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儀典の聖徒

作者: ヨシ

鐘の音が、重く頭蓋に響く。


聖徒ザインの一日は、民衆の祈りの声と共に始まる。

まだ薄暗い聖堂の最上階。彼に与えられた「聖徒の私室」で、ザインは硬いベッドから身を起こした。窓の外からは、すでに熱狂的な声が届いている。今日行われる「奇跡」の儀を前に、広場は夜明け前から信者で埋め尽くされているのだ。


「……今日もまた、嘘をつく一日が始まる」


ザインは、壁に掛けられた豪奢な祭服――金糸の刺繍が施された純白の衣装――を、冷たい目で見つめた。あれは彼にとって、神聖な衣ではなく、ただの舞台衣装であり、同時に、彼をこの聖都に縛り付ける**かせ**だった。


彼は窓に近づかず、水差しから一杯の水を飲む。

手のひらが、疼くように痛んだ。昨日の「奇跡」で負った火傷の痕だ。

彼は机に向かった。

そこは神に祈りを捧げる祭壇ではない。奇術師の作業台だ。

ザインは小さな革袋をいくつも開き、その中身――様々な色と匂いを持つ鉱物や薬品の粉末――を、ミリグラム単位で慎重に天秤にかけていく。

その手は、かつて観客の目を欺くために驚くべき速さで動いたものと同じとは思えぬほど、微かに、しかし確実に震えていた。


(……この震えは、恐怖か。それとも、この毒物に触れすぎたせいか)


彼は自嘲気味に息を吐くと、調合した粉末を、祭服の袖の内側に巧妙に縫い付けた小さな袋へと詰めていく。指先の感覚だけを頼りに、適切な順番で、適切な量を取り出せる仕掛けだ。

次に、彼は袖口に仕込む発火装置フリントと、音響効果を生むための共鳴板(薄い金属片)を点検する。全てが、完璧に動作しなければならない。

教団はこれを「奇跡」と呼ぶが、ザインにとっては「失敗の許されない舞台」に過ぎない。

準備を終えた彼は、顔を洗い、痛む右手にだけ薄い手袋をはめ、そして、あの純白の祭服をまとった。

鏡に映るのは、民衆が熱狂する「聖徒ザイン」の姿だ。だが、その瞳だけは、昨夜の冷水を湛えたまま、どこまでも冷え切っていた。

彼は扉を開く。

扉の外では、悲鳴に似た祈りが、聖都の白い石畳に染みていく。


「聖徒様! どうか、どうかこの子を!」


嘆願の声に民衆の壁が割れ、母親に抱えられた少年が差し出された。少年の左腕は、肘から先がまるで黒い炭のように変質し、硬化している。教団が配る「聖水」も効かぬという、原因不明の「炭化病」だった。


(……来たか)


ザインは内心で呟きながら、群衆の中へ進み出る。

陽光を反射する金糸の刺繍。その神々しい姿に、民衆は一斉に静まり、熱に浮かされたようにその場へ膝をついた。

ザインは少年の前に静かに跪くと、硬化した腕にそっと右手を触れた。その指先は、祭服の袖に隠れて民衆の目には見えない。


「――光よ、その根源たる御名において、穢れを祓いたまえ」


厳かな詠唱が広場に響き渡る。

すると、ザインの手のひらが淡い燐光を放ち始めた。神々しい奇跡の顕現に、民衆が息をのむ。

光が強まると、少年の黒い炭と化した皮膚が、まるで乾いた泥が剥がれ落ちるように、ポロポロと崩れ始めた。そして、その下から、赤みを帯びた真新しい皮膚が現れる。


「おお……!」

「治っていく……!」


歓声が爆発した。母親は泣き崩れ、民衆は「聖徒ザイン」の名を讃えた。

ザインは静かに立ち上がると、民衆の熱狂を背に、一言も発せず聖堂の奥へと姿を消した。

錠のかかる私室の扉を背中で閉じた瞬間、ザインは「聖徒」の仮面を剥がし、床に膝をついた。


「……ッ、ゴホッ!」


激しい咳と共に、先ほどの詠唱で吸い込んだ「何か」を吐き出す。

彼は祭服の袖に隠していた右手の手袋を荒々しく引き剥がした。

光を放ったはずの手のひらは、薬品で焼け、赤黒くただれていた。

机の上には、小さな革袋がいくつも転がっている。

ひとつは、「炭化病」の表皮だけを溶かす、強アルカリ性の溶解剤。

ひとつは、それと反応し、強い燐光と熱を発する触媒の鉱物粉末。

最後の一つは、前の二つを中和し皮膚の再生を促す軟膏。ただし、これは強烈な刺激臭が鼻を突く代物だった。


あの「奇跡」の正体は、神の力ではない。

民衆の目を自らの厳かな祈る姿に引きつけ、その隙に袖口に仕込んだ鉱物粉末を溶解剤に振りかけ、化学反応で光らせながら、ただれた右手で必死に「炭化」をこすり落とし、最後に軟膏を塗り込んだ。

