継姉
物心ついた頃から私に父親はいなかった。妹が生まれてすぐに離婚したからだ。それを寂しいと思うことはあったけれど、父と別れた母を恨んだことはなかった。それは私よりも母の方がずっと寂しそうな顔をしていたからだと思う。だから、母がお見合いで出会った男性と会う度に幸せそうにするのが嬉しかった。
その人と会う度、普段は身なりなんて気にしない母が綺麗に着飾るのも見ていて楽しかったし、会った日はとても幸せそうで、それから数日は思い出し笑いもする。母はその人のことが好きなんだな、と幼心に感じていた。母自身は自覚していなかったみたいだけど。
母からその人が奥さんを亡くしていて、娘がいると聞いた時は二人が上手くいくように私が頑張らなければと思った。どんなに嫌な子でもその人の娘であるシンデレラと仲良くしようと決めていた。でも、シンデレラは私の想像を遥かに超えた『いい子』だった。
最初は全然喋らなくて、ずっと父親の後ろに隠れてばかりだったけど話してみたら同じ年とは思えない程大人っぽくて、頭がいい。器用に妹の面倒を見つつ私と話したり、遊んだりするのだ。学校の勉強を教わったりもした。私はいつの間にかシンデレラを姉のように慕っていた。
新しい父親になるかも知れない男性より、シンデレラと会うことだけが楽しみで、母に何度も我侭を言った。困った顔はするけれど、母も結局は彼のことを気に入っており、私を理由に食事やデートの約束をしていた。彼もまた母のことを気に入ってくれているように感じていた。
思い切ってシンデレラに聞いたことがある。
「もし、私のお母さんが新しいお母さんになったら嬉しい?」
その質問にシンデレラは一瞬、悲しそうな顔をして、困ったように答えた。
「わからない。私のお母さんは私を生んでくれたお母さんだけだから」
そう言ったきり、シンデレラは黙ってしまった。俯いた泣きそうな顔を見て、私はとんでもないことを聞いてしまったと後悔した。
私の覚えている父親の記憶は朧げで、殆ど忘れてしまったと言ってもいいくらいだ。例え全て忘れてしまったとしても父親が生きている以上、母さえ許せばまた会えるはずだ。でもシンデレラにとって、死んだ母親の記憶は忘れたくない大切な物なのだ。もう二度と会えない、新しい思い出を作ることも出来ない。唯一残った自分の母親という立場が他の人に代わることで大切な母親との思い出が塗り替えられてしまうのが怖いのだろう。
「ごめんね」
小さく呟いた私にシンデレラは顔を上げて笑った。その優しい微笑みが痛々しくて、余計に心が苦しくなった。私もシンデレラのように悲しいことや怒りたくなるようなことを言われても笑って許してあげられる姉になりたいと思った。
幼い妹が飽きる程やり続ける遊びに根気よく付き合い、何を言っているのか解らない言葉を解読しようと耳を傾けた。悪戯をしてしまった時は思わず怒ってしまうけれど、泣きそうになりながらも、何故それをしてはいけなかったのかを伝えるように努力する。すると妹は自分が悪かったことを理解し、素直に謝るようになった。
いつもは泣き喚く妹を宥めたり、怒る私を叱ったりしていた母は少し離れたところから黙ってその様子を見ていた。近頃は私たちが喧嘩をしていても
「あなたたち、大人になったわね」
嬉しかった。やっと一人前の人間として認めて貰えたような気がした。でも、ここではしゃいでしまっては以前と何も変わらない。私は平静を取り繕った。
「お母さんは最近優しくなったね」
母は私と妹の頭を撫でて、抱き締めた。
何もかも順調で幸せな日々だった。シンデレラと一緒にいたい、同じ学校に通って本当の姉妹のように暮らしたいとずっと思っていた。それだけに、シンデレラとの別れは私にとってショックな出来事だった。
「ずっと会えないの? お仕事はいつ忙しくなくなるの?」
縋るように聞いた私に彼は申し訳なさそうな顔をして言った。
「ごめんね。わからないんだ。とても長い間会えなくなってしまうと思う」
「そんなの嫌よ。お父さんが忙しくてもシンデレラは遊びに来てもいいでしょう? 私の家に来ればいいんだわ」
そう言ってシンデレラに同意を求めたが、彼女はただ真っ直ぐに私の目を見つめるだけで頷くことも、首を振ることもしなかった。母が言った。
「無理を言っては駄目よ。住んでるところが離れているの。一人で遊びに来るなんて危ないこと、出来る訳ないでしょう」
「だって私たちはシンデレラの住んでいるところを知らないから、遊びに行けないわ。来てくれないと会えなくなっちゃう」
我侭を言っているのは解っていた。こんな聞き分けのない子供は嫌われてしまうかも知れない。困らせて嫌われたら彼は母に二度と会ってくれないだろう。そうなれば私たちの友情も終わる。頭の中で冷静な自分がそう分析していた。でも、このまま別れたとしても私たちは会えなくなるような気がした。結果が同じであるのなら、それを変える努力をしなければ。
私をどうにか宥めようと母が口を開きかけた。だが、それよりも早くシンデレラが彼に言った。
「お父さん、二人で少しお話したいの。いい?」
彼が黙って頷くと、シンデレラは手招きをした。私が黙って駆け寄ると、少し離れたところまで誘われてシンデレラは小さな声で話し始めた。
「ごめんなさい。お父さんの仕事が忙しくなるっていう話は嘘なの」
「どうしてそんな嘘を? お母さんが嫌いになったの?」
私の声がつい大きくなる。シンデレラは唇に人差し指を当てて、また小さな声で話した。
まず、聞かされたのはシンデレラの母親の話だった。その人が死んで、二人が静かに暮らして来た日々を手短に説明された。私の母と出会ってから、私や妹と友達になれたことに感謝していると言った。その後、父親の方を横目で見て、彼が死んだ母親と同じ病気であることを教えてくれた。
シンデレラが成人するまで生きると約束してくれたけれど、その見込みがないと解っていること、今日、本当は食事へ来るつもりがなかった彼を何とか説得して別れを言うための時間を貰ったことなんかを言った後でシンデレラはこう締め括った。
「この話はあまり人に言わないで欲しいの。お父さんはあなたのお母さんに教えるつもりはないみたいだから」
「じゃあ、どうして私に教えてくれたの?」
「……お父さんの秘密は私一人で抱え込むには苦しかった。あなたが知っていてくれると思ったら少しだけ楽になれる気がしたの」
シンデレラはそう言っていつものように優しい微笑みを浮かべた。その笑みを見て、話すことが彼女の救いになるのなら、どんなことでも受け入れられると思った。私はシンデレラの手を取った。
「私、きっと秘密にする。誰にも言わないわ。だから、また会えるって約束して。そうすれば私も楽になれるから」
「ええ。約束する。またいつか会えるわ」
そう言ってシンデレラは私の手を強く握り返した。
軽い気持ちで秘密にすると言ったが、しばらくするとその約束を甘く見ていた自分に後悔した。妹や母がシンデレラの話題を持ち出す度に私は口を閉ざす。それを彼やシンデレラに会えなくなった寂しさからの行動だと勘違いした母が的外れな慰めを言う。
「大丈夫よ。また仕事が落ち着いたら連絡をくれるって言ってくれたし、シンデレラがもう少し大きくなって一人で何処へでも行けるようになったら家へ誘いましょう。そうすれば彼も家へ来やすくなるでしょう」
母の気遣いに心が痛かった。私はその日が来ないことを知っている。でもそれを母に伝えることは出来ない。伝えるとしたらどうやって言葉にすればいいのか、幼い私にはまだ解らなかった。
そんな風に思い悩んで過ごしていたある日、学校の友人が言った。
