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平穏を奪い去る者

     ……………


「どうした……?」


 山口は自分の中のわずかな動揺に自分自身で驚く。一瞬彼は後ずさり、その光景から目をそらそうとしたことに、彼は更に困惑する。


「だ、大丈夫……。おじさんはもう、元気になったんでしょ……?」

 

 明らかに事実と異なる事を言う少年の心境を山口は測りかねていた。理解のできないことが連続し続ける現状に彼はすでに戦場での心境は失われていた。それは長らく忘れていた、『平時』であった。


「いや……。流石にそれで大丈夫はねえだろ……。何が辛いかくらい言え、多少は応急処置もできる」


 山口は自身が口走った言葉に奇妙な感覚を覚える。彼は自分の中に戦い以外の感情があったことを長らく、忘れていた。


「あ、熱い……。でも、おじさんは行くところがあるんでしょ……? 僕は、大丈夫だから……」


「見棄てていくのは寝覚めが悪いんでな……」


 彼はそう言うと倒れた少年を担ぎ上げ、自分の横たわっていたソファに乗せる。額に触れ体温を感じると異常なほどに熱くなっていることを感じ取る。


――熱か……。ガキの免疫力は知らねえが、倒れるほどなら応急処置じゃどうだか……。だが医者はいねえしな。とりあえずの処置だけして行くか。


 山口はそう考えて室内を探り、見つけたタオルを濡らして少年の額に置く。少年の熱は引いていないが苦しげな表情はやや緩んだ。彼がそれを見て立ち上がった時、彼はふと気づく。


――名前、聞いてなかったな。


「おい、お前、名前なんて言うんだ?」


「……たくと……。三木山たくと……」


「……そうか……。じゃあな」


――これ以上、ここに居ちゃあいけない。


 山口は直感的にそう思う。そこに深い考えはなかった。彼にとって戦いこそが全て。逃げ去った天出仁とすぐに決着をつける。彼にあるのはそれだけだと彼は考えていた。それはどこか、逃げ出すような心情も含まれているようだった。

 彼の背後でか細い声が響く。


「待って、お、おじさんの名前は……?」


 山口は答える。


「山口コウだ。まあ、もう会う事もないだろう」


 彼は振り向かずにそう言う。その背後で、再び言葉が返ってくる。


「コウのおじさん、ありがとう」


 山口はそれに返事をせず、玄関へと向かう。だが、彼は次の瞬間強烈な違和感を覚える。


「!?」


 突如として家の周囲に張られていた『オカグレサマ』の結界が消失する。

 だが、彼の感じた違和感はそれとは異なるもの。彼の背後で起きた事象に対するものだった。


 彼は感じた事のない悪寒を覚える。いや、彼はその感触を一度は感じた事がある。

 人生で一度だけ、巨大な喪失。

 忘れようと、忘れたいと願っていた記憶。


 山口は振り返り、リビングへと戻る。


「……」


 そのソファの上には水疱が沸き上がる肉の塊が置かれていた。


 山口はその瞬間に気づく。

 彼は、年端もいかない、気まぐれで助けた少年、『三木山たくと』にかつての仲間を重ねていた。自分を嫌悪せず、頼りながらも、自立していようとする他者。

 彼の心には深い絶望が刻み込まれる。


 だが、彼は同時に、仲間を失ったあの時と同じく、自身とそして何より『原因』に対する怒りが沸き上がる。


――異変が起きたのはあの天出仁と西園寺ミサキの戦いが妙な決着した直後……。奴の置いて行った結界を出す呪物も『変化』と同時に消えた。そして、奴は俺に『最後までしっかり責任を以て彼を見守るように。回復したら別に出てってもいいから』と言った。まるでこの状況を予測していたかのように……。

 ここまで長期の未来予知は簡単にできることじゃあねえが、できる魔術師も居る。だが、奴がそうだと仮定するよりも……。

 奴がこの『異変』の原因だと考える方が、辻褄が合致する……!


 山口の頭は冷静に冴え渡っていたが、彼の身体を包む魔力は呪いの瘴気がほとばしっている。彼の心は怒りに燃え、漆黒の瘴気がその意志の暗い絶望の深さと怒りの強さを物語る。


 山口コウは走り出し、リビングのガラスを破り、塀を破り、建物を体当たりでぶち抜きながら、しかし怒りによって魔力を増幅して、天出仁の足跡を追う。彼は今とにかく全てに当たり散らしたかった。

 彼は自らをすり減らすように走る。それは、心のどこかで己の愚かさを呪っていることの現れだった。



 彼が走り出したのと同じ頃、街に無数に転がる『肉塊』たちが動き出し、魔術師たちの下へと向かい始めたのだった。


 時は24時。

 月光届かぬ闇が深まる。

 広大な結界に収まった西羅牟町にはもはや生き残る人間はほとんど存在せず、闇にうごめく肉塊たちと魔の力におびき寄せられ結界の内に入った哀れな怨霊たち、そして迫り来る霊を払いのけてきた魔術師たちだけがこの街で蠢く最後の動物であった。


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