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妻は年300万円の給付金のために俺を裏切った――だから300億円の代償を払わせた

作者: 熾星
掲載日:2026/07/31

『妻は年300万円の給付金のために俺を裏切った――だから300億円の代償を払わせた』


 新婚早々、妻の桜庭美玲は、最初の子どもは大学時代の先輩との間にもうけ、二人目は俺との子にしたいと言った。


 悪趣味な冗談だと思っていた。


 だが、蒼月台の新居へ向かった俺は、夫婦のために用意したベッドの上で、美玲が一条景臣と抱き合っている姿を目撃した。


「景臣先輩は優秀なのよ。最初の子の父親になってもらって、何が悪いの?」


「星凪市では、子ども一人につき年三百万円の給付金がもらえるの。二人産めば二人分でしょう?」


 俺はスマートフォンの録画を開始した。


「今すぐやめろ。そうすれば、最後の体面だけは残してやる」


 美玲は鼻で笑い、そのまま景臣から離れなかった。


 五分後、彼女が使っていた九条家名義のカードをすべて停止した。


 三十分後、九条ホールディングスは、桜庭家に与えていた三百億円の信用保証を撤回した。


 妻が夫婦の尊厳を捨てたのなら、俺も二度と桜庭家を守らない。



1



 すべての手続きを終えると、俺は蒼月台の新居を振り返ることなく立ち去った。


 美玲は、すぐには追ってこなかった。桜庭ホールディングスの社内システムに取締役会の緊急調査通知が表示されて、初めて電話をかけてきた。


「桜庭凛人! あなた、正気なの?」


「一体、何をしたのよ!」


 俺は無言で通話を切った。


 美玲は諦めず、何十回も電話をかけてきた。俺はそのたびに拒否し続け、やがてスマートフォンの充電がほとんどなくなった。


 一時間後、俺は仮住まいにしていた月汐台のマンションへ戻った。


 玄関の扉が、外から激しく蹴り開けられた。


 短いスカートにハイヒール姿の美玲が、乱れた髪のまま飛び込んできた。事情を尋ねることもなく、いきなり俺の頬を打った。


 何度も平手打ちを受け、すぐに口の中へ血の味が広がった。それでも怒りが収まらなかった美玲は、今度はテーブルに置かれていた金属製の置物をつかみ、俺の肩や腕へ叩きつけた。


 俺は反撃しなかった。


 リビングの防犯カメラは動いている。黒川弁護士もこちらへ向かっており、美玲の行為はすべて、家庭内暴力と離婚訴訟の証拠になるからだ。


 美玲は俺の襟元をつかみ、歯を食いしばりながら怒鳴った。


「誰が急に新居へ来ていいと言ったの?」


「景臣先輩は明日から海外へ行くのよ。二、三年は戻らないかもしれないんだから、一晩くらい一緒に過ごして何が悪いの?」


「先輩は優秀で、私たちの家にその遺伝子を残してくれるのよ。二人産めば給付金も二人分になるし、私はあなたと家庭のことを考えているの!」


 口の中にたまった血を吐き出すと、舌先に鉄の味が残った。


「年三百万円の給付金のために、ほかの男の子どもを産むのか?」


「そこまで補助金が欲しいなら、夫の座もあの男に譲ってやる。二人で好きなだけ子どもを作って、満足するまで受け取ればいい」


 美玲は俺をソファの横へ突き飛ばした。顔には、怒りを通り越したような歪んだ表情が浮かんでいる。


 九条家が信用保証を撤回したことで、桜庭ホールディングスの株価は激しく変動していた。取引先からも、契約内容を再審査すると連絡が届いている。


 それでも美玲の頭にあるのは、一条景臣を守ることだけだった。


 薬指の結婚指輪が、目に刺さるように痛かった。


 俺が立ち上がると、美玲は再びつかみかかってきた。その手首を押さえ、ソファへ押し戻すと、髪が少し乱れただけで、彼女はひどい侮辱を受けたように叫んだ。


「私を突き飛ばしたの?」


「誰が私に触れていいと言ったのよ!」


 結婚後、美玲が許可しなければ、俺は彼女の手を握ることさえできなかった。普通に抱き締める時ですら、先に了承を求めなければならなかった。


 俺はずっと、彼女が慎み深く、恥ずかしがり屋なのだと思っていた。


 だが違った。


 美玲は触れられることが嫌なのではない。


 俺に触れられることだけが、嫌だったのだ。


 俺は薬指から指輪を抜き、美玲の前へ投げた。


「安心しろ」


「今日から二度と、お前には触れない」


 テーブルの下に置いていた封筒から離婚協議書を取り出し、美玲の隣へ放った。


「離婚協議書だ」


「お前は不貞行為と家庭内暴力を行った有責配偶者だ。婚姻契約に基づき、財産分与に関する請求の大半を放棄し、相応の損害を賠償してもらう」


 美玲は反射的に否定した。


「私は浮気なんてしていないわ」


「星凪市の子育て政策に協力して、将来の家族計画を立てていただけよ!」


 彼女は俺を上から下まで眺め、あからさまな軽蔑を浮かべた。


「それに、あなたは結婚の時に私の姓を選んで、桜庭家に入ってきただけの男でしょう?」


「まともな仕事もせず、一円だって稼げない。私に養ってもらう以外、何ができるの?」


 思わず笑いが漏れた。


 俺は九条家と決別するため、婚姻届では妻の氏を選び、表向きは「桜庭凛人」と名乗っていた。


 世間は、俺を妻の家に頼って暮らす貧しい夫だと思っていた。


 美玲も同じだった。


 俺は予備のスマートフォンを取り出し、新居で録音した音声と、必要な処理を施した映像を見せた。


「協議書に署名しないなら、星凪家庭裁判所へ離婚調停を申し立てる」


「映像を世間へ公開するつもりはない。不貞行為と家庭内暴力の証拠として、裁判所へ提出するだけだ」


 美玲は背筋を伸ばし、乱れた髪を整えた。


 そこに動揺はない。代わりに、嘲るような笑みが浮かんでいた。


「私に賠償させるつもり?」


「あなたが婚前契約に書き込んだ、あの馬鹿げた条項を根拠に?」


 結婚前、俺たちは婚姻契約を締結していた。


 そこには不貞行為や家庭内暴力に関する責任だけでなく、桜庭ホールディングスへの融資保証、株式譲渡予約契約、九条家が設定した三百億円の信用保証枠についても記載されている。