詠唱は、あの軟膏の刺激臭を誤魔化すための、香の匂いを撒き散らす役割も兼ねていた。

彼は、爛れた右手を冷水に浸しながら、窓の外で未だ鳴り響く「聖徒ザイン」への歓声を、死んだ目で聞いていた。


冷水が、焼けるような痛みを鈍らせていく。

ザインが、ただれた右手を水盤に浸したまま息を殺していると、背後で重い扉が軋む音がした。


「――見事な『奇跡』だった、聖徒ザイン」


予告なく入室してきたのは、この聖都の頂点に立つ男、司祭長アウグストゥスだった。

ザインは弾かれたように立ち上がり、咄嗟に濡れた右手を背後へ隠す。水が滴り、石の床に小さな染みを作った。

アウグストゥスは、剃刀のように背筋を伸ばしたまま、ザインの机(奇術の道具が並ぶ)を一瞥し、それから彼の隠した手へと視線を移した。その灰色の瞳は、何の感情も映していない。


「……司祭長。ご入室の際は、どうか鐘を」

「無用な装飾だ。それに、お前も『聖徒』の仮面を外す手間が省けただろう」


アウグストゥスは平然とそう言うと、ザインが吐き出した汚物が残る床を、まるで塵でも見るかのように眺めた。


「随分と消耗しているな。今日の『奇跡』は、お前にとって負担が大きかったか」

「……当たり前だ」


ザインは、隠した右手の痛みで歪む顔を隠そうともせず、声を絞り出した。


「この薬品は、私の手も焼いている。いつまでこんな……!」

「いつまで?」


アウグストゥスは、ザインの言葉を遮った。


「民衆の『炭化病』が癒えるまでか? それとも、お前の故郷にいる妹御が、教団の『保護』を必要としなくなるまでか?」


その言葉は、冷たく、重いくさびだった。

ザインは唇を噛み締め、反論の言葉を飲み込む。人質を取られているという現実が、ただれた手の痛みよりも強く彼を苛む。

アウグストゥスは、そんなザインの葛藤を意にも介さず、窓辺へと歩み寄った。外では、まだ民衆の歓声が上がっている。


「ザイン。お前が苦しむのは、まだお前が『真実』に価値があると思い込んでいるからだ」


冷徹な声が、室内に響く。


「民衆が求めているのは、お前の手の痛みか? 違う。彼らは『聖徒がここにいる』という安堵だけを求めているのだ」

「……!」

「お前の妹御一人の命と、この聖都の数万の民の『心の平和』。……どちらが重いか、私に言わせるな」


それは、ザインが決して逃れられない問いだった。

アウグストゥスにとって、ザインの苦悩は「秩序」という大義の前に切り捨てられるべき、些細な個人の感情でしかない。


「道具の手入れを怠るな。近頃、聖堂の地下で不穏な『染み』が目撃されている」


アウグストゥスは、最後にそれだけを言い残した。


「次の『奇跡』は、今日より大きなものになるぞ」


扉が閉められ、ザインは再び一人になる。

彼は水盤に顔を突っ込み、声にならない叫びを水面に押し殺した。

水が、彼の声なき絶叫を飲み込んでいく。

どれくらいそうしていただろうか。ザインがゆっくりと顔を上げると、水盤の水面に、歪んだ自分の顔が映っていた。


(……聖徒、か)


