私は間抜けに口を開いたまま見ていた。金銀の装飾が施された馬車の中は豪華な革張りのシートになっていて、継母たちが乗っていった馬車よりずっと乗り心地が良さそうだった。
「これならシンデレラの願いを叶えてあげられるわ。ありがとう」
「いえ……これはあなたにかけられた魔法です。期限は今日一日だけ。それが過ぎたら馬車も馬も私も消えてなくなり、あなたの体も失われ、また元の魂だけの存在に戻ってしまうでしょう」
申し訳なさそうに言う従者に私は優しく言った。
「いいの。これであの子は幸せになれるのよね?」
「解りませんが、あなたがそれを望んだのならそうなるでしょう」
従者は曖昧に首を傾げた。私は聞いた。
「一つ聞いてもいいかしら。私が死ぬ時に聞いた声はあなただったの?」
「違います。私があなたと話をしたのはこれが初めてですよ。あなたの願いを叶える者は他にいます」
「それならあなたは誰なの?」
「私は他の者に頼まれて、あなたのところに来た。彼は自分の願いの代わりにあなたの願いを叶えるよう私に言いました。あなたは彼女を舞踏会に行かせたいと強く願った。だから彼の願い通り、私がそれを叶えた」
「彼って誰のこと?」
「解りませんか?」
従者は悪戯っぽく笑って私の背後を見つめた。私はその視線を追って振り返った。
着替えを済ませて部屋を出てきたシンデレラは少し恥ずかしそうに頬を赤く染めていた。座らせて髪にブラシを通し、ドレスに合うようにまとめて上げる。控えめに化粧を施し、最後にガラスの靴を履かせて馬車へと案内した。
「素敵な馬車だわ。これで舞踏会へ行けるなんて信じられない……」
夢見心地に言うシンデレラは感動のためか涙を浮かべていた。腕の中に収まるほど小さく幼かった少女が、昔の私のドレスを着られる程に成長したことを思うと私も泣きそうになる。その気持ちを堪えて、私は言った。
「魔法の期限は今日まで。日付が変わって教会の鐘が鳴ったら魔法は解けて、あなたはまたいつものシンデレラに戻ってしまう。だから気を付けて。あまり遅くなると馬車も従者も皆消えてしまうから」
シンデレラは頷いて私の手をとった。
「あなたも消えてしまうの?」
「ええ。あなたの願いが叶えるのを見届けたら帰るわ。でも、いつでもあなたのことを見ているわよ」
「本当? 傍で私を見守ってくれる?」
「あなたがそう願うのなら、私はずっと傍にいるわ」
私が言うと、シンデレラは大粒の涙を流した。駆け寄ってきて私の肩に顔を埋め、細い腕でふくよかな私の体を抱き締めた。
「お母さん……」
小さな、くぐもった声が聞こえた。世界中でたった一人、私を母と呼ぶ声の懐かしさに堪えきれず涙が溢れた。
「どうして解ってしまったの?」
「さっき抱き締められた時に解ったの。小さい頃、夢で抱き締めて貰った時と同じだった。一日だって忘れたことはないわ。この温もりがいつも私を見守ってくれているのを感じてたんだから。お母さん、会いたかった」
「私はいつも会っていたわ。あなたの傍にいて、ずっと見てきた。そのドレスをいつかあなたに着せてあげたかったの。よく似合っているわ。大きくなったわね」
指先でシンデレラの涙を拭い、もう一度抱き締めた。
「さあ、そろそろ行きなさい。舞踏会に遅れてしまうわ」
そう言って馬車に乗せる。扉が閉まり、従者が馬に鞭を打った。窓から身を乗り出すシンデレラの頬にキスをして私は手を振った。
「幸せになるのよ」
涙を堪えて唇を噛むシンデレラの顔を見て思わず微笑みが溢れた。生まれたばかりの頃、私の姿が見えなくて泣き出しそうな顔をした彼女の顔を思い出したのだ。あの頃と何も変わっていない。可愛い小さな娘のままだ。
馬車が走り出し、シンデレラが私を呼びながら手を振った。その姿が見えなくなるまで私も手を振り、見送った。すっかり馬車の姿が見えなくなると、私は涙を拭いた。また肉体を失い、魂だけになってたった一人でシンデレラを見守り続ける日々に戻らなくてはならない。
そう思って顔を上げると、人影が見えた。男性の姿だ。
「久しぶりだね。シンデレラは無事に送り出せたかい?」
夫が微笑みながら言った。私は拭いたばかりの涙をまた流し、夫の胸に飛び込んだ。
「今まで何処にいたの? 死んでも一緒にいるって約束したじゃない」
「願い事がなかなか決まらなくてずっと目が覚めなかったんだ。だから会いに来るのが遅れてしまったんだよ。ごめんな」
私の髪を撫でながら夫はあやすように囁いた。久しぶりに聞いた夫の声にとろけるような気分だった。
不意に従者が言っていたことを思い出した。従者が言った『彼』とはきっと夫のことだったのだ。夫は私と同じようにいくつもの願いを叶えようとしたのだろう。上手い方法が思い付かなくて、時間がかかってしまったに違いない。
「もういいわ。これからはずっと一緒にいてね」
「君がそう願うのなら、僕はずっと君の傍にいるよ」
夫が言った。私はこの一時が今夜だけの願い事にならないよう、目を閉じて願った。