父
僕には妻がいる。
この町に住む女性の誰よりも、いやこの国に住む女性の誰よりも美しく、優しい妻だ。
出会いは随分と昔の話になる。幼い頃から近所に住んでいた幼馴染だ。
祭りに行く時や、友人たちと釣りに行く時なんかに姿を見れば声をかけるくらいの仲だった。
異性だったこともあり、遊ぶ内容が全くことなっていたため二人きりで何処かに行ったり、何かをした覚えはなく、彼女のことを思い出すと必ず他の友人たちも一緒に思い出される。
そんな彼女が僕にとって特別な存在になったのはいつのことだっただろうか。
彼女が大人になっていくにつれ美しく変化していく姿に見惚れてしまい、いつの間にか傍に引き止めるようにその手を取っていた。
幼い頃から変わらない白い肌と、感情を素直に表現する瞳。僕を魅了して止まない優しい声と微笑み。
長い髪は太陽に当たると眩しく輝き、明るい笑顔によく似合う。月明かりの下で見る彼女は女神のように神秘的で、目を伏せた彼女の横顔を見た僕は自然と顔を寄せて口づけをしていた。
「どうしたの、急に」
驚いて目を丸く見開いた彼女。口調は厳しいが、耳まで真っ赤にしているところを見ると照れているのだろう。
「いや……好きだよ。愛してる」
「何よ。突然そんなこと言ったって……」
「結婚してくれないか」
恋人になってからは数える程しかしていないデートの帰り道、家の前に着いた瞬間のムードもロマンもないプロポーズだったと今では反省している。が、彼女はそれでも文句も言わずに顔を赤くして俯いた。
「私でいいの?」
「いいよ! 他の人なんて考えられない! 君がいいんだ!」
僕はまくしたてるように言った。彼女は顔を上げて、緊張した面持ちで返答を待つ僕の顔を見つめた。しばらくの時が流れて、彼女が頷いた瞬間は天にも昇る気持ちだった。
そして僕たちはもう一度キスをした。抱き締め合って、一晩中このままでいたいと思ったが、それは家から出てきた彼女の母親に阻止されてしまった。
彼女の母親には家の前で抱き合ってたことや遅くまで彼女を帰さなかったことについて嫌味を言われたが、結婚の同意を得たことを伝えると一転して顔を紅潮させ、僕を抱き締めた。
「とうとう家族になるのね。嬉しいわ」
涙ぐんでそう言う彼女の母親を見て、彼女は恥ずかしそうに微笑んだ。その笑顔がまた僕の胸をときめかせた。
また後日、改めて結婚の挨拶に来ると言ってその日は家に帰った。幸せ過ぎて夢心地の中、覚束無い足取りで家まで辿り着き、起きて僕を待っていた両親に結婚のことを伝えた。
それから時間が過ぎるのはあっという間だった。両方の家に挨拶をして、友人たちに結婚のことを伝えて回り、新居を探して結婚式を挙げ、気が付いた時には彼女は恋人から妻になっていて、二人の生活が始まっていた。
幼い頃からいつも一緒にいた妻と改めて二人きりになってみると何だか気恥ずかしくて、会話など殆どないまま一日一日を過ごしてしまった。恋人になって初めて二人きりで出かけた時の恥ずかしさなど比べ物にならない。「おはよう」や「行ってきます」など、当たり前の挨拶が照れ臭くて顔も見られない。
でも妻はいつも優しく微笑んで返事をしてくれる。それを申し訳なく思いながら過ごしていた。
そんなある日、仕事に出かける準備をしている僕の背中に妻が頭をくっつけて呟いた。
「私と結婚したこと後悔してる?」
「してないよ。どうして?」
「避けられてる気がするの」
最後は消え入りそうに呟いた妻の言葉に振り向くと、妻は涙を流していた。柔らかい頬に透明な涙が流れる。自分のせいで流している涙を不謹慎にも美しいと思う。
妻の手を取り、指先にキスをした。僕の頬に手の平を当てると冷たい手がその存在を確かめるようにそっと広がり、頬を包み込んだ。
「愛してるよ。誰よりも」
妻は何度も頷き、同じだけ謝った。謝るべきは僕の方だと思ったが、ただ震える体を抱き締めてやることしか出来なかった。
家の中を見回すと、ゴミ一つ落ちていない部屋、僕の支度が終わった頃に出来立てを用意できるよう時間を合わせて作られている朝食、僕より早く起きて整えられた髪の一筋すら乱れていない妻の姿。仕事に行くための服も綺麗に洗濯されている。
彼女は僕の妻になろうと必死に努力しているのだ。僕もその努力に相応しい夫にならなければと思った。
「ごめんな。愛してるよ」
こんなタイミングで言う愛の言葉のなんと軽く安っぽいことだろう。こんな言葉では妻に僕の決意は伝わらないかも知れないが、何も言わないよりはずっといい。妻が僕に黙って努力していたように僕も密かに夫として相応しい人間に成長すればいいのだ。
それからは数日に一度は必ず妻に愛を伝えることにした。毎日のようにキスをして、寝るときには手を繋いだ。
休日には必ず二人で何処かへ出かけた。一緒に外を歩くことくらい結婚する前もあったはずなのに、これまでとは違う新鮮な気持ちだった。妻の手を取って歩いた時は恋人になって初めて手を繋いだ時と同じくらい照れ臭かった。
家の中では鬱陶しいくらい寄り添って一緒にいた。おままごとのような日々だった。でもそれだけで妻は幸せそうに笑ったし、嬉しいと言ってくれる。
そうやって笑う妻の顔を見て更に惚れ直したし、その顔をさせているのが僕であるということが誇らしく、嬉しかった。
この笑顔を見ていなかった自分を馬鹿だったと思った。僕のする些細なことを幸せだと笑ってくれる妻だけを何よりも大切にして守ろうと思った。
だが、それも長くは続かなかった。僕が守るべきものが妻だけではなくなったからだ。
ある朝のこと、いつも早起きな妻が僕が仕事に行く時間になってもなかなか起きてこないので僕は寝室まで起こしに行った。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「ううん。何だか眠くて……ごめんなさい。今起きるから」
「無理しなくていい。眠いなら寝ていていいんだ。僕はそろそろ仕事に行くけど、もし具合が悪いようならすぐに病院に行くんだよ」
「わかった。ありがとう。行ってらっしゃい」
自分の体が普通じゃない時でも笑顔で僕を見送ろうとする妻が愛しくて思わずキスをした。妻は照れて顔を赤く染め、僕の肩に手を当てて