その響きは、かつての自分とは最も無縁な言葉だった。

ザインの脳裏に、この聖都に来る前の記憶が蘇る。

それは、埃っぽい田舎の村祭り。彼が父から受け継いだ、小さな奇術の舞台だった。


「さあさあ、お立ち会い! 今宵、ザインがお見せしますは、無から有を生む奇跡! この空っぽの箱から……ほら!」


ザインが小気味よく指を鳴らすと、空だったはずの木箱から、色とりどりの紙の花が溢れ出した。観客の子供たちから歓声が上がる。

その一番前で、誰よりも目を輝かせて手を叩いている少女がいた。彼のたった一人の家族、妹のリリアだった。


「すごい、お兄ちゃん! 今のどうやったの!?」

「秘密だ。奇術師は種明かしをしちゃいけない」


舞台の後、疲れた顔を見せずにリリアの頭を撫でる。彼の奇術は、誰かを救う「奇跡」ではなかったが、誰かを**「笑顔」**にする力があった。

彼はその仕事を、このささやかな平和を、心から誇りに思っていた。


その全てが、教団の「聖戦」によって奪われたのは、三年前。

あの日、村は燃えていた。

教団の騎士たちが、異端信仰の村(と、一方的に断定された)を浄化するという名目で、略奪の限りを尽くしていた。

ザインはリリアの手を引き、必死で逃げた。

騎士たちに路地裏で追い詰められた時、彼は最後の奇術を使った。

腰袋の薬品を瞬時に調合し、強烈な閃光と煙幕を焚き上げたのだ。騎士たちが怯んだ隙に、彼はリリアを抱えて屋根へと駆け上がった。

その一部始終を、燃え盛る村の広場から、一人の男が冷ややかに見つめていた。

純白の祭服をまとった、司祭長アウグストゥス。

煙幕が晴れ、ザインがリリアを庇って短剣を構えた時、アウグストゥスは衛兵を下がらせ、静かに拍手をした。


「……見事だ。今の閃光、マグネシウムと硝石か。その歳で、これほどの調合技術と度胸を持つとは」

「……何者だ」

「お前が『神』と呼ぶべき存在だ」


アウグストゥスは、ザインの奇術トリックを瞬時に見抜いた。

そして、燃え盛る家々を指し示し、恐怖に震えるリリアを一瞥して、こう言った。


「その技術、実に興味深い。だが、人を驚かせるだけでは勿体無い」

「……」

「聖都に来い、奇術師。お前のその『嘘』を、民を導く『奇跡』へと昇華させてやろう」


それは勧誘ではなかった。脅迫だ。

断れば、ザインは「異端の術を使った」として、リリアも「異端者の家族」として、あの場で焼かれていただろう。


「お前の妹は、教団が『聖なる庇護』のもと、丁重に預からせていただく」


それが、ザインが「聖徒」になった日の記憶だった。



水盤の水滴が、ザインの顎を伝って床に落ちる。

アウグストゥスは、あの日から何も変わっていない。ザインの才能も、苦悩も、そして妹の命も、全てを「秩序」のための道具として完璧に管理している。


(……リリア)


彼は、ただれた右手を強く握りしめた。

この欺瞞の舞台から降りることは許されない。だが、このまま道具として使い潰されるのも御免だった。


(アウグストゥスの目から逃れて……せめて、リリアの安否だけでも確認する方法はないのか)


彼は、この聖都で唯一、表向きはザインの「世話係」として配置されている、一人の下級神官の顔を思い浮かべた。


その神官の名はトマスといった。

まだ若く、信仰心の篤い――少なくともザインの目にはそう映る――男で、表向きは「聖徒」の世話係として、ザインの私室への立ち入りを唯一許されていた。

他の聖職者たちがザインを「生ける奇跡」として崇拝し、恐れ、距離を置くのに対し、トマスだけはザインを「一人の人間」として扱い、その身の回りの世話を淡々とこなしていた。彼は、この息苦しい聖堂の中で、ザインが唯一「素」に近い言葉を交わせる相手だった。


(……賭け、か)


ザインは、この賭けがいかに危険かを承知していた。だが、アウグストゥスの圧力が強まる今、妹リリアの安否が確認できなければ、自分が先に精神的に壊れてしまうだろう。

彼は羊皮紙の切れ端に、リリアにしか分からない暗号――かつて二人が奇術の合図に使っていた符丁――で、「無事か?」とだけ記した。

そして、教団から支給される「聖徒としての手当」(皮肉なことに大金だった)の半分を革袋に詰め、トマスを自室に呼びつけた。


「トマス。君に、頼みたいことがある」


ザインは、わざと薬品の調合をしているふりをしながら、背中越しに声をかけた。


「……私に、でしょうか」


トマスはいつも通り、感情を抑えた声で答える。

ザインは振り返り、彼の目を真っ直ぐに見た。


「これを。君の故郷の家族にでも送るといい」


金が入った革袋を机に置く。トマスの目がわずかに見開かれた。


「聖徒様、このような分に過ぎたものは……」

「受け取れ。その代わり、一つ頼まれてほしい」


ザインは、あの小さな羊皮紙の切れ端を滑らせるように差し出した。


「これを、聖都の外れにある『白百合の修道院』にいる、リリアという娘に。……私の、遠い縁者だ」


リリアが隔離されている場所は、アウグストゥスから聞かされている。

トマスは一瞬息をのみ、金袋と手紙を交互に見た。

そして、彼は深く頭を下げた。


「……聖徒様の、お心のままに。このトマス、アウグストゥス様に命を捧げてはおりますが、あなたの苦悩も……お察ししております。必ず」


その言葉に、ザインは僅かながらの希望を見出した。


(伝わるか……!)