 美玲は契約書をまともに読んでいなかった。


 貧しい夫が自分の価値を大きく見せるために書いた、効力のない冗談だと思っていたのだ。


「私が浮気していたとして、それが何?」


「あなたが勝手に書いた三百億円なんて、裁判所が認めるはずがないでしょう!」


 俺は離婚協議書を握ったまま、冷たく彼女を見つめた。


「それなら、桜庭ホールディングスが九条家の信用保証を失ったらどうなる?」


「お前が会社の資産を使って一条景臣の身分を偽装し、高級車や住居まで用意していた証拠が、株主へ渡ったら?」


 美玲の表情が一瞬固まった。


 直後、俺のスマートフォンを奪おうと飛びかかってくる。


「今すぐ証拠を消して!」


「景臣先輩を破滅させるなんて許さない!」


 俺は腕を上げ、彼女の手を避けた。


 すると美玲は身体を寄せ、急に甘い声を出した。


「凛人、私たちは夫婦でしょう?」


「話し合えば済むことじゃない。謝るから、許してくれない?」


「でも景臣先輩は悪くないの。このことで、先輩の評判を傷つけるわけにはいかないわ」


 彼女は俺の袖をつかみ、優しく言い聞かせるように続けた。


「世間には、映像が生成AIで作られたものだと発表して」


「あなたが私と景臣先輩の関係に嫉妬して、精神的に不安定になり、証拠を捏造したことにすればいいの。そうすれば、私たちはこれからも夫婦でいられるでしょう?」


 俺は失望を隠さず尋ねた。


「俺はどうなる?」


 美玲は、どうでもよさそうに首を振った。


「あなたが妻の金で暮らしているヒモ同然の男だということは、みんな知っているわ」


「劣等感からおかしな行動を取ったと言っても、誰も不思議には思わないでしょう?」


 俺は彼女を押し離した。


「断る」


 美玲の顔つきが一変した。


 再び強烈な平手打ちが頬へ落ちた。俺が顔をそらした隙に、美玲はスマートフォンを奪い、床へ叩きつけたうえ、ハイヒールで何度も踏みつけた。


「自分を何様だと思っているの?」


「景臣先輩があなたより金持ちで、仕事もできて、優秀だから嫉妬しているだけでしょう!」


「どうしても責任を追及したいなら、全部私のせいにすればいい!」


「私が先輩を誘惑したと言っても構わない。でも、絶対に先輩を傷つけないで!」


 別の男を守るために取り乱す妻を見ながら、心に残っていた最後の未練が消えていった。


 その時、玄関の扉が再び開いた。


 複数の男たちが部屋へ入ってくる。


 先頭に立っていた男は、身体に合った高級スーツを着て、髪を隙なく整えていた。


 一条景臣だった。



2



 景臣が姿を現すと、美玲はすぐに彼のもとへ歩み寄り、その身体へ寄り添った。


 景臣は美玲の腰を抱き、まるで施しを与えるような目で俺を眺めた。


「一度、お前の妻と関係を持ったくらいで、何をそんなに騒いでいるんだ?」


「美玲は家庭の将来を考えただけだ。新居のベッドが気に入らないなら、新しいものを買ってやる。好きな金額を言え」


 顎を持ち上げ、優越感に満ちた声で続ける。


「俺の遺伝子は、誰でも手に入れられるものじゃない」


「桜庭家に子どもを残してやると言っているんだ。お前は感謝するべきだろう」


 景臣の後ろにいた男たちが、一斉に声を上げた。


「一条さんは旧財閥系名門の御曹司だぞ!」


「本物の資産家は、公開されている長者番付なんかには載らないんだ。一条家が海外で管理している資産は、一般人には想像もできない!」


「お前の妻を選んでくださっただけでも、ありがたく思え!」


 美玲は景臣へさらに身体を寄せ、俺を嘲笑した。


「聞いたでしょう?」


「景臣先輩は一条家の後継者で、一条家は九条財閥の傍系なのよ」


「どんな女性でも選べる人が、私たちの将来を考えてくれているの。こんなに光栄なことはないわ」


「あなたにできるのは、馬鹿みたいな三百億円の契約書を書くことだけでしょう?」


 俺は何も言わず、二人を見つめた。


 美玲と結婚するため、俺は九条本家の門前で三日間、父へ頭を下げ続けた。


 当時就いていた家族企業の役職をすべて辞し、後継者としての権限も一時的に返上した。そのうえで婚姻届では美玲の氏を選び、桜庭家へ入った。


 父は最後には結婚を認めたが、美玲を九条家の人間として受け入れたことはなかった。


 その後、桜庭ホールディングスが資金難に陥った時、九条系の銀行へ保証を依頼し、九条グループの取引先にも協力を求めたのは俺だった。


 それがなければ、桜庭家はとっくに破綻していた。


 美玲は何も知らない。


 すべての仕事と資金は景臣が用意してくれたものだと思い込み、俺を妻の姓を名乗って養われている無能な夫だと信じていた。


 俺は小さく息を吐き、景臣を見た。


「旧財閥系名門の御曹司か」


「それなら、俺の婚姻関係を壊した責任を取ってもらおう」


「この結婚によって桜庭家へ与えられていた商業的信用は、三百億円だ」


「一条家にとっては、ただの小遣いなんだろう?」


 美玲は声を上げて笑った。


「三百億円?」


「桜庭凛人、本気であの契約に意味があると思っていたの?」


「三百万円すら用意できない人が、三百億円なんて口にしないでよ」


 これまで俺は、美玲の自尊心を守るために九条家のことを話さなかった。


 彼女が俺をヒモと嘲笑しても、自分から冗談にして受け流してきた。


 そうしているうちに、美玲は本気で信じるようになった。


 大学で初めて美玲と出会った時、俺は彼女の純粋さにひかれた。


 利益と権力が複雑に絡む上流社会で、彼女の不器用なほどの素直さは、珍しく美しいものに見えた。


 かつて、美玲は確かに俺へ優しかった。


 季節が変わるたびに服を用意してくれた。どれほど遅くまで仕事をしていても、決まった店から夜食を買って帰ってきた。


 ただし、彼女が許可しない限り、俺が触れることは許されなかった。


