夕立の傘貸し男
濡れた双眸が“彼”を捉えると、彩音は勢いを増していたはずの足を地面にピタリとくっつけた。重圧をかける積乱雲はより一層激しい雨粒を零し、彩音の体中を濡らす。
“彼”の見た目は噂どおりだった。黒いスーツを着、黒いコウモリ傘を差している。黒いネクタイはしていなくとも、その陰りは葬式の帰りさながらだった。
途端に、耳を劈く雨音が遠退いていくのを彩音は感じ取った。しかし、その視界には今も尚大粒の雨が地面に激突している。濡れて肌色を透かせるブラウスを隠すように、すっかり重い色へと変色してしまったセカンドバッグを抱きしめた。足の指に力を込め、靴下を握ると雨水が滲み出る。靴の中の異様な気持ち悪さも、彩音の意識から薄らいでいった。
「お嬢さん、風邪ひきますよ」
一切の雨音が遮断され、無音の中に“彼”の声だけが落とされた。蟻の足音にさえ負けてしまいそうなか細い声だというのに、彩音の耳にしっかりと行き着く。
次から次へと降り注ぐ水の子が、彩音の頭の頂上に着地し、頬を駆け抜けブラウスの表面を滑り短いスカートを一気に突き進み光沢の止まない足を降りていく。彩音が背筋を伸ばしたのは、そんな水の子の徒競走のせいではなかった。
夕立時の傘貸し男――噂にされている“彼”は、彩音の通う学校ではそう呼ばれている。傘を持ち合わせていない日、下校時に夕立に遭うと、黒いスーツに身を纏いコウモリ傘をかざした男に出会ってしまう。その男が姿を見せている限り、雨は止まない。男はいつも傘の片側を空けていて、そこに生徒を誘い込む。標的は決まって女子生徒だった。
“お嬢さん、風邪ひきますよ”
その声を聞くと、不思議と足が男の方へと進み、雨を遮るぽっかりと空いた男の隣に身を置いてしまう。こうなってしまってはもう抜け出せない。男と相合い傘を組んだまま帰路を辿っていくと、いつのまにか“あちら”へと連れて行かれてしまうのだという。
しかし、その噂と同時に“彼”の対処法も提案された――立ち止まらないこと。“彼”を見つけても、急いで帰ることだけを考えること。
彩音はそれらの提案を不意にした。が、全く臆することなく、寧ろその瞳を爛々と輝かせながら、細い足を“彼”の方へと投げ出していた。
生徒たちの恋愛事情、教師たちの秘密。怪談話も例外ではない。学年で園芸委員を任されている彩音は、如雨露を片手に耳にした噂をことごとく検証してきていた。恋愛事情など、現実的な噂は九割方正しい。しかし、怪談話となると碌なものはなく、今までその噂が正しかったことは一度もなかった。
雨音が聞こえない違和感。靴底が雨に濡れた地面に落とされ、その音が世界に響いている違和感。セカンドバッグをさらに強く抱きしめても現実に戻されない違和感。その違和感が、一歩踏み出すごとに彩音に快感を与えていく。
“彼”の隣に立ち、雨を凌ぐ。不意に“彼”の顔を見上げ、彩音はぞくりと体に喜びを走らせた。腕と腕が触れるほど近くにいるというのに、“彼”の顔は光のない靄で覆われていた。辛うじて見えたのは、表情のつかみ取れない口元だった。
「さ、行こうか」
“彼”の投げ出す足に遅れまいと足を突き出す以前に、彩音は何かに引っ張られ背中を押されるようにして、“彼”の真横を進んでいった。
水の子が降り注ぐ。視界を遮るように、束となり、カーテンとなり、コウモリ傘の下の二人だけに小さな空間を譲る。いつになく勢いを増して地面に体当たりするが、その音を彩音は聞き取れないでいた。二つの靴音だけが、無音の空間に鳴り響く。