「昨日、パパとママが喧嘩してさ。怖かった」
「え? あんなに仲がいいのに?」
「そう……元はと言えば私が悪いんだけどね。パパに酷いことを言ってしまったの。そうしたらパパが怒って『そんな生意気な奴は施設に入れてやる』って言ったの。それを聞いたママがすごく怒ってしまったのよ」
「施設って?」
「理由があって親がいない子供や、親に捨てられた子供が連れて行かれるところよ。虫が出るような部屋に毛布一枚で寝かされるの。朝早くに起こされて夜遅くまで休む暇なく働かされて、食事も貰えなかったり、服も穴が開いたボロしか着せて貰えないようなところなんですって」
想像して、あまりの酷さに絶句した。ふとシンデレラの顔が過ぎった。
「ねぇ、それって親が死んだ人もそこへ行くのかしら?」
「そうよ。だって親がいない子供のための場所だもの。あ、でもあなたは大丈夫よ。お母さんがいるでしょう?」
「ええ……そうね」
私は曖昧に頷いた。友人は首を傾げて何か言おうとしたけれど、私がまたすぐ笑顔になって違う話を始めたのでそれ以上は何も聞けなかった。いつも通り、家に帰る途中で預けられている妹を迎えに行き、母が帰ってくるまで二人で留守番をする。なるべく考えないようにしていても、シンデレラの顔が浮かぶ度にあの話も一緒に思い出されてしまう。そのうちに母が帰ってきた。顔を見れば安心して気にしないようにすることが出来るかと期待したけれど、逆効果だった。
帰って来た母が笑顔を見せた瞬間、涙が溢れていた。拭いても、歯を食いしばっても止まらなくて、気付いた妹が不安そうな顔をする。息が苦しくてたまらなかった。どうしてそんなに笑えるの。シンデレラはこのままだと施設に入れられて酷い目に遭わされる。父親も母親も死んで辛いのに、それ以上辛い目に遭うのに、何故誰も気付かないの。
そう思った瞬間、堰を切ったように私は泣き、そして叫んだ。自分が何をしたいのか解らなくて手足を動かし、髪を振り乱した。驚いた妹が泣き出したことに気付いても止められなかった。母が慌てて私と娘を抱き締めた。母も泣いていた。私は泣くのを止めて言った。
「どうしてお母さんが泣くの? 私が泣いたから? ごめんね。もう大丈夫だよ」
「何処か痛いの? 大丈夫、痛くない。痛くないよ」
妹が必死に私と母を慰めようと手を伸ばす。母は笑いながら、それでも涙が止まらずに顔を歪めた。
「大丈夫よ。何処も痛くない。もう大丈夫。それより、どうして泣いたのか教えてくれる?」
私は言うべきかどうか迷った。でもこんな姿を見せてしまった以上、誤魔化すことは出来ないし、何よりこのままではシンデレラの行く先が心配だった。母は黙って私の言葉を待っていた。
秘密だから話せないと言う私を母は説得した。喉の奥まで秘密が込み上げてくるのに、妹の顔を見ると声にならなかった。それを見た母は妹に別の部屋へ行くように言い、二人だけにしてくれた。
最初の一言はとても勇気がいった。それでも意を決して口を開いてしまえば今まで我慢していた言葉が次から次へと出てきて止まらなくなった。シンデレラから聞いたこと、今まで自分が思っていても話せなかったことを全て話した。母は私の手を握り、目を見つめながら黙って聞いてくれた。秘密にしていたことは叱られなかった。私は聞いた。
「彼が死んだらシンデレラはどうなるの? 施設に入れられる前にこの家に呼んで一緒に暮らしましょうよ」
「大丈夫よ。まだ彼のお母さんも御存命らしいし、シンデレラ程いい子なら必ず親になってくれる人がたくさんいる。それでも駄目ならうちに呼びましょう」
「施設へは行かない?」
「勿論、シンデレラが施設へ行く必要なんてない。心配いらないわ」
それを聞いてやっと安心することが出来た。ずっと悩んでいたことが胸の奥でどれだけの質量を持っていたのか気付いた。重荷から解放されて、単純にも何もかもが解決したような気がした。
だけど、解放されたのは私だけでシンデレラはまだ苦しんでいるのだ、と思った時、自分の浅はかさを恥じた。毎日悪くなっていく父親の体調を思いながら、一方では施設に入れられるかも知れない自分の未来に怯えているとしたら。考えただけでシンデレラが哀れに思えた。母はそんな私を何度でも励ましてくれた。
私が秘密を明かして再び悩み始めた頃、母が行動を起こした。彼ともう一度会う約束をして、全てを本人から聞き出したのだ。
「全部聞いてきたの。それでね、勝手なんだけど怒らないで聞いてね。彼とシンデレラの家に住むことにしたの」
怒るどころか喜ばしい話だった。私も妹も手を取り合ってはしゃぎ、またシンデレラに会えることを喜んだ。母はそんな私たちを安堵した表情で見つめて、これからのことを話し始めた。
学校を変わらなければならないと聞いた時は折角出来た友達と別れることが頭を過ぎり、複雑な心境だったけれど、シンデレラの住む街がそう離れていないことを知ってからはあまり深く考えなくなった。学校で会えなくなることが一生の別れになるという訳ではない。
何より私の話を聞いてから元気をなくしていた母が引越しが決まった時から以前の明るさを取り戻していた。それが重要だった。
あっという間に引越しが終わった。私たちの荷物は少ないので荷造りはそう時間がかからなかったのだ。
彼は私と妹に一部屋、母に一部屋を使って欲しいと言ったが、母が遠慮した。
「押し掛けておいてそんな我侭は言いません。以前の家は三人で同じ部屋に暮らしていたのですから、こちらの広い部屋だけで十分です」
そう言う母に私たちは従った。三人で使う部屋はとても広くて静かだった。私と妹は自然と声を落として話すようになった。それを見て母と彼が笑った。
一緒に住めばシンデレラと毎日遊べる。そう思っていたが、実際は全く違っていた。
シンデレラは朝、母よりも少し早く起きて顔を洗い、身支度を済ませて朝食の準備をする。
「私に任せてゆっくり寝ていていいのよ」
「いえ、毎朝やっていることなので大丈夫です。引越したばかりで疲れているでしょうから、無理はなさらないで下さいね」
「そうね。手伝いに来た私が体調を崩しては元も子もないものね。ありがとう」
キッチンに立って母とシンデレラが話しているのを夢現に聞いていた。食事の支度が出来るとシンデレラは彼を起こしに行き、母は私と妹を起こす。顔を洗い、着替えを済ませて食卓に着くとまだシンデレラと彼がいない。寝室からまだ出てきていないらしい。母は落ち着かない様子で寝室の方を見ている。
やがて彼が顔を洗いに行き、しばらくしてシンデレラが食卓に着いた。
「お待たせしてすみません」
「彼、体調が悪いの?」
「いえ、そういう訳ではないんですけど起きるのが辛いらしくて……すぐ来ますから先に食べていていいそうですよ」
シンデレラはそう言って出来たての朝食を口に運んだ。やがてすっきりした顔の彼がやってきて、全員に朝の挨拶をしてシンデレラの横に座った。朝食の席に男性がいるということに慣れなくて私と妹が少し緊張していることに気付いた彼が色々と話しかけてくれる。会話が弾むうちに緊張も解れ、食事が終わった。
彼が仕事に行く準備をしている時、通学用の鞄を持ったシンデレラが声をかける。
「今日は病院の日でしょう?」
「ああ。仕事の後に寄って帰るから少し遅くなるよ」
「わかった。気を付けてね」
短い会話だけど、誰も入り込む隙のない空気だった。母は気にしていないような顔だが、何を考えているのだろう。
「行って来るよ」
そう言って彼はシンデレラにキスをする。シンデレラもキスとハグを返して、彼が出て行くのを見送った後、私たちの方を振り返った。