 恥ずかしがり屋なのだと思っていた。


 だが今日、一条景臣が身につけているスーツのブランドもデザインも、美玲が俺へ買ってきたものとほとんど同じだと気づいた。


 景臣が好んでいる夜食も、美玲が俺へ持ち帰っていたものと同じだった。


 俺だけのためだと思っていた優しさは、景臣の好みに合わせたものを、ついでに俺へ与えていただけだった。


 この関係で余計な存在だったのは、俺の方だった。


 俺が黙っているのを見て、景臣は傷ついたと思ったらしい。ますます得意げに笑った。


「婚姻関係を壊した?」


「美玲が、お前みたいな男と結婚させられていることこそ不幸だろう」


「俺たちは少し深く交流しただけだ。心の汚れた底辺の人間には、何でも卑猥に見えるらしいな」


 あまりにも馬鹿げていて、笑いが漏れた。


 二人は、九条家との婚姻がどれほどの価値を持っているのか、本当に理解していなかった。


 美玲は景臣の腕を抱き、悲しげに訴えた。


「先輩には分からないでしょうね。家柄が釣り合わない相手との結婚が、どれほど苦しいか」


「先輩と一緒になれる時期を逃してしまったことを、ずっと後悔していたの」


「私のためにわざわざ来てくれたなんて、嬉しいけれど、申し訳なくも思っているわ」


 景臣は優しく美玲の手を叩いた。


「こんな男と結婚している方が、美玲にはふさわしくない」


「安心しろ。今日、俺が全部片づけてやる」


 俺は一歩前へ出た。


「それは助かる」


「なら、三百億円はお前に支払ってもらおう」



3



 景臣は、信じられない冗談を聞いたような顔をした。


「三百億円がどれほどの金額か、お前に分かっているのか?」


 美玲も鋭い声で俺を責めた。


「あの契約書は、あなたが自分を大きく見せるために作っただけでしょう!」


「弁護士に頼んで、名誉毀損と脅迫で訴えるわ。今すぐ景臣先輩の前にひざまずいて謝りなさい!」


 俺は予備のスマートフォンを操作し、景臣のSNSを表示した。


 そこにはプライベートジェット、限定腕時計、高級車、海外の邸宅などが並んでいる。


「これは、お前が公開している生活ではないのか?」


「三百億円が小遣いなら、なぜ今すぐ用意できない?」


 景臣の笑みがわずかに引きつった。


「何を投稿しようと、俺の自由だ」


「お前のような貧乏人に、俺を調べる権利があるのか?」


 美玲も眉をひそめた。


「景臣先輩が自分の生活を投稿して、あなたに何の関係があるの?」


「あなたには口を出す権利なんてないわ!」


 俺は別の資料を開き、淡々と尋ねた。


「一条さん」


「SNSに載せている高級車や腕時計、クルーザーは、すべて撮影用に借りたものではないのか?」


 景臣は痛いところを突かれたように立ち上がった。


「でたらめを言うな!」


「明白な名誉毀損だ。訴えてやる!」


 さらに言い訳を重ねようとした瞬間、美玲が駆け寄り、再び俺の頬を打った。


 右の頬がすぐに熱を持ち、腫れ上がっていく。


「もうやめて!」


「景臣先輩を誘ったのは私よ。怒りがあるなら、全部私にぶつければいいでしょう!」


「狂犬みたいに、無関係な人へかみつかないで!」


 切れた口の中を舌先で触れながら、俺は美玲を見た。


 九条家で暮らしていた頃、俺へ手を上げる者など一人もいなかった。


 それなのに、美玲のためだと思い、俺は何度も侮辱と暴力に耐えてきた。


 景臣は、美玲が自分を守ったことで再び自信を取り戻したらしい。


「美玲に頼まれなければ、こんな場所へ来るはずがないだろう」


「まして、お前のような安っぽい女に触れることもなかった」


 美玲の表情が、一瞬だけ固まった。


 しかし、景臣の言葉に含まれていた侮蔑には気づかないふりをして、なおも彼の前へ立った。


 俺は二人と議論することをやめ、複数の契約書と支払い記録をテーブルへ置いた。


「お前が着ているオーダースーツのレンタル料金は、一日二十万円」


「腕時計と、下に停めてある車も、星凪市内の同じ高級レンタル会社から借りたものだ」


「料金はすべて美玲の個人口座と、桜庭ホールディングスの広報費から支払われている」


「三百億円の小遣いは、どこにある?」


 美玲は書類を見ても、真っ先に否定した。


「全部、あなたが偽造したんでしょう!」


「景臣先輩が、あなたみたいに恥知らずなことをするはずがないわ!」


 俺は彼女の目を見た。


「恥知らずなのは、どちらだ?」


「お前の金で自分を旧財閥の御曹司に見せかけている、この男ではないのか?」


 玄関付近に立っていたマンションの警備員が、思わず小さくつぶやいた。


「人妻と関係を持って、女の金で富豪を演じているのに、よくあれだけ堂々としていられるな……」


 景臣の顔色が青くなり、次には赤く変わった。


 連れてきた男たちは、慌てて声を張り上げた。


「一条さんは、これまで一度も女性問題を起こしていない!」


「海外事業へ行く前だから、特別に桜庭さんへ機会を与えただけだ!」


 美玲が甲高い声を上げた。


「愛されていない方が、結局は部外者なのよ!」


「景臣先輩が私を選んでくれたことは、私にとって名誉なの!」


 彼女は景臣を振り返り、優しい声で慰めた。


「くだらない話を聞かないで」


「凛人は、あなたに嫉妬しているだけよ」


 景臣は、再び尊大な表情を作った。


「妻の心を手に入れられなかったから、こんな卑劣な手段で俺を陥れようとしている」


「底辺の人間は、尊厳を売っても金を手に入れられず、他人へ泥を投げることしかできないんだな」


 美玲は彼へ身を寄せたまま、玄関を指さした。


「桜庭凛人、今すぐ荷物をまとめて、このマンションから出ていって」


 さらに、先ほど発言した警備員へ指を向ける。