彩音をリードするでもなく、“彼”はゆっくりとした歩調で彩音の帰路を辿っていた。黒い靄のかかった顔からのぞかせる薄い唇がそわそわと動いているが、一つの言葉も彩音の耳には届いていなかった。その無音の空間さえも“彼”の声を拒絶するように、コウモリ傘の外へとばかり追いやる。しかし、“彼”はそれを気にする様子もなく、また、彩音の様子を窺うこともなく、真っ直ぐと行く先を見据えていた。
水のカーテンが景色をぼかすせいか、彩音には“彼”との空間がくっきり見えていた。はっきりと脳裏に言葉を浮かべる――二人だけの空間。
静けさの中に、七月の暑さに似合わない暖かさを彩音は感じ取り、目尻を下げた。どちらかが合わせるでもなく、ぴったりと合った歩調。柄を持つ“彼”の手にそっと自分の手を重ねる。ひらりと足取りも軽やかになり、ふわりと吹く風が二人の体を浮かせる。雨水のカーテンが織り成す甘い空間で、耳をすり抜けていく音のない“彼”の声を聞き、添えた“彼”の手の冷艶さを感じ、彩音の顔は綻んでいく。ふわりふわりと浮き歩く、空中散歩。小さな二人だけの空間に差し込む至高の光に、彩音は胸を躍らせた。“彼”と自分を迎えてくれる祝福の光。コウモリ傘が誘う至福の世界を目の前に、彩音は人生最上の幸せをセカンドバッグと共に胸に抱きしめた。
瞬間、水のカーテンが開け、コウモリ傘の下の二人の空間は脆くも崩れ去った。ポツリとコウモリ傘からたれる雨の雫が、地面にはじかれると共にその音を彩音に伝えた。
一瞬漂う湿気くさい匂いを振り払い、彩音はその場から飛び退いた。押し寄せる悪寒が一気に疲労を溢れさせ、やっとの思いで、彩音は息をしていた。
「やっぱり――」
相変わらず靄のかかった顔を彩音の方に向け、“彼”は口から音を零した。
「君ではダメなんだ」
コウモリ傘で顔を覆うと、“彼”は忽然と姿を消した。
開けた視界は見覚えのある景色で、一呼吸吐くと彩音はその場にへたり込んだ。
「ここ、ウチだ……」
裂けた空からは陽光が射し込み、あちこちに残った夕立の痕跡が、彩音に現実であったことを告げた。
「きっと、イケメンに違いないよ」
「やっぱ、そう思うよね。一緒にいて居心地良かったもん」
クラスの女子たちに、机に突っ伏したまま彩音は仏頂面を向けた。
あの出来事の翌日、一人なのに幸せそうにしている彩音の姿を見た一人の生徒が、彩音の許に訪れたことにより、噂は覆された――“至福の時間をもたらす、傘貸し男”。出会った瞬間、不思議な魔法にかけられ、家までの道を幸せな気分で帰ることができるのだと言う。その至高の時を与えてくれる“彼”の顔を見た者は、誰もいない。
新しい噂話に花を咲かせているのは、彩音が視線を向けている女子生徒たちだけではなかった。あれから数日経ち、新しい噂は女子生徒の間で花を咲かせていた。
女子生徒たちから視線をずらした彩音はそのまま腕の中に頭を埋めた。至福の時を味わえたのは間違いではない。その心地の良さは、彩音も知っている。しかし、前の噂が真実で、自分が“あちら”への階段を上っていたのだと思うと、彩音は腕を握り締めずにはいられなかった。
「本当に、下らないよね」
今の噂に対する彩音の気持ちを代弁したのは、前の噂の元となった紗恵だった。
「彩音ちゃんもそう思うでしょ?」
噂の真偽を探るために駆け回っていた彩音は、学年ではちょっとした有名人ではあった。しかし、特定の女子と仲良くすると言うことはなく、相手は知っていてもこちらは知らない、という生徒が大半であった。紗恵も例外ではない。面識がないわけではないが、話しかけられたことに彩音が驚いてしまう存在であった。
「知らない男の人と無意識のうちに一緒に帰ってたんだよ、しかも、相合い傘までして? 我に返ったら、怖くなるでしょ、普通」
誰のとも知らない席に座り腕まで組む紗恵に、彩音は頬を掻いて適当に賛同した。
「もう、あんな思いしたくないから、晴れの日でも傘を持つことにしたんだ。でもね、彩音ちゃんには感謝してるんだよ」
