肉の中心で愛を叫ぶ
………………
血濡れの肉塊が香室と智衆と呼ばれた男に近づいている。二人は迷わず攻撃に転じ、香室が真っ先に回し蹴りを肉塊の瞳に食らわせる。しかし、その感触はぶよぶよとしたもので芯に当たった感触が無い。そして同時に、彼女の立つ地面がぐにゃりと歪み、彼女を呑み込んでいく。
だが、彼女は焦ることなく、後方に手を伸ばす。男が何の合図もなく彼女を掴み取り、浮遊術により空へ舞い上がる。
「!?」
男は浮遊したと同時に目の前が暗闇に覆われた事に驚く。だが、すぐにその暗闇が彼の目の前に現れた肉の壁であることを覚り、浮遊術を制御・静止する。その動きに呼応してか香室が叫ぶ。
「囲まれた! 壁は薄い、殴り抜ける!」
返事もせず男は香室の動きをサポートするように回転による遠心力をかけて彼女を壁に叩き付ける。彼女は魔力を帯びた拳でその壁を殴りつけて風穴を開ける。二人はそのまま壁の包囲を抜けだす。香室は周囲を感知して男に説明する。
「妙ですわ。他の二人がほとんど移動していない。どういう事でしょう?」
「ふむ……。一度捕まれば一人で抜け出すことは難しいということか? あの忍如でさえも抜け出せないとは……」
香室を抱え直す男は訝し気にそう語る。背後から迫る肉の壁を軽々と抜き去り、彼は香室の指し示した忍如の方へと飛んで行く。徐々に薄闇の中見えてくる忍如の姿は脚の一部が地面の肉に取り込まれかけながらも自身の魔力を放出することで抵抗を試みている様子だった。
近づいてきた香室たちに忍如は声をかける。
「お前たち、どうやって肉から離れて自由に動いている? いや、それよりも早く引き上げてくれ、肉を通して聞こえる声が辛抱ならん!」
二人はすぐに忍如の手を取り、上空に引き上げる。しかし彼の足は肉に完全に食いつかれ、浮遊術の出力を上げどんどん引き上げて行っても肉が伸びて行き離れることはない。
男はこれを見て香室に訊く。
「君にはここまでしつこく絡みついてはいなかったよな? それに声とは……」
「ええ、先程はほとんど抵抗なく抜けられた。貴方もそうだったでしょう? 【声】は、何のことか私もわからない」
忍如はその言葉に疑念を抱く。
「どういうことだ? 【この声】が聞こえ……」
その言葉を遮るように忍如の身体を伝い、肉が香室と男の腕に巻き付いて来る。二人は即座にそれを振り払い、忍如から離れる。
地面に落下する忍如であるが彼は掌から衝撃波を生成し足に纏わりつく肉を破壊しようとする。だが、その鋭い攻撃によって切り離された肉もすぐに再生し、彼の足を強く蝕む。
香室はそれを見て、この空間の効果を考察する。
――どういうこと? 人によって効果に差がある? どうやらじわじわと肉体をあの肉に侵食される術のようだけれど……。
彼女は男の背に乗り、眼下で抵抗を試みている忍如を見つつ、相手の出方をうかがう。すると、忍如より少し離れた彼女の視界の中に人間の四つの顔がぬるりと地面の肉に生えてくる。
その顔はそれぞれ苦悶と恨みに満ちた表情で彼女ら二人を見ていた。そして、その肉は盛り上がり、香室たちがいる上空へとせり上がる。二人の顔をまじかで見つめ、目を見開いた四つの顔は頭の中に響いてくる壊れたラジオから発せられるようなくぐもった音声を発する。
「本和6年の洪水は院の殺生を八丈島に幽閉し六十七の煩悩が諦観と共にボンネット上に捕まったことによって原罪の制裁を72の年度末をBIY式で占める。つまりは清算できぬ罪であり九十九の閉所にて孤島が松葉杖をへし折って逃げ場はない取り急ぎ行政書士事務所の扉を開き死。死。死。死。死ね。凝灰岩。久遠。壱岐。詰み」
香室は頭の中に響き精神に直接語り掛ける様な、その意味不明な音声に対し眉ひとつ動かさず回し蹴りを食らわせる。支えとなっている男も護符を片手に炎の魔術を操って周囲を焼き尽くしていく。
しかし、肉はすぐに再生し、逆に肥大化してゆき二人の逃げ場を塞ぐ壁として無数の瞳と口がグニャグニャと不愉快な痙攣をおこしながら迫る。
「神奈川県舞島市六波羅探題七十七番灯台八番館。判決。エクソダスの先は贖い。融点は65℃でファーレンハイトの理由。どこにも六番魔晄炉と七味のカチョエペペ山下幹夫を添えて春の重治風アラビアータ逃げ場のない場所はないことはあり得ないと思われることもなく橋の下。土間の下を覗き死。死。死。死。逃げ場はない。死。死。おかえりなさい」
肉の壁に刻まれた無数の顔が一様にその言葉を語る。二人の脳裏にその言葉が重要な響きを持ってこだまし、倦怠感と吐き気などを誘発する。男は悟る。
――神経への作用か、幻覚か。いずれにせよ精神を汚染するタイプの『三島列島八十五か所の死に場所墓地は犬と共に猫のテニスラケットは』結界空間……。クソッ! 思考に入り『カルパッチョサラダ五十円切手と塩基配列の似たワカモレはアレキサンドライトの結晶構造と似て非なるものであり縦断の旅につきもの傾向と対策はB29のQQQQQQQ』こんでくる!