「あなたもよ。管理会社に連絡して、今日中に解雇してもらうから!」


 警備員が答える前に、玄関の扉が再び開いた。


 黒いスーツを着た複数の弁護士、会計士、警備会社の職員が、静かに部屋へ入ってくる。


 先頭に立つ男は冷静な表情で、俺へわずかに頭を下げた。


「桜庭美玲様」


「九条ホールディングスの顧問弁護士、黒川宗一です」


「あなたの不貞行為、家庭内暴力、そして会社資産を使って一条景臣氏の身分を偽装した件について、すでに十分な証拠を確保しております」


 黒川先生は、美玲の前へ書類を置いた。


「婚姻契約および企業間の保証契約に基づき、九条ホールディングスは桜庭ホールディングスに対する三百億円の信用保証を撤回しました」


「同時に、株式譲渡予約契約に基づく手続きと、資産保全の申立ても開始しております」


「星凪地方裁判所は、移転のおそれがある特定資産に対する仮差押えの申立てを受理しました」


 説明を終えると、黒川先生は同行者と共に俺の方を向き、深く頭を下げた。


「凛人様」


「ご指示いただいた手続きは、すべて開始しております」


「ほかに何かございましたら、ご命令ください」


 美玲のスマートフォンが、激しく振動し始めた。


 父親の桜庭正隆や、会社の役員たちから次々と電話がかかってくる。


 美玲の顔から、少しずつ血の気が引いていった。


「九条ホールディングス……?」


「凛人様……?」



4



 俺は黒川先生の前へ歩き、もう自分の身分を隠すことをやめた。


「改めて自己紹介しよう」


「俺の本当の姓は、九条だ」


「九条ホールディングス唯一の後継者、九条凛人」


 美玲は数秒間、呆然としていた。


 やがて、突然笑い始める。


「私を脅すために、こんなに大勢の役者を雇ったの?」


「桜庭凛人、頭がおかしくなったんじゃない?」


 彼女は最後の支えを求めるように、景臣の腕をつかんだ。


「先輩、助けて」


「九条家とは親しいんでしょう? うちの信用保証を撤回しないよう、話をつけてよ」


 景臣の顔は青ざめていたが、それでも強気な態度を崩さなかった。


「でたらめだ」


「何が九条家の後継者だ。こいつは偽物に決まっている!」


「九条家へ知らせれば、すぐに化けの皮が剥がれる」


 俺は彼を静かに見た。


「今すぐ連絡すればいい」


 美玲は鼻で笑い、景臣の腕をさらに強く抱いた。


「景臣先輩の言うとおりよ」


「貧しい人間は、どれだけ立派な服を着ても、本物の風格なんて出せないの」


 景臣は袖口を整え、限定腕時計を見せつけた。


「桜庭凛人」


「今ここでひざまずいて謝るなら、少しはまともな服を買ってやってもいい」


「今後、人前で恥をさらさずに済むだろう」


 周囲から笑い声が上がった。


 黒川先生が前へ出ようとしたため、俺は手を上げて止めた。


「証拠を見せない限り、永遠に認めるつもりはないらしいな」


 俺は長年使ってきた腕時計を外し、テーブルへ置いた。


 黒い革のベルトに、ブランド名すら記されていない簡素な文字盤だった。


「これを知っているか?」


 九条家と長年付き合いのある時計職人が、後継者のために手作りしたものだ。


 裏蓋には九条家の九曜紋が刻まれ、各世代の後継者に一本だけ受け継がれる。


 美玲と景臣は一度見るなり、ますます大きな声で笑った。


「ブランド名もない安物で、身分を証明するつもりか?」


「演技をするなら、もう少し本物らしい道具を用意しろよ」


 美玲も呆れたように口を曲げた。


「結婚した時、私にダイヤの指輪すら贈れなかった人が、今度はそんな腕時計で脅すつもり?」


 俺は腕時計を裏返し、九曜紋を景臣へ見せた。


「一条さん」


「この家紋に見覚えは?」


「一条家は九条家の傍系なんだろう?」


「なぜ、九条家の後継者の証を知らない?」


 九曜紋を確認した瞬間、景臣の顔色が明らかに変わった。


 それでも認めようとはしない。


「偽物かもしれないだろう!」


 美玲がすぐに同意した。


「そうよ、きっと偽造品だわ!」


「先輩、九条家へ電話して、こいつの嘘を暴いて!」


 景臣は必死に平静を装った。


「こんな偽物のために、九条叔父さんを煩わせる必要はない」


「俺が処理しておく」


 彼は後ろにいた男たちへ手を振った。


「こいつは九条家の後継者を名乗る詐欺師だ」


「取り押さえて、少し身の程を教えてやれ!」


 数人の男が一斉に飛びかかってきた。


 黒川先生と共に来ていた警備員たちが、すぐに前へ出る。


 景臣が連れてきたのは、金を受け取って威勢よく振る舞っているだけの素人だった。専門の警備員を相手に、まともに抵抗できるはずもない。


 三分も経たないうちに、全員が床へ押さえつけられた。


 景臣本人も拘束されている。


 美玲は俺を殴ろうとしたが、俺が身体をそらすと、ソファのそばへよろめいた。それでも立ち上がり、警備員へ飛びかかろうとする。


「景臣先輩を放して!」


「どうして先輩に、こんなことをするのよ!」


 彼女は景臣を振り返り、必死に叫んだ。


「先輩、早く九条叔父さんへ電話して!」


「本人に来てもらって、凛人が偽物だと証明してよ!」


 景臣の目が泳いだ。


「電話番号を……覚えていない」


 俺が視線を送ると、警備員が景臣のスマートフォンを取り出し、本人の前へ差し出した。


 美玲は理解できないという顔をした。


「九条家はあなたの親戚なんでしょう?」


「どうして電話番号も分からないの?」


 俺は低く笑った。


「俺も知りたいな」


「九条家に、いつから一条という親戚ができたんだ?」


 景臣の両手が震え始めた。


「スマートフォンが壊れたんだ」


「さっき、お前たちが落として壊した。だから電話できない!」


 俺は端末を取り、景臣の顔に向けてロックを解除した。