紗恵は横目で彩音を見やり、甘い顔を見せた。
「私、ショックでしばらく学校休んでたんだ。そしたら、いつの間にか死人扱いされちゃって。でも、彩音ちゃんが、なんともない、て言ってくれたおかげで、死ぬわけじゃないってわかって、私への待遇も変わったんだ。だから、ありがとう」
改まって頭をさげる紗恵に、彩音は照れくさそうに手を振った。
紗恵が顔を上げると、思わず笑みがこぼれてしまい、何の言葉も無しに笑いあう。
同じ時間を共に味わった二人。同じ恐怖を共に味わった二人。同じ境遇にいる二人だからこそ、すぐに打ち解けた。
君ではダメなんだ――“彼”の残した言葉の意味が彩音にはわからなかった。ただ、“彼”は紛れもなく“こちら”の人ではない。しかし、彩音にとってはもうそんなことはどうでもよくなった。噂の真偽がわかったところで、すでに興味がなくなり、今はもう、新しく友達となった紗恵との会話が楽しかった。
その紗恵が、放課後に襲われた。相手は“女性”だった。
「“夕暮の傘盗り女”よ」
右腕に包帯を巻いた紗恵がいの一番に報告したのは、彩音だった。
「“あの人”も“彼”と同じに違いないよ。なんというか、出会ったときの感じが、“彼”とそっくりだったんだもん。暑さなんて忘れちゃうくらい、真っ白になって、気づいたら傘を盗られかけてた。“彼”とは違って、そこで気づくことができたんだけれど、急に刃物みたいのを取り出してさ、もうホント必死に逃げたよ。結局、傘は盗られちゃったんだけれど、振り返ってたら消えちゃってた」
またしても誰のかも知らない席に座り、紗恵はあくせくと話した。
いつの間にか休み時間のざわめきは消え、教室に残っている生徒は紗恵の話に耳を傾けていた。“彼”はそんな野蛮じゃない、とか。“彼”と同じ存在のわけがない、とか。一部の女子生徒は“彼”と“女性”を比較し、罵っていた。
君ではダメなんだ――“彼”の言葉を思い出していた彩音は、そんな女子生徒たちの言葉を耳に入れず、腕を組み、眉根を寄せて紗恵を睨んだ。
「紗恵ちゃん、“その人”とは傘を持っていれば会えるのね?」
どこか得意げにしていた紗恵は、たぶん、と呟き包帯をさすった。
「じゃあ、あとはどうやって会うかだね」
背もたれに深くもたれこんだ彩音は、大きく呼吸を漏らした。
数日後のある晴れた放課後。彩音は傘と如雨露を持ち、家路をジッと見据えた。
セカンドバッグを背中に抱え、そこにじめりとした暑さが集約される。汗で濡れ始めたブラウスが気持ち悪く背中に張り付いてくる。如雨露に入れた冷水で暑さを凌ぐこともせず、彩音は第一歩目を踏み出した。
暑さに焼かれる双眸で女性を捉えると、彩音は如雨露と傘の柄を握り締めた。
“彼”の立っていた場所と寸分違わぬ位置に立つ女性。照りつける陽の光をも吸い込む、光沢のない黒々とした髪の奥から、女性は禍々しくつり上がった口を彩音の方に向けた。
瞬間、握り締めていた両手の力が抜けていき、背中に集約していたはずの七月の暑さも失せ、彩音は逃げ水に溶け込みそうな女性に夢中になっていた。
「ちょっと、その傘見せてくださらない?」
吹きぬく声が彩音の体を取巻く。耳に入ったかどうかもわからないまま、彩音は弱々しくその足を女性の方へと差し出した――“彼女”は“彼”を探しているに違いない。そしてまた、“彼”も“彼女”を求めていたんだ――遠退いていたはずの意識が、一歩を踏み出すごとに蘇ってくる。傘と如雨露を握る拳の力も、背中に集約していた暑さも、彩音の意識に入り込んでくる。
「この傘は、“彼”のものではないわ」
今にも掴みかかろうとした女性の手が、彩音の言葉に止められる。吊りあがっていた口角が次第に下がり、醜悪を空気ににじませる。