「じゃあ、私たちも行きましょう」
妹を真ん中に両側から手を繋ぎ、預かってくれる家まで歩く。まるで姉妹が一人増えたようだと嬉しくなって私は言った。
「今日、授業が終わったら学校の中を案内してくれない?」
「ごめんなさい。休み時間じゃ駄目かしら? 帰ってから家の掃除や洗濯物を片付けてしまいたいの」
「掃除や洗濯はお母さんに頼めばいいじゃない」
「お父さんのお世話を手伝いに来てくれたのに私の分まで頼むのは悪いわ。それにまだ私の家での生活に慣れていないのに何もかもするのは無理よ。お願い。休み時間に必ず案内するから。小さな学校だからそんなに時間はかからないわ」
「いいわよ。休み時間に必ず案内してね」
「ええ。約束するわ」
そう言ってシンデレラは笑った。
新しい学校では私の学年のクラスは一つしかなく、同じ学年のシンデレラは当然、同じクラスだった。本当に小さな学校で、職員室や図書室などの主要な教室を巡るのに時間はかからなかった。休み時間ごとに私を案内してくれる人数が増えて行き、最後にはクラスの人間の殆どが私たちと一緒に校内を歩くことになった。
それは転校生が珍しいからではない。シンデレラの人気だ。大人びていて頭も良く、優しくて美しいシンデレラには男女どちらにもファンが多く、彼女に困ったことがあると他の学年からも助けが来る程だった。勿論、教師からの人気も高い。
そんな人と共に暮らすことになった私が注目されないはずはない。クラス中から質問攻めに合い、私は一日中、自分の家族のことや以前住んでいた街のこと、通っていた学校の話なんかを話し尽くした。質問は徐々に私自身のことからシンデレラのことに移って行き、シンデレラと出会ったきっかけや何故一緒に暮らすことになったのかを聞かれるようになった。彼の病気のことや、母の思いは話せない。私が答えに詰まっているとシンデレラが助け舟を出してくれた。
「お父さんが再婚のためにお見合いをした相手が彼女のお母さんなの。男手一つで私を育てていると聞いてお手伝いに来てくれたのよ。優しい、素敵な人なの」
そう言ってシンデレラが微笑むとそれ以上の話を追求する人は現れなくなった。安堵したのも束の間、授業が終わり、放課後になって再びクラスメイトに囲まれそうになった私は帰ろうとするシンデレラを追いかけるようにして教室から逃げ出した。
「今日は疲れたわ」
私が言うとシンデレラは笑った。
「皆、とても楽しそうだったわ。嫌がらずに皆と話をしてくれてありがとう」
「ううん。優しい人たちね。上手くやっていけそうだわ」
そう答えて私は笑い返した。
妹を迎えに行き、家に帰るとシンデレラはまず古い服に着替えた。少し汚れていて、穴が開いたところを繕ってある。
「折角お父さんに買って貰った可愛い服を掃除で汚したくないのよ」
と言って汚れた服を桶に入れて水を張り、洗剤を入れて手で丁寧に洗う。庭の日当たりが良い場所に水気を切った洗濯物を干すと、玄関や廊下、キッチンとリビングの掃除を次々に行っていった。暖炉の灰を掻き出し、床や壁を磨いていく。私と妹も床にブラシをかけたり、水を汲んだりするのを手伝った。バスルームを洗い、三人で洗濯物を折り紙のように畳んでいると仕事を終えた母が帰って来た。両手に買い物袋を提げている。私と妹が出迎えて、三人で掃除をしたことを報告すると驚いていた。
「私の手伝うことが何もないわ。よく頑張ったわね」
私と妹にキスをしてシンデレラの頭を撫でる。
「一人でやるよりずっと捗りました。食事の準備でしたら私もやります」
「掃除も洗濯もしたんでしょう? 後は私がやるわ。だから宿題でもしていていいのよ」
「いえ、宿題は食後にいつもやっていますから。お手伝いさせて下さい」
シンデレラの申し出を断りきれない母は、結局一緒に料理をすることにした。私は食卓にノートを広げて宿題をし、妹の相手をしながらキッチンに立つ二人の後ろ姿を見ていた。
「今日、学校はどうだったの?」
「シンデレラに学校を案内して貰ったの。最初は二人きりだったけど段々と人が増えて最後にはクラスメイト全員で学校探検をしたわ」
それ以外にも授業のこと、先生の話などを聞かせると母は微笑んだ。
「そう。楽しかったのね。よかったわ」
「ええ。それにシンデレラはクラスでも人気者なのよ。一緒にいると私まで人気者になったみたいに思えるの」
「そうなの? じゃあ、人気者のシンデレラに任せておけば私の娘は安心ね」
母が言う。シンデレラは遠慮がちに微笑んで首を振った。
「大丈夫ですよ。クラスの人たちは優しいですし、私は運動が苦手だったからなかなか輪に入れなかったけど彼女は運動が得意でしょう? すぐに仲良くなれます」
「でもその分、勉強はからきし出来ないのよ。シンデレラは勉強が得意でしょう。あの子に教えてあげてね」
「はい。私に解ることなら何でも聞いてね」
シンデレラが野菜の皮を剥きながら振り返って私に言う。私は頷いて、宿題に視線を落とした。
話を続けながら母とシンデレラは手際よく料理を作っていく。母が作る料理に必要な物をシンデレラが洗ったり皮を剥いたりして揃えていき、使い終わった皿や道具を片付けている。母は私や妹と話しながら火加減や味付けに集中すればいいだけだ。
私は食器洗いさえ手間取ってしまう。母が料理をしている時は邪魔をしないように空腹で不機嫌になりやすい妹の面倒を見ているのが仕事だ。それなのにシンデレラはもう料理まで出来るという。劣等感で腹の下の方が焦げるように痛んだ。母は私の手前、口には出さないけれどその違いを感じているだろう。口は私や妹と話しているが、時折シンデレラを褒めて微笑む顔を見ると母を盗られたような気分になった。
必死に妹の世話をして、学校の話やシンデレラの話をして母の気をひく。シンデレラは母の関心など興味なさそうな様子で手を動かし続ける。そんな私の努力も虚しく、母は思わず、と言った様子でシンデレラのちょっとした働きを褒める。気を遣って褒めるところを見つけようとしてくれている方がまだよかった。
私が劣等感で焦げそうになっていると、シンデレラの父親が帰って来た。
「父が帰ってきたので少し失礼します」
シンデレラは礼儀正しく頭を下げて帰って来た父親を迎えに玄関へ駆けて行った。小声で短い会話が行われ、彼の顔がリビングの扉から現れる。母が濡れた手を拭きながらそちらを向いた。
「おかえりなさい。もう少しで夕食が出来ますよ」
「ありがとうございます。着替えてきます」
そう言って寝室へ向かう彼と入れ替わりにシンデレラが戻ってきた。母が言った。
「あなたも着替えてきたら? 食事の時間までそんな汚れた服を着る訳ではないでしょう?」
母の表情には薄汚れた古い服に対して嫌悪感が滲み出ていた。シンデレラは自分の姿を見下ろして無表情のまま頷いた。
「……そうですね。着替えて来ます。後はお任せしてもよろしいですか?」
「勿論よ。残りは娘たちに手伝って貰うから、少し休んでいらっしゃい」
「ありがとうございます」
シンデレラは頭を下げてリビングから出て行った。それから私たちは母の指示に従って食卓を片付け、料理を並べて夕食の支度を整えた。着替えを済ませた彼が戻ってきた。
「ああ、美味しそうですね。シンデレラは部屋ですか?」
「はい。着替えて来ると言っていましたよ」
母が答えると彼は首を傾げた。
「そうですか? 家ではいつも気に入ってあの服を着ているんですけどね」
「私、何か悪いことを言ってしまったかしら?」
顔色を変えた母に彼は微笑んだ。
「いえ、着替えると言ったのなら構わないのでしょう。着替えて来るのを待ちましょう」