トマスは金袋と手紙を懐にしまい込むと、恭しく一礼し、足早に部屋を出ていった。

ザインは、久しぶりに訪れた緊張からの解放に、深く息を吐いた。

これでいい。吉報を待つ間、アウグストゥスの次の命令(あの地下の『染み』の調査)にも耐えられるかもしれない。

彼がそう安堵した、まさにその直後だった。

重い扉が、今度はノックもなしに開かれた。

アウグストゥスだった。

彼はザインの安堵の表情を一瞥すると、何の感情も浮かべずに室内に入ってきた。


「……司祭長。今しがた、ご命令の準備を始めようと……」

「その必要はない」


アウグストゥスは、ザインの言葉を遮ると、懐から何かを取り出し、ザインの作業机に放り投げた。

革袋。そして、羊皮紙の切れ端。

先ほど、ザインがトマスに託した、それそのものだった。


「――ッ!?」


ザインの血の気が引いた。全身の体温が急速に失われていく。


「なぜ、それを……トマスは……」

「トマスは優秀だ。私が選んだ男だからな」


アウグストゥスは、まるで子供の悪戯を諭すように言った。


「彼は、お前が『聖徒』になる前から、お前の『世話係』になることが決まっていた。お前が唯一心を許せる相手として、私が配置したのだ」


全てが、仕組まれていた。

あの誠実そうに見えた目も、同情的な言葉も、全てがアウグストゥスの指示による「演技」だった。

ザインの「ささやかな反抗」は、アウグストゥスの手のひらの上で、最初から最後まで踊らされていたに過ぎない。


「愚かなことを考えるな、ザイン」


アウグストゥスの冷たい声が、絶望するザインに突き刺さる。


「お前は『奇跡』だけを考えていればいい。お前が『聖徒』でいる限り、妹御の安全は保証されている。だが……」


彼は、ザインが書いた暗号のメモを指で弾いた。


「次にこのような『好奇心』を見せれば、リリアがどうなるか。……私に言わせるな」


ザインは、怒りよりも深い無力感に、膝から崩れ落ちそうになった。

この聖都は、アウグストゥスという管理者が支配する、巨大な牢獄だ。


「さて、無駄話は終わりだ」


アウグストゥスは、ザインの絶望を意にも介さず、本題に入った。


「お前に命じていた件だ。聖堂の地下の『染み』だが、どうやらただの湿気では済まなくなってきた」


彼は、ザインに選択の余地を与えない。


「『聖徒』として、その『穢れ』を祓ってこい。……もちろん、お前の得意な『やり方』でな」


それは、あの地下の暗闇へ行けという、事実上の命令だった。

ザインに拒否権はなかった。

アウグストゥスが去った後、彼は震える手で「奇術」の道具ではなく、この聖都の地下地図――かつて逃走経路を探るために盗み見ていたもの――を広げた。

「不穏な染み」が目撃されているのは、古い貯蔵庫として打ち捨てられた区画。聖堂の最下層、民衆はもちろん、ほとんどの聖職者すら立ち入らない場所だ。


(……罠、か)


アウグストゥスは、自分を「処理」するつもりなのかもしれない。

だが、行かなければリリアがどうなるか分からない。

ザインは、護身用の短剣と、ありったけの発光鉱石、そしていくつかの奇術用の薬品(煙幕や閃光弾の材料)を腰袋に詰め込むと、重い足取りで私室を出た。

聖堂の地下は、地上を支配する荘厳さとは無縁の場所だった。

湿った空気、カビの匂い、そして、墓石の内側のような絶対的な静寂が支配していた。

ザインは、奇術用の発光鉱石をカンテラ代わりにした。その頼りない光を掲げ、石の階段を慎重に下りていく。聖職者用の回廊ですらなく、古い貯蔵庫か、あるいは忘れられた納骨堂のようだった。

地図によれば、例の区画はもうすぐのはずだ。

アウグストゥスが言っていたのは、壁から滲む湿気のことだろうか。

ザインはそう高を括ろうとした。だが、空気が明らかに重い。まるで、水底を歩いているかのような圧力が肌にかかっていた。


その時、彼が踏み出した足が、瓦礫ではない「何か」に躓いた。


「……?」


床に散らばる、腐った木箱の残骸。

彼は光を近づけ、それが何かを確認し――息をのんだ。

そこは単なる貯蔵庫ではなかった。

教団の「汚物」を廃棄する場所だった。

光に照らし出されたのは、泥とカビにまみれた、古い祭服だった。

ザインが今着ているものと酷似した、純白の「聖徒」の衣装。

だが、それは切り裂かれ、不自然な黒い染み(血痕か?)がこびりついている。


(……まさか)


ザインは周囲を見渡した。

廃棄された木箱の中には、彼が使うものとよく似た、古い奇術道具が転がっていた。

ひび割れた薬品の瓶、錆びついた発火装置の残骸、音響トリックに使ったであろう共鳴板。

そして、その道具類に混じって、拷問器具が転がっていた。

指を潰す万力。皮膚を裂く鞭。

そして、ザインの視線を釘付けにしたのは、先端が奇妙な紋章(教団の印)の形をした、鉄製の烙印ごてだった。


ザインは戦慄した。

全てが繋がった。


(……俺は、初めてじゃない)


教団は、この欺瞞の「聖徒」を、過去にも立てていたのだ。

アウグストゥスは、自分と同じように「奇術」の才能を持つ人間を見つけては「聖徒」に仕立て上げ、民衆を導く道具として使ってきた。


(では、彼らはどこへ消えた?)


この廃棄された祭服と道具が、その答えを暗示していた。

用済みになったか、あるいは――ザインが今しようとしているように――教団に「反抗」しようとした者の末路。

この烙印ごては、何を焼くためのものだ?

恐怖が背筋を駆け上がった、その瞬間だった。


カチッ。


乾いた音が響いた。

回廊の奥、地図で「行き止まりの広間」と記された暗闇からだ。


カチ、カチカチッ。


音が、複数になる。

石が立てる音ではない。もっと硬く、もっと有機的な音。

ザインは、護身用の短剣を抜き放った。

彼は、自分が対峙させられようとしているものの正体に、気づき始めていた。

あの「烙印ごて」が使われた相手の、その成れの果てに。

彼は、発光鉱石の光を掲げ、ゆっくりと広間へ足を踏み入れた。

そこは行き止まりの広間になっていたが、床の大部分が濡れていた。

いや、濡れているのではない。


「……タール?」


黒く、粘度のある液体が、石畳の隙間という隙間から湧き出し、床に広がっていた。それは発光鉱石の頼りない光を鈍く反射し、まるで呼吸するかのように、ごくわずかに脈動している。