「でも安心して。“彼”に会わせてあげるから」
如雨露を掲げる彩音の言葉は、女性に届かない。
どこからか隠し持っていた包丁を取り出し、振りかざす。浅く切れた彩音の腕では物足りず、さらに振り回す。彩音の落とした傘が切り刻まれ、ボロボロに踏みつけられる。
恐怖と痛みで顔を歪ませつつも、彩音は如雨露を振り、冷水をばら撒く。懸命に。負の念を追い払うように。
互いに振りかざした包丁と如雨露がぶつかり合う。衝撃と共にもつれる彩音の足。支えることのできない体が、地面へと崩れる。
彩音が見上げた先に映りこんだのは、黒頭の中に浮かぶ邪念の笑みに、両拳で握り締められた包丁だった。震える女性の腕が、力の込み具合を克明にする。逆立ち広がる暗黒の髪は、やはり陽の光を反射しない。全てを吸い込むように。全てを集約するように。世界が女性の拳に向かって流れ込んでいる。
つり上がった口角を一気に下げ、女性が唇を引き締めると、それに順応して、彩音も体を縮込め、目を閉めた。
彩音の体に突き刺さったのは、一滴の水だった。次第に強さを増す水の子が次々と彩音の体に突き刺さる。しかし、包丁の一撃はいつまでも来なかった。
薄っすらと、恐る恐る目を開いていく。初めに映し出されたのは、“彼”の姿だった。相変わらず、黒い靄を顔にかけその顔立ちはわからないままだった。しかし、次第に“彼”の身に纏う空気が違うことに、彩音は気づいていった。至高を感じさせない。幸福を感じさせない。禍々しく、重い空気が沈んでいる。ふと、“彼”が雨に濡れていることにも気づく。さらに色を濃くした漆黒のスーツが、独特の光沢を見せる。閉じられた傘が、威嚇するようにして、彩音に向けられていた――女性の体を突き通して。
突き刺されながらも、ゆっくりと女性は“彼”の頬に手を差し延べる。
「あなたが、好きだったから。“あの人”が邪魔だったのよ」
“彼”は女性の手を振り払わなかった。
しかし、彼の頬に触れることもなく、女性は手をだらりと垂らした。触れ損なった手を握り締めることもできず、空気に浄化するようにして、雨と共に流れ落ちていく。
“彼”に傘を突き出されたまま、彩音は呆然としていた。腕の切り傷も擦りむけた膝も濡れたブラウスも、何一つ気にすることもなく、“彼”が傘を広げるのを眺めていた。
君ではダメなんだ――彩音がその意味を理解したのは、ふと“彼”の後ろに立つ白く光る“彼女”を見たときだった。
「お嬢さん、風邪ひきますよ」
一切の雨音が遮断され、無音の中に“彼”の声だけが落とされた。
白いヒールが甲高い音を響かせ、“彼”の方へと進んでいく。ゆっくりとしていた歩調が、次第に細かくなり、いつしか小走り気味で“彼”の許へと辿り着く。“彼”に抱きしめられた“彼女”に至高の時間が取り戻される。
「君じゃなきゃ、ダメなんだ」
雨水のカーテンが織り成す甘い空間で、耳を入り込んでくる清音の“彼”の声を聞き、添えた“彼”の手の温もりを感じ、“彼女”の顔は綻んでいく。ふわりふわりと浮き歩く、空中散歩。小さな二人だけの空間に差し込む至高の光に、二人は胸を躍らせた。“彼”と“彼女”を迎えてくれる祝福の光。コウモリ傘が誘う至福の世界へと旅立ち、最上の幸せを共に胸に抱きしめ、赤い日差しと共に姿を晦ましていった。
陽光が夕立の痕跡を癒す中、彩音はじっと二人の消えた場所を見つめていた。ボロボロの傘に、無作為に投げ出された如雨露。二つの間で、二人が消えていったその場所には、大きな水溜りがぼんやりと光っていた。噂の真実も自分にしかわからず、これから煙滅していく。“彼ら”に会うことはもうないだろう、と悟った彩音は、ゆっくりと立ち上がり如雨露に視線を向けた。
「……学校に返さなきゃ」
【完】