「もう、早く行かないと遅れるわよ」
そう言って上目遣いで僕のことを見た。その可愛らしい顔を見て満足した僕は妻の前では慌てた素振りも見せず、一度だけチラリと時計を見て、カバンを持ち家を出た。玄関の扉が閉まった瞬間、走り出した。
無事、遅刻することもなく職場に着いていつもと同じように仕事を始めたが全く身が入らなかった。ただの風邪だろうか。それとも何か重い病気だったりしないだろうか。昨日の夜は朝寝坊してしまう程の夜更しをしていただろうか。日頃、疲れが溜まってしまうほど無理をさせていただろうか。
起こしに行った時、ベッドの上で体を起こしてもまだ目が覚めていない表情をしていた妻の姿を思い出す度、気が気じゃなかった。
その日は仕事が終わると、行きと同じくらい全力疾走で帰った。家の前で呼吸を落ち着かせて髪や服の乱れを整える。扉を開けて家に入った瞬間、笑顔で迎えてくれる妻が目に入った。
「おかえりなさい」
「ただいま。体調はどうだ?」
「そのことで話があるの。でもまずは夕飯にしましょう」
妻はそう言って微笑み、僕の背中を押して食卓につかせた。何故かいつもより優しい雰囲気の妻が目の前に座った。
「今日の朝はごめんね。どうしても眠くて体が重くて起きられなかったの」
「そんなことはいいんだ。毎日僕より早く起きて身支度をしたり朝食を作ったりして頑張ってくれてるんだから、僕より遅く起きることがあっても気にしないよ」
でも、やっぱり妻が見送ってくれないと寂しいから仕事に行くまでには起きて見送りだけでもして欲しい。少し声の大きさを落としてそう呟くと、妻は笑った。
「少し前から体が重かったり、食欲がなかったりしたから、今日病院に行ってみたの」
「何かの病気なのか?」
「ううん。違うの」
妻はそこで焦らすように間をおいた。大きく深呼吸をして、そして言った。
「妊娠したみたい。私たち、親になるのよ」
僕は思わず妻の腹に視線を落とした。そこに新しい命が宿っている。僕と妻が家族になった証とも言えるものがそこにある。信じられない奇跡だ。
すぐさま立ち上がって妻の体を抱き締めた。妻は泣いていた。僕も涙を流していた。
しばらく無言で抱き締め合った後、妻が呟いた。
「泣いてたからつられちゃった」
「僕が先か?」
「そうでしょ?」
妻は悪戯っぽくそう言って優しく微笑んだ。僕は何も言い返せず、口を噤んだ。それは僕にとって妻を愛しているが故の弱みである。その愛する妻が更に母親としての強さを手に入れたのだ。丸腰の僕が敵うはずがない。それは何と幸せな弱点だろうか。
その日から僕の仕事は増えた。外ではいつも通りの仕事をこなし、身重の妻には持たせたくない重くて嵩張る物は仕事の帰りに買って帰る。家に帰ったら妻が夕食の準備をして待っているので、使い終わった食器は僕が洗う。休日は妻からやり方を教わりながら掃除と洗濯を率先して行い、体が重くて眠そうな妻を寝室に追いやり、昼寝をしている妻を起こさないように昼食と夕食の準備をする。
「ごめんなさい。思っていたより遅くまで寝てしまったわ」
そう言いながら寝室から出てきた妻は、テーブルの上に出来たての食事が並んでいるのを見て困ったように
「このままじゃ私の仕事がなくなっちゃうわね」
と言って嬉しそうに微笑んで、手を合わせ、食事を始めた。
「いいんだよ。今は自分の体を大切にして子供を育てることが仕事なんだから」
僕はそう言いながら夢中になって食べる妻の顔を見つめた。
こういうことを僕がやり始めたのは二人の子供を持つ上司が自分の経験からしてくれたアドバイスが理由である。妻が妊娠したことを伝えると上司はまずお祝いを言い、もし妻の体調が思わしくない時があれば遠慮はするなと言ってくれた。
「仕事を休んだとしても後から挽回できるが、人間の命は一時を逃せば取り返しがつかない。妻と子、二人分の命がかかっているのに仕事を優先するようなことだけは絶対にしてはいけないぞ」
僕は頷き、その言葉を肝に命じた。
「負担は出来るだけ減らしてやれ。子供が生まれるまでに家事は一通りこなせるようになっておけよ」
そう言う上司は一人目の子供が生まれる時、奥様の調子が悪く苦労したらしい。
奥様は妊娠してからずっと弱音も吐かず、文句も言わず、黙って家事をこなして過ごしていた。仕事ばかりで家にいない上司には言えず無理を続けていた。それがある日、腹の痛みを訴えて倒れた。仕事から帰った上司は病院に運ばれて行く奥様の痛みを和らげる方法もわからず、代わりに腹の中の子供を育てることも出来ない。ただ奥様の手を握っていることしか出来なかったそうだ。
お腹の子供と奥様は無事だった。それを聞いた上司は安心した後、ふとあることを考えた。出産は命懸けである。もし、奥様が無事じゃなかったら。子供の命と引き換えに奥様が死んだ時、自分はどうやって生きていくのか。そう考えた時、背筋がゾッと寒くなったという。
「俺は家の中のことを何もしたことがなかったんだ。料理くらいはどうにかなったが、洗濯も掃除も出来ない。家の主を気取っておきながら家の中の何処に道具が仕舞ってあるのかさえわからず、自分一人で生活するにもどこから手をつければいいのか全くわからなかった」
しばらくの間入院する奥様に持っていくタオルや下着、服の着替えさえまともに準備出来ない自分の無力さ、情けなさを痛感した。一家の大黒柱としてに出来ることは仕事をして金を稼ぐだけだったことを反省し、頭を下げると奥様は優しく笑って手取り足取り家の仕事を教えてくれたらしい。
二人目が生まれることになって絶対安静を言い渡された奥様の代わりに家事をし、手のかかる子供の世話をしているという。職場での頼もしい上司の姿しか知らなかった僕はその話を意外に思った。
「もしも、なんてことはない方がいいが、備えておいて悪いことはないからな」
そう言った上司の顔は紛れもない父親の表情をしていた。それがあまりにも輝いていて格好良かった。こんな男になりたいと思い、アドバイス通りにしようと決めた。
妻には今食べたい物と食べたくない物を聞き、具合が悪くなったり、体調が普段と違うと感じたらすぐに言ってくれるように頼んだ。