シンデレラは清潔な新しい服に着替えてすぐに戻って来た。彼の隣に座って私たちを待たせたことを詫びる。彼の合図で食事が始まった後、母が聞いた。
「シンデレラ、あの服を気に入って着ていたんですって? どうして言ってくれなかったの?」
「いえ。家の中では動きやすい服装なのでよく着ていただけですよ。お気遣いありがとうございます」
そう言ったシンデレラは満面の笑みを母に向けた。妹が聞いた。
「どうして家の中でも綺麗な服にしないの?」
「多分、私があの服を着て働いているシンデレラを見て『お母さんに似ているね』って言ったからなんだよ。そうだろう?」
彼が妹に答えて微笑みながら首を傾げ、シンデレラに尋ねる。彼女は顔を赤くして僅かに頷いて、母はとても申し訳なさそうな顔をした。
「だったら何故そう言わなかったの? 言ってくれなければ解らないわよ。遠慮なく何でも言っていいのよ。ここはあなたの家なのだから、あなたが遠慮する必要なんてないの」
「ごめんなさい。お父さんが私に言ったことを覚えてるなんて思ってもみなかったの。本当に気にしないで下さい」
顔を真っ赤にしたままシンデレラは頭を下げた。妹と彼が笑った。私も一緒に笑っていたが、腹の底が泡立つように苛立った。
食事の後、シンデレラは片付けた食卓の上に宿題を広げて勉強を始めた。その合間に彼と話をする。
「今日は病院行ったんでしょう? どうだったの?」
「以前と変わらずだよ。次に行く時までの薬を出して貰っただけだ」
「入院について話さなかったの?」
「話したよ。でも、投薬を始めたばかりだから少し様子を見ようと言われたんだ。今のままでも悪化はしないから、焦る必要はないらしい」
「そうなの……それならいいの。よかったわ」
最後に小声でそう呟いたシンデレラの声は心からホッとした様子だった。私たちがこの家に来てから初めてシンデレラの本当の言葉を聞いたような気がする。母は彼女の心を開こうと必死なのに、と思うとやりきれない気持ちになった。
眠る前に母にそのことを言うと、母は困ったように笑った。
「仕方ないのよ。我慢強いあなたが泣いてしまった程の思いを彼女は抱えているの。それを彼に見せないように必死で抑えているのだから、解ってあげてね」
「どうして彼に見せてはいけないの? 親子でしょう?」
「どうしてでしょうね……それはシンデレラに直接聞いてみなさい」
母は優しく言って私に寝るよう促した。
翌日、妹を預けてから学校へ行く道すがらシンデレラに聞いてみた。
「シンデレラは病気のこと、不安なんでしょう? どうしてそう言わないの?」
「言っても仕方のないことだから……」
「でも、何でも言った方がいいわよ。家族なんだから」
「わかってる。でもね、病気になったお父さんの方がずっと不安なの。支えてあげている私が泣いてばかりいたらお父さんは安心出来ないわ」
「それはそうかも知れないけど……」
「あなたもお母さんを心配させないように嫌なことを我慢したり、話さなかったりするでしょう? それと同じよ。私もお父さんを心配させたくないの」
「でも無理をすると今度はあなたが倒れちゃうわよ」
「私は大丈夫よ。あなたのお母さんが心配してくれてるし、あなたも解ってくれる。それで十分なの」
心の底からそう言っているのが感じられた。彼にこの思いを気付いて欲しい。だけど、私が口を出すべき問題ではない。重い秘密を抱えた苦しみは身をもって体験した。それでも母がシンデレラを必要以上に構うことが気に入らない。しかも母が心を砕いているにも関わらずシンデレラがそのことを快く思っていないように見えるのが納得いかない。私より母を独占しているのに何が気に入らないのか理解出来なかった。
優等生である彼女はクラスメイトからとても好かれており、学校では皆が口々にシンデレラを褒める。見た目だったり、成績だったり、子供らしからぬ気遣いだったりと内容は様々で、それを彼女は鼻にかけないので更に好感を持たれていた。家庭の事情からか、教師も彼女に気を遣っているのが解る。でも彼女はそれに甘えるでもなく、気丈に振る舞って礼を欠かさない。だから彼女の周りにはいつも人が集まる。
学校でも家でも非の打ち所がない態度を見せるシンデレラを見ていると体の奥から醜い感情が湧き上がってくる。私では彼女の足元にも及ばないという劣等感を感じてみては何度も首を振り、気持ちを振り払う。それも無駄だった。
嬉しかったはずのこの家での暮らしが段々と窮屈で息苦しく感じるようになった。母の気持ちが私から離れ、無関心になったように思える。
学校から帰ってきて家事を済ませたシンデレラに仕事から帰ってきた母が礼を言う。それに続く褒め言葉を聞いた私は苛立ち紛れにこう言った。
「お母さんはシンデレラばかり褒めるのね。私よりシンデレラが娘になった方がいいのよ」
母の表情が一瞬にして傷付いた、悲しそうな顔に変わった。私は自分自身の口から母を傷付ける言葉が出てきたことに驚いてしまって咄嗟に謝罪の言葉が出てこなかった。罪悪感と自己嫌悪の中で、当然の報いだと感じる自分がいることに驚きつつ私は顔を逸らした。シンデレラは困ったように微笑んで母を見上げた。
「私を気遣って無理に褒めようとなさらないで下さい。私はあなたたちが来る以前と変わらない生活をしているだけで、褒められるようなことは何もしていません。この家に来てから毎日私の手伝いをして頑張ってくれている彼女たちこそ褒められるべきです」
「勿論、娘たちのことは偉いと思ってる。自慢に思っているわ。でも……」
何か言おうとする母の言葉を遮ってシンデレラは首を振った。
「あなたは父の友人であり、彼女たちの母です。父の手伝いをしに来たのですから、私に構う必要はありません。あなたは私の母の代わりにはなれないのですから」
シンデレラははっきりと言い切ってしまってから少し考える仕草をした後、口が過ぎたことを謝った。母が買ってきた食材を持ってキッチンへ姿を消し、妹もそれを追って行ってしまった。残された私と母は顔を見合わせた。母は言った。
「ねぇ、どうしてあんなことを言ったの?」
責めるでも、叱るでもない母の言葉に私は俯いた。苛立っていたとはいえ、母を傷つけてしまったことを後悔していた。言葉が見つからずに黙り込んでいると母は独り言のように呟いた。
「私はあなたを愛してるわ。あの子がどんなにいい子でもあなた以上に可愛いと感じたことはないの。でも、あなたたちから見ると私はシンデレラのお母さんになろうとしているように見えるのね」
溜息を吐いた母に心が痛んだ。その視線の先にあるキッチンには母がこの家に来てから心を開いて貰おうと努力し続けてきたことも、母の心が傷付いたことも知らないシンデレラがいる。そもそも彼女が母の手を受け入れさえすれば私があんなことを言う必要もなかったのに、と思うと体の奥から黒い怒りが湧いてきた。殴りつけて、大声で怒鳴ってあの涼しい表情を崩してやりたい。怒りに震える私の肩に手を置いて母は微笑んだ。
「大丈夫よ。私はあなたたち姉妹以外のお母さんにはならないわ。もしあなたがこの家にいるのが嫌なら他に家を借りてここへは毎日通ってお手伝いをするわ」
「いいの。気にしないで。あんなこと言うつもりじゃなかったの。お母さんが盗られてしまうような気がしただけなの。ごめんなさい」
謝る私の体を母は優しく抱き締めた。背後で扉が開く音がした。仕事を終えた彼が帰って来て、抱き合う私と母の姿を見つけて驚いた。
「おかえりなさい」
「只今戻りました。どうかしましたか?」
「いえ、親子喧嘩をしただけです。もう仲直りしましたから、大丈夫」
「そうですか。それなら良かった」