 画面には傷一つなかった。


 部屋の中が静まり返った。


 全員が、景臣が親戚へ電話するのを待っている。


 俺は一歩近づいた。


「代わりに俺がかけてやる」


 自分の予備端末から父の番号へ発信し、スピーカーをオンにした。


 すぐに電話がつながった。


「父さん、俺だ」


「九条家には、いつから一条という姓の傍系後継者ができたんだ?」


「自分は父さんの甥だと言っている男がいる。少し話してみるか?」


 電話の向こうで、九条征一郎は二秒ほど沈黙した。


 やがて、聞き慣れた威厳ある声がリビングに響いた。


「九条家の親族名簿に、一条家という家は存在しない」


「当然、一条景臣などという後継者もいない」


 景臣の脚から完全に力が抜け、その場へ崩れ落ちた。


「そんな……あり得ない……」



5



 美玲は以前、経済界の会合で九条征一郎を遠くから見たことがあった。


 それでも彼女は、現実を受け入れようとしなかった。


「声が似ている人なんて、いくらでもいるわ」


「誰に電話したかなんて、分からないでしょう?」


 父は電話の向こうで冷たく笑った。


「これが、お前が本家を離れてまで娶りたいと言った女か?」


「九条家の次代を支える妻として、選んだ相手がこれなのか?」


 俺は長い間、何も答えられなかった。


 腫れ上がった頬に再び痛みが走り、ようやく低い声を出す。


「父さん、俺が間違っていた」


「あの時、意地を張るべきじゃなかった」


 父は俺を責めず、短く返事をした。


 その後、美玲へ語りかける。


「桜庭さん」


「凛人があなたと結婚すると言った時、私は最後まで反対した」


「今回、凛人が婚姻関係を終えると決めたのであれば、私からも別れの品を贈ろう」


「黒川先生、予定どおり進めてください」


 黒川先生は調査資料を開き、景臣へ視線を向けた。


「一条景臣氏。本名は田島大輔」


「現在、定職はなく、本人名義の不動産や多額の預金もありません」


「一条家の後継者、海外旧財閥の末裔、九条家の傍系親族という経歴は、すべて虚偽です」


 助手が銀行口座の履歴、メッセージの記録、偽造された資産証明書、レンタル契約書を順番に並べた。


「過去三年間、田島大輔氏の主な収入は、桜庭美玲様から受け取った十億円を超える送金です」


「そのほかにも、複数の女性から多額の金銭を詐取しています」


「SNSに掲載された高級車、腕時計、プライベートジェット、海外邸宅などは、すべてレンタル品、あるいは無断使用された広告写真でした」


 美玲は見覚えのある送金記録を凝視し、指を震わせた。


「嘘よ……」


 景臣は完全に取り乱した。


「でっち上げだ!」


「美玲、俺を信じてくれ! 二人を引き離すために、こいつらが証拠を捏造したんだ!」


「凛人は、俺がお前の心を手に入れたことに嫉妬している!」


 美玲の手をつかもうとしたが、強く振り払われた。


 俺は景臣の前へ歩いた。


「そのスーツのレンタル料金は、一日いくらだ?」


「銀行口座に、今も百万円残っているのか?」


「三百億円が小遣いだと言ったな」


「今、ここで送金してみろ」


 黒川先生が最新の口座残高を見せた。


 景臣の口座には、二十万円にも満たない金額しか残っていなかった。


 脚から力が抜け、再び床へひざまずく。


 次の瞬間、景臣は俺の脚へしがみついた。


「九条様!」


「あなたが九条家の後継者だとは知らず、とんでもない失礼をしました!」


「すべて桜庭美玲が悪いんです。彼女から俺を誘ったんです!」


「夫は妻に養われているだけの無能な男で、いつ追い出しても構わないと言っていたから、俺は……」


「黙って!」


 美玲が叫びながら駆け寄り、景臣の頬を打った。


 神のように崇めていた男が、地面へ這いつくばって命乞いする姿を見て、彼女は吐き気をこらえるように顔を歪めた。


 俺は黒川先生へ向き直った。


「九条家が桜庭ホールディングスへ提供している支援を、すべて撤回してください」


 美玲は反射的に言い返した。


「桜庭家は、九条ホールディングスから投資なんて受けていないわ!」


「あの資金は、全部……」


 途中で、声が止まった。


 景臣が持ち込んだと思っていた契約、融資保証、取引先。


 そのすべてが、俺を通して九条家から与えられていたことに、ようやく気づいたのだ。


 その時、スマートフォンに速報が表示された。


【九条ホールディングス、桜庭ホールディングスへの信用保証を撤回。買収に向けた資産査定を開始。深刻な資金繰り悪化のおそれ】


 美玲の電話が鳴り続ける。


 桜庭ホールディングスの取締役、株主、幹部たちが、必死に彼女を捜していた。


 美玲はついに崩れ落ち、床へひざまずく景臣へ飛びかかった。


「全部、あなたのせいよ!」


「一条家の後継者だと言ったじゃない!」


「協力すれば、桜庭家を九条グループで二番目の企業にしてやると言ったでしょう!」


「この詐欺師!」


 美玲は景臣の顔を引っかき、景臣も怒りに任せて彼女を突き飛ばした。


 二人はすぐに取っ組み合いを始め、見るに堪えない姿をさらした。


 美玲が憧れ続けた男は、彼女の金を吸い取り、その金で富豪を演じ、利用しやすい愚かな女として扱っていただけだった。


 そして、美玲が何年も見下してきた夫こそが、九条グループの頂点に立つ後継者だった。


 彼女は一人の詐欺師を選び、桜庭家の運命を変えられる本物の後継者を裏切った。



6



 警備員が二人を引き離した。


 俺は黒川先生から整理された調査報告書を受け取り、景臣の正体を淡々と読み上げた。


「田島大輔、定職なし」


「過去三年間、偽名と架空の経歴を使い、桜庭美玲を含む複数の女性から金銭を詐取した」