「僕が何でもするから、君はゆっくり休んでいてくれ」
そう言うと妻は困ったように
「でも動かないと食べてばかりになってしまうわ。運動不足で太るのはよくないの。だから少しは家事もさせてね」
「わかった。ただ無理はしないでくれ。数ヵ月後には命懸けでその子を産むことになるんだから、疲れたらいつでも寝ていいし、体力を温存しておいて欲しいんだ」
僕は新しい命の宿った妻の柔らかいお腹を撫でながら言った。妻は僕の手に自分の手を重ねて優しく微笑み、頷いた。
それからしばらくは家事もいつも通り続いていたが、お腹が大きく目立ち始めた頃からはやはり体が重いようで、寝ている時間が多くなった。仕事から帰ってきて妻が出迎えてくれないのは寂しいが、寝室に様子を見に行った時に見られる無防備な寝顔もまた愛しくてたまらない。こっそり食事を作っておいた時、目が覚めた妻が感謝を込めて僕にキスをする。重い腹を抱えて出迎えてくれる妻が大切に守るようにその手をお腹に置いて僕が帰ってきたことを腹の中の子に報告する。その嬉しそうな顔を見るのが幸せだった。一日ごとに幸せを感じる瞬間や、感動するタイミングが変わっていく。その変化が心地よかった。
妻も腹の中で育っていく子を感じて日に日に変化を感じているのだろう。
「この前から私が話しかけると返事をするようになったのよ」
そう言って僕を呼ぶ。僕は促されるまま妻の腹に耳を付けて目を閉じた。妻が子供に向かって声をかける。体内を伝わって僕の耳に妻の声が届く。きっとこの向こうにいる子供にも同じ声が聞こえているのだろう。腹の中から鈍い音と振動が伝わってきた。
「ほら、動いてるでしょう?」
子供の成長を感じて、母親になっていく妻を見ていると不思議だった。愛情がない訳ではないが、僕にとっては姿の見えない、ただそこにいて大きくなっているだけの物だ。父親として子供への愛は注げない。その子供を守り、育てている妻を大切にすることで間接的に子供を愛していることになるのだろうが、今はまだ父親としての自覚はないのだ。
病院に行って説明を受けても、妻と共に親としての心得を教わりに行っても、他人の体験談を聞いて自分なりに考えてみてもそれはわからない。
それを唐突に理解したのは、子供が生まれた瞬間だった。
妻が僕の手を握る。指が折れそうな程強い力だった。痛みに何度も振り解こうと思ったが、妻が顔を真っ赤にして歯を食いしばり、必死に息をしながら痛みを堪えて唸っている姿を見るとそうすることも気が引けた。子供が生まれて産声を上げた時には僕の手は真っ赤で、上手く力が入らなかったが、意識を失うように眠った妻の痛みを分かち合ったような気分で誇らしかった。
漸く対面した我が子に声をかける。まだ目も開いていない、濡れた全身が真っ赤な小さな我が子は僕の声に耳を澄ませるように泣き声を止めて、そっと伸ばした僕の指を弱々しくしっかりと掴んだ。
涙が溢れそうになった。こんなに小さくても僕が父親だとわかっているのだろう。そう思うと愛しくて、これまでこの子に対して何も感じていなかったことが不思議に思えるくらい大切に思えてきた。
「これからは僕が守っていくよ」
そう囁くと、小さなベッドの上の女の子は安心したように見えた。
シンデレラと名付けられたその子は順調に育ち、妻と共に家に帰ってきた。まだ泣くことと眠ることしか出来ないシンデレラを妻はいつも気にかけて、世話をした。食事中でも、就寝中でも、シンデレラの泣き声がすると妻は飛び起きて抱き上げる。僕も一緒に起きてその顔を覗き込む。
お腹の中にいた時からその子を感じていた妻は泣き声一つで泣いている理由を感じるらしいが、まだ父親初心者の僕にはそれがわからない。仕方なく妻の言いなりになっておむつを交換したり、風呂で体を洗ったり、服を着替えさせたりしていた。
「たまには僕も君に言われる前にシンデレラが何をして欲しいのか気付いてみたいよ」
「そのうちわかるようになるわよ」
妻はそう言って笑った。美しかっただけの妻の姿が今では穏やかな優しさを見せるようになり、母親らしい表情をするようになった。僕は相変わらずそんな妻に見蕩れてばかりだ。
シンデレラを抱いている時の妻はしっかり者の女性だが、シンデレラが寝た後、僕と二人きりになると途端に甘えるような顔を見せる。その差も僕をときめかせていた。
一緒にいる間、それだけ見つめていれば僅かな変化だって見逃すことはない。仕事に行く支度を済ませた僕は妻の顔を見て、顔色が悪いことに気付いた。
「どうした? 具合でも悪いのか?」
「ううん。わからないの。疲れているだけかもしれないし、大丈夫よ」
「ダメだよ。僕がシンデレラと一緒に留守番をしているからすぐに病院へ行っておいで」
妻はなかなか首を縦に振ろうとはしなかったが、僕が職場に連絡をして休みを取ると諦めたように頷いた。心配だから病院までついて行くことを提案すると、妻はまた首を振り
「眠っている子を起こす必要はないわ。病院まで行くくらいなら大丈夫よ」
そう言って家を出て行った。シンデレラは扉の音で少し目を覚ましたが、僕が子守唄を歌っているとまた目を閉じて寝息を立て始めた。
しばらく経ってから妻が帰ってきた。行きより顔色が悪い。飲み物を飲ませ、ベッドに横になるように言うと、妻は言った。
「私、病気らしいの。また詳しい検査をしたいから、入院して欲しいって言われたわ」
「治るのか?」
「まだはっきりとは何の病気かわからないの。でも深刻な顔だった」
「すぐに検査して貰ってくれ。治る病気なら治療は早い方がいい」
「私が入院したらシンデレラはどうするの? 仕事を休み続ける訳にはいかないでしょう?」
「そんなことよりもし手遅れになったらどうするんだ? 君がいなくなる方が困るんだよ」
僕が妻の肩を抱きながら言うと、妻はしばらく黙って考え込み、やがて顔を上げた。
「わかったわ。検査に行く」
だが、妻は子供の世話のために仕事を休むことは許してくれなかった。そのため、子供の世話は妻の母に任せ、僕は妻が入院している病院と妻の実家、自宅を行き来するようになった。病院で妻の元気そうな顔を見て、差し入れと荷物を渡し、洗濯物を持って帰る。その途中で妻の母の料理をご馳走になって、シンデレラを連れて家に帰る。そんな毎日を過ごしているうちに妻の検査結果が出た。