彼が微笑んだのを見て、母の肩から安堵したように力が抜けた。彼にシンデレラと話した内容を探られるのが怖かったのだろう。私は余計なことを言わないうちに母の腕をすり抜け、キッチンへ向かった。もし私がこの家に住み続けるのは嫌だ、三人で暮らしたいと言えば母は迷わず行動に移すだろう。それが解っているだけに我侭を言って、母が好きな人と一緒に暮らせる幸せを奪う気にはなれなかった。
キッチンでは妹とシンデレラが並んで料理をしていた。調理をするシンデレラの隣では、台に上がった妹が手で野菜の皮を剥いている。妹は滅多にさせて貰えないことにはしゃぎ、楽しそうに手を動かしながらシンデレラと声を合わせて歌っていた。私は早足で二人に近付いた。
「何をさせてるの? 妹が怪我でもしたらどうするつもり?」
腕を引っ張り、妹を台から下ろすと驚いた妹は私に向かって怒った。
「怪我なんかしないよ。ナイフやフライパンには触らないって約束したもん」
それを聞いた私は妹がシンデレラを庇ったことに苛立ち、一瞬で頭に血が上った。
「お母さんに駄目だって言われてるでしょう! どうしてシンデレラの言うことは聞けて、私の言うことは聞けないの?」
「私、このくらい出来るもん! 大丈夫だもん! いつもどうしてお姉ちゃんは良くて、私は駄目だって言われるの?」
シンデレラが妹の名を呼び、妹は今にも泣き出しそうな顔をして彼女を見た。シンデレラは優しく微笑み、濡れたままだった妹の手を拭いた。
「お姉さんはあなたを心配してるの。私と料理の時の約束を決めたわね? 料理するのは危ないからあなたとそういう約束をしたのよ。でも私より前にお母さんとの約束があったのね。お姉さんはそれを破ったことを怒っているのよ。ちゃんと謝りましょう。私も謝るから」
妹はしばらくシンデレラの顔を見つめ、頷いた。まず彼女が妹に危ないことをさせたこと、母に妹が手伝ってもいいか確認しなかったことを謝った。妹もそれを真似してきちんと頭を下げた。私は許す気にはなれなかった。妹が私よりシンデレラの説得に応じたこと、私より彼女と仲良くしていることが気に入らなかった。
いつの間にか来ていた母が感心したように言った。
「シンデレラは大人ね。あなたもきちんと謝れて偉いわ。お姉ちゃんも、妹をきちんと叱れて偉いわよ」
そう言って母は私と妹の頭を撫でた。母に褒められて妹は嬉しそうにしていたが、私は複雑な気分だった。黙り込んだ私は顔を背けて自分の部屋に戻った。ベッドに潜り込み、布団を頭の上まで被って目を閉じた。夕食に呼ぶ母の声も、一緒に遊ぼうと誘う妹の声も無視して固く目を閉じた。
翌日から私はシンデレラと殆ど口を利かなかった。シンデレラは困ったように眉を寄せ、最初こそ機嫌を取ろうとしていたが、なかなか心を許さない私を見てなるべく気にしないように振舞うことにしたらしい。母は私を咎めたが、強く叱るようなことはしなかった。妹は無邪気にシンデレラと三人で遊びたいと言ってくるけれど、断って彼女のところへ行こうとするのを引き止め、二人きりで遊んだ。
学校でも全く口を利かず、目も合わせないようにして過ごした。クラスメイトが時々、喧嘩の理由を聞いたり、仲直りを勧めてくるけれど頑なに口を閉ざし、首を横に振った。態度を改めようとしない私を一部のクラスメイトたちは非難の目で見て、シンデレラを慰めたり、励ましたりする。そんな姿を見て苛立ちが増した。彼女と仲良くする人とはあまり接しないように気を付けたし、彼女と親しい人たちは自然と私の傍から離れて行った。気にせず付き合ってくれる友人と過ごした。
シンデレラが私の態度について問い詰めて責めようとはせず、言い訳もせず、いつも通り過ごしているのが余計に腹が立った。言い訳でもして、母に心を開く努力をすると誓えばまた以前と変わらず接することも出来たのに、私のことなど意に介さない様子だ。段々と無視するだけでは満足出来ず、シンデレラにしか解らないように悪戯を仕掛けるようになった。
家に帰って来ていつも行っている掃除の道具を隠したり、シンデレラが掃除し終えたところに泥や水を撒いて汚したりした。畳んだばかりの洗濯物にわざと躓いて畳み直しをさせたり、宿題を終えたノートを家の何処かに隠して彼女が困った顔をして探しているのを見ない振りしたりもしていた。シンデレラは私がわざと彼女を困らせていることなど百も承知だが、誰にも言わずに黙って掃除をやり直したり、ノートを探したりしていた。
その頃から母は必要以上にシンデレラに構うのを意識的に止めていた。この家に来た時は食事の支度も掃除も自分の仕事だと張り切っていたので、帰って来て彼女が済ませてしまっていると知った時は申し訳なさそうに礼を言っていたし、きちんと家事をこなすシンデレラを褒めたりしていたのだが、今ではそれが当然だと言わんばかりの態度になっている。シンデレラはそれを見て安心した様子だった。
そこからお互いに少しずつ譲歩し合って、母は夕食と自分たちの部屋の掃除と洗濯を担当することになった。私と母がシンデレラと話さなくなると家の中の会話は殆どなくなった。妹だけが無邪気に二つの家族の間を行き来する。
母と彼が話をする時は彼が改まって母を呼んだ時か、どうしても言わなければいけない用事がある時だけになった。それ以外の話を聞くにはシンデレラが食後に勉強をしながら彼と話をする時に耳を欹てて話を聞くしかない。私たちが眠った後に何か話しているのを見かけたことがあるが、病人を夜遅くまで引き止める訳にはいかないのでそんなに長い時間はいられないようだ。
「たまにはお母さん、彼とデートにでも行ってきたら?」
そんな提案をしてみたが、母はあまり乗り気ではなかった。
「彼と二人で出かけても病気のことを気遣ってしまいそうで、心から楽しめないような気がするの。どんな話をすればいいか解らないし……二人きりよりあなたたちも一緒にまた何処かへ行きたいわ」
母は笑った。遠回しに私にシンデレラと仲直りをするように言っているのだと解って思わず顔を歪めた。その矢先だった。彼が倒れた。
朝食になかなか起きてこない彼をシンデレラが呼びに行き、血相を変えて戻ってきた。母に人を呼ぶように言うと再び部屋に戻って行った。病院に運ぶ時にはすっかり落ち着いた表情に戻っていて彼の服を数着と普段飲んでいる薬など、入院に必要な物を鞄に詰めて彼と一緒に病院へ向かった。私と妹は留守番を任され、運ばれる時に見てしまった生気の失せた彼の姿に怯える妹を宥めた。
シンデレラの対応は正しく、彼はそのまま入院となった。帰って来た母が暗く落ち込んだ表情をしているのに対してシンデレラはやたらと冷静で落ち着いている。
「どうして父親が倒れたっていうのにそんな落ち着いてるの? 父親のこと、愛してないのね」
「愛してるわ。でも今すぐ死ぬ訳じゃない。覚悟していたことだったの」
そう言ってシンデレラは視線を落とした。私は追い打ちをかけるように言った。
「違うわ。あなたは父親を愛してない。私の母の方が彼を愛してるわ。これからは母が彼の世話をするから、あなたは黙って働いていなさいよ」
「……ええ。この家は私が守るわ。お父さんがいつでも帰って来れるようにしなくては」
遠い目をするシンデレラに私は一層苛立った。
「まるで娘というより女中ね。父親はもうここへは戻らないのよ。死ぬまで床を磨いているといいわ」
私の言葉にシンデレラの目が一瞬鋭く光った。けれど、すぐに憐れむような表情に変わった。
「何よ、その目は? 私を馬鹿にしてるの?」
「いいえ。そんな風に心を露に出来るのが羨ましく思えただけよ」