「さらに、身分証明書の偽造、架空の投資案件、会社資金の横領、真実を公表しようとした被害者への脅迫にも関与している疑いがある」


 景臣は、まだ必死に暴れていた。


「俺は詐欺師じゃない!」


「全部、偽物だ!」


 書類を奪おうとしたが、警備員に再び床へ押さえつけられた。


 美玲は調査資料に記された本名を見つめ、唇を震わせた。


「名前まで……嘘だったの……」


 彼女は景臣の前へ歩き、もう一度、頬を打った。


「私はあなたのために夫を裏切り、自分の結婚まで壊しかけたのよ」


「それなのに、最初から最後まで私を騙していたの?」


 俺は二人から目をそらした。


「美玲、もう終わりだ」


「婚姻契約、信用保証契約、株式譲渡予約契約は、すべて規定どおり執行される」


「お前が離婚協議書へ署名するかどうかで、結果は変わらない」


「桜庭ホールディングスについても――」


 美玲は悪夢から目覚めたように我に返り、俺の脚へしがみついた。


「私が悪かった」


「凛人、本当にごめんなさい!」


「これまでの関係に免じて、桜庭家だけは助けて!」


 俺は彼女を見下ろした。


 腫れた頬と切れた口元は、まだはっきりと残っている。


「これまでの関係?」


「お前は何年も、この詐欺師へ隠れて金を渡していた」


「俺がお前のために何をしても、気に入らなければ殴り、侮辱した」


「それがお前の言う愛情か?」


 美玲は全身を震わせ、俺の目を見ることができなかった。


 それでも、過去の思い出へすがろうとする。


「少なくとも、付き合い始めた頃の気持ちは本物だったわ」


「私に贈った指輪を覚えているでしょう?」


「あなたが自分の手で作ってくれたものよ」


 九条家を離れた当時、俺は家の金で高価なダイヤモンドを買おうとはしなかった。


 代わりに、シンプルな指輪を自分で磨き、内側に二人の名前の頭文字を刻んだ。


 あの時、美玲は感動して泣いていた。


 俺は自分の指輪を外し、彼女へ尋ねた。


「俺の指輪は、ここにある」


「お前のものは?」


 美玲は、何もついていない自分の薬指を見下ろした。


 景臣と再び関係を持つようになってから、あの指輪を地味だと嫌い、外したまま、どこへ置いたのかも忘れていた。


 俺は指輪を彼女の前へ置いた。


「この指輪に、もう意味はない」


「お前にもだ」


「ただ、桜庭ホールディングスを救う方法が、まったくないわけではない」


 美玲の目に、すぐ希望が戻った。


 俺は彼女の腕を取り、立ち上がらせた。


 声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


「二つ目の選択肢を与える」


 美玲は救いを求めるように、俺を見つめた。


 俺は警備員に拘束されている田島大輔へ目を向けた。


「九条ホールディングスが桜庭ホールディングスへ資金を投入し、会社の即時破綻を防ぐ」


「田島大輔に騙し取られた金も、訴訟を通じて取り戻してやる」


「ただし、お前はすべての証拠を提出し、法廷で田島大輔を告発しろ」


「自分の手で、この男を刑務所へ送れ」


「どちらを選ぶ?」



7



 美玲は一瞬も迷わなかった。


「二つ目を選ぶわ!」


 予想どおりの答えだった。


 かつて彼女は、景臣のために夫を裏切った。


 だが相手が詐欺師だと知った今、同じように迷うことなく、彼を告発する側へ回った。


 俺は田島大輔を見下ろした。


「裁判所と検察からの書類を待っていろ」


「詐欺、身分証明書の偽造、会社資金の横領、名誉毀損」


「九条家の弁護士が、すべての被害者へ証拠の提出を呼びかける」


 田島大輔は骨を抜かれたように、床へ座り込んでいた。


 一方、美玲は、九条家が会社を助けると聞き、俺が自分を許したのだと勘違いした。


 涙を拭き、俺の手を取ろうとする。


「凛人、私が悪かったわ」


「一緒にあの詐欺師を刑務所へ送って、それから二人でやり直しましょう?」


 俺は美玲の手を振り払い、黒川先生が用意していた離婚協議書を差し出した。


「署名しろ」


「俺が約束したのは、九条ホールディングスが桜庭ホールディングスを買収して再建し、事業と従業員の雇用を守ることだ」


「お前や桜庭家の持ち株を守るとは、一度も言っていない」


 美玲の顔から血の気が消えた。


 俺は構わず続けた。


「婚姻契約に従い、お前は財産分与に関する請求の大半を放棄し、発生した損害について責任を負う」


「桜庭家が所有している株式と個人資産を合わせれば、保証による損失を補うにはちょうどいい」


 その時、玄関の扉がまた開いた。


 桜庭ホールディングスの古参取締役たちが、慌てた様子で部屋へ入ってくる。


 普段、彼らは俺へまともに挨拶すらしなかった。


 それが今は、俺と黒川先生の前へ次々とひざまずいている。


「九条様、これまでの非礼をどうかお許しください!」


「桜庭ホールディングスを見捨てないでください。私たちの資産は、すべて会社の株式なのです!」


「今回の責任は美玲さん個人にあります。ほかの株主は無関係です!」


 俺は彼らの狼狽した姿を眺め、ただ滑稽だと思った。


「取締役の皆様」


「私が桜庭ホールディングスを見捨てるわけではありません」


「契約書は皆様が確認し、桜庭美玲本人が署名したものです」


「違反条項が発動した以上、契約どおりに処理するしかないでしょう」


 廊下から複数の足音が聞こえた。


 月城県警察本部の捜査員が部屋へ入り、田島大輔の両手に手錠をかけた。


「田島大輔」


「複数の詐欺、身分証明書の偽造、会社資金の横領容疑について、事情を聴かせてもらいます」


 別の捜査員が美玲を見た。


「桜庭美玲さん」


「田島大輔へ会社資金を提供した件、投資関連資料の偽造、夫に対する暴行についても、警察署で事情を説明してください」