深刻な顔をする医者から病名を言われた僕は聞いた。
「その病気は治るんですよね」
「はっきり治るとは申し上げられません。治療をしても進行の早い病気ですから、完治まで至らない可能性もあります」
「子供が生まれたばかりなんですよ」
「全力を尽くします。出来る限りのことはやってみましょう。奥様には私から告知しますか?」
「いえ、僕が言います……これからの生活のことも話し合わなければなりませんから」
僕はそう言って拳を握り締めた。妻にどう伝えればいいか、皆目見当がつかない。僕はシンデレラを抱き、妻のところへ向かった。何事もなかったかのように笑おうと努めたが、とても笑顔には見えなかった。そんな僕を見て妻は言った。
「お医者様は何て仰ったの?」
「完治は難しいだろうって。出来る限りの治療はしてみようって言ってたよ」
「そう。じゃあすぐに死ぬとか、そういうことではないのね。よかった」
妻はそう言って笑った。僕は呆気にとられて何も言えなかった。
「シンデレラが成人するまで、ううん。結婚するまで生きていられたらいいわね」
この瞬間、改めて妻の強さを思い知った。これから待ち受ける治療の苦しみや、明日の見えない不安に苛まれることになるというのに妻は笑ってそんな夢を語った。子供の成長を見守れない可能性や完治の難しい病気を患って辛いのは彼女で、僕は支えることしか出来ないのだ。しっかりしなければ、と思う反面、妻にはやはり敵わないと思った。
「あなたが傍にいて、シンデレラが無事に育ってくれればそれでいいの」
欲のない夢だ。それさえ叶うかどうか難しいと思っているいじらしい妻を強く抱き締めた。妻の手が僕の背中に回される。その細い手は小さく震えていた。
「ずっと傍にいるから。シンデレラも君も僕が守るから、だから安心してくれ」
そう言うと妻はゆっくりと頷き、初めて静かに泣いた。
自宅での治療を希望し、退院した妻は子供の前では辛い顔は見せず、寝室に戻って僕と二人きりになると
「ちょっと疲れちゃった」
と、消え入りそうな声で呟きハラハラと涙を流す。時折鼻を啜り、小さく震える細い体を抱き締めながら横になり、呼吸がゆっくりと穏やかな寝息に変わるのを確かめてから眠る日々が続いた。
昼間、僕が仕事に行く間は妻の母と僕の母がほぼ毎日交代で来てくれて、妻をあまり働かせないように見張っていてくれる。最初こそ二人を客として迎え入れて気を遣ったり、病から来る倦怠感を隠そうとしていた妻も、やはり毎日は疲れるらしく徐々に二人の母親を受け入れていった。母たちが必要以上の気遣いをしないこともその態度を軟化させる理由の一つとなったらしい。
例えば妻が眩暈を覚えて壁に寄りかかっていたところを見かけた時は
「そんなところに立ってないで椅子に座りなさい。お茶でも飲みましょう」
と言って妻を椅子まで誘導する。また妻が薬を飲んで少し横になっている時にシンデレラが泣き出すと
「私が見ているから寝ていていいわよ。どうしてもお母さんじゃないといけないときは呼ぶからね」
そう言ってシンデレラを抱き上げ、家の中を歩き回ったり、窓の外を見せたりする。シンデレラも自分の母親の体調を知っているのか、そういう時はピタッと泣き止み、静かにしているという。
「子供は何もわからないと思っていたけれど、わかってないのは私の方だったのね」
妻はそう言って愛情のこもった目でシンデレラを見つめ、その柔らかい頬を撫でた。
シンデレラは日に日に大きく成長していく。産毛のようだった髪は妻と同じ金色に染まった。瞳の色は僕と同じ碧色だが、二重瞼は妻に似ている。
そう言うと妻は僕によく似ていると言う。シンデレラをあやしていると僕の顔を思い出すらしい。
「ふとした時の表情があなたに似てるの。あなたにも見せたいわ」
妻は眠るシンデレラを胸に抱きながら悔しそうに言った。
眠ることと泣くことしか出来なかったシンデレラはやがて言葉を発しようと声を出すようになり、床を這うようになった。成長は順調だ。だが、妻の病気は順調とは言えない結果になっていた。
病院の検査から帰ってきた妻が思いつめた顔をして僕の帰りを待っていた。いつもなら妻と共に迎えてくれるシンデレラの姿がない。
「シンデレラはどうした?」
「お母さんに預かって貰ってる。ねぇ、答えてほしいことがあるの」
「何だ? 僕に答えられることか?」
「私の病気のことよ」
震える声で妻は言った。心臓が握り潰されたように痛んだ。まさか、そこまで悪くなっているのか。不安になりながらも僕は妻の目の前に座った。
「そんな顔しないで。お医者様は悪くなってはいないって仰ったわ。でも良くもなっていないみたい。治療の効果が出ていないから入院して集中的に治療してみないかって言われたの」
「そうか。どうするつもりなんだ?」
「断ったわ。あなたとシンデレラがいないところに居続けるなんて怖くて出来ないもの。今の治療で現状維持出来るのなら、それでいいの」
「でも、悪くなってから治療すれば手遅れになるかも知れないぞ?」
僕の言葉に妻は一瞬息を飲んだ。それでもゆっくり瞬きをすると落ち着いて言った。
「ごめんなさい。我侭を言ってるのはわかってる。あなたが病気の私と一緒にいるのが辛いなら私と別れて、違う人を探していいよ。私は大丈夫だから」
「そんなこと言うな。本気で怒るぞ。そういうことも全て受け入れていくつもりで君と結婚したんだ。病気になったくらいで今更別れられる訳ない」
僕はそう言って妻の手を取った。妻の手は冷えて、震えていた。自分の申し出を僕が受け入れてしまったら取り返しのつかないことになる。妻は僕にこれからも妻を支えていく覚悟があるかどうか試したのだろうか。それとも病気で心配ばかりかけている自分が僕の重荷になっていないか不安になり、自分自身を試したのだろうか。
「泣き止んだらシンデレラを迎えに行こう。そして今日は三人で一緒に寝よう」
僕がそう言うと妻は泣きながら頷いた。その顔を見ていたら、溢すまいと耐えていた涙が頬を伝って落ちていった。
二人で揃って迎えに行き、シンデレラを預かっていた妻の母に礼を言うと