シンデレラはそう言って自分の部屋に戻って行った。残された私はぶつけようのない怒りを抱えたままその後ろ姿を目で追った。どうしようもなく佇んでいると病院に戻るという母に呼ばれ、妹と共に着いていくことにした。
「シンデレラはいいの?」
「ええ……少し落ち着いてから行きたいそうよ。やっぱり不安なのね。病院は一人でも行ける距離だから先に行っていて欲しいって言われたわ」
きっと私と一緒に行くのが嫌だったのだ、と思った。それとも彼の世話は母に任せることにしたのか。どちらにしても都合が良かった。
病院のベッドの上で点滴に繋がれ、まだ顔色の良くならない彼が寝ていた。私たちが来たことに気付くと体を起こして出迎えてくれた。
「体調はいかがですか?」
「もう大丈夫ですよ。お騒がせしてすみませんでした」
「ご無理なさらないで下さいね。何か必要な物はありますか?」
「いえ、シンデレラが用意してくれましたから今のところありません。ありがとうございます」
彼が微笑んだ。普段と違って弱々しい笑みだった。私は口を開いた。
「シンデレラったら、帰って来るなり部屋に篭って私たちと話そうともしないのよ。お母さんが一緒に行こうって声を掛けたのに『行かない』って言ったんですって」
「ああ……そうなのか。あの子も不安だったんだろうね。気を悪くしたかな?」
私は曖昧に首を傾げた。彼はしばらく考える仕草をした後、言った。
「良ければあの子に『すぐに帰るから心配しないように』と伝えてくれないかな?」
そう言われた私は返事に詰まった。彼の頼みを聞くべきかどうか迷ったのだ。母の気持ちを解ろうともせず、歩み寄らないシンデレラには腹が立つけれど、彼自身には何の恨みもない。しかも病床の弱りきった人間の頼みを無視するなんて酷いことは出来ない。私が渋々頷きかけた時、母が言った。
「いけませんよ。あなたはしばらく入院するべきです。諦めないで一度くらいきちんと治療を受けて下さい。シンデレラのことは私に任せて、今くらいは自分のことだけを考えて下さい」
母の言葉に彼は眉を寄せ、困った顔をして母を見つめていた。母は決意を表すような強い眼差しで彼を見つめ返した。無言の説得が続いたその時、シンデレラが病室に顔を見せた。彼女は普段、学校へ着ていくような子供らしい服ではなく、質素で大人びた服を着ていた。彼はシンデレラを近くに呼び寄せ、その体を強く抱き締めた。
「効果のない治療を受けてこの子と離れて暮らすよりは、少しでも長く一緒にいたい。これはこの子のことを考えて言っているのではありません。僕自身の希望です」
「でも、ほんの一ヶ月の我慢で何年もその時間を伸ばせるとしたら?」
「見込みはありません。体のことは僕が一番よく解っているんです。いずれ入院せざるを得ない時が来る。それまでこの子と一緒にいさせて下さい」
彼は険しい顔をしていた。シンデレラはその首に腕を回し、そっと甘えるように抱き締め返していた。母はそんな彼女に一瞬だけ不快な物を見るような視線を送り、すぐにそれを隠すように瞬きをして彼を見つめた。
「いいでしょう。あなたがそう決めたのなら私にそれを覆す権利はありません。私はただの友人で、あなたの妻ではないのですから」
諦め、自分や私たちに言い聞かせるようにそう言った母に彼はこう告げた。
「その話ですが、あなたさえ嫌でなければ入籍だけでもしませんか?」
「構いませんけど……どうしていきなり?」
「けじめを付けておくべきだと思っただけです。いつまでも夫でも何もない男と一緒に住んで、世話をさせているのでは申し訳ないですから」
「そんなこと、気にしなくていいんですよ。私がやりたくてやっていることなのですから」
「いえ、そのくらいしか僕があなたに出来ることはありませんから……お嫌でしたか?」
母は頬を紅く染めながら首を横に振った。彼が少し安心したような表情をした。シンデレラは無表情のまま、母を見つめていた。私は彼女が二人の話を邪魔しないように心で強く念じながら彼女のことを見つめていた。
「大事な話ですから今すぐに答える必要はありません。よく考えて、気持ちが落ち着いたら返事を下さい」
彼が言った。母は頷いた。その様子を見て私は安心した。母はきっと彼の申し出を受け入れるだろう。例え限られた時間だったとしても、好きになった人と結婚出来るまたとない機会を逃すはずがない。母の幸せを喜ぶ気持ちと同時に、笑い出したい衝動に駆られた。シンデレラの一番大切な物が母の物になったことがたまらなく愉快だった。
その頃からシンデレラが私や母と話さなくなった。黙々と家の掃除をしたり、食事を作ったりする。彼の部屋に私たちは立ち入れないため、病院に持って行く物はシンデレラが準備する。それを私が奪い、頼まれたと言って母に渡す。シンデレラには家の中の用事を何でも言いつけた。病院にいる彼に会わせないよう、徹底的に邪魔をした。口答え一つせず、黙ってその仕打ちに耐える彼女が何を考えているのか解らなかった。興味もなかった。
母は毎日病院に通って彼の世話をしていた。世間話をしたり、家でのことを話したり、治療について話し合ったりと表面的には変わらないように見えた。でも僅かに変化していた。母は彼の顔色を伺いながら話すことがなくなった。彼が母の手助けを素直に受け入れるようになった。それを見て、母が彼のプロポーズを受け入れたのだと感じた。
お互いに遠慮がなくなると二人の距離は一気に縮まった。以前から夫婦だったと言われても不自然ではないくらいに親しく、信頼し合っている雰囲気だ。それに安心した私は彼と母の関係の邪魔になりそうなシンデレラを排除する行動にますます力を注いだ。掃除の後、わざと泥やゴミを散らかすのは相変わらず続けていたし、彼女の服を汚して洗濯に時間をかけさせたりもしていた。母が病院に行く代わりにシンデレラが買い物を任された日は買ってきた食材を見つからないように捨てて、買い直しのために遠くの店まで行かせたこともあった。だが、流石に食べ物を無駄にするのには抵抗があったので彼女が買い直しに出かけるまで隠したり、洗って調理すれば使える程度に汚したりする方法に変えた。
母や私が家の中の仕事を任せることに抵抗があるおかげで学校にいる時間以外は殆どが家事に費やされることになった。彼女が病院に行く暇はなく、彼から遠ざけることに成功した。母は私のしていることに気付いているのか、それとも彼のことで頭がいっぱいなのか、私が彼女に対してしている態度を咎めなくなってきていた。
学校の帰りに一人で病院へ見舞いに行くと看護師に声を掛けられる。
「毎日お見舞いに来て偉いわね」
私は褒められたことに嬉しくなり、顔を赤くした。看護師は彼に言った。
「この子がいつも話している自慢の娘さんね。確かに奥様にそっくりだわ」
看護師は私たちの家の事情など知らず、悪気なくそう言った。彼は肯定も否定もせず静かに微笑んでいた。彼が看護師に話して聞かせたのが私の話ではないのは直感的に感じた。その記憶からシンデレラのことを消すことまでは出来ない。病院で彼を見舞う母や私たちに、姿を見せないシンデレラのことを尋ねる。殆ど毎日顔を見せている母や、学校帰りに立ち寄る私と妹のことよりも、入院してから数える程しか顔を見せないシンデレラのことが気になるらしい。彼は母に対して文句なしに優しい。私や妹に対しても愛情を感じるけれど、彼女に対する態度とはやはり差があるような気がして、シンデレラのことを話す彼を見ていると思わず苛立ちを覚えた。でも彼にはその自覚がない。そのことが尚更気に障った。
「やっぱり実の娘の方が大切なのかしら」