ザインは息をのんだ。

こんなものは知らない。湿気やカビとは明らかに異質だった。

彼は奇術師の探究心で、腰袋から細い金属棒を取り出し、その黒いタールの表面に触れようとした。


――その瞬間。

タールが、盛り上がった。

そこは液体ではなかった。

無数の**「痩せこけた人間の腕」**が、互いに絡み合い、蠢き、床を覆い尽くしていたのだ。


「――ッ!?」


ザインは声にならない悲鳴を上げ、後ずさった。

金属棒が手から滑り落ち、黒い腕の海に落ちる。「カシャン」という音すら、タール状の腕が飲み込んでしまった。


腕。腕。腕。


それは何かを掴もうと空を掻き、あるいは苦悶するように石の床を叩いている。

そして、ザインは見てしまった。

光に照らされた闇の中心で、タールの中からゆっくりと浮かび上がる、無数の顔。

その全ての顔が、声を出すべき喉笛の位置に、焼きごて(烙印)を押し付けられた、おぞましい火傷の痕を持っていた。

彼らは声を出せない。

だから、憎悪と苦痛を伝えるために、ただひたすらに歯を打ち鳴らしていたのだ。


「カチカチカチカチカチカチカチ!!!」


音の洪水が、ザインの鼓膜を突き破る。

これは奇跡ではない。奇術でもない。

ザインが必死に演じてきた「偽りの聖性」とは対極にある、**「本物の絶望」**だった。

彼は悟った。


これが教団が隠してきた「真の闇」だ。

そして、これがアウグストゥスが自分に「処理」させようとしているものだ。

ザインは背中を壁に打ち付け、這うようにして地下から逃げ出した。

彼の奇術道具では、あの「本物」は消せない。

数日後。

その日は、教団が定めた「聖祝の日」だった。

聖堂は、アウグストゥスが振りまいた「聖徒による大いなる奇跡」の噂を聞きつけた民衆で、立錐の余地もないほど埋め尽くされていた。

ザインは祭壇の上に立たされていた。

純白の祭服は、まるで罪人のための拘束具のように重い。

彼の背後には司祭長アウグストゥスが控え、民衆からは見えない角度で、衛兵たちがザインの逃げ道を塞いでいた。


(……来る)


ザインの手は、ただれた痛みではなく、地下で触れた「本物」の恐怖で震えていた。

あの怨念が、この民衆の前に現れる。そして自分は、それを「奇跡」で処理しろと命じられている。

奇術が通用しない相手に、一体何をしろというのか。

その瞬間だった。

厳かな聖歌が、数千の絶叫に変わった。


「な、なんだ、あれは!?」

「床から……黒い何かが!」


聖堂の中央、石畳の隙間という隙間から、あの黒いタールが噴き出した。

それは瞬く間に広がり、民衆の足元へと迫る。

そして、タールは盛り上がり、無数の**「痩せこけた腕」**と化した。

地下で聞いた、あの憎悪に満ちた音が響き渡る。


「カチカチカチカチカチカチカチ!!!」


歯を鳴らすおぞましい不協和音が、聖歌をかき消した。

『烙印の咎人』たちが、ついに地上の光(あるいは闇)の中へと姿を現したのだ。

パニックが聖堂を支配する。人々は出口へと殺到し、弱い者が踏みつけられる。


「聖徒様! 奇跡を! 我らをお救いください!」


祈りが、再び絶望的な要求に変わる。


「ザイン! 何をしている!」


背後でアウグストゥスの怒声が飛ぶ。それはザインにしか聞こえない、冷たい脅迫だった。


「『奇跡』を行え! 早くアレを鎮めろ! お前の妹はどうなってもいいのか!」


妹。

その言葉が、ザインの動きを縛り付けた。

脳裏に、あのささやかな村祭りで笑うリリアの顔が浮かぶ。


(お兄ちゃん、すごい!)


あの笑顔を守るためだけに、自分はこの地獄を受け入れたのではないか。

ザインは、震える右手を祭服の袖に差し入れた。

指先が、仕込んでいた発光鉱石の粉末(奇跡の種)に触れる。


(そうだ、演じろ。いつものように)

(ここで「奇跡」を演じれば、民衆は落ち着くかもしれない。アウグストゥスも満足する。リリアも……リリアも、きっと無事だ)

(今は、まだ……)


彼が粉末を掴み、民衆の前に歩み出ようとした、その時。


「カチカチカチカチ!!」


目の前で蠢く『烙印の咎人』たちの、歯を鳴らす音が、彼の鼓膜を突き破った。

ザインの指が止まる。

彼は見た。

怨念の中心で、天を仰ぎ、声なき叫びを上げる無数の顔。

その喉笛に刻まれた、あの「烙印」。

地下で見た、錆びついた「烙印ごて」が脳裏をよぎる。


(……彼らも)


彼らも、かつては誰かの兄だったかもしれない。誰かの家族だったかもしれない。

そして、アウグストゥスの「秩序」のために、声を奪われ、忘れ去られ、怨念と化した。

地下で見た、ボロボロの「聖徒の祭服」と、今自分が着ている豪奢な祭服が重なる。


(俺も、いつかこうなるのか?)

(アウグストゥスは、俺が用済みになったら、あるいは次に「反抗」したら、躊躇なく俺を『処理』するだろう)

(今、ここで奇跡(嘘)を演じて生き延びても、待っているのは彼らと同じ運命だ。道具として使い潰され、声を奪われ、地下で歯を鳴らすだけの存在になる)


ザインは戦慄した。

妹のために「道具」になることを受け入れたはずだった。だが、それは「生きている」と言えるのか?