「一晩中預かっててもよかったのに。もっと一緒にいたいわ」
と言って笑ってくれた。この人は妻を生み、育てた母親なのだ。妻がシンデレラのことをいつも気にかけて心配するように妻の病気のことについて最も心配しているのはこの人なのだ。それに気付いた僕は妻がシンデレラの寝ている部屋に行った時を見計らい、妻の母に頭を下げた。
「妻とは、彼女とは僕が一生一緒にいます。彼女より一日でも一秒でも長生きして、寄り添い支え続けます。だから心配しないで下さい」
「わかってるわ。あなたがそういう人なのは小さい頃から見てきて知っているもの。でも心配するのが母親の仕事なの。私のお節介を面倒に感じるかも知れないけど、許してちょうだいね」
妻の母はそう言って涙ぐんだ顔を隠し、再びその顔を見せた時には涙の気配も見せなかった。そこに僕は妻と同じ母親の強さを見た。支える人間はこうでなくてはならないのだ。見習おうと思った。
そうは言っても男と女は根本的に違う。彼女たちのように優しく包み込むようなしなやかな強さは手に入れられなかったが、妻に襲いかかる不安を吹き飛ばすような頑強な強さは身に付いた。
妻が泣きたい時は共に倒れないよう、傍にいて涙が止まるまで手を繋いで一緒にいる。笑い合えることがあればほんの些細なことでも心の底から笑う。そうやっているとシンデレラも覚束無い足取りで僕たちのところへ寄ってきて泣いている妻を励ますように抱き着いたり、無邪気な笑顔を見せて笑っている僕たちを更に幸せな気分にさせたりする。
シンデレラはまだはっきりと発音できないながらもいつの間にか妻にかける言葉を幾つか覚えていた。
まず「ありがとう」と言えるようになった。妻に何かして貰ったとき、僕や母たちが何かしたときによく使う。他には妻が泣いている時に「痛い?」と首を傾げることが多い。その後に続くのが「大丈夫」だ。妻が笑うまで髪を撫で、抱き着きながら愛らしい声でその言葉を繰り返す。僕が励ましの言葉をかけるよりもずっと強い力を持つシンデレラの声が妻の不安を癒していく。
幼いシンデレラの成長こそが妻にとって何よりも効果のある薬になっているようだった。
そんな愛しい薬にも限界はあるようだ。検査の結果、ずっと平行線を保っていた妻の病気が悪化したことがわかった。
シンデレラがしっかりと自分の意思で話すようになり、外に着ていく服を選んだり、髪型を決めたり出来るようになった頃のことだった。
眠ることと泣くことしか出来なかった頃の面影はなく、目鼻立ちが妻に似て、愛らしく成長していた。
「まるで君の分身みたいだ。きっと将来は君に似て美しくなるだろうね」
僕がそう言うと妻は不意に涙ぐんで首を横に振った。
「私になんて似ないで欲しいわ」
「どうして?」
「愛する人を置いていかなければならない苦しみを味わって欲しくないから」
妻の言葉が重く心に突き刺さった。だが、それを押し隠して僕は言う。
「だとすれば、君が長生きすればその分だけシンデレラもその苦しみを先延ばしにすることが出来るということだ。それなら今、治療に専念して完治を目指さないか?」
「嫌よ! 治療を受けたらシンデレラとあなたと離れ離れになってしまう。それだけは絶対に嫌なの」
「ほんの数年だ。数年我慢すれば、その後はずっと一緒にいられるんだ」
取り乱す妻の肩を抱き、僕は言った。だが、妻はやはり首を横に振る。
「嫌よ。この家から私がいなくなってもあなたが私の傍にいてくれる自信がないの。治療で苦しむ私の惨めな姿に愛想を尽かしていつか嫌われるかもしれない。それが怖いのよ」
「そんなことはない。僕はずっと傍にいる。僕を信じられないのか?」
「あなたのことは信じてる。でも自分が信じられないの。あなたにとっての私の存在が信じられないのよ」
妻はそう言って涙を零した。
「あなたは優しい人だから私のことが嫌いになっても私と一緒にいてくれるわ。どんな姿を見せたって平気な顔をしてくれる。でも私は?治療の辛さであなたと過ごした幸せな日々のことを忘れてしまうかもしれない。あなたのこともシンデレラのことも愛せなくなってしまうかもしれないわ。私がいなくなったあなたには他に好きな人が出来るかもしれない。あなたを失いたくないの。この幸せな生活を失ってしまいたくないのよ」
子供のように泣き喚き、そう言った妻の姿が痛々しい。しかし、取り乱しながら自分の本心を曝け出すその姿が不謹慎にも可愛らしいとさえ思える。僕の心がこんなにも妻のことが好きなのだと教えてくれる。
それなのに、その気持ちは伝わらない。伝える術を僕は持たない。
やがて妻は涙を拭いて、いつもの笑顔を作って見せた。
「ごめんなさい。こんなことばかり言っていたら本当に嫌われちゃうわね」
「いいんだ。そういう姿を見ることができる男が僕だけだということが誇らしいよ」
治療が始まった頃より少し痩せた妻の手を握り、キスをしながら僕は言う。妻は少しだけ照れて顔を赤くして微笑んだ。顔色が悪くても、痩せてしまっても、その微笑みの温かさだけは変わらない。病気のおかげで儚げになった妻はより一層美しさを増しているとさえ思った。
妻は入院を決意した。家から近い病院に入るその朝、シンデレラを抱いて言い聞かせた。
「お母さんは元気になって必ず帰ってくるわ。いい子で待っていてね」
「うん。お母さん、行ってらっしゃい」
シンデレラは病院に行く妻をいつもと同じように見送った。僕の母に抱かれたシンデレラは玄関で手を振り、僕と妻を見送った。その姿を何度も何度も振り返り見つめながら妻は涙を堪えていた。
「大丈夫、必ずまた一緒に暮らせるよ」
「わかってる。わかってるわ」
妻は頷き、僕の腕に縋り付くようにして歩いた。僕はなるべく振り向かず、妻の悲しい顔も見ないようにして歩いた。そうしていなければ足が勝手に家に戻ってしまいそうで、前に進めなくなりそうだった。
病院に着き、病室で入院着に着替えた妻がベッドに入ったのを確かめてから家に帰った。
「おかえりなさい」
シンデレラが僕を出迎えてくれた。僕はその小さな体を抱き上げた。
「今日からしばらく二人きりだよ」
「お母さんは?」
「少しの間、病院にいるよ。病気が良くなったら帰ってくるからね。寂しくても我慢しようね」