 美玲の身体が震え始めた。


 ちょうど到着した父親へ、助けを求める。


「お父さん、何とか言って!」


「警察に連れていかれたくない。助けてよ!」


 桜庭正隆は彼女の前へ駆け寄ると、強く頬を打った。


「この愚か者!」


「九条家の後継者の妻という立場を捨てて、詐欺師を選ぶとは!」


「お前のせいで、桜庭家はすべてを失ったんだ!」


 美玲は頬を押さえ、信じられないという目で父親を見た。


「凛人には将来性がないから、もっと家柄のいい男性と付き合えと言ったのは、お父さんでしょう?」


「会社の利益になるなら、一緒に食事をして、お酒を飲んで、少しくらい特別な関係を続けても構わないと言ったじゃない!」


「それなのに、今になって全部私の責任にするの?」


 桜庭正隆は、周囲の取締役たちが自分へ向ける視線に気づいた。


 顔がみるみる赤くなっていく。


 美玲を指さしたまま、唇を震わせた。


「お前……お前は……」


 最後まで言い終える前に、突然胸を押さえ、その場へ激しく倒れた。


「お父さん!」


「桜庭会長!」


「救急車を呼べ!」


 救急隊が到着した時、桜庭正隆はすでに意識を失っていた。


 医師は急性心筋梗塞の疑いが強く、ただちに手術が必要だと判断した。


 たった一日で、美玲は結婚、財産、会社の経営権を失い、父親まで生死の境をさまようことになった。


 乱れた髪が顔へ張りつき、かつての傲慢さはどこにも残っていない。


 赤くなった目で、俺を見つめた。


「九条凛人」


「私がこんな姿になって、満足?」


「もう十分苦しんだでしょう? 桜庭家だけは許してくれないの?」


 俺は彼女の前へ歩き、頬に張りついた髪を、そっと耳へかけた。


 美玲の目に、わずかな希望が戻る。


 俺はその目を見ながら、一言ずつ告げた。


「今後、桜庭家のものとして存在する桜庭ホールディングスはない」



8



 三日後、俺は旧桜庭ホールディングスの代表取締役室に座っていた。


 九条ホールディングスは第一段階の緊急出資を完了し、全面買収の手続きを開始している。会社は当面の事業を維持でき、一般社員の雇用にも大きな影響は出なかった。


 しかし、実質的な経営権は完全に九条家へ移っていた。


 九条ホールディングスへ復帰した俺の最初の仕事は、過去に自分が感情で残した問題を片づけ、桜庭ホールディングスを再編することだった。


 秘書の相沢直樹が、扉をノックして入ってきた。


「九条社長」


「桜庭美玲さんが、ビルの入口で面会を求めています」


 俺は書類から顔を上げなかった。


「会わない」


 相沢は少し迷って、その場に残った。


「最後に一度だけでいい、とおっしゃっています」


 確認を終えた書類を相沢へ渡す。


「一階の警備員は、何のためにいるんだ?」


「敷地から出てもらえ」


 夕方、仕事を終えて外へ出ると、細かな雨が降っていた。


 美玲は、まだビルの外に立っていた。


 髪も服も雨に濡れ、見る影もないほど弱り切っている。


 俺の車を見つけると、必死に駆け寄ってドアの前へ立ち、窓を何度も叩いた。


「凛人、お願い。許して!」


「私が悪かった。本当に反省しているの!」


「私が愛しているのは、ずっとあなただった。田島大輔に騙されていただけなのよ!」


 警備員が美玲を離そうとしたが、俺は手を上げて止め、窓を半分だけ下げた。


 美玲はすぐに近づき、左手を俺の前へ差し出した。


 失くしていた、あの指輪がはめられている。


「見て」


「あなたがくれた指輪を、見つけたの」


「これからはずっとつける。もう二度と外さないから」


 美玲は鞄から、一通の書類を取り出した。


「父は星凪中央病院の集中治療室にいるわ」


「医師から、今夜を越えられないかもしれないと言われた」


「これは桜庭家に残された、最後の海外資産よ。九条ホールディングスへ譲渡する」


「その代わり、父が会社に持っている最後の株式だけは残してほしいの。それが父の最後の願いだから」


 俺は書類へ一度だけ目を通した。


「株式を残す?」


「いつ爆発するか分からない爆弾を、自分から抱えろというのか?」


「美玲、どうして俺が受け入れると思った?」


 彼女の表情が苦しげに歪んだ。


「私たちの間には、もう何の情も残っていないの?」


 俺は答えなかった。


 窓を閉じ、運転手へ告げる。


「車を出してくれ」


 バックミラーには、書類を抱えたまま雨の中へ立ち尽くす美玲が映っていた。


 それでも、もう振り返りたいとは思わなかった。


 美玲は病院へ戻り、集中治療室の外で一晩を過ごした。


 冷たい照明に照らされた廊下を見ながら、数年前、自分が急性虫垂炎で入院した夜を思い出した。


 あの時、廊下で手術が終わるのを待っていたのも俺だった。


 手術後は病室に残り、水や食事を用意し、彼女を励ましながら、一晩中眠らずに看病した。


 だが回復した美玲が最初に会いに行ったのは、田島大輔だった。


 彼女は、夫が無能だから自分が取引先との接待まで引き受け、身体を壊したのだと田島へ訴えていた。


 その後、桜庭ホールディングスへ入った仕事や資金も、田島が心配して用意してくれたものだと思っていた。


 今になって、ようやく理解した。


 本当に仕事を与え、彼女を守り、一晩中そばにいることを惜しまなかったのは、俺だけだった。


 だが、気づくのが遅すぎた。


「凛人、ごめんなさい……」


「私が、自分の手であなたを失くしたのね……」


 翌朝、星凪市の経済界に訃報が流れた。


 桜庭正隆は急性心筋梗塞のため、午前四時に死亡した。


 桜庭ホールディングスの経営権移転も正式に完了し、会社は九条ホールディングスの傘下へ入った。


 その日の朝、相沢から別の報告を受けた。


「九条社長」