アウストゥスは「秩序」だという。

だが、この『秩序』は、死と欺瞞と怨念の上に成り立っている。

リリアが笑っていた、あの埃っぽくも暖かかった村の「平和」とは、似ても似つかない、冷え切った偽物だ。


「カチカチカチカチ!!」


歯を鳴らす音が、ザインの心臓の鼓動と重なっていく。

それはもう、恐怖の音ではなかった。

それは、声を奪われた者たちが、喉の代わりに全身で絞り出す、たった一つの言葉。


(((真実を)))


そう聞こえた気がした。

アウグストゥスが、衛兵に目配せをする。ザインが動かなければ、ここで強制的に排除される。

妹も、自分も、どちらにせよ助からない。


(……そうか)


ザインの中で、何かが切れた。

あるいは、繋がった。


(どうせ死ぬなら)


彼は袖に差し入れた右手を、ゆっくりと引き抜いた。

発光鉱石の粉末は掴んでいない。

彼は、固く、拳を握りしめていた。


(リリア、許せ)


彼はもう、アウグストゥスも、民衆も見ていなかった。

彼は、舞台に立つ「奇術師」として、目の前の観客――『烙印の咎人』たち――を見据えていた。


(俺は、『聖徒』として道具のまま死ぬのは御免だ)


ザインの瞳が変わった。

聖都に来てからずっと、彼を支配していた「死んだ目」が消え、かつて村祭りの観客を魅了した、傲岸不遜な「奇術師」の瞳が戻っていた。


(最後に一度だけ、本物の『奇術師』として、こいつらに最大の種明かしをしてやる)


「ザイン!」


アウグストゥスの焦った声が響く。

だが、もう遅い。

ザインは、アウグストゥスを一度だけ、嘲るように振り返ると、祭壇の奥――彼が最後の「仕掛け」を隠した場所へと、全力で駆け出した。

「止めろ! 衛兵、そいつを捕えろ!」


アウグストゥスの金切り声が、ついに聖堂に響き渡った。

民衆のパニックと、『咎人』たちの歯ぎしりに紛れて、その命令は衛兵たちに届かない。

ザインは祭壇の奥に飛び込んだ。

民衆が、彼が神具を持ち出して奇跡を起こすのだと、最後の期待を込めて彼を見つめる。

だが、ザインが向かったのは、祭壇の裏に隠された滑車とワイヤーだった。

アウグストゥスには、聖堂の音響効果を高めるための「改装」だと偽って設置させた、ザイン最後の「舞台装置」だ。

彼は全体重をかけてワイヤーを引いた。

聖堂の高い天井。ステンドグラスから差し込む光を乱反射させていた巨大なシャンデリア(と民衆が思っていたもの)――その実態は、ザインが設計した巨大な反射鏡だった――が、軋む音を立てて角度を変える。