二人の精神は錯綜しはじめ視界も見渡す限りの血液の濁った赤に染められて歪み始める。それはこの結界の見せる幻影が歪んでいるのか、それとも彼ら自身の精神と身体が限界を迎え始めたのか。男の精神は事実、言葉に入り込まれることで動揺し、限界に近付いているようであった。
だが、彼の後ろにおぶさっていた香室が突然ぐるりと体を彼と正面で向き合うようにまわしてきて、彼を見つめた。男の視界は香室の顔だけになる。香室はふふっと笑いかけ、静かに言った。
「私だけを見れば問題ないわね」
「っ……。ああ、そうだな……」
そう言って笑い合った二人はゆっくりと口づけを交わす。異常とも言えるこの行動は、実のところ……。彼らは知る由もないが。限りなく『正解』に近い行動であった。
二人は肉の壁に圧し潰されて行く。だが、愛し合う二人にはそんなことなど、どうでもよかった。そもそもこの二人は現実に肉体を一つに共有する存在。その骨を砕く圧力も、燃えるような互いの体温も、いつも通りに、いや、いつも以上の幸福に満ちたものであった。
怨霊によってかき鳴らされる不快な言葉と精神への浸食は二人の前に無力だった。
『ドチャァッ!』
肉が破裂する音と共に男の視界は晴れる。男は一人、住宅街の道路の中、突然に身体の自由を取り戻す。一瞬のうちに状況を理解した男は魔力を腕部に充填し、なおも絡みつこうとする肉を振り払う。
『バチャチャッ』
男は肉による身体の拘束、結界を振り払い脱出を成功させる。浮遊術で空を舞う彼は、真っ先に彼の中に居るはずの香室へコンタクトを取る。
――雅、居るか?
――『居るよ。安心して』
男はほっと息を吐く。そしてすぐに彼女へ切り替わり周囲の状況確認へ移る。香室は感知能力により周辺の破壊状況、位置関係、他の魔術師の状態を即座に把握。忍如を縛っていた結界が崩壊し彼は急いで怨霊を追っていること、ミサキもすぐ近場で脱出を果していること、怨霊の肉体が尻尾を巻いて逃げ出していることを把握する。
――『怨霊の肉体、質量は変わっていないけれど魔力の出力がやや弱まっている。私たちの精神を取り込もうとしたあの結界が大技だったようね。叩くには好機!』
――君ならば忍如のスピードに追い付けるだろう。彼の高火力遠距離攻撃に続いて攻撃を叩き込め。
「了解ッ! って、体中べとべとしてキモいですワァッ! ふざけんな、なんなのこれェッ!」
そう叫びつつ香室はコンクリートの地面に罅を付けるほどの脚力で走り出し、レシプロ機の如く空を切り飛行する忍如に追いつかんと加速していく。飛行している忍如の背後には忿怒の相を示す馬頭明王像が追従しており、彼自身もやや怒っている表情が見える。
そして数秒後、彼の瞳の中にはるか遠い住宅街の道路、その角を曲がろうとするスライムのような肉と血の塊が映る。
「消し飛べィ! 『馬頭法波』ァッ!!」
無数の小さな火球が重機関銃弾の如く発射され、正確な狙いのもとで肉と血のスライムをアスファルト諸共蒸発させていく。
情け容赦ない高火力攻撃を横目に、香室はなおスピードを緩めず、むしろ加速しながら駈け、その蒸発しては再生を繰り返す肉に近接攻撃を仕掛ける。ちょうど忍如の銃撃が停止すると、香室の目にも留まらぬパンチラッシュがその肉体を襲う。
『ズガガガガガガガガガッ』
溶けかけたアスファルト、コンクリート、水道管、岩石をミキサーの様に砕き香室の魔力に満ちる拳は肉体をミンチにし続ける。片端から砕き、再生する箇所から砕いて行く。相手の肉体は時おり魔力の防御が為されるも、どんどんと消耗してゆき、ほとんど動かなくなる。
ラッシュを続ける中、彼女の背後に忍如が来て、呪文を詠唱し始める。彼女の中の男が語る。
――『封印術だ。完了する直前まで攻撃を緩めるな』
――了解しましたわっ。
詠唱は30秒ほど続いたがそれが止まり、彼女は背後で魔術結合の生成が為されていることを感知して攻撃の手を止める。そして彼女の中の男が再び語る。
――『君は止まっていて問題ない。封印はすぐに完了する』
その発言の直後、怨霊の肉体は突然動き出し、破壊された水道管へと入って逃げ出す。
忍如は封印術を向けながら今までにない速度であったその動きに驚愕の声を上げる。
「何ッ!?」
だが、香室は動かない。彼女の中の男は一切の動揺を見せず語る。
――『何も問題はない。すべて順調だ、封印はすぐ完了する』