「大丈夫。お母さんはすぐ良くなって帰ってくるよ」
そう言ってシンデレラは僕の頭を撫でる。シンデレラの方が僕よりずっと不安で寂しく思っているはずなのに、僕のことを心配してくれている。優しいところも妻譲りだ。
「ありがとう。お父さんも我慢するよ」
そう言って頬にキスをするとシンデレラはくすぐったそうに笑った。
その日から妻抜きの生活が始まった。
朝になってシンデレラが自分で顔を洗い、服を着替えたのを確認して朝食を食べさせた後はシンデレラを連れて家を出る。僕が仕事の日は妻の実家と僕の実家、一日交代で預かって貰っているのだ。
僕はその後、寂しそうに手を振るシンデレラに早く帰ることを約束して職場に行く。
仕事が終わったら寄り道せずにシンデレラを迎えに行き、一緒に買い物をして帰る。夕飯はあまり難しい物は作れないが、シンデレラの好きな食べ物のメモや僕の好きなメニューのレシピを妻がまとめてくれたので、それを元にして作る。
美味しそうに食べるシンデレラを見て満足したら、二人で風呂に入ってベッドに入って眠る。夜中に寝惚けて妻を探し回ることもあったが、僕が抱き上げて妻が入院していることを言うとまた夢の中に戻って行く。時々、手をつけられない程泣いて困ることもあるが、それでも泣き疲れるとスイッチが切れたように眠ってしまった。
入院している間は見舞いに来ないように、と妻からきつく言われている。
「あなたやシンデレラの顔を見たら帰りたくなってしまって治療が嫌になるかもしれないから」
そう言った妻の気持ちを尊重して、休日に洗濯物や不要になった物を受け取るついでにこっそり様子を見に行くことにしている。談話室の椅子に腰掛け、ぼんやりと外を眺める妻の横顔を遠くから見て、心の中で応援する。会話を許して貰えなかった代わりにシンデレラが書いた絵や僕の近況などを病室に置いていく。妻はその返事を僕が持って帰るカバンのポケットに入れてくれる。帰ってシンデレラと一緒にそれを読む。
一枚目はシンデレラに宛てた手紙。そこには病院で起こった色々な楽しい話が書いてあり、それをまだ漢字の読めないシンデレラの代わりに僕が読んで聞かせる。二枚目の手紙は僕に宛てた手紙。治療の方法や最近の検査の結果、医者に言われたことが書いてある。それはシンデレラには知らせられない話だった。
妻の母にその手紙の内容を伝える。
「それは、あまり良くないということ?」
「ええ、今のままいくと長くて三年。シンデレラが成人するまではとても……」
僕が言葉を濁すと妻の母は温かい手で僕の手を握った。
「あなたは、どうしたい?」
「妻の望むようにさせてやりたいです。治療を続けるのならこのまま入院していていいし、家に帰りたいというのなら迎える準備をします」
その言葉に妻の母は少し意外そうに微笑んだ。
「最期の時まであの子と一緒にいるつもりなのね」
僕は頷いた。彼女が僕の望む幸せをくれた。優しい妻、温かい家庭、可愛いシンデレラ。物語の中のように幸せな日々を僕に与えてくれた妻に夫として僕に出来ることはその妻が作ってきた幸せな日々を守っていくことだけだ。彼女が望む形で残りの時間を過ごしてほしい。そのための相手が必要ならば僕がその役目を担っていきたい。
家に帰ると僕の母と共に留守番をしていたシンデレラが笑って出迎えてくれた。
「シンデレラ、お母さんがいる病院に行こうか」
「うん! お母さんのところ行く!」
元気よく頷いたシンデレラを抱き、病院に向かった。病室のベッドに横たわった妻は家にいた時より痩せており、顔色もあまり良くない。僕とシンデレラの姿を見て驚き、恥ずかしそうに顔を背けた。
「久しぶり。痩せたな」
「病院のお食事ってあまり美味しくないの。あなたとシンデレラはどう? 変わりはない?」
「ああ。僕もシンデレラも元気だよ」
シンデレラをベッドの上に座らせる。久しぶりに会った母親の首に抱きつき、甘える娘の頬に妻は優しくキスをして抱き締め返した。話したいことがたくさんあったはずなのに、シンデレラは泣きもせず、寂しかった間の分を取り戻すように黙ってその胸に顔を埋めた。やがて、顔を上げると小さく言った。
「お母さん、一緒におうちに帰ろう」
その切実な声に妻はただ頷くことしか出来なかった。幼い子供を自分たちの我侭で振り回し、我慢を強いていたのだ。普通の家庭であれば家の中に家族が揃っていて、この年頃の子供は好きな時に遊び、眠り、食べて笑うのが当たり前なのに、僕らはその普通を許してこなかった。子供らしい我侭を言って僕たちを困らせることも出来ず、母親を起こさぬように声を殺して遊び、泣かず、笑うことを心掛けてきたのだ。
自我を抑え、子供らしさを失って、ここに至るまでどれだけ悩んだだろう。その娘が初めて言った我侭を僕たちは重く受け入れた。
悩んでいたのは僕たちだけではなかった。親の苦しむ姿は見せるまいとしていたが、そのことさえシンデレラは気付いていたのだろう。全てを背負っているつもりになって何も知らなかったのは親だけだったのだ。
「ごめん、ごめんね。帰ろうね。一緒に帰ろう」
泣きながら妻が言った。その痩せた細い肩ごと僕はシンデレラを抱き締めた。
「本当? もう何処にも行かない?」
「行かないわ。ずっと一緒にいる」
妻の言葉を聞いて、シンデレラはその大きな瞳から大粒の涙を零した。声を出して泣くことを忘れてしまったように小さく声を出して泣いていた。それを見て僕たちも涙が抑え切れなかった。
数日後、妻は退院した。自宅で出来る治療は少ないからと医師に何度も考え直すよう言われたが、病気の進行具合を見ると入院しているからと言ってより長く生きられるという保証はない。
だとすれば自宅で、残りの時間を有意義に過ごしたいと妻は言い、最後には医師を説得した。
家に戻った妻は入院前よりずっと明るくなった。病気が進行するかもしれない恐怖に怯えて、治療や入院が重なることで僕と娘を失うことを考えなくなった分、気が楽になったらしい。しかも感情を素直に表すようになった。苦しい時は無理をせず横になり、病気が辛いと言って泣く。シンデレラや僕の仕掛けた悪戯に怒ったり笑ったりする。