次に、彼は祭壇に置かれた巨大な聖なる香炉――「聖火」を焚くための器――に駆け寄った。

民衆が、彼がそこに火を灯し、聖なる力で闇を祓うのだと祈る。

ザインは香炉を掴むと、そのまま床に叩きつけた。

陶器が砕け散り、中身が床にぶちまけられる。

それは聖なる香木などではない。ザインがアウグストゥスの目を盗んで溜め込んだ、大量の発光鉱石とマグネシウムの混合物だった。


「司祭長! 貴様が望んだ『奇跡』だ!」


ザインは叫ぶと、袖に仕込んだ最後の火種(発火装置)を床に叩きつけた。


「――ッ!!」


閃光。

聖堂全体が、太陽が落ちてきたかのように白く染まった。

民衆は目を閉じ、聖なる奇跡の光だと歓喜の声を上げかけた。


だが、それは奇跡の光ではない。

ザインが用意していた、人間の視覚を数秒間完全に奪うための、暴力的なまでの「光」だった。

光は、ザインが角度を変えた巨大な反射鏡に集束された。

そして、強烈すぎるスポットライトとなって、聖堂の中央――『烙印の咎人』の中心部を、一切の影も許さぬ明瞭さで照らし出した。

聖堂の闇に慣れていた民衆の目が、光に順応する。

そして、彼らは見た。

自分たちが「闇」「魔物」と恐れていたものの、その真の姿を。

そこには、異形の怪物はいない。

ただ、夥しい数の人間が、互いに絡み合い、苦悶に歪む顔を天に向けている。

そして、その全ての顔が、声を出すべき喉笛の位置に、教団の紋章の形をした、**おぞましい火傷の痕(烙E))**を刻まれていた。


「カチカチカチカチ……」


歯を鳴らす音が、弱々しく響く。

それはもはや憎悪の音ではなく、ただ、自分たちの苦痛に「気づいてくれ」と訴える、最後の悲鳴だった。

パニックが、水を打ったように静まり返った。

民衆は理解した。自分たちが祈りを捧げていた「聖徒」ではなく、自分たちが「魔物」と呼んでいた者たちこそが、人間であったことを。


その静寂の中、ザインは最後の仕掛け――聖歌隊席に隠していた音響装置(巨大な共鳴板)――に向かって、ありったけの息を吸い込み、叫んだ。


「諸君、目を開けろ!」


拡声された声が、雷鳴のように聖堂中に響き渡る。

アウグストゥスの顔が、初めて「管理者」の仮面を剥がし、純粋な驚愕に歪んだ。


「私の名はザイン! 聖徒などではない! ただの奇術師だ!」


民衆が息をのむ。

拡声された声が、続ける。


「そして見ろ! 教団が『闇』と呼ぶ者たちの姿を!」

「彼らは魔物ではない! かつて真実を求め、この教団に声を奪われた、我々と同じ人間だ!」


ザインは、アウグストゥスを真っ直ぐに指差した。


「この聖都は、彼らの犠牲の上に築かれた欺瞞だ! アウグストゥス司祭長! あんたが隠してきた『真実』の姿だ!」


真実が、暴露された。

その瞬間、聖堂の中央で蠢いていた『烙印の咎人』たちの動きが、確かに止まった。

黒いタールが消えたわけではない。怨念が浄化されたわけでもない。

だが、彼らの最大の目的であった真実の露見が果たされ、彼らを突き動かしていた憎悪の暴走が、ふっと鎮静したのだ。

彼らはもう歯を鳴らさず、ただ静かに、そこに「在った」。


「……愚かな。……なんと愚かな男だ」


アウグストゥスが、震える声で呟いた。それは恐怖の震えではなかった。怒りであり、そして心の底からの軽蔑だった。

彼は崩れ落ちそうになる体を叱咤し、再び「管理者」としての冷徹な仮面を被る。


「ザイン。お前は『真実』という名の毒を撒いたのだぞ」


彼は、拡声装置に負けない声で、民衆に向かって叫んだ。


「その毒は、我々が守ってきた『秩序』を破壊し、再びこの地を混沌に陥れる! それが、お前の望んだ世界か!」

「衛兵! 何をしている!」


アウグストゥスは、我に返った衛兵たちに鋭く命じた。


「その男を捕えろ! 聖堂を汚し、民衆を惑わせた大罪人だ! 異端者として処罰する!」


衛兵たちが、今度こそ一斉にザインへと殺到する。

ザインは、アウグストゥスを、そして彼に扇動されて再び敵意の目をこちらに向け始めた一部の民衆を見た。

彼は、嘲るでもなく、悲しむでもなく、ただ静かに笑った。


(ああ、奇術師の仕事は、ここまでだ)


彼は、奇術師の本領である逃走術を使うべく、祭壇の分厚い布を引き裂き、窓ガラスを叩き割るための道具(短剣)を構えた。


だが、物語は彼の逃走劇を描かない。

彼が捕えられたのか、あるいは鮮やかに逃げおおせたのか、それは、もはや重要ではなかった。

最後に残った光景は、聖堂にいる大多数の民衆だった。

彼らは、衛兵に指示を出すアウグストゥスと、静かにそこに「在る」『烙印の咎人』たち、そして「異端者」として追われるザインを、交互に見比べていた。


彼らはもはや「聖徒」に祈る盲信的な目。

司祭長の言葉を鵜呑みにする羊の群れでもない。

初めて突きつけられた「真実」に呆然としながら、

**「疑い」と「恐怖」と「怒り」**の入り混じった目で、

自分たちの足元で鎮静している「真の闇」と、

自分たちを導いてきた「真の権威」とを、

自らの頭で考え、判断しようとする目で――静かに、見つめていた。


-----

エルサは、まだ耳の奥に残る「拡声された声」の残響に、身を震わせていた。


彼女は聖都で生まれ育ったパン屋の女房で、神を深く信仰していたわけではないが、教団がもたらす「秩序」の中で、明日食べるパンの心配をしなくていい平和な日々を、当たり前のものとして生きてきた。