「桜庭美玲さんが、月汐台の旧居で自ら命を絶とうとしたところを発見され、星凪中央病院へ搬送されました」


「発見が早かったため、現在のところ命に別状はありません」


 俺は窓の前に立ち、薬指に残った淡い指輪の跡を見つめた。


 そこにはかつて、一人の女性へ捧げたすべての思いがあった。


 だが、二度目はない。


「九条家の医療チームを向かわせてくれ」


「費用はすべて、こちらで負担する」


 相沢は小さく頭を下げた。


「承知しました」


 彼女を救うことは、かつて夫だった俺が果たす最後の責任だ。


 目を覚ました瞬間から、俺たちは完全な他人になる。



9



 美玲は三日間、意識を失っていた。


 目を覚ました時、自分がまだ生きていることを受け入れられないようだった。


 長年、桜庭家の身の回りを管理してきた女性が、病床のそばへ書類を置いた。


「美玲さん、三日間眠っていました」


「桜庭会長の葬儀はすでに終わっています。こちらは、会長が残された遺品と法的書類です」


 美玲は書類を見なかった。


 尋ねたのは、一つだけだった。


「凛人は?」


「ここへ来てくれた?」


 管理人は少し沈黙してから、首を横に振った。


「九条様から、伝言を預かっています」


「最高の治療を用意し、費用もすべて負担したとのことです」


「ただし、これが最後の援助になります」


「今後は互いに関わらず、それぞれの人生を歩んでください、と」


 美玲は顔をそむけ、流れた涙を隠そうとした。


 痩せた指につけていた指輪が抜け落ち、病床の下へ転がっていく。


 拾い上げる力も残っていなかった。


 体調が回復したあと、美玲は約束どおり、田島大輔の詐欺事件で重要な証人となった。


 月城拘置所の面会室で、かつて狂おしいほど憧れていた男と、ガラス越しに向き合った。


 田島大輔は短く髪を切られ、拘置所の服を着ている。「一条家の御曹司」として見せていた華やかさは、完全に消えていた。


 美玲も青白くやつれ、わずか数か月で何歳も老けたように見える。


 二人は、互いを見てもすぐには分からないほど変わっていた。


「中の生活はどう?」


 田島は、美玲が自分を助けに来たと思ったらしい。すぐに不満を並べ始めた。


「こんな場所、人間が暮らすところじゃない!」


「毎日調べられて、自由もない。食事だってひどいものだ」


「美玲、九条家に告訴を取り下げるよう頼んでくれないか?」


「ほかの被害者たちとも示談できれば、少しは刑が軽くなるかもしれない」


「賠償金も、お前が払ってくれるんだろう?」


 美玲は冷たく笑った。


「こんな状況でも、まだ私から金を取ることしか考えていないのね」


「あなたなんて、凛人の足元にも及ばない」


「どうして私は、もっと早く気づけなかったのかしら」


 田島の顔が、すぐに険しくなった。


「どういう意味だ?」


「九条凛人が金持ちだと知って、またあいつのところへ戻るつもりか?」


「この尻軽女!」


「黙って!」


 美玲は、ついに怒りを抑えられなくなった。


「あなたのせいで、私は凛人を失ったのよ!」


「彼こそが、本当の九条家の後継者だった」


「あなたは最初から、何者でもなかった!」


 田島は突然、大声で笑った。


「九条家の後継者が、何だっていうんだ?」


「あいつの元妻は、俺を選んだ女じゃないか!」


 面会室の職員が、すぐに注意した。


「静かにしてください」


 美玲の表情が歪んだ。


 それでも田島とは、もう言い争わなかった。


「一つ、教えておいてあげる」


「あなたに騙された女性たちは、被害者の会を立ち上げたわ」


「全員が送金記録、会話の録音、偽造された身分証明書を警察へ提出している」


「詐欺だけではない。会社資金の横領、書類偽造、被害者への脅迫も捜査されているわ」


「刑務所で過ごす時間は、長くなるでしょうね」


「自分のしたことを、ゆっくり償いなさい」


 美玲は椅子から立ち上がった。


「これが、私からあなたへ贈る最後のものよ」


 面会室を出る美玲の背中に、田島の叫び声が浴びせられた。


「桜庭美玲!」


「お前が俺を陥れたんだ!」


「外へ出たら、絶対に許さないからな!」


 美玲は一度も振り返らなかった。


 数か月後、相沢が裁判の判決書を俺の机へ置いた。


「九条社長」


「桜庭美玲さんが法廷で証言し、ほかの被害者も証拠を提出しました」


「田島大輔は、複数の詐欺、身分証明書偽造、会社資金横領の罪で、長期の実刑判決を受けました」


 俺は短く返事をしただけで、顔を上げなかった。


 相沢は少しためらってから、もう一つ報告した。


「桜庭美玲さんは、今も社長との面会を望んでいます」


「いかがなさいますか?」


 窓の外では、大雨が降っていた。


 落ちてくる雨が大きなガラスを洗い流し、美玲と夫婦だった日々が、ひどく遠い過去のように思えた。


 俺は首を横に振った。


「会わない」


「俺と彼女の関係は、もう清算された」


 一年後、刑務所から田島大輔の死亡が知らされた。


 田島は以前から重い心臓病を隠し、興奮作用のある薬物も乱用していた。服役中に心臓発作を起こし、搬送先の病院で死亡したという。


 俺はその知らせを聞いても、何も感じなかった。


 それ以来、桜庭美玲と会うこともなかった。


 翌日、俺は九条ホールディングスの継承式に出席し、正式に代表取締役社長へ就任する。


 かつて俺は、一人の女性を選ぶため、自ら九条家を離れ、本来歩むはずだった人生を手放した。


 長い遠回りをした。


 それでも、ようやく自分の居場所へ戻ることができた。


 俺の人生は、ようやく正しい道を歩き始めた。



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