それはとても自然な雰囲気だ。結婚する前、僕が好きになり始めた頃の彼女に似ている。
シンデレラも少しずつ子供らしい姿を見せるようになった。夜中に一人部屋で寝るのが寂しくなり、僕たちのベッドに潜り込んだり、大人にはわからない事情で嫌がる素振りを見せ、僕たちを困らせることもある。その度に僕たちはシンデレラの話を聞き、自分たちに間違いがあった時はその場で謝り、シンデレラが間違っている時は諭してやる。
半分泣き顔をしたシンデレラが小さな声で
「ごめんなさい」
と言うと、僕たちは何でも許してしまう。泣き疲れるか、涙が出なくなるまで抱いて優しい言葉をかけたくなる。
最初はそれを幼さ故の魔法なのかと思っていたが、そんなことはなく、いつまで経っても親にとって子供は子供のままだった。いつしか片腕で抱き上げることが出来ないほど大きく成長したシンデレラも小さくて愛おしい。
生意気に一人前の口を利くようになったシンデレラの言葉にドキリとすることが多くなってきた。親が使う言葉はすぐに意味を理解して覚えるので迂闊なことが言えない。
「病院に行くなら私も連れて行って下さい」
そう言い出した時、僕は反対した。妻の病気は予想より進行を遅らせることに成功したものの、予断を許さない状態で、良いとは言えない。
薬の効果があまり感じられず、近頃では一日の半分は寝ていることが多くなってきた。病院に行けば医師が検査の結果を見ながら進行状態を話すだろう。今以上に強い薬を使うかどうか相談するために副作用やその薬の先にある結果の話をするだろう。嫌でも死に近いことを認識しなければならない場にシンデレラを連れて行きたくはなかった。
妻はシンデレラの目をじっと見てゆっくりと瞬きをした。大きく息を吸い込み、吐き出す。
「わかったわ。次は一緒に行きましょう」
僕が口を開こうとすると、妻が言った。
「家族に隠し通せる話じゃないわ。望んだ時に知って貰うのが一番いいじゃない。私に何かあってから急に心の準備をしなければならないより、まだ時間に余裕がある時に知っておいて、ゆっくり時間をかけて整理して貰う方がいいわ」
「でも、まだ早すぎないか?」
「早すぎないわよ。シンデレラは学校にも通い始める年齢なのよ。怖いことばかりじゃないって、わかるはずだもの」
妻は静かに言った。それが彼女の望みならば僕は何も言わない。話を聞いたシンデレラが病気を怖がったり、妻が死んでいくことに不安を感じて苦しむようなら手を差し伸べる。その準備をするだけだ。
僕が頷くと妻はお礼を言い、ベッドの上で目を閉じた。
病院では医師から初めて聞くシンデレラのために病気について説明された。何度も聞いた説明は今回も絶望的な結果を示しており、重い話にも関わらずシンデレラは噛み締めるように頷きながら聞いていた。
医師の話が終わると、妻はシンデレラの手を握った。その時、二人の間に何か言葉にならない会話が交わされたような気がした。
妻の決断は病気と戦うことだった。強い薬を処方され、副作用に苦しむことになったとしても、愛する娘の成長を少しでも長く見届けたいという願いを諦める気にはなれなかったようだ。
シンデレラもその決断を受け入れることにしたらしい。
「迷惑かけると思うけど、ごめんね」
「お母さんの好きにすればいいよ。私は応援するよ」
医師は僕に目配せをした。僕が頷くと、頼もしい微笑みを浮かべて、抱き合う妻とシンデレラを見ていた。
その日から妻は朝、僕が仕事に出かけるまでには起きられなくなった。シンデレラと二人で朝食を作り、寝室で行ってきますを言い、仕事に行く。妻は昼近くになって起きてきて、二人分の昼食を作り、シンデレラと二人で洗濯や掃除をする。それが済むと妻は少し昼寝をして、僕が帰ってくるまでに起きて夕食の支度をする。
「ただいま。帰ったよ」
「おかえりなさい」
二人が声を揃えて僕に答えてくれる。僕は二人を抱きしめてキスをすると、部屋に着替えに行く。戻ってくると食卓には夕食が並んでいて、三人でテーブルを囲み、それを食べる。
その日あったことや、話したことなんかをシンデレラが面白おかしく僕に話して聞かせてくれる。それを僕と妻は笑いながら聞く。
だが、そんな日々も長くは続かなかった。妻は段々と寝ている時間が長くなり、起きている間も体調が優れず、手伝いに来てくれた妻の母や僕の母が作った食事を食べて座っているだけになる。
夜中に突然苦しみ出して、小さな声で呻き、息を殺してシーツを握りしめていることも多い。
「大丈夫か?」
「ええ、大丈夫。もう落ち着いたわ。起こしてごめんなさい」
そう言って弱々しい笑みを浮かべてまた目を閉じる。薬の量は増える一方なのに、痛みは増しているようだった。決して弱音を吐かない妻が我慢できないほどの痛みに辛そうな顔をする。それが僕の心を締め付けた。
妻を見ているのが辛くて揺らぐ僕とは違い、シンデレラはとても気丈な振る舞いを見せていた。
この頃ではもう家事の一切を自分で出来るようになっており、暖炉や部屋の掃除、繕い物、食事の支度までこなしてしまう。頼もしい娘の姿を見習い、僕も夫として気を引き締める。それがやっと完成した僕たちの家族の形だった。
ベッドの上で眠る妻が小さく囁いた。
「あなたと出会えて良かったわ。シンデレラの母親になれて良かった」
僕は妻の手を握って頷いた。
「僕も君と出会えて良かった。君とシンデレラと家族になれて良かったよ」
僕が握っている手の中で妻の手をしっかりと握り直して、シンデレラが言った。
「私も、お母さんの子供に生まれて良かった」
目を閉じて、妻は誰かに尋ねるようにゆっくりと呟いた。
「こんなに幸せでいいのかしら」
それが妻の最期の言葉だった。そのまま眠るように妻は死んだ。随分前からこの日が来るだろうことを想像していた。だが、現実は想像を遥かに超えていて、長い時間をかけてしてきたはずの心の準備は全く何の役にも立たなかった。
葬儀が終わり、妻のいない家に帰って来た僕とシンデレラは抱き合って泣いた。小さな声で母親を呼ぶシンデレラの声を聞いていたら、いつまでも涙が止まらなかった。