病院からの帰り、心の中で思っていた言葉が口からこぼれ落ちた。それを拾った母が言った。
「そう思うのなら彼に、このまま入院してきちんと治療を受けるように言ってご覧なさい」
そう言って微笑んだ母の表情は自信に満ちていた。翌日、母に連れられて病院に行った私は彼に言った。
「私たちのことを信じてるならきちんと病気を治して帰ってきて。私たちを大切に思うのなら、生きることを諦めないで、少しでも長く一緒にいられるように頑張ってよ」
彼は何も答えず、困ったように微笑んで傍らにいる母を見た。何か言うことを期待している様子でしばらく待っていたが、母は何も言わずに真剣な顔をして彼を見つめていた。彼が治療を受けることを誰よりも望んでいるのは母だ。私は彼が母よりもシンデレラを気にかけることに苛立ちはするけれど、それ以上に母が漸く手に入れようとしている幸せが少しでも長く続くことを願っている。そのためには彼が退院してまたシンデレラと一緒にいる時間が増えるのは望ましくない。どうせ少ししか生きられないのならシンデレラより母と一緒に過ごして欲しい。迷う彼に私は言った。
「私、あなたがお父さんになってくれて嬉しいの。ずっと一緒にいて欲しいと思っていたから。お願いです。病気のせいで折角お父さんになってくれた人を失いたくないの」
母の視線を感じる。父親がいない生活を申し訳なく思っていた母にとって私の言葉は重く、受け入れるには痛みを伴うだろう。でも今は母の傷付いた心さえ利用したい気分だった。私は悲しんで見える顔を作った。
「どうして迷うの? シンデレラが頼んだらすぐに決めるんでしょう。私があなたの子供じゃないから、私のお願いなんて聞けないのよ」
優しい彼は心を痛めたような顔をした。母が私の肩を叩く。私は俯き、そのまま振り返って母の胸に顔を埋めた。母が優しく私を抱き締めた。
「娘が酷いことを言ったわ。ごめんなさい。でもこの子だってこんなことを言って取り乱す程、あなたのことを心配してるの。……一度、この子を連れて帰りますね。すぐに戻ります」
そう言って母は私を抱えて部屋を出た。病院から出てしばらく歩き、母は言った。
「言いにくいことを言わせてしまったわね。よく頑張ったわ。これで彼も治療について考え直すでしょう」
母は自信に満ちた笑みを浮かべた。私は首を振った。
「いいえ、彼は私よりシンデレラを選ぶわ。私の説得なんて、彼女と会って話し合ったら台無しよ」
「大丈夫よ。私に任せて」
家に帰るとシンデレラと妹が洗濯物を片付けているところだった。
「おかえりなさい。父の様子はどうでしたか?」
「あまり良くないわ。でも彼はそれを隠して退院しようとしているの。口では『自分が家に帰りたいから』なんて言ってるけど本当はあなたが入院を快く思っていないからよ」
「そんなこと思っていません」
「そうかしら? それなら何故、彼にきちんと治療を受けて欲しいと言わないの? このまま放っておけば死ぬ病気だって解っているでしょう? 死ねばいいとでも思っているの? 入院してからというもの碌に顔も見に行かないなんて冷たい娘ね。本当は父親のことなんて心配してないんでしょう?」
母は冷たく言い放った。シンデレラは俯き、手に持っていたタオルを握り締めた。私は臆面もなく嘘を吐く母に驚いていた。彼の体調は医師から自宅療養の許可が出るくらい良好だ。シンデレラが病院に行く機会を奪い続けてきたのは母と私だ。会っている間も私や母が会話を監視していた。もし彼女が彼の入院を望んでいたとしてもそれを伝える機会はなかったはずだ。しかし、シンデレラは母の嘘にも、話の矛盾にも気付く余裕はないらしい。父親の体調が悪いと聞かされた瞬間から落ち着きをなくしている。
震えて黙ったまま俯く彼女に母は大きな溜息を吐いた。
「まあ、いいわ。彼があなたに話があるそうだから、一緒に病院へ行きましょう。そこで彼を説得しなさい。もし出来なければあなたのせいで彼は死ぬことになるの。しっかり説得してね」
シンデレラの手に更に力が入った。母が念を押すように確認すると震えながら大きく頷いた。
私と妹は家で結果を待つことになった。だが、何も心配はしていない。母の脅しによってシンデレラは彼に入院を続けて治療を受けるように説得する役目を完璧に果たすだろう。私や母の言葉だけでは不十分だったことには腹が立つけれど、結果的に目的が達成されるのなら多少の回り道には目を瞑ることにした。彼女さえ遠ざけることが出来れば、彼と私たちが家族になれる確信があった。
私たちの希望通り、彼の入院は延長となった。仕事を休職するための手続きや、周りの人へ病気について報告するために一時的に家へ戻ってきたが、母が付きっきりで面倒を見ていたためにシンデレラの入る隙はなく、二人の間には殆ど会話もなかった。入院前にシンデレラがしていた彼の身の回りの世話は母が全てこなした。朝起こすところから始まり、食事の準備に会話の相手まで母が付き合っていた。彼は久しぶりに娘と会話が出来る機会に母が割り込んでも嫌がらずそれを受け入れていた。
それでもシンデレラが鼻歌混じりに家事をこなす姿や元気に笑う顔に彼が見蕩れているのを見ると、会話以上の繋がりを感じてしまう。母や私と彼の間にある信頼よりも濃く、自然な絆が垣間見える度に私たちは家族になれないのだと言われているようで腹が立った。それは母も同じだったようで、彼がシンデレラに意識を向けていると何か用事を作って彼を呼んだり、シンデレラに用を言いつけて席を外させたりしていた。
病院に帰る日の朝。学校へ行くシンデレラと病院に帰る支度を済ませた彼はほんの僅かな時間、視線を絡め合った。言葉はなかったが、それだけでお互いに別れの挨拶を済ませたようだった。
それはこの家を出て病院に戻ってしまったら二度と帰って来ることはないと知っているかのような視線だった。私は勿論、ずっと彼に付き添っていた母でさえもそんなことは予感していなかった。
入院着に着替えて病院のベッドに戻った彼はその姿を見る度に痩せていった。
「ちゃんと食べてるの?」
「ああ。でも薬のせいでたくさん食べられないんだ。折角食べても栄養にならないんだよ」
腕に針を刺され、管に繋がれても彼は優しい微笑みを見せた。痛みや苦しみは一切見せず、穏やかだった。それでも彼の体調が悪くなっていることを感じずにはいられなかった。
繋がれる管が増えていく。点滴の量が増え、薬の数が増えた。眠っている時間が次第に長くなり、起きているのは食事か、排泄の時だけになった。私が声をかけると弱々しい反応を見せるけれど目を開くのが辛いのか、顔を確かめるように薄らと瞼を開き、微笑むように目を細めてまた閉じてしまう。
彼が病魔に侵されていってもシンデレラは相変わらず淡々と暮らしていた。母が彼の様子を聞かせても悲しそうに頷くだけで、取り乱して泣いたり喚いたりしない。
「父親が心配じゃないの?」
私が聞くとシンデレラは静かに微笑んだ。
「心配しているわ」
「じゃあ、どうして会いに行かないの? 寂しくて泣いたりしないの?」
「泣いても病気が治る訳じゃないから」
シンデレラはそう言って口元に微笑みを浮かべたまま感情のない瞳で私を見つめた。その目に射竦められた瞬間、初めて彼女を怖いと思った。何をしても抵抗せず、静かに受け入れるだけの人間が何を考えているのか解らないのが怖かった。
学校の帰りに初めてシンデレラを伴って病院に向かった。母は既に来ていて、私がシンデレラと一緒に来たことに驚き、首を傾げた。彼女は弱りきった父親の姿にショックを受けてしばらく呆然としていたが、眠っている父親の傍に歩み寄り、その手を握った。