あの日、彼女もまた、聖堂で「大いなる奇跡」を見ようと、人混みの中にいた。


そして、全てを見た。


聖徒ザインが「奇術師」だと叫んだ瞬間を。

地獄から這い出たかのような『烙印の咎人』たちの、喉に刻まれた火傷の痕を。

そして、司祭長アウグストゥスが、「毒が撒かれた」と叫んだ瞬間を。

聖堂は、ザインが衛兵に捕縛される(あるいは群衆に紛れて消える)と同時に、二つの叫び声で引き裂かれた。


「司祭長様! あの『闇』を祓ってください!」

「違う! あの人たちは人間だ! 教団は我々を騙していた!」


アウグストゥスは、血の気の引いた顔で、しかし威厳を失わずに祭壇から命じた。


「『咎人』たちを保護せよ! 異端者の毒に惑わされるな! 秩序を取り戻すのだ!」


「保護」という名の鎮圧が始まった。

衛兵たちが、静かにそこに「在る」だけの『烙印の咎人』たちに警棒を振り下ろそうとした、その時。


「やめろ!」


一人の男が、衛兵の前に立ちはだかった。


「彼らの喉を見たか! あれは、俺の親父が連れて行かれた時に押された烙印と同じだ!」


その叫びが、燻っていた火種に油を注いだ。


「俺の兄もだ!」「異端審問にかけられたきり!」


民衆の何割かが、初めて教団に牙を剥いた。聖堂は、アウグストゥスに従う者と、真実を求める者とが罵り合い、殴り合う、阿鼻叫喚の地獄へと変わった。


エルサは、その全てから逃げ出した。

壁に背中を押し付けられ、子供の泣き声を聞きながら、命からがら聖堂の外へ這い出した。

だが、聖都もまた、安全な場所ではなかった。

「毒」は、聖堂の外へも瞬く間に広がっていた。

エルサが広場を横切ろうとすると、いつも聖水を配っていた若い神官が、民衆に囲まれて襟首を掴まれていた。


「おい! あんたも嘘つきか! 俺たちが捧げた寄進で、何を隠していた!」

「や、やめなさい! 私は何も……!」


神官の権威は、ザインの暴露と同時に失墜していた。

道々で小競り合いが起きている。

「聖徒は悪魔だった!」と叫ぶ者。

「教団こそ悪魔だ!」と叫ぶ者。

そして、ただ目の前の混乱に怯え、泣き叫ぶ者。

衛兵たちが、秩序を取り戻すために警棒を振るう。だが、その暴力は、もはや「民衆を守る」ためではなく、「教団を守る」ためのものにしか見えなかった。


(……ひどい)


エルサは路地裏に隠れ、震えが止まらなかった。


(なんてことをしてくれたんだ、あの奇術師は)


彼女は、昨日までの平和な日々を思い出していた。

パンの焼ける匂い。客とのたわいない世間話。夜になれば鐘が鳴り、安心して眠りにつくことができた。

全てが「嘘」だったのかもしれない。だが、それでも「平和」だったのだ。

アウグストゥスは正しかったのだ。

「真実」は、ただの「毒」だった。人々を狂わせ、平和を破壊する、猛毒だ。

エルサは、ザインの行動を「愚かだ」と、心の底から思った。


彼女が、壁伝いに自宅のある地区へ向かおうとした時。

視線の先、大通りで、再び人だかりができていた。

中心にいるのは、衛兵に捕らえられた数人の民衆と――そして、**一体の『烙印の咎人』**だった。

聖堂の混乱に紛れて、一体だけが外へ逃げ出していたのだ。

それは黒いタールの姿ではなく、ボロボロの布をまとった、痩せこけた老人のような姿だった。ただ、喉の烙印だけが生々しく、声が出せない彼は、寒さに震えるように小さく歯を鳴らしていた。


「カチ、カチ……」

「殺せ!」「怪物だ!」


一部の民衆が石を投げようとする。


「待て!」


衛兵の隊長が、群衆を制止した。


「アウグストゥス様のご命令だ! この『穢れ』は聖堂にて『保護』する!」


衛兵が、『咎人』に手をかけようとした、その時。


「……待ってください」


人垣をかき分けて進み出たのは、エルサのパン屋の常連である、一人の老婆だった。

彼女は、聖堂にはいなかったはずだ。

老婆は、衛兵の制止も聞かず、『咎人』の前に立つと、その顔をじっと見つめた。

『咎人』の目が、わずかに老婆を捉えた。


「……ああ」


老婆は、震える手で、『咎人』の頬に触れた。


「……ああ……アベル……。あなた、アベルなんだね……?」


アベル。

二十年前、教団の教義に疑問を呈したとして「異端者」の烙印を押され、行方不明になった、老婆の息子。

『咎人』は答えられない。

ただ、「カチ、カチ」と歯を鳴らす速度が、ほんの少しだけ早くなった。

その濁った瞳から、一筋、黒い涙のようなものが流れた。

老婆は、息子の変わり果てた姿を抱きしめ、声を上げて泣き崩れた。

エルサは、その光景から目を逸らせなかった。

衛兵たちも、石を投げようとした民衆も、その場に立ち尽くしていた。


(……これが)


エルサは、自分が立っている地面が崩れていくような感覚に襲われた。


これが、「秩序」の正体。

これが、アウグストゥスが守ってきた「平和」の土台。

自分たちが享受してきた安楽は、アベルのような人々の、声と尊厳とを引き換えにしたものだった。

ザインが撒いた「毒」は、確かに聖都を混沌に陥れた。

だが、あの老婆にとって、それは「毒」だったか?

二十年ぶりに息子と再会できた、唯一の「薬」ではなかったか?


(私たちは、知らなかった)


いや、とエルサは首を振る。


(違う。私たちは、知ろうとしなかったんだ)


教団が与えてくれる「奇跡」と「秩序」に満足し、考えることを放棄していた。

アウグストゥスは、民衆を「道具」として管理していた。

そして、民衆もまた、ザインを「奇跡」を起こす便利な「道具」として消費していた。

あの奇術師は、最後にたった一つだけ、本当の奇跡を起こしたのかもしれない。

彼は、「道具」であることをやめ、私たち民衆をも、「道具(羊)」であることから解放したのだ。


エルサは、もう震えていなかった。

これからの聖都がどうなるか、分からない。アウグストゥスの秩序が勝利するのか、新たな混沌が全てを飲み込むのか。

ただ一つ確かなことは、もう昨日までの日々には戻れないということだ。

彼女は、アウグストゥスが言った「毒」の意味を、本当の意味で理解した。

「毒」とは「真実」であり、「考える苦痛」であり、そして「自ら選ぶ責任」だった。


エルサは、老婆と『咎人』の姿に背を向けた。

彼女はもう、神にも聖徒にも祈らない。

パン屋の女房である彼女は、夫と、そして自分たちの隣人たちと、この「毒」が回った世界で、明日からどう生きていくべきか、その重く苦しい答えを、初めて自分の頭で考えながら、混沌の街を、一歩、踏み出した。


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