泣くのはその日だけにしようと決めていたのに、妻の寝ていたベッドに潜り込んでは泣き、クローゼットを開いて妻が着ていた服を整理しては涙が溢れ、妻の夢を見た朝はいつまでも目を閉じて二度と触れる事の出来ない妻の顔や感触を何度も記憶に焼き付けた。彼女ほど好きになれる女性はいないだろうと確信していた。
とはいえ、家から一歩外に出ると悲しみを押し隠し、何事もなかったかのように振舞った。
シンデレラは学校に通い始めた。家では僕と二人で悲しみを分かち合い、妻との思い出を語り合うが、外に出ると普通の子供と同じように笑ったり怒ったりする。
それでも部屋に戻って一人になるとこっそり泣いていることも知っている。僕が寝室で泣いていることもきっと知っているだろう。
だから僕たちは妻のことを語り合う。何度も同じ話を、答え合わせをするかのように繰り返し、毎日降り積もっていく新しい記憶に埋もれてしまわないように確かめ合う。成長すると共に妻と瓜二つの顔になっていくシンデレラを見ていると妻がまだそこに生きているような気がして嬉しかった。娘だけが僕の生きがいだった。
それなのに周りは僕たちのそのままにしておいてくれない。時が経つにつれて妻を過去に置いていけという人たちが増えていく。
「あの子のことは忘れて新しい人を見つけて欲しいの。シンデレラのお母さんになってくれる人を」
妻の母はそう言うが、そんな気にはなれなかった。親切で言って下さっているということから、紹介された女性を無碍に扱うことも出来ず、食事だけは付き合った。
その中で一人の女性に出会った。僕が再婚の意思がないことを正直に伝えると、彼女も同じだと言った。
前の夫と別れてから女手一つでシンデレラと同じ年頃の子供を二人、育てているという。
「前の夫と結婚して唯一良かったことは子供達を生んだこと。もう結婚なんて懲り懲りよ。」
そう言う彼女とは友人として付き合うことにした。時々、シンデレラを連れて一緒に食事に行ったり、公園に行ったり、子供のための買い物をするために街へ行く。その時は彼女の二人の子供も一緒についてきて、シンデレラのための服や、下着など、男の僕では買いにくい物を選んでくれた。
年が近いこともあって、彼女の子供達はシンデレラともすぐに打ち解けて仲良くなり、外で人と会う時は人見知りをして僕の後ろに隠れてばかりだったシンデレラも僕抜きで遊んでいた。
ずっと家の中で過ごしてきたシンデレラに同年代の友人が出来たことを喜ばしいと思った。妻を忘れることは出来なかったが、見合いをして良かったと素直に思えていた。
シンデレラのことで安心して気が抜けたのか、僕は体調を崩した。目眩がする。疲れやすく、眠るとなかなか目が覚めない。心配したシンデレラに言われて病院に行くと、とても信じられない結果が出た。
妻と同じ病気になった。妻の病気が発覚した時よりも進行しており、治療の効果もどの程度になるかわからないと言われた。完治の望みは無いに等しい。どんな方法に頼っても、強い薬を使っても延命にしかならないだろうと言われた。
「それでも構いません。まだ娘を一人残して逝く訳にはいかないんです」
そう言った僕の目を見て頷いた医師は一秒でも長く生きられるよう力を尽くしてくれることを約束してくれた。一緒に話を聞いていたシンデレラは僕の腕にしがみついて震えていた。その体を抱き上げて家まで帰った。
「お父さんもお母さんみたいにいなくなっちゃうの?」
「まだいなくならないよ。もっと先の話だ」
「やだ……お父さん、ずっと一緒にいてよ。私と一緒にいてよ」
僕の肩に顔を埋めて泣くシンデレラの髪を撫でながら、僕は言った。
「シンデレラが大人の女性になるまでは一緒にいるよ。そうじゃないと天国でお母さんに怒られてしまうからね」
親が子より先に死ぬのは自然なことだが、諦めるのはまだ早すぎる。妻が見ることの叶わなかったシンデレラが成人する姿を見るまではどんなに苦しくてもこの体を手放したりはしない。
目標がはっきりと見えているせいか、妻と長い闘病生活を共に闘ってきたせいか、病気に関して不安を抱くことはなかった。何より、死ねば愛する妻に会える。そう思えることが僕の安心できる一番の理由だ。
その前にたった一人の僕の家族を守り、育てていかなければならない。僕は腕の中で泣き疲れて眠るシンデレラの体を強く抱き締めた。
以前、同じようにシンデレラを抱いてこの道を通った時、その体は小さく言葉もたどたどしかったのに今ではもう背負って家まで歩くことさえ辛いほど大きくなっている。あの頃からそれだけの時間が経ったのだ。それなのに僕たちの心の中は少しも変わっていないことに気付いてしまった。
妻を亡くした後、一生分とも言える涙を流して、妻が欠けた穴を埋めるように語り合ってきたのに、人が一人欠けた空白は広がるばかりで消えることはなかった。それが大切な人であったなら過ごした時間の長さに関わりなく、平等に悲しみが訪れる。それを隠すことは出来ても、忘れることは出来ない。僕たちはお互いの心の中にある穴を広げないように気を付けながら過ごしてきただけなのだ。
僕たちは悲しみが癒えることを願っていながら、真っ黒に塗り潰された感情を忘れようとはしなかった。忘れてしまえばそこから妻がいた時間が消えてしまうような気がしていた。家の中で過ごす時間にふと思い出す匂いや温もり、記憶に残る声や顔を忘れるくらいならば、悲しみの中から一歩も動かない方がマシだった。
だから僕もシンデレラも、示し合わせたように妻の母や僕の母以外の女性を家に入れようとはしなかったのだろう。他の誰かでは代わりになれないとわかっていたのだ。
知り合った彼女のことはそれなりに気に入っている。病気のことがなければ、もしかしたらもう一歩先へ進もうと思えたかもしれない。だが、そうなるには時間が足りなかった。
僕たちはまた妻が生きていた頃のように二人で手を取り合い、支え合いながら生活を続けた。一日に何度も「愛している」と言うように心掛けた。抱き締めて、キスをした。いつか天国へ行った時、妻に色々な話が出来るようにシンデレラといられる時間は何でも話そうと決めた。
僕たち二人は他の家族とは違うけれど一日一日、石を積み上げ、砂を盛って山を作るようにして家族の形を作った。時間の感覚など忘れたかのように過ごし始めた。