「お父さん。私よ」
耳元で囁かれた声に彼は目を開いた。乾燥した唇を動かし、掠れた声で彼女に返事をした。私の位置からは彼が何と言っているか解らなかった。彼が自分から声を出すことは少ない。母が食事の介助をしたり薬を揃えたりすると囁くように礼を言うくらいだ。私が話しかけても微笑むか、頷くかするだけなのにシンデレラが彼の耳元に声をかけると彼は唇を開く。彼女はそこに耳を近付けて彼の声を聞き、それに対してまた返事をする。そんな当たり前のやり取りでさえも彼女と私では大きな差があるのだ。
私は割り込むようにして彼の傍へ寄った。
「何を話しているの?」
「食べたい物があるんですって。今度作るから楽しみにしていてね」
彼女はそう言って微笑んだ。彼はゆっくりと頷いて同じ微笑みを浮かべた。
「……帰るわ」
「私もそろそろ帰ろうかしら。また来るわね」
シンデレラは彼の額にキスをして握っていた手を布団の中に戻した。私はそれを横目に黙って病室を出た。急ぎ足でついてくる彼女を振り切るように早足で歩き続けた。頭の中が混乱していた。怒り、悲しみ、絶望に似た憎しみ。様々な感情が混ざり合って涙も出ない。
口元に微笑みを浮かべながら機嫌良く隣を歩くシンデレラの頬を力一杯の平手打ちでも食らわせて、泣かせることが出来たらどんなに気持ちが穏やかになるだろう。想像しただけで胸がすっとする。でも手を出さないように気を付けた。私には気に入らない人間だったとしても彼女は人気者だ。顔や体の何処かに目で見える傷が付けばたちまち疑いの眼差しが私に向かうだろう。誰とでも上手くやれる彼女と仲が悪いのは私しかいない。その私が彼女を傷付けたと解れば母ごとあの家から追い出されることになるかも知れない。母が困るのだけは嫌だった。気を付けて行動を起こすことにした。
妹を迎えに行ってから家に帰る。玄関で立ち止まった妹を通り過ぎて家の中を砂に塗れた靴で歩き回った。焦げ茶色の床に薄く白い靴の跡が残る。妹が不思議そうな顔で首を傾げた。
「お姉ちゃん、どうして靴の泥を落とさないの?」
「忘れてたのよ。いいじゃない。どうせシンデレラが掃除するんでしょう?」
そう言って今度は暖炉に向かった。火を起こすために薪を入れ、灰を乱暴に掻いた。細かい灰が舞い上がり、辺りが真っ白になった。
何もかも滅茶苦茶に壊してしまいたい気分だった。キッチンに置かれていた乾燥した豆を暖炉の前に散った灰の中に投げた。干してあった服を力いっぱい引っ張って、吊るしていた紐ごと床に落とした。破れた服は私と妹のものだった。妹が泣き始めたが罪悪感はなかった。
「手伝おうと思ったけど私には出来ないみたい。悪いんだけど床を綺麗にして、豆を拾って、服も直しておいてくれるかしら?」
玄関で呆然と立ち尽くしているシンデレラに向かって言った。その困った顔を見ていると胸が喜びで満たされる。
「お母さんが帰るまでに全て終わらせて頂戴! お母さんはあなたの父親の看病で疲れているんだから、手伝わせようなんて思わないで。夕食の支度までに全て済ませるのよ。いいわね?」
返事を待たずに部屋に篭った。妹が泣いている声が響いてくる。耳を塞ぎ、ベッドに潜り込んだ。シンデレラの声に応える彼の掠れた声が蘇ってきて、私は何度も枕を叩いた。いつも通っている私の話は聞いているだけなのに、たまにしか来ない彼女には声に出して応える。仕事の合間を縫って看病に来ている母には礼しか言わないのに、彼女には自分の希望を言葉にして伝える。たったそれだけのことなのに裏切られたような気分にさせられた。
部屋の外でシンデレラが妹を宥めながら掃除を始める物音が聞こえた。怒って部屋に篭った私を追って来ずに外で彼女を手伝おうとする妹にも腹が立った。
「お姉ちゃんが酷いことしてごめんね」
「いいのよ。大丈夫だからね」
扉の向こうから聞こえてくる声。シンデレラがいつもの微笑みを浮かべてそう言っているのかと思うと心の底から憎しみが湧いてきた。
母が帰って来る頃には掃除と夕食の支度が終わっていた。繕い物はどうやら後回しにしたらしく、何処にも見当たらない。
「私の服を何処へやったの?」
「部屋にあるわ。直したら返すからもう少し待ってね」
「お母さんが帰って来るまでに全て終わらせなさいって言ったでしょう? 何してたのよ。ノロマね」
母に聞こえないように小声で蔑むとシンデレラは眉を寄せた。けれど傷付いた様子ではない。困ったように笑って謝ると部屋に戻っていった。服は翌日返って来た。寝不足の顔をしたシンデレラが朝食の前に渡してきたのだ。母がいる手前、素直に受け取るしかなかった。でもお礼は言わなかった。
その日も私は病院へ行った。シンデレラの真似をして手を握り、彼の耳元に囁くようにして話す。でも、彼はいつものように目を開けただけで会話をしようとはしなかった。
「無理をさせては駄目よ。病気で体が弱っているから声を出すのも辛いの。眠っているのを起こさないであげてね」
母がそう言って私を彼から引き離す。彼はまた目を閉じて静かに寝息を立て始めた。何もすることがなくなった私は母のしている作業を見ていた。彼に処方された薬を一回分ずつ分けてケースに入れる。その薬の数が以前よりも少なくなっていることに気付いた。
「薬、減ったの?」
「ええ……効果がないんですって。一番強いお薬だからこれが効かなくなったら治る見込みはないと思って下さいって言われたわ」
「死んでしまうの?」
「あなたはそんなこと気にしなくていいの。でも出来るだけ顔を見せに来てあげてね」
そう言って力なく微笑んだ。憔悴して顔色の悪い母の様子から彼の体調が良くないのだと悟った。
一週間もしないうちに私たちは病院へ呼び出された。彼の体から管が外されて、いつもは機械を繋ぐためにはだけられていた胸元も整えられていた。胸の上まできちんと布団で覆われたその姿は既に死んでいるように生気がなかった。妹は怖がって母の首に縋り付いた。シンデレラは覚束無い足取りで彼の傍へ歩み寄り、骨張った頬を指先でそっと撫でた。
「お父さん、私よ」
シンデレラが言うと彼は目を開いてその顔を見た。母も声をかける。
「シンデレラのことは私に任せて下さい。安心していいですからね」
私も何か言おうと口を開いたが、言葉が出て来なかった。彼は首を動かして母の姿を見て、私の顔を見た。薄らと唇が開き、掠れた声で囁いた。
「そんな顔しないで、僕は大丈夫だから」
シンデレラは震える声で聞いた。
「苦しくない? 痛くはない?」
「大丈夫だよ。とてもいい気分だ」
彼はそう言ってシンデレラの顔を見つめた。
「君は本当に母親に似ている。君がいてよかった。僕は幸せだった」
「私もお父さんとお母さんの娘に生まれて幸せだったわ」
母がシンデレラの肩を抱き、そっと寄り添う。彼は穏やかに微笑んだ。
「これでやっと妻のところへ行ける」
部屋に響き渡った言葉に私と母は硬直した。冷たい水を浴びせられたような気分だった。
彼は妻の名前を呼ぶと、静かにその目を閉じた。シンデレラが父親の名を呼び、体温を失っていく体に縋ったが、私は涙も出ない。人が死んだことを理解する以上に彼の言葉が信じられなかった。恐らく母も同じだったのだろう。目を見開いたまま、眠るように死んだ彼の顔を見つめて動かない。
最期の瞬間、彼の瞳が映したのは看取るために集まった家族ではなく愛しい奥さんによく似た娘の顔。彼の声が最期に呼んだのは病床の彼を支え続けた母ではなく、死後も愛し続けた奥さんの名前。感謝の言葉も、視線さえ合わせて貰えず、まるで私たちなどいないかのように彼は逝った。隣に寄り添った母の影すら彼の心には残らなかった。